第45話
掠れた、苦しさの残る声。しかし強い芯の宿る、澄み切って凛とした声色。小さく耳に届いた声に、碧ははっとして顔を向けた。乱戦の中、一人静かに立ち上がっていたらしい水面の影が視界の隅に映って——その上、宙を舞うスニーカーへと視線が奪われた。片方だけの、紐の先端が靡く靴。手入れがされていて綺麗なものの、履き古した故と思われる傷や摩耗が所々散見される。今は部分的に血で汚れているこのスニーカーは、水面のものだった。弧を描くように迫りくる、片足分の靴。碧はそれを捉えたとき、自然に足を一歩、後ろへ下げていた。狙いは逃さず、目で追ったまま。一瞬たりとも視線を逸らさないようにしながら、落下する軌道を頭の中で予測する。顔は靴へとあげたまま、反対側の足を下げ、さらに一歩下がった。後ろの愛湖にぶつかることなく右足を下ろした後、即座に左側の足を踏み出す。前へ深く、力を込めて。膝を曲げて腰を僅かに落とし、一度視界が下がる。靴との距離が遠くなったように錯覚する。そして大きく前へと進み、右足、左足を連続で地面に叩きつけた。その反動でバネのように地を蹴り上げ、身体を浮かして跳ね上がる。視界の中の靴との距離が、一気に縮む。愛湖や男を置き去りにするくらい、この場の誰よりも高く舞う。全身を反りながら、左手を後ろへ目一杯引き、目標の落ちる先へと合わせる。高く突き上げた右手は、まるでその上にある太陽を求めるかのように陽を翳していた。そして——全力を以って、碧は左手を振り抜いた。靴の中央を捉えた手を押し出すと同時に、手首を一気に曲げてスナップさせる。狙うは碧と靴を見上げる阿保面だ。緩やかな弧を描いて落ちていた靴が、碧の手によって急激に方向を変えた。そのまま猛スピードで向かう先は、男の顔面だった。目にも留まらぬ塊が一直線に迫り、その皮膚を抉るように顔へ埋まる。これだけの威力があれば、サングラスが無ければ失明していたに違いない。近距離でもろにその衝撃を受けた男は、その勢いを殺すことが出来ずにそのまま後ろに倒れていった。がたいのいい体が、土煙を上げてコンクリートに叩きつけられる。同時に手から零れた銃が、太い指を離れて滑っていった。跳ねた靴が役目を終え、銃の寝る奥を転がっていく。靴が止まった時、真っ赤に腫れた男の顔を、鼻血が流れていった。ひびが入ったサングラス越しに、男は碧を見上げた。憎しみと怒りに染まった瞳、歯軋りする口元。男は碧を睨み付けながら、地面につく手を震わせて僅かに上体を起こした。そして、落ちた銃へ向かって手が伸ばされる。碧は意に介することなく、つかつかと男へ近寄ろうとして——何かが視界の端を掠めた。倒れた男の背後に、影が飛び込んだように見えた。一瞬で、まるで野生動物のように敏捷な動きだった。思わず足が止まる。碧が一度瞬きした間に、男のこめかみには銃口が当てられていた。男の首を絞めるように固定する背後の影。その正体は、水面だった。血と土に汚れた頭部、顔に貼り付く紺色の髪先。痣だらけの痛々しい顔面、流れ落ちる血。口から弱々しく漏れる、ヒューヒューという掠れた息遣い。そんな姿でも、彼女は男を捕らえる腕をきつく締め、怒りに染まった冷たい視線を胸の中の男へ向けていた。まるで碧が捕らわれた時のように、男のこめかみを抉る勢いで銃口が押し当てられている。碧は目の前の光景に目を見開き、一度言葉を失った。茫然としたのは碧だけではなかったようで、時が止まったかのように周りから音が消えていた。
「……ミナモ……」
上擦った声で、小さく呼びかける。水面は男を一心に見下ろすばかりで、碧の言葉に反応を示さなかった。彼女はまだ立っていることが難しいらしく、地に座り込んだまま、倒れた男の頭部を抱えるように確保していた。ボロボロの身体に反して、水面の瞳には今も燃えるような炎が宿っていた。尽きることなく燃え盛る瞳は、真っ直ぐと男を捉えて放さない。憎しみと怒りが伝わる、噛みしめられた唇。引き金に掛かる、血に塗れた細い指。今にも引き金を引くのではないかという気迫があった。乱闘状態だった仲間達、そして『角玄会』の者達の手が止まり、水面と男へと場の視線が集まっていた。静まり返った『角玄会』の敷地は、まるで波の立たない水面のようだった。
