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第10話「点検口の下、根の道」

 夜明け前の空は薄い藍色で、畑の芽は露をまとっていた。俺たちは縄梯子、油を吸わせた松明、白粉で印をつけるための粉袋、道標用の木杭を背負い、小屋の前で短くうなずき合う。

 「降りるのは三人。万一に備えて、上では焚き火を絶やさない“合図火”を残す。戻ったとき、火が消えていたら別経路で出る」

 アレンが確認を繰り返す。

 「道標は十歩ごと。分岐があれば“二つ叩き”の印を残す」

 エリナは緊張で少しこわばっていたが、瞳に退路のない覚悟を宿して頷いた。

 「祈りは……私の言葉でいいんですよね」

 「うん。君の言葉がいちばん強い」


 畑の隅、昨夜わずかに持ち上げた“蓋”の縁へ膝をつく。俺は苗鍵を当て、ゆっくりと半回転。地の層が静かにほどけ、丸い口が闇に沈む。石の冷気が頬に触れた。


 縄梯子を垂らし、アレンが先に。続いてエリナ、最後に俺。足裏で段を確かめながら降りると、最初の踊り場は人ふたりが横並びできるほどの広さだった。土ではなく石。だが粗く削られたままの面は、誰かの生活空間というより“点検のための通り道”の印象が強い。


 松明に火を移す。煙は上へ素直に流れる。換気穴が生きているのだろう。壁には根が縫い、ところどころに石の楔。手を当てると、細い水の音が深くから響いた。


 「右が湿っている。水筋は右だ」

「なら、まずは左を確認しよう」

 アレンが短く応じる。水のある方は生き物も集まりやすい。先に“乾いた道”の安全を確かめるのが定石だ。


 十歩ごとに杭を打ち、白粉で石に印を描く。足裏には時々、細かな振動。呼吸のように一定……いや、たまに間隔が乱れる。心臓が跳ねるたび、指先の《創耕》もざわめいた。


 「止まれ」

 アレンが手を上げ、床に膝をつく。松明の明かりを絞って前を見ると、うっすらとした色の変化。床石の継ぎ目が他より濃い。

 「落とし床だ」

 彼は背負い袋から鉄釘を取り出し、継ぎ目に打ち込む。低い金属音。反響は空洞。だが、釘は沈まない。落とし床はまだ作動していない。

 「どうする?」

 「回避する。リオ、根で“橋”を」

 「やってみる」


 俺は床石の隙間に指をかけ、胸の内で土に呼びかける。薄い根を数本だけ伸ばし、継ぎ目の左右にまるで編み目のように絡ませた。固さは木板程度。体重が一点に乗らないよう気を配れば渡れる。

