第32話
「よし。……じゃあ、帰るか。明日は七時に二丁目の交差点のとこ合流でいいか?」
「わかったわ。水面がつけてきている『角玄会』の人達を対処するまでは隠れているから、水面の好きなタイミングで行動に移して」
「了解」
水面は残ったアイスティーをごくごくと飲み干すと、空になったグラスをテーブルへと戻した。椅子を引き、立ち上がる。
「寝るところだったのに悪かったな。そういうところは本当、優等生ちゃんだよな」
「……え?」
林檎はその言葉に一瞬きょとんとし、それからゆっくりと自身の服へと視線を下ろした。表情を変えずに顔をあげると、ほんの僅かな沈黙を挟んだ。
「……早めにお風呂に入ったのよ。この時間に寝るわけないじゃない」
「はいはい」
「大体この時間に来客があること自体おかしいのよ。絶対に水面が行こうって言ったんでしょ」
信じていないことがわかる御座なりな返事に林檎は澄ました顔をやめ、小さく頬を膨らませた。
「なんでこんな時間になったの? 作戦を練っていたけれど、水面の頭じゃ何にも思い浮かばなかったからなの?」
仕返しとばかりに棘のある言い方をしながら、林檎は怒りを表すように両手を腰にあてた。
「いや、夕方までずっとバレーのラリーをしてたからだ」
「バレーの……、え?」
「八時間くらいかな」
平然とした顔での水面の回答に、林檎は困惑したように眉尻を下げた。
「……なんで?」
「意見が衝突したからだ。最終的にバレーで決めた」
「馬鹿じゃないの? ……あ、ごめんなさい」
林檎は自身の口を衝いて出た言葉を隠すように、両手で口元を覆った。そして横の碧へ謝罪の言葉を述べ、決まり悪そうに目を逸らした。しかし実際にその通りなので、碧は返す言葉もなかった。乾いた笑みを漏らして誤魔化し、碧も水面に続いて椅子から立ち上がった。
「とにかく……いきなり訪ねちゃってごめんね。それと力を貸してくれて、本当にありがとう。明日は林檎ちゃんの安全優先でね」
「紅茶もごちそうさま。美味しかったよ」と空のグラスを示す。林檎はばつが悪いような顔のまま、おずおずと視線を碧へ戻した。碧の挨拶が済んだことを見届けた水面はそのまま歩き出し、碧もそれに続いた。三人はリビングを出て、玄関へと向かった。スニーカーを履くと、横に置いておいたボールを抱える。水面も靴を履き終えたことを確認して、碧は玄関の扉をゆっくりと開いた。外はすっかり暗くなっていて、パーカーを着ていないと風が少し肌寒く感じた。二人は扉を出て玄関に並び、家主を振り返った。
「じゃあ……また明日」
『おやすみ』と言おうとして、口から出る前になんとか引っ込めた。寝るところではなかったと主張する彼女にわざわざ言うのも変な誤解を生みそうだ。
「碧さん」
水面とともに背を向けて歩き出そうとしたところで、若干舌足らずな声に呼び止められた。
「明日は、絶対に上手くいきますから。憂懼することなく……よい夢を」
林檎はそう言って、開いた扉の奥ではにかんでみせた。彼女なりに、碧を安心させようとしてくれているのだろう。碧は小さな少女に向けて、「うん」と微笑みを返した。
「なんだ、やっぱり寝ようとしてたんじゃん」
隣で水面が茶々を入れて、愉快そうに笑った。彼女も林檎なりの気遣いに気付いているようだが、揶揄わなくては気が済まないらしい。林檎は僅かに頬を膨らませて睨んだが、何も言い返すことはなかった。それから表情を戻し、ネグリジェから伸びる小さな手を振って見送ってくれた。
二人は星が瞬く空の下、暗い夜道を歩いていった。しばらく、お互いに無言だった。辺りには爆撃の音もなく、風が木々を揺らす音だけがさわさわときこえていた。街灯は行きよりもくっきりとした円を落としている。周りの家はどれも空き家で、明かりの灯っていない廃屋は夜だとなんだか不気味に映った。
「……つけられてるな」
不意に、警戒するような小声が耳に入った。辛うじて拾えるくらいの、潜められた声。水面は辺りへと密かに視線を這わせていた。
(林檎ちゃんの家は……たぶんバレてないはずだよな)
家の付近では水面は特に何も言っていなかったため、恐らく帰り道の途中で見つかったのだろう。というか、水面はなぜつけられていることをすぐに見抜けるのだろうか。碧が手合わせを申し込んだ時も周りに他に人がいないことを把握していたし、場数を踏んだことで気配に敏感になったのだろうか。碧は水面を一瞥したが、水面は辺りを警戒するのに集中しているようだった。碧も視線だけを周りへと向けてみる。闇夜の下の街並みは静かで、碧には人の気配は感じられなかった。だがつけてきている相手がいるとすれば、十中八九『角玄会』の者達に違いないだろう。
「……じゃあ、ミナモ」
碧はわざとらしく声を張り上げた。周りへ気を向けていた水面は、その言葉に碧を振り向いた。
「明後日、指定した場所にちゃんと来いよ」
どこにいるかは知らないが、『角玄会』の者達にきこえるようにわざと声を大きくした。水面も察した様子で、笑みを返して頷いた。
「ああ、勿論」
