婚約者は記憶喪失!
「あなたとの婚約は破棄させてもらう!!」
俺が強く言い放つと、目の前にいる砂糖菓子のようなご令嬢は、ふにゃりと泣きそうな顔をしていた。
***
「ハルトぉ。私、こんやくはき、されちゃった」
太陽がさんさんと降り注ぐ青空の下、ティータがメソメソしながら俺を見上げて訴えてきた。
庭師見習いの俺は、仕事を中断して梯子を降りる。目の前にいる赤髪でそばかすの女の子が、この屋敷のエッソルト伯爵令嬢であるティータだ。
「またですか、お嬢様。今度は何をやらかしたんで?」
「んっとぉ。婚約者さんのお名前を、前の婚約者さんと間違っただけ。三回くらい」
「いや、ダメでしょそれは。他には?」
「パーティーがつまんなくって抜け出したら、野良猫がいてね。かわいくって一緒に遊んでたの」
「それから?」
w「その猫ちゃんをパーティー会場に連れて行ったら、猫ちゃんがみんなの食べ物を取ってたかな?」
俺はそのパーティーの惨状を想像して、息を吐いた。
お嬢様は十八歳という年齢のわりに幼い。本人に悪気がないのもわかっているし、お嬢様は逆にそれが魅力だとも思う。
お嬢様はポヤンとしているが、数字にだけはやたら強い人だ。伯爵家の帳簿はもちろんティータがつけているし、領内の帳簿に不一致がないか確認する作業も一手に担っている。
素晴らしい頭脳の持ち主で、能力を買われることも多いんだが……伯爵令嬢としては残念ながら落第点をつけられてしまうことが多い。
「きっと、今回は縁がなかったんですよ。次はきっと良い縁談が……」
「本当に、そう思ってるの? ハルトぉ……」
心がこもっていないことを見透かされたように、ティータは言った。
こういうところだけはなぜか聡いお嬢様だ。それがまた、婚約者に嫌われる一因にもなってしまっているように思う。
「私、もうどこにもお嫁にいけないよ……」
「んなことないですよ」
「ハルトは、私のこと、好きだよね?」
「え? ま、まぁ……」
「えへへ」
そばかすの愛らしい顔で、嬉しそうに笑うお嬢様。
このお嬢様の良さがわからないとか、本当に節穴な婚約者だらけだな。
「じゃあハルト」
「はい」
「私と結婚してくれる?」
「え、なっ?!」
いきなりなにを言い出すんだ、このお嬢様は! 声が裏返ってへんな声を上げちゃったよ!
顔が熱くなる俺を見て、お嬢様はにへらとかわいらしく笑っていて……まぁ、楽しそうだからいいんだけど。
「お父様がね。もう誰とでもいいから、結婚してくれーって」
「……えっと……」
誰とでもって……いいのか、旦那様。
「ハルトは、私と結婚したくなぁい? やっぱり、私みたいなのは、結婚相手にはならないのかなぁ?」
悲しそうに眉を下げる顔は……かわいい。死ぬほどかわいい。
「いや、でも誰でもいいっていっても、俺みたいな身分の低いやつは……」
「私、ハルトがいいんだ」
なんっだそれ!
そんなこと言われたら、俺の理性がふっとんじゃうだろ! そのキラキラした顔も反則!
「ねぇ、ハルト。子どもの作り方、知ってる?」
ちょっといきなり話ぶっ飛びすぎじゃないですかね?
「いや、まぁ、一応知識としてはありますが」
「よかったぁ! 私、知らないから、いっぱい教えてね? あれぇ? ハルト、鼻血出てるよ?」
や、出るでしょ。お嬢様は精神的には幼いけど、体は……ぶぶっ
「ねぇ、結婚、してくれる?」
え、なにこれ。俺、『はい』って言っちゃっていいのか? 言った瞬間、髭面の旦那様に刺されない?
「だめぇ?」
「いや、オッケーです! お嬢様と結婚します!」
っは! つい言っちゃったよ!!
