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第12話「枯れ井戸の番、唄杭」

 朝の光は澄んでいた。北東の丘陵へ向かう支度を整え、俺たちは境界の標柱に手を当てる。学匠院のロウが昨晩に置いていった圧計は、針先を細く震わせながらも、昨日より明らかに軽い目盛を指していた。

 「行こう」

 アレンが短く言い、エリナは水袋と白粉、薬草を確かめる。俺は苗鍵と結界布を一巻、そして道標の杭を束ねて背に負った。


 丘陵の斜面は、木立が薄く、風がよく抜けた。だが、ある地点を境に、鳥の声がすっと消えた。足音の砂擦れも、枝が触れ合うかすかな音も、衣擦れに吸い込まれて短く途切れる。

 「……静かすぎる」

 アレンが立ち止まり、手を上げた。耳の奥で、微かな耳鳴りが強弱を繰り返す。まるで“聴くこと”そのものを誰かに覗かれているようだ。


 木々が途切れた先に、それはあった。枯れ井戸。石積みの輪は人の背丈ほどで、縁は長年の縄で磨り減り、浅い溝が幾筋も刻まれている。周囲の草は色を失い、踏み入れれば、靴底の音すら泥に吸い込まれたみたいに薄くなる。

 「音が……喰われてる」

 エリナの囁きすら、唇から離れた瞬間に溶けた。


 俺は井戸の縁に手を置く。石は乾いて冷たい。覗き込むと、黒い水でも満たしたような暗がりが、深さの感覚を奪っていた。

 「下から、膜――いや、幕の気配」

 《創耕》が拾うのは、土と石の触れ合う微かな擦れだ。そこに、布のように薄いものが張りつき、振動を飲み込む。

 「番がいる。音を餌にして大きくなる。無造作に騒げば喰われる。けど、一定のふしなら――」

 「“祈りは囁き、門を眠らせ”」

 エリナが谷の碑の歌を小さく続けた。

 アレンは剣の鯉口を切り、わずかに金属を鳴らして反応を見た。井戸口の暗がりが、のたうつ影となってじわりと持ち上がる。だが、規則的なで鳴らすと、影は近づき切れずに縁で揺れた。

 「節で“いなし”つつ、仕掛けを解く。リオ、いけるか」

 「ああ。……やる」


 俺は周囲のあしと細い枝で即席の管を編んだ。中空の茎が三本、長さをずらして束ねれば、風を通したときに和音が鳴る。エリナの祈りの節に合わせ、俺は管で低い持続音を作り、土を通じて井戸内へ響かせた。

 「……うん。合う」

 エリナは不思議と落ち着いた顔つきになり、息を整えた。

 「ここにいます。今日も、生きます。あなたの痛みを、少しでも――」

 囁き声が節を描くたび、井戸の暗がりがほんのわずかに薄くなる。アレンは鞘を指で叩き、刻む。刃は振らず、節だけを置く。

 俺は根を細く伸ばし、井戸の内壁に沿って下へ下へと滑らせた。石積みの裏に空洞。人が片腕を伸ばせる程度の隙間に、硬い、乾いた木の感触――くさびだ。二重の輪を刻んだ頭――唄杭の座。


 「見つけた。けど、音の鎖が縛ってる」

 根越しの指に、目に見えない“節”の鎖が絡みついている感覚が伝わる。正しい拍子を当てなければ、鎖が締まり、井戸の幕が噴き上がる。

 「エリナ、もう少しだけ強く。三拍めを長く――そう、そこで光を置くみたいに」

 エリナは頷き、節を少し変えた。祈りというより、歌に近い。彼女の声は細く、だが芯が通っている。谷の歌と、昨日の蓋の拍子と、畑で水を遣るときの呼吸――それらが一つになって、俺の掌に伝わってくる。

