第46話
「碧さんのことが心配なお気持ち、察するに余りあります。……ですが、彼女の傍には最強の人物がついております。『角玄会』すら相手にならないような人物です。碧さんが命を落とすようなことは、絶対に有り得ません。そして碧さんの覚悟も、並大抵のものではありません。わたし達は、二人のことを信じて吉報を待ちましょう」
柔らかで上品、完璧な微笑み。未宵のことを慮るような、穏やかに語り掛けるような口調。あどけない顔から紡がれるギャップに、一瞬脳が混乱しそうになる。まるでこの世に舞い降りた女神のような包容力だった。
「……ええ、そうね」
未宵はぎこちないながらも笑みを返した。実際、碧のことは心配でたまらないが——彼女の『強さ』を誰よりも理解しているのもまた、母親である自分であろうことはわかっていた。碧は足の悪い未宵に対し、一度も責めるような言葉を投げたことがない。彼女は未宵の足が、未宵の意思でどうにかなるものではないと幼心ながら心の奥で理解していたのだ。そのせいで自身のする雑用が増え、行動も制限され、生活も貧相なものになっているというのに、彼女は母親の足のせいにせず、いつも未宵のことを気に掛けてくれている。彼女はこれ以上ない程賢く、優しい子に育った。周りをよく見て、泣き言を言わず、その一方で無理や我慢はしない。客観視に長けていて、物事の本質をきちんと理解し、冷静沈着な一方、心の奥に情熱を宿している。未宵には勿体ないほどの、自慢の娘だ。
(碧が心配なのは勿論だけど、でも碧なら、本当に危ない時はちゃんと身を退くだろうから)
彼女は未宵と一緒で無理をし過ぎないタイプだ。そして未宵と違って、状況の把握と判断が非常に上手い。そのため本当に生死に関わりそうな状況になった場合、あの子は深入りをせずにきちんと身を退くだろう。彼女が何をしているかは知らないが、自ら死地に飛び込むような馬鹿な真似はしないはずだ。……そう信じていても心配で胸がいっぱいになってしまうのは、もう親の性だから仕方がない。
(だから、問題は……)
未宵の顔に笑顔が戻ったことを見届け、林檎は小さくはにかんだ。年相応の表情を見下ろし、未宵は机の下で拳を握り締めた。
(この子を守らなきゃ。碧に顔向けできなくなるわ)
この幼い少女の傍についているのは自分だけだ。未宵でさえ『角玄会』の魔の手への恐怖は尋常ではない。恐らく傍に林檎がいなければ、碧の心配も相俟って今頃震えて泣き喚いていた。未宵でこうなのだから、小さな少女にとってはさらに想像を絶する程の脅威となっていることだろう。一児の母親として、恐怖に溺れた子供を守ることは責務であり、使命でもある。
再び部屋を静寂が支配する。カチ、コチ、という時を刻む針の音だけが耳に届く。あまり音を立てないようにした方がいい、というのは林檎の案だった。音で人がいることがバレるのを防ぐために加え、襲撃者が訪れた場合に外の音に早く気付けるようにという意図もあるようだった。痛いくらいの静寂。ドキドキと早打つ鼓動。未宵は俯いた下でそわそわと視線を泳がせた。正面に座る林檎は、表情を変えずに警戒した視線を周りへと投げ続けていた。
突然、大きな音が静寂を破った。叩きつけるような激しい音。玄関の方からだ。突然の轟音は、まるで自身が殴られたかのように錯覚させた。未宵の肩がビクリと大きく跳ねる。叩きつける振動が伝わってきて、机がカタカタと音を立てた。正面の林檎は響き渡る音に動じることなく、目を細めて玄関の方へと顔を向けていた。
(もしかして……、見つかった!?)