「やったぁ、いいって! お父さまぁ!」
「うぇ?! 旦那様?!」
どこからか旦那様が出てきて、いきなり手を握られた。
「ありがとう、ありがとうハルトくん! うちの娘をもらってくれて!」
「あ、いや」
目に涙まで滲ませて喜んでいる旦那様。
どうやら刺されることはないようだった。
こうして俺たちは婚約をした。
伯爵家には優秀な長男がいるから、俺は別に婿に入ることもなく気楽なもんだ。
ティータも帳簿係を続けると言っているし、俺もこのまま庭師を続けてもらって構わないと言ってもらっている。
独身の使用人は屋敷の離れに住まわせてもらっているが、それもあと少しだ。
現在、屋敷から少し離れたところに二人の住まいを建設中で、家が出来上がれば結婚ということになる。
もちろんしがない庭師見習いの俺が家を建てられるはずもなく、ティータが今まで稼いだお金を出してくれた。それと、祝いにと旦那様からも。
情けないけど仕方ない。これからも一生懸命働いて恩を返していこう。
「ハルト、私たちの家、もうすぐ完成だね」
キラキラした笑顔を向けてくれるティータ。かわいい。
職人が木材を運び、少しずつ作られていくのを見るのが楽しいみたいだ。
この家に、ティータと二人で住む。そう考えると、口元がにやけるのを抑えられない。
「えへへ、ハルトも嬉しそう〜。ね、嬉しい?」
「もちろん、嬉しいですよ」
「私もすっごく嬉しいの!」
「そ、そうっすか……」
だめだ、その笑顔……かわいすぎてまともに見られない!
「ねぇ、どうしてお顔隠すの?」
「えっと、それは」
「私、ハルトの笑った顔、だぁい好きだよ!」
「お嬢様……」
「ティータって呼んでほしいなぁ」
「……ティータ」
俺が名前を呼ぶと、ティータは今まで見た中で一番の素敵な笑顔を見せてくれた。
やばい、幸せだ。きっと、ティータも。
でも今が最高だなんて思わせない。ティータの最高の笑顔を、これからも更新し続けるんだ。
俺が、俺の力で。
「ねぇ、あっちはどうなってるのかなぁ?」
ティータは好奇心旺盛だ。職人の邪魔にならないように移動しながら、隅々まで家を観察している。
彼女らしい行動に目を細めて見ていると、足元がグラッと揺れ始めた。
なんだ、これは………地面が動く……地震?!
「なんか揺れてる……?」
「ティータ!! そこは危ない、こっちに……!!」
俺は急いでティータに駆け寄ろうとした。
地震なんて初めて体験するけど、他の国では大きな被害を出している天災だってことは知っている。
だけど揺れは一瞬で、立ってられないくらいに大きくなった。
「きゃああ!! 怖いよハルトぉ!!」
「ティータ!!」
ティータの近くにあった資材が、落ちてくるのが見える。
俺は揺れる大地の中、無我夢中でティータに向かって走り出した。
***
痛い。
頭が割れそうだ。
ここはどこだ?
俺がうっすらと目を開けると、赤髪でそばかす顔の少女が泣きながら俺を見つめていた。
「はる……ハルト?!」
少女の第一声に、俺は顔を顰めた。頭に響く。ハルト……誰だ、それ。
「ハルトぉ……よか、よかったよぉ……」
周りがバタバタと騒がしくなり、髭の生えた男の人が入ってきた。
「おお、ハルトくん! 目を覚ましてよかった……!」
このお嬢さんといい、髭面の男性といい、身なりのいい人たちだ。
俺なんかとは住む世界が違う気がする。
しかしさっきから呼ばれているハルトって……誰のことだ?
「あの、もしかしてハルトって……俺のことですか……」
「……なにを言っているんだね、ハルトくん」
「ハルト?!」
声が頭に響いて痛い。高い音を出さないでほしい。
「どうしたの、ハルト……! 頭打って、おかしくなっちゃったの?!」
「誰だか知らないけど、そのキンキン響く声を出すのをやめてくれないか……」
「……っ! 私……ティータだよ……」
そばかす顔の女の子は、さっきよりも声を落としてそう言った。
ティータ……誰だそれは。聞いたこともない。
「ティータ、だよぉ……っ」
ずっと泣き通しだった女の子は自分の名前を告げながら、さらに大粒の涙を流し続けていた。
医師が来ると、俺はさまざまな質問をされた。
日常生活は覚えているのに、人の名前と顔は誰一人として思い出せなかった。
俺自身のことも。
医者には記憶喪失だと言われた。
記憶は戻るかもしれないし、一生戻らないかもしれない、と。
俺はどうやらハルトという名前で、エッソルト伯爵邸の庭師らしい。住む世界が違うと感じたのは当たっていたようだ。
だけど平民であるはずなのに、なぜか伯爵令嬢であるティータ・エッソルトとは婚約関係にあるとかで。
一体なんの冗談だ?