 鎖がほどけた。輪が二度、かすかに回る。

 「いまだ」


 俺は指で唄杭の頭を「撫でる」ように押し出した。木は軽く、乾いているのに、生きた木の油が残っている。するりと座から抜けた瞬間――井戸の底で、黒い幕が跳ねた。

 音が、殺される。

 節の合わない一拍が混じったのだ。幕は飢えた獣のように井戸口へ弾け、縁から噴水のように溢れ出た。

 「下がれ!」

 アレンの声も、すぐに喰われて短くなった。黒い舌のような幕の端が、俺の管を叩き潰す。持続音が途切れ、影はさらに太くなる。

 「エリナ!」

 「――っ、《風の粉》!」

 エリナが白粉を高く舞わせる。粉は空中で薄膜になり、幕の表面に貼りついた。抑え込むのではなく、音の吸い方を“鈍らせる”。ほんの一瞬、幕の動きが鈍る。

 その一拍。

 アレンの刃が低く鳴り、幕の端に切れ目を置いた。切るのではなく、震えを乱す“節の刃”。俺は唄杭を胸に抱え、地の底へ向けて深く息を吐いた。

 「――帰れ。ここは“畑”だ」


 《創耕》が畑の呼吸を、井戸の石へ伝える。芽が土を押す、あの優しい圧。幕は一瞬ためらい、切れ目からしゅるりと細くなって井戸の中へ引いていく。

 祈りが続く。

 「ここにいます。今日も、生きます」

 節が整い、幕は井戸の奥へ降りた。最後に、底から低い、満腹の吐息みたいな響きがして、静けさが戻る。


 「……助かった」

 俺は膝に手をついた。掌の中、唄杭はかすかに震えている。二重の輪の刻みが、エリナの声に呼応して、わずかに温かい。

 「見せて」

 エリナがそっと覗き込み、笑う。

 「きれい……古いのに、いい匂いがします」

 アレンは井戸の縁に手を置き、周囲の気配を探った。

 「番は引いた。だが戻る。長居は無用だ」


 井戸から離れ、草地の外側に結界布を一本垂らす。布は灯苔がない地上でもわずかに空気の層を作り、耳鳴りがやんだ。

 その時、丘陵の背で金属の触れ合う音。

 「来たか」

 勇者一行――カイル、ルーナ、マリナ、そして戦士二人が姿を見せた。白い狼煙は上がっていない。予定どおりの巡り合わせ、という顔だ。

 カイルの視線が俺の腕の中の杭に落ちる。

 「それが“唄杭”か」

 「そうだ。番は節でいなせた。祈りが要だ」

 俺が答えると、マリナが安堵の息をついた。

 「よかった……あなたたちが無茶をしないで」

 ルーナは井戸を覗き込み、鼻を鳴らす。

 「音を喰う幕……嫌な相手ね。うっかり詠唱を乱せば魔術ごと呑まれる。わたしたちだけだったら、危なかったかも」


 アレンが一歩前へ。

 「杭の運用はどうする」

 「門を閉じる場で使う。持ち手にこだわらない」

 俺は杭を抱え直し、言う。

 「地下の前室は一箇所閉じた。次は別の筋だ。門近くで“鍵の印”が要る時は青の狼煙を上げる。俺たちが杭を持って駆ける」

 カイルは短く頷いた。

「分かった。俺たちは谷の碑側で流れを抑える。お前たちは拠点を守り、地下の前室をもう一本閉じろ。……それが門の前で合う」


 ルーナがわざと軽い口調で言う。

 「じゃ、互いに死なないで戻りましょう。生きていれば、次の言い争いもできる」

 エリナがほんの少し笑った。

 「ええ。生きて、また会いましょう」


 別れ、丘陵を下る。唄杭は歩調に合わせて微かに鳴り、俺の胸骨に小さな音の花を咲かせる。畑への道すがら、学匠院の標柱が風に揺れ、圧計の針は安定して低い。

 境界をくぐった時、土の匂いが濃くなった。畑の芽は昨日よりも背を伸ばし、葉の縁に小さな光の粒が乗っている。

 「ただいま」

 エリナが芽に水を遣り、囁く。

 俺は畑の隅、昨夜の“丸口”のそばに膝をついた。唄杭の頭を指で叩くと、低い音がわずかに返る。

 「試す」

 杭を丸口の縁――土に刻んだ小さな座に軽く立てる。エリナが短く祈りの節を置き、俺は土の呼吸を合わせる。

 丸口の隙間から冷たい風が一度だけ吐き、すぐ暖まって止まった。畑の空気は軽く、胸に入る息がまっすぐ背中へ通る。

 「効いてる……」

 アレンの声に、俺は頷いた。

 「門の前で必要になる。けど今は、ここを守る杭だ」


 夕餉の支度にかかったとき、北東の空に、青い狼煙が細く立った。

 「勇者から“協力急募”」

 アレンが立ち上がり、剣帯を締め直す。

 俺は唄杭を抱え、境界の標柱に手を当てた。針は微かに震え、圧がまた上がり始めている。

 「間に合う」

 俺は言った。

 「唄杭はここにある。祈りも、刃も、流れも。――行こう。門を、眠らせるために」

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