第35話
「ミナモ!」
水面が巻き込まれないように、碧は水面の名前を叫んだ。声に反応したのか動きに反応したのか、水面へ向けられていた拳銃が即座に碧の方を向いた。続けて乾いた発砲音が響き渡る。しかし、碧の身体には衝撃も痛みも襲ってこなかった。照準を合わせる余裕が無かったらしい。詳しく確認する暇もなく、碧は顔を伏せると耳を塞いだ。目も強く瞑って、口を開く。銃が向けられている状態で目を瞑るのは流石に少し怖かったが、閃光手榴弾に対処しなくてはいけないのは銃を持つ相手も同じである。恐らく碧を撃つ余裕はないだろう。実際に銃声は続かず、碧の身体が撃ち抜かれることはなかった。一度目に投げた時より少し早めに、碧は目を開いた。それでも水面は既に行動を起こしていたらしい。自身の背中へ向けて銃を突き付けていた少女の腕を掴み、捻り上げていた。水面は相手が閃光手榴弾によって目を覆っている間に銃を奪おうとしたようだが、相手も体勢を立て直すのが早かったようだ。その結果、銃を持つ手を水面が、水面の左手を『角玄会』の少女がそれぞれ掴み、お互いに身動きが取れなくなっていた。各々力の限り相手の腕を動かしているが、両者ともに懸命に耐えている。しかし同時に身動きが取れなくなった場合、明らかに水面側が不利だ。向こうは周りに数多の仲間が集っている。動けない水面を後ろから囲まれて殴打されてしまえば、水面に勝ち目はない。それは水面も理解しているらしく、歯を食いしばると捻る手にさらに力を込めた。周りの『角玄会』のメンバー達が、次々に伏せていた顔を上げ始めた。そして水面と幹部の状況に気が付き、武器を握りしめて水面へと近づいていく。水面はそれを横目で確認し、目を細めた。捻っていた相手の手を、さらに強く捻り上げ——可動区域を超え、ガクンと鈍い音がした。
「……っ」
少女は声にならない悲鳴を上げた後、銃を取り落とした。水面が即座に銃を踏み、素早くしゃがんで拾い上げる。後ろから降ってきていたバットを避けるように身体を反らし、掴んでいた相手の手を振り払って立ち上がった。そして振り向きざまに、銃で相手の顔面を殴り倒した。倒れた『角玄会』のメンバーに代わるように、間を置かずして横の少女が殴りかかる。水面は動じることなく、続けざまに拳をお見舞いした。銃を鈍器代わりに使って殴ると、さらに背後から襲い掛かってきた別の攻撃を避ける。そうして水面が暴れている間に、『角玄会』の集団から二人の少女が碧へと近づいてきた。二人ともその手に合口の短刀、所謂ドスを握っていた。日の光を反射して、刃の先が鈍く光る。水面の援護に向かおうとしていた碧は、足を止めて二人を睨みつけた。近づいてくる目は、お前が反抗したせいだと暗に訴えていた。二人は碧の前まで来ると立ち止まった。暫し、お互いに睨み合う。胸倉へと手が伸びてきた時、碧はすかさず手を振り上げていた。今までは母親へ報復されるのが怖くて、殴られるがままとなっていた。どんなに痛く苦しくても、耐え忍んでやり過ごしていた。しかし、今はその必要はない。碧は小さく息を吸った。バレーボールを打つ時のように、狙いを定める。スパイクを打つように目標の位置を捕捉し、中指の付け根辺りを意識して左手を打ち付けた。パンッと乾いた音が響き、手に痛い位の感触が残った。一瞬相手の手が怯んだのを確認し、助走をつける時と同じように一歩踏み込む。二人との距離がぐんと縮まる。近づいた碧目掛けて短刀が振り抜かれたのを、レシーブでボールの軌道に入る時のように横にステップを踏んで避けた。碧は水面のように、武器の軌道を完全に読むことなど出来ない。そんな動きについていけるような身体でもない。ならば、『いつも通り』に動くしかない。バレーボールの練習をしている時のように、毎日行っている基礎的な動きをここでも繰り返すのだ。
碧は陽の光に煌めく刃先を警戒するように睨んだ。
(武器をなんとか取り上げたいな)
