第51話
碧は遠くなった母親の影を見送ったあと、一度小さく鼻を啜った。そして水面達へと振り返り、離れた彼女達のもとへ歩いていった。三人の傍まで来ると、水面も姫月も、なんだか物珍しそうな顔をしていた。その視線の先で、林檎が悄然として俯き、肩を落としていた。
「ごめんなさい。わたしがついていながら、水面がこんなことに……」
……どうやら彼女は自分のことを守られる側ではなく、守る側だと認識しているらしい。確かに今回、碧は彼女のことを知り、彼女の冷静沈着ぶり、そして怜悧明敏な頭脳を身に染みて味わった。対して水面は細かい事を気にせずに真っ直ぐ突き進むタイプであるため、彼女からすると『自分がしっかりしないと』という責任感が芽生えるのも自然なことなのかもしれなかった。林檎は珍しく内心パニックになっているようで、密かに心を落ち着けようと必死になっているようだった。
「林檎が無事で、本当によかった……」
水面は愛し気な笑みを浮かべ、そんな林檎を嬉しそうに見下ろしていた。一人安堵する水面に、先に彼女を落ち着かせてやりなよと碧は苦笑を浮かべた。姫月があいた手を伸ばし、林檎の背中を優しく摩る。摩られながら、林檎は小さく呼吸を整えた。どうやら碧の心配は不要だったようだ。水面は姫月に肩を借りたまま、瞼を伏せて息をついた。
「『角玄会』に見つかったって声が途切れ途切れにきこえてきて、本当に、本当に気が気じゃなかったんだからな……」
「ま……任せてって言ったでしょ。人の話きいてた? そんなことより早く、『不可侵の医師団』へ行きましょ。治療をしてもらわなくちゃ……」
林檎は心配そうな表情を隠せていないまま、水面の顔へと指を伸ばした。血で貼り付いた毛先を摘み、水面の耳へとそっと掛ける。紫色と青色の広がる顔をじっと見上げ、林檎は一瞬辛そうに眉を下げた。
「……わたし、『不可侵の医師団』まで行って、人を呼んでくるわ。水面はここで横になっていて」
林檎はそう言い終わるや否や、すぐさま門へ向けて走り出そうとした。その小さな身体を、「待て待て」という掠れた声が呼び止める。
「こっちから出向く方が早いだろ。動けないわけじゃないしな」
「その状態で下手に身体を動かすのは良くないわ。血も沢山出ているし、道中で貧血になる可能性も……」
「へーきへーき。あたし、丈夫だからな。……アオイ」
水面は静観していた碧へと顔を向けた。痛々しい痣をものともせず、笑みを浮かべる。
「『不可侵の医師団』まで、肩を貸してもらってもいいか?」
体格的にも体力的にも、付き添いの適任者は碧だろう。碧の指名は、自然な流れだった。
「勿論。……その前に、アコ達に一言だけ言ってきていいか」
「ああ、大丈夫だ」
碧は水面の返事を確認すると、三人のもとを離れて急いで愛湖のもとへと向かった。愛湖は他の仲間達とともに、一ヵ所にまとめた『角玄会』のメンバー達を監視していた。『角玄会』の者達は皆悲痛な面持ちだったが、意気消沈している様子で抵抗する素振りはなかった。武器も取り上げられたらしく、全員その手は空っぽだ。いつもアーケードに集っている仲間達が、彼女達へと頼もしく目を光らせている。愛湖は近づいてくる碧に気付くと、主人を見つけた犬のようににこやかに顔を晴らした。ぶんぶんと大きく手を振る。
「アオイ! あの『角玄会』を壊滅させちゃったね! さっすがアコ達、じゃない?」
彼女は誇らしげにそう言って、胸を張った。逆立つ白髪は、まるで尻尾のように毛先を揺らしている。この状況を作り上げたのは、財団の圧力や姫月の『隠地組』への働きかけがあったお陰だ。しかしそれだけでなく、水面が『角玄会』のメンバーを倒して時間を稼ぎ、林檎が策を練って裏から手を回し、愛湖達が突撃して追い詰め、碧が頭の男の隙を作ったからこそ成し得た勝利だった。きっと誰が欠けても、このような結果が齎されることはなかっただろう。
「……助けに来てくれて、ありがとう。……皆も。皆のお陰だ」
愛湖を始め、その後ろに集っている仲間達全員へと感謝の言葉を述べる。仲間達が危険を顧みずに立ち向かってくれなければ、今の状況に持ち込めていたかどうかわからない。何より純粋に、碧の危機に駆け付けてくれたことが心から嬉しかった。
「んもう、さっきも言ったけど、水臭すぎだよ! 仲間なんだから、困った時は頼ってよ。力になるのはトーゼン!」
