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第14話「地下の合印、眠る扉」

 翌朝、空は淡い乳白で、畑の芽は夜露をはじいていた。学匠院の標柱に指を置くと、圧計の針は確かに低い位置で揺れている。昨日の“合奏”が効いている証だ。

 「今日は地下だ。二本目の“前室”を閉じる」

 アレンが短く告げ、唄杭を俺に渡す。エリナは水袋と白粉、薬壺、結界布を確かめ、胸の前で小さく息を整えた。

 「祈りは昨日の節でいきます。……怖いけど、できます」

 「大丈夫。拍を俺が先に敷く。君は“名前”だけ置いてくれ」

 そう言うと、不安がほんの少し緩むのが分かった。


 畑の隅、丸口に苗鍵を合わせる。かちり――土の層がほどけ、冷たい空気が頬を撫でる。縄梯子を垂らし、順に降りた。結界布を要所に足し、灯苔の光に息を合わせるたび、通路の空気が澄んでいく。


 落とし床を避け、棘の廊を抜け、四器の広間で短く祈りを重ねる。

 「ここにいます。今日も、生きます」

 緑の縁がふっと明るむ。昨日、側道で見つけた記録板の“分岐”印に従い、俺たちは未踏の通りを選んだ。壁の彫りは同じ蔓と根だが、ところどころに丸い窪みが並び、薄い石板が貼られている。耳を澄ますと、板が微かに“響き”を返した。

 「……音鏡おとかがみか」

 アレンが目を細める。

 「踏み込む者の気配や声を拾って、返す。返し方を間違えれば、増幅した反響が“祈り”や呼吸を乱す」


 その証拠に、通路の奥から――俺の声が来た。

 「ここにいます。今日も、生きます」

 言い回しも節も、昨日のもの。しかし、一拍だけが妙に長い。

 エリナの肩がぴくりと震えた。

 「わたし……言ってないのに」

 「向こう側が聴いてる」

 胸の底が冷える。昨日、地上で土に耳を当てた時に拾った“ずれた節”。あれと同じ質の揺れが、音鏡の奥からこちらを覗いている。

 「返してやる」

 俺は通路の石板に掌を当て、灯苔の光に合わせて低く拍を刻む。《創耕》の根の拍――芽が土を押す、あの圧だ。

 エリナが祈りの“名前”だけを置く。

 「ここ」

 短く、澄んだ一音。音鏡に返る“反響”が、今度はきれいに吸われていく。

 「よし、この拍なら乱されない。――進む」


 通路はやがて下り坂となり、緩い弧を描いて広間に開いた。そこは最初の広間より狭く、天井は低い。中央に沈み窪んだ輪、その外に四角の枠。輪の縁には、芽の楔と二重の輪――苗鍵と唄杭の“座”が並んでいる。

 「ここだ」

 俺は膝をつき、輪の縁を撫でた。冷たい石の粒子が、こちらの指を探るように微かに震える。

 「二つの印を同時に合わせる“合印”。拍は昨日の“合奏”より短い。乱せば瘴気が噴き上がる」


 試す時間は短い。壁の音鏡が、わたしたちの息を覗いている気配は消えない。

 「段取りを言う。――“根”は俺が輪の外枠を押さえる。“流”はアレン、水筋を薄く通して輪の温度を落ち着ける。“祈”はエリナ、節の頭と尻尾だけ置いて“拍を開ける”役。“刃”は曲げない拍で枠を叩き、乱反射を抑える。印は同時。苗鍵は俺、唄杭は……」