 アレンが最初に渡り、エリナが続く。彼女の靴音は小さく、身のこなしは思った以上に軽かった。最後に俺が渡り、根を解くと継ぎ目はまた無表情な石に戻った。


 「助かった」

 「まだ罠はここだけじゃないはず」

 エリナが松明を胸元に寄せ、壁の文様に目を凝らす。蔓と根の彫り。谷の碑と同じ系統だ。だがここでは、蔓が“結び目”を示すように、部分的に濃く深く掘られている。

 「祈、根、流、刃……」

 彼女が指でなぞり、ひとつの小さな窪みに触れた瞬間、通路の先で鋭い風が走った。

 ヒュッ、と音がして、壁から短い棘が二列、交互に飛び出しては引っ込む。

 「動体反応……いや、触覚罠か」

 アレンが歯を食いしばる。

 「歩幅を合わせれば抜けられるが、タイミングを誤ると串刺しだ」

 「止める」

 俺は根を壁の内側へ潜らせ、棘の付け根を「抱く」。土は金属の冷たさを嫌うが、圧をかけることはできる。ゆっくり、確実に。棘の根元がきしみ、動きが鈍った。

 「今」

 三人で身を低くして通り抜ける。背後で棘が最後に一度だけ虚しく飛び出し、やがて沈黙した。


 通路はやがて広間に開けた。天井は低いが、四角く整えられ、中央に丸い井戸のような穴。縁には石の器が四つ置かれている。それぞれに刻まれた印――根、流、祈、刃。

 「……試し、だな」

 アレンが周囲を警戒する。

 「順に満たせば、先へ行ける。乱せば罰が来る」


 俺は根の器へ近づき、掌をかざした。

 「《芽吹き》」

 爪ほどの種を置き、微かな熱を送る。器の中の土が柔らかく息をし、小さな芽が顔を出した。

 続いて“流”。エリナが水袋から一滴だけ落とす。器の底で水は銀に光り、薄い霧を立てる。

 “刃”はアレン。彼は短剣で自分の髪を一房だけ切り落とし、刃先の光を器の縁にそっと触れさせた。血ではなく“誓い”を差し出すやり方。

 残るは“祈”。


 エリナは深呼吸し、一歩前に出た。両手を胸の前で組み、器の中の空白を見つめる。

 「……ここで生きたい。居場所にしたい。私の手で、痛い土を少しでも楽にしたい。食べて、笑って、眠って、起きて。今日の心配を明日に持ち越さず暮らしたい。どうか――ここを守らせてください」


 言葉は静かで、震えてはいたが、どこにも嘘がなかった。

 広間の空気が少し、柔らかくなる。天井の隙間から淡い光が降り、四つの器の縁に薄緑の光が灯った。


 その瞬間、井戸の奥から冷たい風が立ち上る。石の蓋がわずかに回転し、螺旋の階が露わになった。階段の縁は苔のように柔らかく光る。

 「……光ってる」

 エリナが目を丸くする。

 「灯苔ひもすだ。乾いていれば眠っているが、祈りや清水で目を覚ます。触れるな、壊れると二度と灯らなくなる」

 アレンが低く注意する。


 俺たちは再び順に降りる。空気はさらに冷たく、匂いは乾いた紙のよう。やがて小さな踊り場に出た。壁際に石棚があり、古い木箱が三つ。蓋は腐って消え、中には白い繊維の束と薄い板が数枚。