***
カチコチと時計の音が部屋に響いていた。レースカーテンから差し込む陽射しは、休日の緩やかな一時にぴったりのものだ。しかし今の未宵には、休日を楽しむ心の余裕など微塵も残っていなかった。時計の音だけが響く室内で、心臓がドクドクと鼓動を速める。頭の中を数え切れない程の思考が支配しては霧散していく。恐怖と不安で、胸が圧し潰されそうだった。聞き慣れた遠くの爆撃の音でさえ、その都度顔をあげて窓の外を窺ってしまう。いつでも立てるように立て掛けられた杖へ、何度も確かめるように視線を這わせてしまう。口の中が嫌に乾いて、何度も唾を呑み込んでしまう。一時間は経っただろうかと時計へ顔を上げ、十分も経っていないことに絶望する。外の小さな音にさえ、びくりと身を竦めてしまう。自身や娘が殺されるところを想像してしまい、頭から離れてくれない。未宵は膝の上で握った拳を、震えてしまうのを抑えるように握り締めた。
『角玄会』。未宵の所属する組織を長い事苦しめてきた大きな組織だ。傘下も多くこの辺りでは影響力も強い、力を持った組織である。足の悪い未宵を受け入れてくれた人情溢れる優しい人達を、『角玄会』は脅し、金をせびっては巻き上げてきた。それでも、傘下になった時に結んだ条約によって、未宵や組織の人達が暴力を振るわれることは今までなかった。しかし先日、急にその約束は反故になり、人相の悪いレザージャケットの人間がやってきたかと思うと組織のリーダーをボコボコにし始めた。未宵も止めようとして、腕を殴られてしまった。訳が分からないままに組織の者達はどんどんと怪我人を増やしていった。未宵が理解出来たのは、突然平和が終わったということだけだった。その後娘の碧から、一通の手紙を受け取った。それは思いがけず、今の状況を紐解く鍵となった。『角玄会』を取り巻く状況が変わり、金が必要になった今、各組織への風当たりも変わったということ。『角玄会』は金のために未宵を殺そうとしていること。碧が現状をどうにか変えたがっていること。そしてみょうにち、『角玄会』は未宵の殺害を決行するだろうということ。そのため、未宵を匿いたいということ。手紙にはそんな申し出が認められていた。手段を選ばない組織に命を狙われている恐怖。娘が危険な目に遭わないだろうかという不安。未宵は心が圧し潰されそうになりながら、今日という日を迎えたのだった。
風が吹き、木々が揺れる。さわさわという草木の音は、それだけでなんだか心の奥底をぞわぞわと掻き立てた。未宵は窓へと向けていた顔を、目を背けるように戻した。そして対面に座る、小さな少女へと視線を向ける。彼女はまるでお人形のように、動くことなくじっと椅子に座っていた。
(こんな幼い子まで巻き込んでしまうなんて……)
紅色の髪を垂らした、小柄な少女。その顔には恐怖や不安は一切浮かんでいない。感情の見えない顔で静かに俯いている彼女こそ、未宵へ手紙をくれた人物である。
碧に連れられて手紙の主に会った未宵は、想像とかけ離れた人物像に驚きを隠せなかった。碧よりも五歳くらいは年が低いのではないだろうか。彼女はその小さな身体で未宵を支えて家へ迎え入れ、『角玄会』から隠れるのに協力してくれたのだった。しかし『角玄会』の脅威もその狂暴性も、未宵はその目で見て身をもって知っている。『角玄会』から隠れることがどれ程難しいか、そしてもし見つかった場合、自分だけではなく目の前の小さな少女もただでは済まないことも嫌と言う程理解していた。子供のいる母親として、我が子よりも幼いような子に怪我をさせる訳にはいかない。しかも巻き込んでしまったのはこちらであり、本来彼女には何の関係もなかったのだ。にも拘らず、彼女は危険を承知で未宵を匿ってくれた。それにその顔には感情が浮かんでいないが、きっと胸中ではとても不安に思っているはずだ。彼女も『角玄会』の悪行を耳にしたことは山ほどあるだろう。同じ目に遭うのではないかと不安に苛まれるのは当然だ。……なんとしてもこの子を守らなければ。未宵は迫りくる『角玄会』への恐怖を掻き分け、密かにそう決心していた。
「……大丈夫ですよ」
鈴のような小さな声がきこえてきて、未宵は顔をあげた。林檎は未宵へ、安心させるように微笑みを浮かべていた。強張った未宵の顔を見逃さなかったのだろう。