 「私がやる」

 エリナが顔を上げた。

 「リオさんが両方を見るのは無理。わたし、節に合わせて“置く”だけはできる」

 アレンが短く頷いた。

 「俺は流と刃を両方持つ。鞘で枠を打ち、皮管の弁で水を送る。合図は――」

 「俺が息で送る。吸って、二拍――置く」


 位置につく。灯苔の光が薄く、輪の刻みが見える程度。俺は苗鍵を左手に持ち、右掌で石の粒子を撫でる。温度が呼吸に合わせて上下する。

 アレンが皮管の弁を半分だけ開き、冷たい銀糸が輪の溝を薄く走る。鞘で枠をコン、と叩く。四隅が“そろう”。

 エリナが短く息を整えた。

 「ここに」

 最初の頭拍。

 「――吸って」

 俺が囁き、胸を満たす。

 「二拍」

 心の中で刻む。灯苔が一瞬だけ強く明滅し、輪の刻みが呼吸に乗る。

 「置く」


 同時。

 苗鍵が左の座に、唄杭が右の座にやわらかく噛んだ。輪が二重に回り、重い錠前の内側をほどくみたいな感触が掌を伝う。

 「――」

 広間が息を吸った。耳の奥で圧が落ち、床の下で“何か”が遠くで閉じる音。

 「やった……?」

 エリナが目を潤ませながら言いかけた、その時だ。


 壁の音鏡が一斉に震え、“俺の声”を返した。

 「置く」

 同じ声、同じ抑揚。だが、半拍だけ早い。

 輪がギシ、と嫌な音を立て、噛んだ印がほどけかける。地下のどこか――向こう側がこちらの“合印”を真似して割り込んだ。

 「離せ!」

 俺は咄嗟に苗鍵を浮かせた。エリナも唄杭を引く。輪は辛うじて“中立”で止まったが、床下の圧が逆流する。灯苔が青白く瞬き、広間の隅から黒い“胞”が滲み出てくる。

 「来る!」

 アレンが前に出る。俺は地の拍を変え、音鏡への返しを“鈍い土音”に切り替えた。扉を拳で叩いた時の、手の骨に響くような低音。

 音鏡が“返しあぐねる”。返せない音は増幅しない。ただ、じりじりと拗ねるように鳴くだけだ。


 「拍を短く。三拍で置く。――吸って、一、二、置く!」

 叫ぶより早く、俺たちの身体が覚えていた。

 エリナの唄杭が右の座に、俺の苗鍵が左の座に。“刃”の一打が正時を打ち、“流”が輪の熱を均す。

 輪が、噛んだ。

 今度は外から割り込む余地がない。音鏡が返せない“短拍”。

 「祈り、尻尾!」

 「――います」

 短く、甘く、静かな最終拍。

 輪の奥で、鎖がほどける音が重なり、床下の圧がすうっと消えた。音鏡が一斉に黙り、灯苔が緑へ戻る。黒い胞は固まり、砂になって崩れた。


 広間に、静けさ。

 俺はゆっくりと苗鍵を外し、脇へ置いた。エリナは唄杭を抱きしめ、胸で細く息を繰り返している。

 「できた……?」

 「できた」

 俺は頷き、彼女の額の汗を拭った。

 「向こうが真似してきた。けど、短拍は返せなかった。土の拍は、耳で“聞く”だけじゃ追えない」


 アレンが鞘を肩に担ぎ、壁の音鏡を一枚ずつ見て回る。

 「反響面は古い。けど、どこかで“誰か”が指を添えていた。……向こう側に、聴いてる者がいる」

 「門は穴じゃない。両側から息を合わせれば開く。――なら、閉じる時も両側の誰かが嫌がる」

 言って、背筋がぞくりとした。

 エリナがそっと俺の袖をつかむ。

 「でも、閉じられました」

 「閉じられた」

 俺は笑ってみせ、四器の縁へ結界布を一本垂らした。布が灯苔の光をやわらげ、広間に“暮らしの空気”が薄く生まれる。


 帰路に就く前、側道に小さな記録板が目についた。昨日は見落としていたものだ。

 > “息を合わせる者よ、門はふた呼吸先。唄杭と苗鍵、左右の座、短拍にて打て。

 >  “向こう”が聞けば、節を指で隠せ。音鏡は耳、土は骨。

 >  居るならば、帰れ。居たいならば、祈れ。”

 「……“居たいならば、祈れ”」

 エリナが小さく読み上げ、微笑んだ。

 「ここにいます」

 彼女が囁くと、灯苔がひとつぶだけ弾けて、壁に淡い光のseedが残った。


 落とし床、棘の廊を戻る。足裏の振動は、昨日よりもさらに薄い。上りに差しかかったところで、前方から懐かしい声。

 「無事か」

 カイルだ。後ろにルーナとマリナ。顔には土で黒い筋がついているが、目は冴えていた。

 「地下の一本、落としたな」

 「落とした。――そっちは?」

 「地上の吹き上がり、学匠院の支援で二つ目を抑えた。青は上げないで済んだ」

 ルーナが壁の音鏡に目をやり、肩を竦める。

 「嫌な造りね。祈りを逆手に取る。あなたたちが短拍を使ったでしょう? 反響の残りがそう言ってる」

 「見えてしまうのが癪だけど、その通りだ」

 俺は苦笑し、苗鍵に触れた。温度は落ち着き、鳴りも穏やかだ。


 地上へ出ると、空はすでに蜂蜜色に傾き、畑は濃い緑で輝いていた。学匠院のロウが標柱に圧計を載せ、針の揺れを指で押さえる。

 「二本目、確認。波は明確に落ちた。新月まで、あと十日。門前の尾根の圧が尖っている。――次が“前”だ」

 アレンが空を見て、鞘で腰を軽く叩いた。

 「唄杭も苗鍵も、生きてる。練習を重ねる。短拍、長拍、無拍」

 「無拍?」

 エリナが首を傾げる。

 「拍を置かない“”だ。向こうが真似ようにも、何もない。でも、俺たちは土で合図できる」

 俺は畑の縁に膝をつき、黒土へ指を沈めた。

 「骨で聴く。土で渡す。音鏡には返せない」


 その夜。

 焚き火の火は小さく、星は濃く、川の音は遠い。

 俺は畑の隅で、エリナと向き合って“合印”の稽古をした。苗鍵は木の座、唄杭は土の座。吸って、二拍――置く。短拍。無拍。

 「ここ」

 彼女の一語に、土がわずかに笑う。

 「いい。……完璧だ」

 エリナは照れたように笑い、空を見上げた。

 「新月まで、あと十日」

 「十日で十分に“暮らす”」

 俺は笑って火を見た。

 「食べて、耕して、眠って、起きて。祈って、鍛えて、また食べる。――それが、門を閉じる力になる」


 その時、北東の尾根の方角に、白い狼煙が細く立ち上がった。勇者の“通常”。

 直後、森の奥で、乾いた拍手が二度、微かに響いた。

 ……拍手? 違う。骨の中で鳴る“合図”のような響き。

 ロウが標柱の陰から顔を出し、耳を抑える。

 「今のは……誰だ?」

 答えは、どこにもなかった。ただ、土の奥で、遠い誰かが“こちらの節を学んでいる”感触だけが残る。


 「――来るな」

 思わず零れた言葉に、エリナがそっと手を重ねた。

 「来ても、閉じましょう。ここは、わたしたちの畑です」

 「そうだな」

 俺は頷き、唄杭の輪に指を置いた。

 拍は、暮らしの呼吸で刻む。

 門は、暮らしの手で閉じる。

 そして向こう側にも“暮らし”があるのなら――いつか、祈りだけが渡る日が来ると信じて。

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