第24話
「このままじゃ、埒が明かないな」
水面も同じ結論に至ったらしく、彼女はセミロングの髪をわしわしと掻いた。渋々といった表情でそう零したあと、彼女は問うような視線を碧へと向けた。そして、口を大きく開く。
「勝負をしよう」
きっぱりと告げられた。碧は目を瞬かせ、真意を探るように訝し気な表情を向けた。
「お互い譲る気がないんだろ。なら、勝負で決着をつけようぜ」
「……勝負……」
碧は思わず苦い顔をした。碧は一度、水面に負けている。それに傍で見てきたからこそ、水面の規格外な強さを誰よりも知っている。……碧と水面で戦うとしたら、碧が勝てるはずがない。
「……」
碧は沈んだ表情を浮かべながらも、反対する声はあげなかった。ここで勝負を断るのは、実質的に負けを認めたも同然だからだ。何も言えない碧へ、水面は真面目な顔で言葉を続けた。
「……ただ、喧嘩をして決めるのはフェアじゃない。喧嘩じゃ、あたしに有利過ぎる。……アオイの気持ちを軽んじてるわけじゃないんだ。だから、あくまでも対等に勝負をしたい」
喧嘩なら絶対に水面が勝つのに、彼女はそう言って碧へ譲歩した。碧と同じで、喧嘩をした場合の勝負の行方はわかっているのだろう。自身の勝利が目に見えているはずなのに、彼女は自らそれを蹴った。例え喧嘩でなくても絶対に勝つ自信があることが、その表情から窺えた。
「……そうだな」
水面はしばし悩む素振りを見せたあと、何かに思い当たったようにそう呟いた。そして強気な笑みを薄く浮かべ、碧を瞳に映しながら言葉を続けた。
「バレーボール」
水面の凛とした声は、ずっと碧が追ってきたスポーツの名前を告げた。
「アオイ、好きだろ。バレーボールで決着をつけよう」
「……バレーで?」
思ってもいない提案だった。碧は困惑を隠せず、若干動揺しながら繰り返した。水面は毅然としたまま、頷きを返した。
「流石にチーム戦は無理だけど、対人パスなら二人で出来るだろ。ラリーを繋げられなかった方の負けにしよう。どうだ?」
最近水面は碧がバレーボールの動画を見ていると背後から覗き込んで、一緒に見る機会が増えていた。基礎的な知識はそれで身につけたのだろう。『対人パス』や『ラリーを繋げる』という概念を、いつの間にか理解していたようだ。
「……いいのか? それだと逆に大分こっちが有利になるけど」
最近動画を少し覗き見し始めただけの水面に対して、碧はバレーボールに憧れてずっと練習を続けてきた。壁打ちの練習なども、ほぼ欠かすことなく毎日のようにしてきている。それに比べ、水面はきっとバレー用のボールさえ触ったことがない。しかし水面は自信の溢れた表情を崩さなかった。
「勿論。だって、あたしが勝つからな」
相変わらず、勝ちを確信している笑み。凛とした声は、意気揚々として辺りに響く。碧は僅かに顔の角度を傾けた。
「……その言葉、撤回するなよ。悪いけど、今回は手加減してやれない」
例えこっちが有利であろうとも、全力でいく。水面を危険に巻き込むわけにはいかないのだ。絶対に負けられない戦いなのだから、一歩も引くことは出来ない。
「いいぜ。喧嘩じゃないけど、やっと本気のアオイと勝負が出来るんだな」
水面は少し楽しそうにそう言って、擽ったそうに笑った。戦闘狂の部分が漏れている。つくづく喧嘩でなくて良かったな、と思う。
「……じゃあ、一度家に帰ってボールを取ってくるから。ここで待ってて」
碧の言葉に、水面は素直に頷いた。碧はお使いの途中である、玉ねぎを母親に届けることも忘れてはならない。一度家でそれら諸々の用事や準備を済ませ、再びこの場に集まるのがいいだろう。言い終わるや否や、碧は家に向かって走り出した。先程まで頭を悩ませ、暗い表情をしていたのが嘘のようだった。重かった足取りは、今は軽やかに土を蹴り上げている。その瞳は真っ直ぐと先を見つめ、固い意思に唇を結んでいた。
(絶対に負けない)