『角玄会』の人間であろうことは想像するまでもなかった。何度か激しく叩く音が聞こえたあと、割れるような破壊音が響き、崩れ落ちたような音が続いた。……玄関の扉が壊されたらしい。ドタドタという複数の乱雑な足音が響いてきて、未宵は頭が真っ白になった。その音は、どんどんと近づいてくる。……殺される。組織で製造している金属の部品で殴られ続け、意識を失うまで呻いていたリーダーの顔が脳裏に蘇った。顔を青くする未宵の正面で、林檎が椅子を引いて立ち上がった。未宵も震える手を伸ばし、慌てて杖を手にとる。思わず取り落としそうになって、なんとか両手で掬い上げた。近くから再び叩くような強烈な音が響いて、未宵は思わず顔をあげた。リビングの扉越しに、複数人の影が見えた。思い切り叩きつけたらしく、ガラス越しに潰れた拳が貼り付いているのが見えた。……リビングの扉は、閉めた状態で下にドアストッパーが差し込まれている。そのため今は扉を自由に開くことが出来ないようになっていた。万が一見つかった場合に少しでも時間稼ぎが出来るようにと、林檎が予め設置しておいたものである。扉越しに怒号、そして激しく殴りつける音が響く中、未宵は杖を構え、椅子から腰を浮かした。林檎が机を周って未宵の傍に来て、優しく身体を支えて手伝ってくれた。完全に立ち上がって杖の位置を調整すると、未宵は林檎へと顔をあげた。恐怖で強張っていながらも、必死に逃げようとする意思が滲む顔だった。林檎はそれを見上げ、小さく頷きを返した。これまでの静寂が嘘のように荒い叫び声と激しい打撃音が響く中、林檎と未宵は部屋の奥へと逃げ出した。未宵は懸命に杖の先を前へ前へと打ち付けた。少しでも速く、少しでも遠くへ。林檎は扉の方を何度か振り返りながら、未宵が転んだ際にサポート出来るよう、常に一歩後ろの距離を保ってついてきていた。林檎も襲撃者から少しでも遠くへ逃げたいはずなのに、と未宵は思う。彼女一人ならば今頃とっくに部屋の奥へ辿り着き、予め準備しておいた通りに窓の向こうへと逃げ果せていただろう。しかし彼女は決して未宵より前へ出ようとしなかった。未宵は歯を食いしばった。少しでも杖の先を遠くへ。背中から聞こえてくるメキメキとした木材の割れるような音、そして口々に叫ばれる脅迫の言葉。それらから少しでも逃げ、少しでも殺されるまでの時間を稼ぐ。少しでも、少しでも——
「オラッ!」
後ろから咆哮のような声が鮮明に聞こえてきた。同時に響く、破壊されたような轟音。恐らく斧か何かでリビングの扉が壊されたのだろう。……追いつかれる。心臓が嫌な程音を立て、動揺でグリップを握る手に汗が滲んだ。焦りとともにより前へと突き出していた杖の先が滑って、杖へ体重を掛けようとしていた身体が支えを失った。ふわりとした嫌な感覚。傾いていく視界、落ちていく身体。
「……ッ!」
すぐ後ろから乱暴な足音がしていた。床に叩きつけられると思っていた身体は途中から宙に浮いた感覚がなくなり、優しく膝をついただけだった。気付けば、小さく白い手が横から伸びて、未宵の身体を支えている。未宵は真っ白な頭のまま手の先を見上げた。あどけない顔が、こちらを見下ろしていた。
私の事はいいから早く逃げて、と未宵が叫ぶ前に、後ろから手が伸びて乱入してきた。林檎の細い腕が鷲掴みにされ、小さい身体が後ろへと強引に引っ張られる。未宵は絶望に染まった顔で手を伸ばしたが、虚空を掴むだけで間に合わなかった。
「へえ?」
林檎の顎が掴まれ、無理やり顔を振り向かせられる。『角玄会』の人間は、良く見えるように自身の手の中の顔を上向かせた。その顔には、相変わらず恐怖も絶望も浮かんでいなかった。普通なら泣き叫んで命乞いをしているであろう場面でも、感情のない人形のような顔で、じっと目の前の下卑た笑みを見上げるばかりだった。
「まさかこんなガキが協力者とはな。……ボスには殺したと報告しておけ。『あそこ』に送ってやろうぜ。悪い子にはたっぷりお仕置きが必要だろ」
『角玄会』の少女は何やら妙案だとでも言うように愉快そうにそう言った。後ろに続く部下は二人で、彼女達も楽し気に笑みを浮かべていた。彼女達にとっては、後はもうターゲットと協力者を殺すだけだ。お楽しみしか残っていないという状況なのだろう。現に、未宵にはもう手の打ちようがなかった。リーダーと思しき少女は林檎を捕らえていて、後ろに控える二人もそれぞれ斧と拳銃を手にしていた。武器もなく、さらには足の動かない未宵がどうこう出来るような相手ではなかった。
(それでも……どうにかしなきゃ)
伸ばした手の先で、幼い少女が連れていかれそうになっている。『角玄会』に捕らえられた場合、殺されるよりも惨い仕打ちを受けることになるのは明白だ。自分が。大人であり、一児の母親である自分が。どうにかしなければ——
掴まれていない方の林檎の手が、陰から躍り出た。殴るにしてはあまりにもか弱い勢いで、目の前の少女の左腕へと触れる。抵抗するために腕を引き剝がそうとしたのだろうか。そう未宵が思う暇もなく——林檎を捕らえていた『角玄会』の少女が、突然顔を歪めた。見開かれた目、口から漏れる呻き声。林檎を掴んでいた手が離れ、大きく震えながらまるで庇うように触れられた場所へと伸ばされる。……なんだか、様子がおかしい。林檎は人形のような顔でそれを見つめながら、一歩、二歩と静かに後退していく。『角玄会』の少女は林檎を気に掛ける余裕がないらしく、小さく呻いたまま左腕を労わるように抱えていた。震えが酷く、顔から血の気が引いている。後ろの部下二人はぽかんと口を開き、唖然としてリーダーの背中を見つめていた。未宵も突然のことに、口をあんぐりとあけるしか出来なかった。