伯爵令嬢と結婚なんて、きっと騙されてる。
今の俺が騙されてるのか、それとも記憶を失う前から騙されて結婚させられようとしていたのか。
どっちにしろ、普通は平民と貴族の結婚なんてありえない。
あんな愛らしい顔をしているのに、とんだ悪女だ。
お嬢様はいつも帳簿と睨めっこしながらなにかを書き込んでいる。普通、令嬢があんなことをするものか。
伯爵が娘に二重帳簿をつけさせているとしか思えない。
平民の俺と結婚させ、しでかした悪事を全部俺のせいにして、罪を着せるつもりだったんだろう。トカゲの尻尾切りのように、使い捨ての駒にされるに違いない。
そうはいくか。悪党どもの身代わりなんてまっぴらごめんだ。利用価値があると思わせておいて、怪我が治ったらここから逃げ出そう。
俺は少しでもお金を貯めるために、動けるようになるとすぐ働き始めた。
伯爵とお嬢様はもっと休んだ方がいいと言っていたが、その手には乗るものか。
二重帳簿がバレた時のために、俺を手放すまいとしているのがありありとしてわかる。
もしかして処刑ものなのだろうか。冗談じゃない。記憶をなくす前の俺は、どれだけお人好しだったんだ。
怪我は大丈夫かと話しかけてくれる人たちも、みんな悪者に見える。
俺の味方は誰なのか、わからない。そもそも、俺に味方なんかいるのだろうか。
自分のことなのに、それすらも知らない。もどかしくてやりきれない中、仕事だけを続ける。
「ハルト、お茶しよう?」
休憩時間になると、必ずこのお嬢様は俺を誘いにやってくる。
俺を繋ぎ止めようと必死だな……と心でため息をついて、顔では無理やり微笑んでみせた。
園庭にあるガゼボに紅茶とクッキーが用意されていて、それをお嬢様と一緒に食べるのが日課だ。
「ハルト、無理しないでね?」
「してません」
「うん……なら、いいんだ。本当に、ごめんね」
俺を処刑台に立たせる罪悪感のためか、お嬢様はことあるごとに謝ってくる。
ああ、鬱陶しい。早くこの屋敷から出て行きたい。
そう思いながら、ハート型のクッキーを口に頬張る。
「……うまい」
「ほんとう?!」
お嬢様の顔がパッと輝いた。なぜか俺の胸がドクンと音を立てて膨張する。
「ええ、うまいですけど……それがなにか?」
「それね、私が作ったんだぁ。ハルトが元気になりますようにって、心を込めて作ったんだよ」
さぁっと風が吹き抜けて、お嬢様の赤い髪がなびいた。
嬉しそうなそばかすの笑顔が、俺の胸に入り込んでくる。
そうか、こうやって記憶喪失前の俺を取り込んでいったんだな。
伯爵令嬢が料理やお菓子作りをするなんて、普通有り得ない。騙されるな、俺。
給金をもらえる日までの辛抱だ。
エッソルト伯爵やお嬢様は、平民の俺に対して好待遇をしてくれていて、いっそう怪しさが募った。
毎日甲斐甲斐しく俺の元に来ては、「ハルト、ハルトぉ」と嬉しそうに俺の名前を呼ぶお嬢様。
だめだ、勘違いしてしまいそうになる。
お嬢様に……ティータに見つめられるたび。俺を騙そうとしているんだと思うたび。胸が苦しくなって。
正直、ティータはかわいいと思う。
記憶のなくなった俺に、一人一人名前を教えてくれて。
困ったことがないかと心配してくれて。
「大丈夫だよ」って安心を与えてくれて。
そしていつも「ごめんね」と謝っている。
悪女なんかじゃなく、本当は優しい人なのかもしれない……そんな可能性を考えてしまう。