 「織布だ……いや、根を編んだ“結界布”だ」

 手に取ると、驚くほど軽いのに、触れた指をふわりと拒む。反発というより、空気を押し戻す“層”。

 「これを入口に垂らせば、瘴気の流入を抑えられる」

 「帰りに持ち上げよう。重量は?」

 「乾いていれば羽根みたいだ」


 さらに降りる。足裏の振動は強く、間隔が乱れている。近い。

 通路が曲がり、行き止まりのように見える先に、丸い板石――“蓋”がまたある。今度は鍵穴の形が違う。芽の楔ではなく、輪を二つ重ねた形だ。

 「谷の碑にあった窪みと似てる……けど、ペンダントは置いてきた」

 エリナが唇を噛む。

 「鍵を代用できる形状は?」

 アレンが周囲を見る。壁の彫りは、ここでも四つの務め。だが“祈”の線だけが新しく、他より浅い。

 「試す」

 俺は膝をつき、蓋に掌を当てた。《創耕》が石の粒子の間を撫でる。冷たい。だが奥の“何か”は、こちらの手を探すように微かに指先を伸ばしてきた。

 「……閉じるための“呼吸合わせ”が必要だ。祈りと根、両方を同時に合わせる」


 エリナが隣に膝をつく。

 「私、言います」

 「俺は地を合わせる。アレン、上で合図火を強くしてくれ。“流”の力が弱いと蓋が噛まない」

 「任せろ」


 アレンが駆け足で踊り場を戻っていく足音が消える。静けさ。遠くの水音。灯苔の淡い光。

 エリナは目を閉じ、手を蓋に添えた。

 「ここにいます。ここで生きます。あなたが痛むなら、私の手で少しでも楽にします。私の息を、あなたの息に合わせます。どうか、閉じさせてください」

 俺はその言葉の節に合わせて、蓋の周縁の“固い粒”をなだめる。石は声を持たないが、ふしを持つ。歌の拍子を与えると、固い粒が少しずつ柔らぎ、隙間がそろっていく。


 上から風が強まった。合図火が焚かれたのだ。通気が通り、“流”が満ちる。

 ――いま。

 俺とエリナは同時に、わずかな圧を蓋の別々の点に加えた。輪が二つ、かちりと嚙み、静かに回る感触。

 蓋の内側で何かがほどけ、乾いた音が連鎖し、空気がひゅっと吸い込まれた。


 次の瞬間――風が逆流した。

 灯苔の光が一瞬だけ青白く強まり、通路全体が低く唸る。足裏の振動がぴたりと止み、代わりに、遠くのどこかで“重い扉”が閉じる音が遅れて届いた。


 「……閉まった?」

 エリナの声はかすれていた。

「今のは“門”じゃない。門の前室だ」

 俺は額の汗を拭う。

 「けど、流入していた瘴気の一本は確実に止まった。畑の息が、軽くなるはずだ」


 その時、背後の暗がりで小さく音がした。靴音……ではない。ぺた、ぺた、と濡れたものが石を叩く音。

 アレンの足音とは違う。灯苔が揺らぎ、通路の影から、体長犬ほどの黒い塊が二つ……いや三つ、床を這い出てきた。泥ではない。乾いた皮膜に包まれた“瘴のほう”だ。

 「下がれ」

 俺はエリナを背に庇い、根を走らせる。だが胞は根を避けるように形を変え、壁を伝って近づいてくる。

 「焼く!」

 アレンの声とともに、上手の通路から油を含ませた布束が滑ってきた。彼はいつの間にか戻っていて、松明を押し当てる。炎が一重に立ち、胞が乾いた悲鳴を上げて割れた。中から黒い粉が舞い、灯苔がそれを嫌って光を強める。


 「吸うな!」

 俺は根で粉を包み、石の隙間へ押し込む。エリナが素早く布で口元を覆い、袋から白粉を取り出して空中に散らした。粉は黒砂を抱き込んで地面に落とす。

 「もう一つ!」

 残った胞が壁際を跳ねる。アレンの刃が閃き、俺の根が軌道をずらし、エリナの粉が沈めて――静寂。


 「ふぅ……」

 肩で息をしながら、俺たちは顔を見合わせた。

 「前室を閉じられた。門はまだ先。でも、これで地上の呼吸は楽になる」

 「今日は引き返そう」

 アレンが即断する。

 「深入りは悪手だ。得たものを地上に持ち帰り、備える。結界布も運ぶぞ」


 帰路、俺は要所に結界布を一本ずつ垂らした。布の縁は灯苔の光を嫌わず、むしろ柔らかく受け止め、通路の空気が少し澄むのが分かる。

 落とし床の手前で一度だけ振動が戻りかけたが、すぐ遠のいた。呼吸は合っている。今はまだ“間に合っている”。


 畑に出たとき、朝の光は柔らかく傾き始めていた。芽の色が昨日よりわずかに濃い。川風が甘く、土の表皮がやさしい。

 「戻れた」

 エリナの頬に安堵の紅が差す。

 アレンは空を一瞥し、焚き火に新しい薪をくべた。

 「勇者の連中は南の谷に向かった。今日、どこまで進んだかは分からないが――こちらも一歩、先に踏み出せた」


 俺は畑の縁にしゃがみ、指先で黒土を掬った。湿りは十分。呼吸は軽い。

 「四つの務めのうち、祈と根と流は形になり始めた。刃もある。……いける」


 夕餉の支度に取りかかる前、エリナがそっと俺の袖を引いた。

 「リオさん。私……今の祈り、ちゃんと届いた気がします」

 「届いたよ」

 俺は彼女の目を見る。

 「君の言葉に、地がうなずいた。これから何度でもやろう。毎朝でも、夜でも。暮らしの中の祈りが、門を閉じる力になる」


 エリナは小さく笑い、畑の芽に水を遣った。水面に夕焼けが映り、小屋の屋根が赤く染まる。

 その時――畑の外縁、森との境で、かすかな足音が止まった。

 顔を上げると、木陰に人影。松明は持っていない。鎧の光もない。

 「誰だ」

 アレンが剣に手をかける。人影は一歩だけ出て、帽子のつばを指で押さえた。

 「ああ、敵意はない。道を尋ねたいだけだよ」

 落ち着いた低い声。外套の裾から、見慣れない測量具の先端が覗いた。

 「瘴気の測りをしていてね。ここの“呼吸”が急に軽くなった。君たち、何をした?」


 俺たちは無言で互いを見る。

 新しい気配。新しい問い。

 “門”の向こうに近づくほど、地上にも“誰か”が寄ってくる――。

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