第1話
縹水面のことは知っていた。学校で一番強い奴を負かした新入生がいる、という噂をきいたのが始まりだった気がする。その一報は学校中に広まったが、当時は誰もが半信半疑だった。そのため皆、挙って彼女に喧嘩を申し込んだ。結果、今まで彼女に勝てた者は誰一人いないのだという。毎日誰かしらが彼女にお灸を据えようと挑み、ボコボコにされて帰ってくる。生意気だとか、どうせ何か小細工しているだとか、吹聴しているただの出鱈目だとか、負けた奴らがいろいろと言うことで、彼女についての噂はさらに広まった。要は彼女は、学校で一、二を争う程の有名人だった。
「あたしを呼び出したのって、あんた?」
さすが、呼び出されることに慣れているらしい。指定した場所に姿を現した少女は、自身よりも先輩の少女に臆す様子もなく話しかけた。待ち人が現れたことを確認すると、碧はもたれかかっていた壁からゆっくりと背を離した。二つのフープピアスの下、ウルフヘアの長い襟足の先が、柔らかく肩を擽った。シアンのメッシュごと後ろで細く束ねられていて、垂れた毛先が肩から流れていく。碧は現れた少女を確認し、目を細めた。彼女は同じセーラー服を着ていて、背の高さも同じくらいだった。学年は学校に通い始めた年で分類されるため学生の年齢はまちまちだが、恐らく年端もほとんど変わらないだろう。紺色のセミロングの髪、明るい瑠璃色のインナーカラー。すらりと伸びた健康的な脚、高めの身長。キリッとした細い眉、獲物を狙う豹のように研ぎ澄まされた澄んだ目。精悍で麗しい、整った顔付き。きいていた特徴通りだ。間違いない、彼女が縹水面だろう。
「そう、私」
碧は落ち着いた声を響かせた。その間も、じっと自身が呼び出した少女を観察する。
「喧嘩のお誘いってことでいいの?」
水面は片手を腰に当て、首を傾げた。セミロングの先が肩から零れて、綺麗な瑠璃色が艶めく。
「うん。いいよ」
碧はスカートのポケットに入れていた両手を緩慢に抜いた。水面の正面で、彼女へと向き直る。言葉に反して襲い掛かって来ず、武器すらも持っていない碧に、水面は眉を顰めた。
「……」
水面の視線が碧から逸れ、周囲を訝し気に見渡し出す。辺りには人影はなく、仲間が潜んでいる様子も見当たらなかった。碧一人であることを確認し終え、水面は短く息を吸った。顔つきを変える。獲物を睨み、その場で構えた。碧は未だに動く気配がなかった。
先に動いたのは、やはり水面だった。一気に距離を詰め、一瞬で碧の目の前まで迫り来る。そして小手調べだとでも言うかのように、ストレートな軌道で重い拳が繰り出された。目にも留まらぬ速さだが、真っ直ぐな分動きは読みやすい。碧は身体を振り、それを避けた。拳が虚空を切った直後、大きく振り払うようにして肘が横に投げ出され、逃げた獲物を追ってきた。今度は変化球で来たらしい。頭を殴打しようとしていた腕を、碧は即座に頭を低くして寸でのところで避けた。その瞬間、脛目掛けて長い脚が飛んでくる。下に避けると見越して、重心が移動した先を崩そうとしたのだろう。碧は避け切れないと判断し、勢い良く繰り出された脚に向かって両手を伸ばし、掴みかかった。力一杯抵抗し、僅かに脚の軌道を逸らす。しかしその速さと重さは尋常ではなく、止められないまま勢いに飲まれて身体ごと持っていかれた。細い足一本なのに、碧の全体重を物ともしていない。しかし脚を掴んでいたことで、身体が吹っ飛ばされることは避けた。勢いのまま引き摺られた後、碧は掴んだ脚を自身の方へと思い切り引っ張った。水面の身体が碧の身体へ寄せられ、距離が詰まる。水面は慌てた様子もなく、そのまま近づいた相手に拳を突き上げた。狙うは顎だ。碧は軌道を読み、大きく顔を後ろへと沿った。痛いくらいの風圧が鼻先を掠めていく。重心が後ろへ傾いたのを見逃さず、距離を詰めていた水面は碧の身体をそのまま押し倒した。突然死角から繰り出された手に放られ、碧の身体は背中から地面へと叩きつけられた。砂埃が舞い、碧は異物の入った目を瞬かせる。その瞬きの一瞬で相手は馬乗りになり、拳を既に振り上げていた。左頬に重い痛みが走り、衝撃に右頬が地面へ押し付けられる。そこで漸く殴られたと自覚した。歯が欠けたらしく、舌に固いものが転がった。同時に鉄の味が広がる。そう思っている間に、今度は右側から殴られる。顔は慌ただしく反対側へと曲がった。鼻から温かいものがつうと垂れた。……また歯が欠けたかもしれない。骨が折れたのではないかという痛みが顔を支配し、碧は眉根を寄せた。しかし、三発目はすぐには来なかった。ちら、と視線だけを上へあげる。頭上の水面は眉間に皺を寄せた顔をしていた。あっけなさすぎて、手応えがなかったのだろうか。