だとすると平民の俺と結婚する意味がわからなくなり、やっぱり悪女なのだというところに帰結した。
一ヶ月が経って、給金が支払われた。
記憶を失う前にいくらもらっていたのか知らないが、怪我のこともあってか、それとも罠に嵌めて逃さぬようにするためか、驚くほどのお金が入っていた。
これだけ有れば、町を出られる。
記憶のない俺は、人に話しかけられるたびにビクビクしていた。どういう知り合いなのかわからないというのは、本当に怖いことだった。
俺のことを誰も知らない土地に行って、すべてやり直そう。その方がきっと精神衛生上、良いに決まっている。
急いで荷造りをしていると、なにかを察したのかティータがやってきた。
「なにしてるの、ハルト……」
不安そうな声。
そりゃ、罪を肩代わりしてくれる人がいなくなれば、そんな声も出すよな。
「出て行くんです」
見られてしまっては誤魔化しようがないと、俺は素直に答えた。
「出て行く……どうして……? ハルトと私は、婚約してるのに……」
「それは、記憶を失う前の俺とでしょう。俺はそんなもの、した覚えはない」
「で、でも……」
どうしたんだと周りに人が集まってきた。
早く出ていかないと、取り押さえられたら俺の人生が終わってしまう。
「必死ですね、お嬢様? そんなに俺の利用価値は高いんですか?」
「なに、言ってるの……? 私はただ、ハルトと結婚したくて……」
「俺はしたくないと言ってるんです! あなたとの婚約は破棄させてもらう!!」
俺が強く言い放つと、目の前にいる砂糖菓子のようなお嬢様は、ふにゃりと泣きそうな顔をしていた。
「泣き落としなんかききませんからね。泣くなんて……ずるい人のすることだ」
俺の言葉に、お嬢様は唇を噛んでグッと涙を我慢している。
よかった、泣いてない。
お嬢様の涙は苦手だ。見ると苦しくなって……耐えられなくなってしまうから。
「どこ、行っちゃうの……?」
「教えませんよ。どこか別の町には違いないですが」
「そ、っかぁ……」
喉をひっくとならしながらも、涙は溢れる寸前で耐えている。
「ごめん、ねぇ……私、ハルトの笑った顔が、だぁい好きだったから……また心から笑ってもらえるようにって、がんばったんだけど……っ」
涙をいっぱいためて、それでも堪えているお嬢様の顔を見る。
「私、こんなだからぁ……っ! ハルトが、笑ってくれないと、悲しいから……」
「お嬢さ……」
「新しい場所で、ハルトが笑ってくれるのを、願ってるから……」
お嬢様の言葉に、なぜか心が揺らぐ。
どうして。
俺を止めようとしないんだ。
拘束しないんだ。
どうして。
こんなに胸が苦しいんだ。
俺はそれ以上お嬢様の顔を見ずに荷物を鞄に詰め込むと、逃げるように屋敷を出ようとした。
「ハルトくん!」
さすがに簡単に出させてはもらえないかと振り返る。
そこにはエッソルト伯爵がいて、俺は身構えた。
「ティータとは婚約破棄をして出て行くと……本当かね?!」
「……はい」
「止めても無駄なのかい……?」
「ええ」
無表情に俺が答えると、エッソルト伯爵はガックリと肩を落としていた。
「そう、か……君の人生だ。なにも言うまい。ハルトくんには申し訳ないことをしてしまった。これは慰謝料と思って受け取ってくれ」
そう言って渡された封筒はぶ厚く、俺は困惑しながらも受け取ってしまった。
どういうことだ?
