第47話
『角玄会』の少女から僅かに距離をとった林檎は、後方の銃を持つ『角玄会』の少女へと何かを投げつける素振りをした。しかし何か物が飛んで行く様子も、落ちていく物の影も未宵には見えなかった。林檎の前で腕を抱いていた少女が、堪らずと言った様子でその場に崩れ落ちた。震えなのか痙攣なのか分からない程肩を揺らし、呼吸がままならないらしく口をはくはくと動かしている。そして後ろの銃を持つ少女も、腹を抱えるように丸まったと思うと突然床に膝をついた。不規則に頭を揺らす。どうやら嘔吐しそうなのを堪えているようだった。仲間達の様子が明らかにおかしく、またその原因はどうやら無表情で立つ小さな少女にあるようだと気付いた『角玄会』の少女は、咄嗟に斧を振り上げた。そして林檎へ向かって走り抜け、全力で斧を振り下げる。林檎は迫り来る刃先を見上げると、前で膝をつく『角玄会』の少女の陰へと身を隠すように回り込んだ。小回りが利かない斧は空振りし、フローリングに深く突き刺さった。それを引き抜こうとした少女の僅かな隙をついて、林檎は盾にしていた少女の陰から飛び出した。そして手を伸ばし、斧を持つ腕へと触れる。今度は未宵にも見えた。林檎はその手に、細長い針を忍ばせていた。先端は何やら液体がついているようで、窓から差し込む陽の光にテカテカと光って見えた。その針の先が『角玄会』の少女の腕へ突き刺さる。表面へ浅く埋まった針は、すぐに引き抜かれて林檎のもとへと戻っていった。林檎はすぐにその場でしゃがんだ。後ろ手にフローリングの溝へと針を埋めた瞬間、斧を持った少女は苦痛の声を漏らした。突き刺さったままの斧を持つ手が震え、引き抜くことも出来ないようだった。斧から手を離すと、針を刺された場所を掴んだ。そしてもう片方の手で、胸倉をかきむしるように摩った。どうやら三人の様子がおかしくなったのは、先程の針……の先端に塗られた液体が原因のようだった。『角玄会』の者達が苦痛に呻き、各々武器を使う余裕がないことを確認すると、林檎は未宵の方へと振り返った。彼女の顔はやはり人形のように、感情が浮かんでいなかった。ゆっくりとした足取りで、未宵のもとへとやってくる。その所作は優雅で、背後で苦しむ三人の姿が余りにも不釣り合いに見えた。
「お怪我はありませんか、お母様」
差し伸べられた白い小さな手。未宵は呆然としたまま、その先を見上げた。林檎は淡く微笑んで、未宵を見下ろしていた。
「……あの人達は……」
訳の分からぬまま、未だに苦しんでいる『角玄会』の者達へと顔を向ける。林檎はそちらへ見向きもせず、優し気な眼差しを未宵へと向けたままだった。
「急ぎましょう。毒の効き目は人によるところがありますので……。……どうか、お手を」
……毒。ターゲットのことなどすっかり気に掛ける余裕のなくなった『角玄会』の者達から顔を逸らし、未宵は目の前の少女へと視線を戻した。勿論、致死量ではないのだろう。……はずだ。確認する勇気はなかったが、林檎はただの学生である。しかも娘よりも何歳も年下の幼い少女。そんなことが出来る訳がない。未宵は手を伸ばし、林檎の小さな手を握った。林檎は優しく引っ張り、未宵が立ち上がるのを手伝った。転がった杖を拾うと、未宵へと差し出す。未宵はそれを受け取り、脇の下へと入れた。
「参りましょうか」
林檎は未宵へと微笑んだ。柔らかで上品な、完璧な笑み。全てを委ねたくなってしまう、天使や女神の如き姿。その声に導かれるように、未宵は頷きを返した。
その時、未宵は漸く気が付いた。年齢や外見に囚われて勝手に彼女を守ろうとしていたのは、ただのエゴに過ぎなかったのだと。未宵の守ろうとしていた少女は、未宵以上の覚悟を持って未宵を守ろうとしていた。彼女は未宵を『守ってくれる大人』として見てはいなかった。ならば未宵もあるがままに彼女を見るべきだろう。彼女は小さな身体であるだけの、誰よりも行動を恐れない、一人の立派な策略家だった。そして未宵のために道を切り拓く、一人の小さな先導主でもあった。天使のような姿で、悪魔のような所業さえも淡々と成し遂げてしまう彼女。この小さな少女はきっと、未宵のためならどんなことでもやってみせてしまうのだろう。
