第22話
伸ばしかけた手の先を、さらに前へと突き出す。ビニール袋の端をなんとか掴み、自身のもとへと手繰り寄せた。中の玉ねぎが、袋の内側でごろごろと転がる。空いた方の手を地面へとつき、土で汚れた身体を起こした。ズキズキと痛む頭をなんとかあげ、よろけながらも立ち上がる。鳩尾にはまだ重い痛みと違和感が残っていて、麻痺したような感覚が広がっていた。
「ふう……」
息を吸って、吐く。労わるように曲げていた腹を、少しずつ伸ばした。なんとか気丈に姿勢を整える。『角玄会』の者達が去った方へと一度顔を向けるが、既にその影は跡形もなく消えていた。
(さてと……)
碧はビニール袋を改めて持ち上げ、手首にかけた。空いた手で、服についた砂を払う。
(どうやって『角玄会』を潰すか……考えないとな)
碧は口元を乱暴に拭った。人の姿のない道の先から顔を戻し、もともと向かっていた家路へと身体を向ける。
(こっちは一人なんだ、やれることは限られてる。出来ることといえば、敵地に突っ込むくらいだろうか。一人で組織の数百の人間を皆殺しに出来るとは思えないし、殺されるのは確実だろうけど……せめて『角玄会』の奴らを引き付けている間に、母さんになんとか逃げてもらえないかな)
水面と母親、どちらも犠牲にすることなど出来るわけがない。母親は大事な家族であり、水面は碧が巻き込んでしまった『お人好し』の善良な後輩だ。
(『角玄会』はミナモを引き入れるのに私が有効だと思っているみたいだし、利用する気なら期日までは私を殺せないはずだ)
水面という戦力、もしくは献上品を得るのに有用である碧を、自ら切り捨てるような真似は出来ないだろう。これは碧にとって、期日に水面を差し出さないと命が消えることを意味する一方で、期日までは命の確約が出来たことにもなる。
水面の身は売らない。母親も助けたい。桜卯姫月の力を借りることも、避けねばならない。……碧に出来ることはもう、『角玄会』に乗り込んで暴れることくらいだ。碧一人の力で潰すことなど不可能であろうが、その間『角玄会』の注目を引きつけることは出来る。その間に、母親を逃がすことが出来れば……。
(期日は三日後。ということは、それまでに動くしかない。……明日、『角玄会』に殴り込みに行くか)
抗争慣れしている大人数相手に、勝てるとは思っていない。言わば自死に近い行為だ。
(それでも、やるしかない)
水面を巻き込まず、母親を助ける方法。碧は頭が回るタイプではない、ならば愚直に『角玄会』へ乗り込んで、精一杯反抗するしかない。
(全力で抗ってやるよ、見てな)
碧はふんと鼻を鳴らした。殴られた腹の辺りに鈍い痛みがじわりと広がったが、それには気付かないフリをした。母親を助けられるのなら、影響力のある大規模組織にだって歯向かう。身を滅ぼすことも厭わない。後輩に迷惑を掛けることもしない。碧は覚悟を決めた。そして『角玄会』に特攻している間に、母親にはどこか安全な場所へ身を移してもらえばいい。
(具体的に母さんにどう逃げてもらうかは考えないといけないけど……)
『角玄会』の監視の目を掻い潜り、安全だと言える場所へ母親が逃げられるような手段を見つける必要がある。碧の頭にはそのような方法はなかなか思い浮かばなかった。ただどんな手段をとるにせよ、まずは足の悪い母親に逃げてもらうだけの時間と注目を碧が稼がなければいけないことは変わらない。……出来るだろうか。決意を固めた胸中に、抑えきれない不安が顔を覗かせる。
(出来るかじゃない、やるんだ)
碧は顔を険しくした。ビニール袋を掛けた先で、拳を握る。今の状況ではきっともう、これしか方法はないのだから。
地面へと視線を落とすと、玉ねぎが一個寂し気に落ちていた。殴られた際に袋から出てしまったのだろう。碧は腹の痛みに耐えながらしゃがむと、地面に転がったままだった玉ねぎを拾い上げた。ずっしりとした重さ、艶のある狐色の皮。じっと見下ろしていると、買い物を頼まれた際の母親の顔が過った。碧はそっと、玉ねぎを袋の中へと戻した。