連れ戻される風もなく、勝手に婚約破棄をした有責で賠償を求められるどころか、慰謝料をくれるとは。
伯爵に背を向けると、後ろから優しい声が響いた。
「なにか困ったことがあれば、いつでもうちに来なさい」
夕日に向かって歩き出した俺は、赤い光に照らされながら封筒を握りしめる。
どうして俺は泣いているんだろう。
本当に彼らは悪党だったのだろうか。
これは俺を戻らせるための常套手段なのか、それとも……。
伯爵は、ティータは。
俺の消えた記憶の中では、どういう人たちだったんだろうか。
わからなくては、後悔もできやしない。
俺はわけもわからず、ただただ涙を流しながら、町を後にした。
***
新しい町ではうまくやっていけている。
といっても、ティータのいた町から十数キロ離れただけの隣町だ。
誰も俺を知らないというのは、逆に気が楽だった。
ゼロから築いた人間関係というのは安心できる。
仕事は、ローズガーデンギルドに所属して、そこから派遣されている。
一般家庭から貴族の庭の手伝いまで、さまざまだ。やりがいはある。
エッソルト伯爵家の時のような、お抱え庭師を懐かしく思うこともあるが。
ティータ……不思議な子だった。
なぜか彼女を思うと、胸が痛む。
泣くのを精一杯我慢して、俺を送り出してくれたティータ。
俺の笑顔を願ってくれた、かわいらしい少女。
会いたい。
そう思うのは今の俺なのか、記憶を無くした俺なのか。
体がどうしようもなく訴えてくることがある。あの屋敷に帰りたいと。
ティータの顔を思い浮かべながら、派遣先で休憩のお茶を飲んでいると、依頼主が話しかけてきた。
「隣町のエッソルト伯爵にティータって令嬢がいるのは知ってるかい?」
「ええ、知ってますけど」
「なんとその令嬢、まーた婚約破棄されたようだよ! これで五回目!」
ティータが婚約破棄された。これで、五回目。
“ハルトぉ。私、こんやくはき、されちゃった”
頭の中に、そんなティータの姿が思い浮かんだ。
それも、やけにリアルに。
「平民と結婚しようとしたこともあるらしいぞ、この令嬢。なのに平民にまで婚約破棄をされるだなんて、よっぽどなんだなその令嬢は!」
わははとティータを笑う依頼主を見ると、自然と頭に血が昇っていた。
「違う。ティータは誰より、誰より純真なだけなんだ! それを理解できない男の方に見る目がない!」
思わず叫んだ俺の声に、依頼者はポカンと口を開けている。
なに、言ってるんだ、俺……。
婚約破棄をした俺に、こんなことを言う権利なんか……。
ああ、でもなぜだか込み上げてくる。
そして自分の言ったことに、心は納得していた。
そう、ティータは誰より純真だった。
俺に向けられた言葉に、悪意なんかこれっぽっちもなかったじゃないか。
どうして俺はそれに気づかなかったんだ!!
「すみません! 俺、用事を思い出したんで今日はここまででお願いします!」
「ああ、別に今月中に終わらせてくれればいいから、それは構わないが……」
「失礼します!!」
俺はその足で乗合馬車に駆け込むと、ティータの住む町に向かった。
エッソルト邸に着く頃には陽が傾き始めていて、ちょうど伯爵が仕事から戻ってきたところだった。
「ハルトくんか! 久しぶりだね。元気にしていたかい」
「エッソルト伯爵、ご無沙汰しています」
「なにか困りごとかね?」
「いえ、あの、ティータが……お嬢様が、婚約破棄されたと聞きまして……」
「ああ、それか……」
エッソルト伯爵はそう言いながら邸内へと続く門をくぐり、俺も促されて足を踏み入れた。
ここの庭園は、なんだかホッとする。
「あれから、なんとか婚約に辿りつけられた人がいたんだが……結果はいつも通りだ」
「そう、ですか……あの、もしよろしければ、お嬢様に会わせてもらえませんか? こんなことを頼めた義理ではないとわかっているんですが、居ても立ってもいられなくて」
「ハルトくん……君、記憶が戻ったのかね?」
「いえ、戻ってはないです。けど、お嬢様が気になって……」
「そうか……こっちだ」
エッソルト伯爵は屋敷の玄関には向かわず、道を逸れた。
伯爵自慢の庭園。そこには、いつもティータと一緒にお茶をしていたガゼボがある。