まさか埒が明かない言い合いを、バレーボールで収める日が来ようとは。成り行きとはいえ、夢にも思っていなかった。真っ直ぐすぎる水面は、碧を助けようとして手を差し伸べている。それは碧もわかっている。しかし、その手を取るわけにはいかない。『角玄会』の脅威を、彼女はきっと見縊っている。
『角玄会』から『お願い』をきいたあとの行き止まりの道に迷い込んだような感覚は、気が付けば霧散していた。母親をどのように逃がすかという問いには、まだ答えは出ていない。しかし兎にも角にも、まずは水面だ。その目の前の小さな取っ掛かりへ突っ走ることによって、霧の中を歩いていたような手詰まり感が消えていた。
(まずは、ミナモに勝つ)
自然と脳が切り替わっていた。先に水面の件を終えてから、母親や『角玄会』のことを考えるべきだ。水面を遠ざけるのは母親を逃がすよりは容易く、手を付けやすい。こちらは日々バレーボールに勤しみ、練習を重ねてきたのだ。『友達』を助けるために勝負を申し出てくれた水面には悪いが、そちらがバレーボールで決着をつけようと言うのなら文句は言わせない。動画で齧った程度の人間との勝負ならば、碧がほぼ確実に勝てる。……客観的に見ても、そう思うはずなのだが。碧の脳裏に、強気な笑みが蘇った。彼女は、そうは思っていないようだった。
「……」
土手の広く開けた道には、人の姿はなかった。青空の下で風が吹き抜け、パーカーの長い紐、ワイドパンツの広がった裾、後ろで細く束ねたウルフヘアの長い襟足を靡かせていく。スニーカーで地面を蹴り上げ、碧は出番を待ち詫びているボールを取りに家へと走り続けたのだった。
家に帰って買った物を渡し、代わりにバレーボールを手にした碧は、土手の橋のもとまで戻ってきた。軽く走ったが、家との往復で二、三十分程経ってしまった。緩やかに傾斜を描く鮮やかな緑を踏み締め、碧は橋の下へと急いだ。太い直線の影の中には、この場を去った時と同じ様に私服姿の水面がいた。コンクリート製の柱に背中を預けて両腕を組み、橋の先に広がる澄み渡る青空を仰いでいる。先程は気にする余裕がなかったが、彼女は柔らかそうなベージュ色のティーシャツに、裾の広がった黒のショートパンツを合わせていた。スニーカーも含めて、全体的に動きやすそうな服装だ。シンプルな分彼女のスタイルの良さが強調されていて、水面にとてもよく似合っていた。彼女は靴音で碧の到着に気付いたらしく、空へとあげていた顔を碧へと向けた。淡く笑みを湛えているが、その瞳はいつも以上に燃えているように感じられた。
「やっと戻ったか。……やろうぜ。露払いは終わらせておいた」
「……露払い?」
碧が訝しむように尋ねたが、水面は答えることなく柱から背中を離しただけだった。彼女は軽く腕を回し、続けて足首を回し出す。碧は静かに辺りを窺った。周りには相変わらず人影はないようだった。
(桜卯姫月の話だと、私はずっと監視されてるってことだった。もしかして、『角玄会』の監視の目を撒いておいたのか)
碧がここを離れてから戻るまでの時間に、隠れて監視していた者達を引き摺り出してボコボコにしていたのかもしれない。監視をしていたのなら水面が勝手にやったことだと分かるはずだし、水面の行動が碧に不利に働くことはないだろう。それにしても『角玄会』と水面がやり合わないように決めるその勝負すらまだ始まっていないと言うのに、如何せん手が出るのが早すぎる。彼女の性格を考えると、誰にも邪魔されない形で勝負がしたかったのかもしれない。周りに隠れている者の掃除など、水面にとっては朝飯前なのだろう。
碧はボールを一度地面に置き、緩いシルエットのトップスの袖を捲った。パーカーは脱いで家に置いてきたため、動くには今の格好で充分だ。左腕と右腕を順番に、落ちてこないように丁寧に畳んでいく。捲り上げたあと、一度その場で軽く跳ねた。スニーカーが衝撃を吸収し、地面へ柔らかく着地する。肺の奥底から息を吐き出して顔をあげると、水面もストレッチを終えて、碧へ笑みを向けていた。準備が出来たようだ。




