第15話「無拍の稽古、尾根の前」
夜の名残りを少しだけ含んだ朝の空気は涼しく、畑の芽は薄く震えていた。俺とエリナは畦の端に向かい合い、苗鍵と唄杭をそれぞれの座に据えず、ただ手の中で温度を合わせる。
「吸って――」
俺が胸を満たし、目で二拍を刻む。
「……置かない」
エリナは頷き、口を開かないまま、視線だけで“ここ”を示した。音のない拍――無拍。置かれなかったはずの一拍に、土の方から微かに“うなずき”が返る。骨で聴く返事。音鏡には返せない種類の合図だ。
「いい。今の“間”、完璧だ」
エリナはほっと笑い、額の産毛を指で押さえた。
「怖さは少し残ります。でも、土が先に頷いてくれるの、分かるから」
「それで十分だ。言葉より先に、ここにいることを伝えられる」
境界の標柱では、学匠院の圧計が安定した低い目盛を示していた。そこへ荷車が軋み、ロウが幕と杭を背負って現れる。
「森の東、尾根下の鞍部に野営を張る。圧が尖っているが、まだ“前室”の気配だ。君らの拠点からは半日の距離。狼煙は白を常灯、青は協力、赤は避難誘導の合図に統一した」
「了解。こちらは結界布をもう二本、畑と小屋の間に垂らす。交代の見張りを三刻で回す」
アレンが要点を繰り返し、俺は畑と丸口の座をもう一度確かめた。唄杭と苗鍵は鞘に納め、腰と胸の内側で温度を逃がさない。
昼前、俺たちは東へ向かった。川筋を外れた尾根の道は白っぽい石が露出し、日差しを鏡のように跳ね返す。ときどき足裏に“軽い鈴”のような振動が伝わる。圧ではない。拍――誰かが遠くで合図を送っている。
「向こう側か」
アレンが目を細めた。
「真似られる前に、こちらの節を固める。無拍で渡す」
尾根下の鞍部に、学匠院の帆布が張られていた。圧計が三脚に乗り、細い針が風と無関係に呼吸のような揺れを描く。狼煙台には白い布が巻かれ、油壺が二つ置かれている。
「こっちだ」
ロウが手招きし、地図板に簡単な図を描く。
「尾根の背に『碑列』がある。古い根の紋が続いていて、その中央に“冠石”。冠石の裏側の窪みが“前室”の座だ。短拍は効くが、最後に無拍を一つ“落とす”必要がある。向こうから返る反響が速すぎる」
「了解。無拍は俺が落とす。――勇者は?」
「北側の斜面に前哨。圧が上がれば西へ廻って風下を押さえると、カイルが言っていた」
道を詰めると、白い石の背に土色の刻みが絡む「碑列」が目に入った。一本一本はひと抱えほどの大きさで、蔓と根の彫りが風で削られている。中央だけ、他より新しい――冠石。輪郭がわずかに柔らかく、刻みの線が生々しい。
俺は手で塵を払った。石は冷たく、しかし呼吸している。
> 相輪の門
> 雙つの輪にて相聞き、四の務めを重ね、最後に“間”を落として眠る
> ――門は“土を喰う”が、祈りを喰わぬ
刻まれた文字は新旧の手が混じり、誰かが時を隔てて書き足したことを示していた。
「相輪……双葉の輪と同じ字だ」
エリナが小さく呟く。彼女のペンダント――今は谷の碑に収まった銀輪――が、掌の記憶にじんわり戻ってくる。
冠石の裏には浅い窪みがあり、苗鍵と唄杭の座が左右に並んでいた。地上型の“前室”だ。
「段取りは昨日と同じ。ただし最後に無拍を一つ」
アレンが頷き、ロウが布を風上に垂らして空気を整える。俺は冠石の縁に掌を置き、輪の刻みに骨を合わせた。
「祈りは“名前”だけでいい?」
「うん。頭を置かず、尻尾も置かない。無拍のために空けておく」
位置につき、呼吸をあわせる。
「吸って――二拍……置く」
短拍。苗鍵と唄杭が座にやわらかく噛む。輪が回り、鎖がほどける音が半分だけ進む。
その刹那、尾根の反対側から乾いた“拍手”が二つ、骨の内側へ直接響いた。音ではない。拍そのもの。
冠石がわずかに鳴り、噛んだ輪が“先に行こう”として早まる。
「待て。――無拍」
俺は喉の力を抜き、息を止め、ただ掌の下で“落とす”。何も置かない一拍。
土が先に頷いた。輪は追い越しをやめ、俺の“遅い時”に合わせて沈む。
「尻尾は置かない。……よし、ほどける」
鎖の音が遠ざかり、圧が一段落ちた。碑列に走る根の線がかすかに光り、風が一つぶだけ甘くなる。