「君が出て行ったあの日から、ティータは仕事を終えると毎日のようにああしているんだよ」
テーブルに突っ伏して動こうとしないティータ。
伯爵はティータを見て息をひとつ吐くと、
「じゃあ、ゆっくりしていきたまえ。私は屋敷にいるから、またいつでも声をかけておくれ」
と言って屋敷の方に戻っていった。
ティータはテーブルに頭をつけたままで、俺の存在に気づいていない。
泣いているんだろうか。
俺は彼女にそっと近寄った。
「こんやくはき、こんやくはきされちゃった……」
ティータの独り言が聞こえてくる。傷ついた心が届いてくるようで、俺の胸も痛くなる。
「また婚約破棄されたそうですね。そんなに好きな相手だったんですか?」
「ううん。今回の人はよく知らない人だったから……」
「じゃあ、どうしてそんなに塞いでるんですか」
「それは、ハルトに嫌われて……え、ハルトぉ?!」
顔を上げたティータが俺を見て目を丸め、慌てて涙を拭っている。
「どうして、ここに……? 記憶、戻ったの?!」
「いや、戻ってないんだ……でも、ここに来なきゃいけないと思った」
「どう、して……?」
俺が『泣くなんてずるい人のすることだ』と言ったせいか、ティータは必死になって涙を止めている。
誰よりも純真な人。そんな彼女に触れたくて仕方がない。
ああ、俺は。
彼女が……ティータのことが好きなんだ。
どうして気づかなかったんだろう。
どうしてこんなにも心の美しい人を、悪人だと勘違いしてしまったんだろう。
記憶を失った過去の俺が、ティータのことをどう思っていたのかは知らない。
けど、俺は今ハッキリと言える。
ティータのことを、誰より愛おしく想っているんだって。
この子の笑顔を、俺が引き出してやりたいって。
「俺は、ティータを愛しているって気づいたんだ……!」
唐突の告白に、ティータはぽかんと俺を見上げた。
「ほん……とう?」
「ああ……酷いことをして本当にごめん。今さらこんなこと言える立場じゃないってわかってるけど──」
「私のこと、好き?」
ティータの言葉に遮られた俺は、強く首肯した。
その瞬間、ティータのつぶらな瞳から、ぼたぼたと雨のような涙が溢れ始める。
「う、泣いちゃだめぇ……ハルトに、嫌われちゃう……」
「嫌わない。泣いてもいいよ。感情を素直に表せられるのが、ティータのいいところだから」
「ハルト……?」
「これからは絶対に、君を最高の笑顔にし続けてみせるから……どうか俺と、もう一度結婚を考えてもらえませんか」
俺の言葉にティータの顔は一気に崩れて、「うわぁぁあああん!!」と屋敷に聞こえるほどの大泣きを始めた。
そっとそばに近寄ると飛びついてきて、俺はぎゅうっとティータを抱きしめ返す。
「ハルト、ハルトぉ……もうどこにも行かないでぇ……っ!」
「わかってる……約束する……!!」
もう二度と、ティータにこんな思いはさせるもんか。
「どこにも行かない……ティータのことも、二度と忘れたりしない……!!」
「わぁあああん!! ハルト、ハルトぉぉお!!」
子どものように泣くティータが落ち着くまで、俺はずっと抱きしめ続けた。
やがてそれも落ち着くと、夢の中にいるような面持ちで俺を見上げる。
「夢じゃない、よね……?」
「夢じゃない」
「よかったぁ……」
そう言って微笑む愛らしい顔を見て、ようやく一歩進めたんだと実感する。
「あ、ハルト、笑ったぁ!」
「え?」
「心から笑ってくれたの、あの日から初めてだよ」
そう言うティータも、満面に笑みが広がっていく。
ここにいた時の俺の笑顔が貼り付けられたものだと、ティータは気づいていたんだな。
「ティータも、心から笑ってくれた」
「えへへ……だって、嬉しいんだ……」
俺たちは目を合わせると、同時に声を上げて笑ってしまった。
ああ、ティータが笑ってくれた。それだけで、こんなにも満たされる。
「ティータ」
「ハルト……」
そして俺たちは、どちらからともなく唇を寄せ合った。
いつの間にか来ていた髭面の旦那様が、少し複雑そうな顔をして、それでも嬉しそうに笑っていた。
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