(なら、少し早いけど……やるか)
痛い思いはなるべくしたくない。三発目を食らわないで済むのなら、それに越したことはないだろう。水面に乗られている下で、碧は密かに右手を動かした。ポケットの中へ入れ、目的のものを掴む。水面の拳が振り上げられた。三発目が来る——その前に、碧は右手を頭上の身体に向けて振り上げた。手にはリップスティック型のスタンガンが握られていた。スイッチを押すのに合わせて、スパーク部がジジッと低い音をたて、白く閃く。その眩しさに、水面の目が反射的に瞑られる。しかし彼女は碧の一手を予測していたらしく、スタンガンの先が水面の胸部に届く前に碧の腕を掴んでいた。細い腕から出ているとは思えない力で動きを封じ、そのまま捻り上げられる。碧はノーマークとなった左手を高く伸ばし、水面の喉に掴み掛かった。細い首をへし折る勢いで、力の限り締め上げる。その手は、血管が青く浮き出ていた。
酸素不足になろうが、水面の絡み付く手の力が衰えることはなかった。スタンガンを持った碧の腕とそれを掴む水面の手は、両者ともに大きく震え拮抗したままだった。水面の右手は、首を絞める碧の手を剥がそうとはしなかった。普通、首を絞められたら反射的に振り解こうとしてしまうはずだ。しかし、彼女の右手は真っ直ぐと伸ばされ——碧の首をがっしりと掴んだ。碧と同じようにその手に力を込め、締め上げる。……どうやら力比べと洒落込むようだった。よほど自分の力に自信があるらしい。碧は首を絞められる痛さと苦しさと同時に、酸素が欠落して頭の奥が嫌に冷たくなっていくのを感じた。
先に首を絞めだしたのは碧だ。時間的アドバンテージがあるはずだが、水面の力は全く緩められることはなかった。相変わらずスタンガンを持った腕は水面の手により封じられ、首を絞める右手もきつく力が込められたままだった。碧は酸素の供給されない頭に寝起きのような曖昧さを感じながら、伸ばした左手を緩めることなく強く締め続けた。水面は苦しいはずなのに、表情に噯にも出さないでいる。その鋭い目は真っ直ぐと碧の顔を睨みつけている。獲物を逃さないという執念、絶対に勝つという自信。その瞳は燃えていて、そして何故か、楽し気でもあった。絶対的勝者の驕りなのだろう。碧の開いたままの口から、唾液が一筋零れた。……まずい。碧は自身の眼前が虫が飛ぶようにチカチカと点滅し、水面の表情が分からなくなってきていることを悟った。……苦しい。身体が動かない。背中に広がる地面の感触が、嫌に生々しくて温かい。無意識にはくはくと口を動かした。当然、酸素は入らない。ここにきて、締め付ける水面の手はさらに力を増した。首が折られるのではないかという不安が頭を過る。掴まれた場所の奥で、骨が悲鳴を上げていた。重い頭は既に嫌な冷たさが支配していて、上手く考えが整理出来ない。ただただ、苦しくて、痛い。意識が遠くなって、まるで身体から離れていくような感覚を覚える。早く相手を殺さないとまずい。でないと、こちらが殺されてしまう。水面の首を掴む左手に、より力を込めようとする。しかし、力を入れられているのかさえわからなくなっていた。手先の感覚がない。
(……やばいか?)
先に水面を殺さないといけないというのに、自身の左手から力が抜けていくのを感じた。……絞め負ける。碧は苦しさに負け、顔を歪めた。
「……」
その時、不意に碧の首から手が離された。強く絡み付いていた枷が、一瞬にして消える。碧はその瞬間大きく口を開き、肺の底まで思いっきり息を吸い込んだ。ほとんど反射的だった。身体が空気を求め、肩で大きく、何度も呼吸を繰り返す。必死に酸素を取り込んでいる隙に、碧の右手の中からするりとスタンガンが抜かれた。水面は馬乗りになっていた碧の上から立ち上がった。自身も肩で息をしながら、手にしたスタンガンを真上に放り投げてキャッチした。一度首の辺りを摩ったあと、地面に倒れたままの碧を見下ろす。碧は一心不乱に呼吸を繰り返し続けていた。
しばらくそうしていた。二人の息が整った頃、碧は大の字に寝転がったまま、水面を見上げた。口に残っていた歯の欠片を、血と共に砂の上へ吐き捨てた。
「……なんで、殺さなかったんだ?」