「成功」
ロウが圧計を覗いてから親指を立てる。
その時、冠石の刻みに、砂粒ほどの黒い点がいくつも浮いた。粟のような小さな“耳”だ。
「音鏡の種……」
ルーナの声が背後からした。振り向けば、勇者の前哨から彼らが合流していた。カイルは光の少ない瞳で冠石を測るように見、マリナは手を胸に置く。
「向こう側が、こちらの“無拍”を計っている」
ルーナが杖で黒い点の一つをつつくと、点は砂に崩れたが、残りは石に張り付いたままだ。
「無拍は“空白”だ。測りにくい。――でも、数を重ねれば形になる。見られている」
エリナが冠石の陰で、短く祈る。
「ここにいます」
名だけの祈り。黒い点の一つが淡く白くなり、石の皺に吸い込まれた。
「祈りを喰わないと刻まれている。なら、祈りは“毒”にも“餌”にもならない。――ただの“合図”」
俺は冠石の裏に手を回し、苗鍵と唄杭を外す。座の温度は下がり、碑列はただの石に戻る。
「一つ落とした。尾根の圧は下がったが、尖りはまだ奥にある。門そのものの前だ」
学匠院の野営に戻ると、空は赤く、白の狼煙が低く揺れていた。ロウは圧計の板を並べ、針の軌跡を指で追う。
「新月まで八日。今日で“前”は二段落ちた。残りは“地下の一筋”と“尾根の真下”。――ここからは合印の精度がものを言う」
「稽古を続ける。夜は交代で眠れ。見張りは三刻で交替」
アレンが皆に目を配り、俺は唄杭を胸の奥で温め直した。
その夜、尾根の下で小さな焚き火を囲む。帆布越しに風が鳴り、圧計の針が寝息のように揺れる。
俺とエリナは幕の影で、短拍と無拍を交互に重ねた。声は出さない。眼差しと、掌の温度だけ。
「ここ」
「……」
置かれなかった一拍に、土が小さく笑う。
そのとき、尾根の背から、ほとんど聞こえないほどの“ことば未満”が返ってきた。
「……い、ま……す、ここ……」
順序の乱れた二語。節が裏返り、拍がひっくり返っている。誰かが向こう側で学びながら、こちらの“名”を探っている。
エリナの指がわずかに強く俺の袖をつかんだ。
「怖い?」
「少し。でも……“誰か”がいるなら、祈りは届く」
「祈りは喰われない。門に刻まれていた通りだ」
翌朝。尾根をさらに一段登ると、崖の陰に浅い洞があり、床一面に蔓の紋が彫られていた。中央の円に、見覚えのある双輪。――相輪の門。
洞の天井には、古い色でこうあった。
> 門は家を嫌う。家は門を眠らせる。
> 耕して、食べて、眠って、起きて。
> その呼吸を“鍵”と呼ぶ。
俺は無意識に笑っていた。
「……俺たちの暮らしが、鍵だって最初から書いてある」
「じゃあ、負けないですね」
エリナが胸を張る。
「私たち、毎日ちゃんと食べて、耕して、眠って、起きてるから」
尾根の真下――門の前は、まだ一重の“前室”の気配を残している。圧計は鋭いが安定し、刺すような波ではない。
「今日のところはここまでだ」
アレンが決める。
「拠点に戻って守りを固める。唄杭と苗鍵の温度を保て。学匠院は狼煙台を一つ増やせ。勇者は風下の防壁を頼む」
カイルは短く頷き、ルーナは杖で地をとん、と一度叩いた。
「了解。……生きて戻ろう」
マリナの祈りは、とても小さいが、よく届いた。
帰路、尾根の背後から木霊のような二拍が追ってきた。
「――いますここ」
逆順の名。ことば未満の合図。
俺は立ち止まり、土に掌を置いて、無拍を一つだけ落とした。
土が頷き、風が甘くなる。返事はなかった。だが、沈黙は敵意ではなかった。
境界に戻れば、畑は昨日より濃く、結界布は風をやわらげ、学匠院の標柱は白い灯を細く揺らしていた。
「ただいま」
エリナが芽に水を遣る。
「ここにいます。今日も、生きます」
名だけの祈りに、畑がはっきりと応えた。
俺は畦に腰を下ろし、黒土を指ですくう。
――門は“家”を嫌う。なら、俺たちは徹底的に暮らしてやる。食べて、耕して、眠って、起きて。祈って、刃を鈍らせず、無拍を落とす。
新月まで、あと八日。
相輪の門は、もうすぐ“眠り”に入る。こちらの呼吸で、こちらの暮らしで――必ず。