二人は細工を施していた窓へ向かうと、すぐに家を後にした。外は包囲された様子はなかったものの、何やら携行缶を持った『角玄会』の人間がいるのを遠目で確認した。二人は塀の陰に隠れると、音を立てないようにして密かに移動し始めたのだった。
***
『角玄会』の敷地内は、水を打ったような静けさに包まれていた。風に靡いて木々がさわさわと音を立てる以外、誰も何も発しなかった。『角玄会』の組織員達も、突撃してきた少女達も、皆一様に戦いの手を止め、同じ場所へと顔を向けている。全員が固唾を呑んで注目する先には、双方のリーダーがいた。無様に腰をついて倒れるサングラスの男。そしてその首を腕で抱え、こめかみに銃口を当てる水面。ピリピリとした緊張感が、場を支配していた。水面は男を冷めた目で見下ろしていた。迂闊に手を出すと、即座に男を発砲しかねない雰囲気があった。『角玄会』の部下達は自分達の王が捕らえられているにも拘らず、水面の気迫の鋭さから動くことが出来ないでいるようだった。
「……」
碧は現実離れしている目の前の光景に、言葉を失っていた。水面はいつも真っ直ぐで、純粋で情熱に溢れていて、それ故にいつも正しかった。自身が強いのを自覚していて、その強さを振り翳すのに慎重で、それでも誰かのためならなりふり構わず駆け付ける。彼女は決して道を踏み外したりしなかった。そんな彼女が今、目の前で、人を殺そうとしている。
今の世は抗争社会であり、命の奪い合いは日常茶飯事、法も機能していないため罪に問われることもない。しかし人を大切にし、命を重んじる水面にとって、人を殺すことの重みは誰よりも理解しているはずだ。これまで襲撃を受けても命を狙われても、彼女は決して人の命を奪ったりしなかったのだから。
「……」
男を見下ろす血だらけの顔は、怒りと憎しみに染まっていた。その瞳は今まで見たことのない程暗く深く、冷めきっていた。
「……ミナモ」
碧は震える声で、もう一度彼女の名前を呼んだ。碧は目の前の光景に、どう対処すればいいのか分からなかった。男の行いは数多の人間を苦しめ傷つけるものであり、到底許せるものではない。しかも本人に反省の意思は全くなく、このまま野放しにすれば確実に同じことを繰り返す。しかしだからといって、『お人好し』な大事な後輩が彼を殺そうとするのを、このまま黙って見守ることは……果たして、正しいのだろうか? それが本当に、水面のためになるのだろうか?
「アコの言っていた通りだ」
水面は掠れた声で小さく漏らした。呼吸もまだヒューヒューと音をたてて荒いため、肺か気管が損傷しているのかもしれない。
「こいつをこのままにすれば……被害者が増えるだけだ」
水面は痣のいくつも浮かぶ痛々しい顔を、苦しそうに歪めた。細められた目は、なんだか悲しみが湛えられているように感じられた。
『悪さをする前に芽を摘み取ることも大事だと思うよ? どうせ放っておいたら被害者が増えるだけなんだから、その前に正義の鉄槌を下すことも必要なんじゃない』
以前アーケードで愛湖が言っていた言葉を思い起こす。彼女が何気なく語った自論。恐らく本人はそこまで深い事を考えて発言したわけではなかったのだろう。しかし結果的に、この言葉は未来を的確に表していた。水面は最初、この言葉に賛同していなかった。だが今回の『角玄会』の在り方を見て、彼女の中で何かが変わったのだろう。考え方の根幹が、ぐらりと揺れて……目を瞑りたくなるような、新たな真実に気が付いた。
「こいつを野放しにしていたら、こいつは絶対に罪のない人達を殺し続ける」
碧の母親と林檎だけではない。母親のいる組織の人達も、アーケードに集うようになった仲間達も、碧達とは交流のない、数多の罪なき人々も。全員、『角玄会』の餌食になる。そして、死より惨い苦痛を味わわされることになる。『角玄会』は泣き叫ぶ人を前にしても、きっと笑ってみているに違いない。資源が金を生み出す喜びしか、彼らは感じないのだから。
「こいつを殺すことは必要悪なんだ。綺麗ごとだけじゃ、世の中は変わらない」
碧は水面の手が僅かに震えていることに気が付いた。怪我の痛みを堪えているせいなのか——あるいは、初めて人を殺す恐怖に怯えているのか。彼を殺すことで、彼と同じ人間に成り果ててしまうのではないかという葛藤があるのか。最強の彼女は、ちっぽけな身体を震わせていた。