『角玄会』的には、明後日碧が水面の身柄を『角玄会』に差し出すと思っている。アジトに乗り込んで行動を起こすまでは、その演技を続けていた方がいいだろう。
「その代わり、明日はあたしの用事に付き合えよ」
「うん。……それじゃあ、ここまででいいよ。おやすみ」
碧はそう言って、水面と別れようとした。しかし水面は碧の横に肩を並べたままだった。
「ほら、夜道って怖いじゃん? 一人だと不安だし、アオイの家まで一緒にいこーぜ」
水面は闇も逃げていくような明るさでそう言って、満面の笑みを浮かべた。お世辞にも怖がっている人間の様子ではない。……そもそも、組織を一つ潰して喧嘩も無敗を誇るような水面が何かを怖がるなんて想像できない。潜んでいる『角玄会』の者達も違和感に首を捻っていることだろう。
「あー……。私がね? じゃあ、もう少しお願いしようかな……」
碧はぎこちない笑みを浮かべて水面の言葉をフォローした。
(ミナモって向かう所敵なしって感じだけど、嘘つくのは出来ないんだな)
真っ直ぐ突き進む分、変化球は苦手なのだろう。水面は碧の横で満足気に歩みを進めていた。碧は小さく俯き、ボールを持つ手に知らず力を込めた。
(……わかってる。私が一人になったら『角玄会』の奴らに暴力を振るわれる可能性があるから、ミナモは家までついてきて守ってくれようとしてるんだ)
恐らく『お願い』の期日までは手を出してこないと思うが、水面は万が一を考えて声を掛けてくれたらしい。本当、『お人好し』だ。……いや、これが友情というやつなのだろうか。これまで友達のいなかった碧には、よくわからなかった。
二人はそのまま碧の家まで夜道を歩いていった。闇の中吹く風は肌寒く、しかし会話をしていれば気になることはなかった。一人でなければ、辺りを支配する冷たさに負けることはない。例え闇夜で進む先が見えなくとも、不安に苛まれることもない。水面が隣にいてくれて良かったな、と碧はぼんやりと思った。結局、最後まで『角玄会』の人間は姿を現さなかった。碧は無事に家までたどり着き、水面と別れて中へと入った。家では母親が心配そうな顔で待っていた。『ACDA』を壊滅させた夜の時のような遅い時間ではないが、もし母親が『角玄会』に暴力を振るわれたのだとしたら、娘も同じ目に遭うかもしれないと不安に駆られるのも当然だろう。いつもより杖をつく音の間隔を狭くして、母親は碧を出迎えたのだった。
「ただいま。……遅くなってごめん」
「おかえり、こんな時間まで何してたの」
隠す上着もなく露になっている碧の腕を見て、母親は僅かに顔色を変えた。赤く腫れあがり、内出血の紫が点々と円を描いている。見るだけでも痛々しい惨状。誤解されたのを察し、碧は先に口を開いた。
「あー……。バレーボール、してた」
「……バレーボール?」
碧はボールを軽く掲げた。決まり悪そうな表情で続ける。
「うん。……友達と。腕はそのせい」
これは誤魔化しではなく、嘘偽りない事実である。
「友達と……」
母親は碧の言葉を繰り返し、碧の手に抱えられているバレーボールをじっと見つめた。碧が『友達』の話をしたのはこれが初めてだった。不安そうに揺れていた瞳は、一転してなんだか嬉しそうに細められたのだった。
「そう。……次からは時間も考えなさいよ。心配したのよ」
「ごめん。熱中しちゃって……」
「ふふふ」
母親は幸せそうな笑みを零したあと、「シチュー出来てるわよ、食べるよね?」と尋ねながらリビングへと戻っていった。碧も靴を脱ぎ、背中を追い掛けて奥に入っていく。
「玉ねぎ、シチューに入れたかったの?」
「そうそう。本当はカレーにしようと思ってたのよ、カレーには玉ねぎがないとでしょ?」
夕食の話をし始めると、碧の腹がくうと鳴った。そういえば、朝食を食べたきり何も食べていなかった。碧は腹を摩ったあと、手を洗いに行かずにそのままキッチンへと向かった。鍋を温め始めた母親の隣へ並び、ポケットへ手を突っ込む。
「でも牛乳の賞味期限が近い事に気付いちゃって……、ん?」
碧の差し出した封筒を見下ろし、母親は不思議そうな顔をした。
「……明日、一緒に来て欲しいところがあるんだ。それと……何も言わず、これを読んで欲しい」
母親は碧の顔を一瞥した後、言われた通りに何も言わずに封筒を受け取った。中から折りたたまれた便箋を抜き、その場で静かに読み始める。読み進める度に、その顔付きが変わっていった。二人の前で、鍋の中からぐつぐつとした音だけがきこえている。碧は「手、洗ってくる」と言って、母親を残してキッチンを去った。その際、シチューのまろやかな香りが鼻を擽り、再び腹がくうと鳴ったのだった。
(あとは、明日次第だ)
明日以降、碧と母親の命が散ることなく、生き延びられるか。好き放題に暴れる『角玄会』に、引導を渡せるか。全ては、明日に懸かっている。
美味しい匂いを漂わせるシチューも、食べられるのはこれで最後になるかもしれない。碧は蛇口のレバーを上げながら、悔いのないように味わって食べないとな、と漠然と思ったのだった。
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