愛湖はそう言って、歯を見せて屈託ない笑みを浮かべた。彼女も妹を連れ去られた時、集った水面や碧に対して、同じ気持ちを抱いていたのだろうか。愛湖の表情を見て、碧はそんなことをぼんやりと考えた。
「それにアオイのことだから、アコ達の身が危なくなることを心配して声を掛けなかったんだろうけどさ。ミナモが力を貸すって決めたんなら、アコ達はどんなに危険なところだろうとついていくよ? だってミナモが間違ったこと言うはずないじゃんね」
愛湖は当たり前だというようにそう言って、小さく首を傾げた。ついこの間まで水面を誰よりも憎んでライバル視していたはずなのに、今やその影もなかった。愛湖らしいといえば、愛湖らしいのかもしれない。彼女は仲間へ全幅の信頼を寄せているのだろう。愛湖は後ろを振り返り、「ねー!」と仲間達に呼びかけた。水面に感銘を受けてアーケードに集うようになった見慣れた顔達は、同意するように口々に声をあげた。碧はなんだか目の前の光景が眩しく感じて、優しく目を細めたのだった。
「悪い奴らはやっぱり成敗しなきゃ! これからもアコ達が捻りつぶしてやるんだから!」
愛湖は意気込んで拳を振り上げた。力自慢の愛湖が言うと、洒落に聞こえない。
「……それより、ミナモ大丈夫そうだった? ミナモがあんなにやられちゃうなんて……『角玄会』って、よっぽど強かったんだね?」
愛湖は遠目に水面の背中へ視線を投げ、少し勢いを落としてそう言った。しゅんとした顔は、水面を心から心配しているのが伝わってきた。
「これから『不可侵の医師団』に行くつもり。詳しくはそこで診てもらうけど……本人は大丈夫だって言ってる。……アコも付き添う?」
碧が尋ねると、愛湖は「んー」と言って人差し指を顎へとあてた。少し考える素振りを見せてから、ツーサイドアップの髪を舞わせてふるふると首を横へ振った。
「アコは皆と一緒に『角玄会』の奴らの後処理に立ち会うよ。ミナモのことお願いね、アオイ」
「……わかった」
彼女にしては珍しい回答だな、と碧は思った。まるで散歩を待ち侘びた犬のように、どこへ行くにも嬉々としてついてくるイメージだった。実際過去に断られたのは、『今日はメイクののりが悪い』『雨で髪がうねって外へ出たくない』の二回だけだ。しかし『角玄会』のメンバーをこのままにするわけにはいかないのも事実である。愛湖が引き受けてくれるのなら、碧としてもとても助かる。
「『角玄会』のメンバーについては桜卯姫月に対処をきいてくれ。詳しい指示があると思う。……少なくとも私達が皆殺しにする必要はないと思うから、安心して」
「りょうかーい。こういう時って『隠地組』に渡してそこで全員始末されちゃうのが普通だと思うけど……財団が仲介して、丸く収まるのかねえ?」
「どうだろうね。その辺、桜卯姫月にきいてみたらいい」
「うー、学校中の生徒の情報握ってるって噂のあの桜卯だよね? ミナモの話を聞いている限りは大丈夫そうとはいえ、ちょっと怖いなあ……」
愛湖は苦い顔をして、チラチラと姫月の背中へ視線を投げた。怯える姿が可笑しくて、碧は小さく笑みを漏らした。しかし、愛湖の気持ちもわかる。つい先日まで、碧も全く同じように思っていたのだから。
「大丈夫だ、彼女は今回私達を助けてくれた。私達の味方だよ。怖がる必要はない」
彼女は学校で噂されている人物像よりも遥かに常識人で、そして人に手を差し伸べる優しさを持った人物だった。
「……わかった。じゃあ、こっちは任せて。もし先に終わったら、アコも『不可侵の医師団』に行くよ」
「悪いな、助かるよ。じゃあ、またあとで」
碧は片手を軽く振り、愛湖と別れた。愛湖は満面の笑みで両手を振って見送ってくれた。水面の方へと走って戻る途中、後ろから小さく声がきこえてきた。
「ミナモとアオイもいろいろと話すことがあるだろうからね、二人きりにしてあげようっていうアコの粋な計らいってわけ! どう? どう? これが出来る姉ってヤツよ!」
「本当に出来るヤツはそんなこと言わないんだよなあ……」
「アキラ、聞こえてるんだからね! こんの!」
「いって! 痛い! 馬鹿力なのを自覚してくれ!」
「馬鹿力って言うな! 酷くない!?」
わいわいとした賑やかな声が後方で響く。碧の耳まで届いていることに、本人は気付いていないようだ。アーケードでいつもきいているような会話が耳に入って、漸くいつもの日常を取り戻したような心地がした。平和が戻ってきたのだなと、碧はしみじみと実感した。