顔をあげる。土手の周りは視界を遮るものは何もなく、開けた景色が広がっていた。遠くに見える家々やビル、揺れる木々、長く続く平坦な道。緩やかな傾斜面に広がる鮮やかな緑の芝生、穏やかに流れ続ける川の水、そして澄み切った青空。碧は見渡していた顔を道の先に向け、足を一歩、先程とは違ってゆっくりと踏み出した。『角玄会』は碧へ『お願い』をした以上、期日まで母親に手を出したりはしないだろう。監視をしつつもすぐに殺さなかったのも、きっとこのためだ。彼女は言わば碧に対する人質であり、有効な間は傷つけたりするとは思えない。急いで家に帰る必要性は、大分薄らいだ。それならば買い物帰りの一人の時間は、今後のこと、特に母親をどう逃がすかということを頭で勘考するのに丁度良いだろう。休日の穏やかな時間に似つかわしくない暗い顔をしながら、碧はトボトボと歩き出した。考えることは、沢山あった。それらに答えがあるかもわからない。……それでも、ない頭を絞るしかない。深呼吸をしたくなるような解放感のある景色から、地面に広がるコンクリートへと視線を落とす。所々に亀裂が入り、窪んでいた。隅には石ころが無造作に転がっている。スニーカーのゴム底で、荒れた道を踏み締めた。重い気持ちになりつつ、しかし覚悟を決めたように唇を結びながら、少しずつ家路を進んでいく。
その時、後方からパタパタと慌ただしい足音が聞こえてきた。碧と同じスニーカーらしき弾力性のある音が、開けた土手に忙しなく響く。最初は遠いように感じていた音は、すぐに大きくなっていった。
「……」
碧は一瞬躊躇するかのように視線を泳がせた。間を空けない内に、音はすぐ背後までやってきていた。靴音の間隔は徐々にゆっくりとなり、やがて止まった。目的地に辿り着いたらしい。背中に気配を感じながら、いつまでも突っ立っているわけにはいかなかった。碧は固い動きで振り返った。しっかりとした足取りの地を蹴る音、音がしてからここに辿り着くまでのスピード。それらから頭の中で予測した通りの人物が、碧を真正面からじっと見つめていた。風が彼女の紺色の髪を靡かせていく。
「……ミナモ」
彼女は息を切らせていた。その顔は真面目で、なんだか険しかった。偶然碧を見つけた、という雰囲気ではない。彼女は真っ直ぐと碧へ視線を向けながら、口を開いた。
「……姫月からきいてきた」
いつもの凛とした声は、彼女にしては若干声量が抑えられていた。碧はその言葉に眉を跳ね上げた後、苦い顔をした。短い一言だったが、内容には察しがついた。
(……桜卯姫月……私に教えてくれた情報、ミナモにも流したのか)
そもそも姫月は『水面には内緒にする』とは一言も言っていない。接触した時に黙っているよう言っておくべきだったな、と心の中でぼやく。結局姫月は碧の味方というわけではなく、あくまでも水面の味方なのだろう。……いや、碧が協力を仰ぐと思って、善意で先に話をつけておいてくれただけだろうか。如何せん彼女のことを深く知らないため、彼女の行動がどういう意図を持っているのか碧には測り兼ねた。
「今までずっと、『角玄会』はアオイのことを監視していたんだってな。『角玄会』はそれを知ったアオイに対して何か動きを見せるはず、って言ってた。……だから先に動いて、『角玄会』を潰すしかないって。きっと『角玄会』は、アオイの母親を出しにするだろうから……そう姫月は言ってた」
「……」
碧は返事をしなかった。……姫月の予想は当たっていた。碧が姫月から情報を得たからなのかは定かではないが、『角玄会』は碧へと碧と母親の命を使って脅迫をしてきた。しかし水面の身柄を引き渡すよう要求したところまでは見抜いていなかったのだろうか。それとも、故意にその部分を水面に伝えなかっただけなのか。
「なら、話は早いよな」
水面は険しい表情をしていた顔を、強気な笑みに変えた。いつもの自信に溢れた、真っ直ぐと前を向く不敵な笑み。
「一緒に『角玄会』を潰しに行こうぜ」
碧を見つめる、曇りない眼。勝利を確信するあがった口角。その表情には、不安や恐れなど微塵もなかった。
(……やっぱり、あんたはそう言うよな)
大きな組織を敵に回す恐怖や懸念は無いのだろうか。負けて死ぬかもしれないとか、大きな怪我を負うかもしれないとか、一生追いかけまわされるかもしれないとか、……大事な人が人質に取られるかもしれないとか。そんな心配事に全部目を瞑って、メリットもないはずなのに他人の碧のために手を差し伸べる。躊躇さえ、全くない。
「……」
碧は真っ直ぐと見つめてくる水面から、顔を逸らした。土手の傾斜の先で流れる川へ視線を落としながら、重い口を開く。
「ミナモの協力は不要だ」
小さい声量ながら、はっきりと、そう告げた。