碧には水面のように気を失わせるような技量も、一発ケーオー出来るような腕力もない。ならば相手の武器は脅威となる、早めに手放させておきたい。先程短刀を振り抜いた少女の横で、今度はもう一人の少女が刺すように碧へと短刀を突き上げた。迫りくる鋒を視界に捉え、碧は感覚を研ぎ澄ますようにしてその動きを目で追った。……今、自分はアウトサイドヒッターだ。サイドラインを出そうなボールが跳んできた時、見送るためにボールを避ける。こちらに跳んでくるボール……今は短刀である、それを同じように避ければいい。身体を捻るように全身で目標を追いながら、大きな動きで道を空ける。碧の足は後方に引かれ、想像上のラインとは反対側へと身体が大きく捩られた。短刀の動きに合わせるように、腹と平行に距離を保つ。結果、碧の腹に刃が貫通することはなかった。突き出された短刀は取り上げるなら格好のチャンスなのだろうが、碧の技量では難しいだろう。失敗した際のリスクも大きい。手を出さずに見送ると、空振った短刀はすぐに引っ込められていった。
「まぐれで避けられたからって、調子乗るなよ」
目の前の顔は怒りに歪んで、吐き捨てるようにそう言った。碧は表情を変えることなく、次の攻撃を読み切ることに集中した。しっかりと握られた二本の刃へ、交互に視線を這わす。少しでも動いたら、それに合わせてすぐに身体を動かさなくてはならない。碧は全神経を目の前の短刀へと集中させた。しかしその時、騒がしさを掻き分けて靴音が高らかに響いたのが聞こえてきた。僅かに意識を持っていかれる。
「危ない!」
不意に水面の叫び声が耳に届いたかと思うと、全身に衝撃が走った。右側から痛いくらいの圧迫を感じたあと、身体が耐え切れずに傾いていく。視界が慌ただしく回った。視界の隅に映ったのは紺色のセミロングの髪先、恐らく水面が横から突撃してきたのだ。先程の靴音は水面の駆けてきた音だったのだろう。水面に押し出されるがまま、碧は地面へと倒れていった。水面も同じように倒れ、碧の上へと被さるように重なった。
直後、先程まで碧が立っていた場所へ、滝が出来た……ように錯覚した。大量の液体が音を立てて落ちてきて、コンクリートを叩きつけた。勢い良く水滴が飛び散り、倒れた碧や水面にも僅かに掛かる。セーラー服の袖で拭って顔をあげると、地面には液体が広がって歪な円を描いていた。よく見ると、表面に虹色の膜が出来ているように見えた。……ガソリンだ。
(ガソリンをかけて、燃やそうとしたのか。……相変わらず、えげつないな)
これが『角玄会』のやり方だ。相手が誰であろうが殺すのに躊躇いはなく、その手段も選びはしない。碧が眉間に皺を寄せる隣で、水面が僅かに起き上がった気配がした。そして、碧の耳元へと水面の顔が近づいた。
「建物の中から狙撃している奴がいる。……気を付けろ」
水面は声を潜め、警戒するようにそう言った。碧はその忠告に、視線だけを近くの建物の上へとあげた。頭上にはガソリンを撒いたと思われる容器を持った人間が見えた。徐々に遠くへと視線を這わせ、該当するような人物を探す。視界内には数棟の建物が見え、幾つかの窓が開いているのが確認出来た。しかし目を凝らしても、碧の場所からは何処から狙われているのかはわからなかった。そもそも何処から狙っているのか分かったとしても、碧にそれを避けるような術はない。碧は視線を戻し、水面へ小さく頷きを返した。それを確認したからか、水面の顔が碧から離れていった。水面は勢い良く上体をあげ、即座に立ち上がった。近づいてきていた短刀を持った少女の攻撃を避けると、隙を突いて後ろから羽交い絞めにした。銃を持った少女へしたように、短刀を持った手首を捻じ曲げる。彼女も少女の腕が外れたのを目の前で見ていたため、自分がどうなるのか察したのだろう。限界まで捩じ切られる直前、彼女は持っていた短刀を手放した。落ちた短刀が地面に当たり、カラン、という音が響くと、水面は即座にそれを蹴った。丁度立ち上がったばかりの碧の元まで滑り、手前の溜まったガソリンへ塗れて止まった。水面は骨を外す事はせず、捕まえた首の辺りを強打して相手の気を失わせた。素早く腕の中の少女を解放し、後退する。直後、水面のいた場所を振り上げられた短刀が空を切っていった。短刀を引っ込めた『角玄会』の少女は、獲物に逃げられたとばかりに舌打ちをした。水面は再び構えられた刃を注視すると同時に、一瞬遠くへと視線を投げた。そして、水面の方から目の前の少女へと飛び込んでいった。振り下ろされた短刀を俊敏な動きで避けると、手や足は出さずにそのまま敵の背後へと回った。『角玄会』の少女も水面を追うため振り向こうとして、その腕から血が吹き出して動きを止めた。彼女の腕が、見る見る間に真っ赤に染まっていく。彼女の腕には、赤に塗れて鈍色の弾が埋まっていた。少女は血の流れ落ちる腕を庇いながら、痛みに耐えかねるように膝をついた。




