黄金の村の神様と豊穣の歌姫
強い風が、私の意識を勢いよく上空へと舞い上げる。
太陽の熱もだいぶ落ち着き始め、涼しい風が私の意識を優しく撫でる。心地よさに身をまかせつつ視線を落とすと、眼下には黄金色の風景が広がっていた。
風が吹くたび、実った麦穂が舞うように揺れている。
麦穂の舞を見ていると、私の心も踊る。ヴィア村の小麦もそろそろ収穫時期に入る。
小麦の収穫が終われば、ヴィア村では村民総出の豊穣祭が行われる。
私がこの地に居座って、すでに千年は経っただろうか。
ここ数十年、戦争も無ければ飢饉も無い。今年の麦穂を見る限り、近年にないくらいの豊作だろう。豊穣祭も盛大なものになるに違いない。
上質な小麦で作ったパンに羊肉の燻製。麦酒に蒸留した強い酒。美しい女達の歌や舞。この土地に宿る豊穣の神に捧げる宴だ。豊穣の神とは他ならぬ私の事だが。
私がしたことと言うと、この地に良い作物が出来るよう祝福した位だ。開墾し、作物を植え、ここまで村を発展させたのは私ではない。今、ヴィア村で生きている人間たちの先祖なのだ。
……まあ難しいことを考えるのは止めよう。
村人の好意は遠慮なく受け取らないといかん。
さて、今年は何の姿を借りようか。ネズミか? ウサギか? いや、小さな動物はやめておこう。何度か宴の最中に踏み潰されそうになった。
そうだ。久しぶりに人の姿を借りよう。二本足で歩くのは少々難儀だが、たまには人の身で豊穣祭を楽しむのも良いかもしれぬ。
ふふ。今から胸の高鳴りが止まらぬ。
強い風が吹き、麦穂が一斉に大きく倒れる。早く来いと私を誘っているようだった。
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土の香りを含んだ涼しい風が、遠くに見えるヴィア村の麦穂を揺らした。すでに麦穂もほとんどが刈り取られ、残りも収穫されるのを待つばかりだ。これで上空からの夢のような景色も見納めだが、無事収穫ができることは、何よりも嬉しいことだ。私の足取りも弾む。
地に這う虫や小さな花を踏まぬようにひょい、と跨ぐ。土が適度に湿っており、冷たく気持ちが良い。そのまま軽快に歩く。
ところで……。
人の身になったはいいが、二本足はやはり難儀する。歩きにくいのもそうだが、足の裏で小石を踏むと少し痛い。
夕暮れも近いこの時間は、空気も冷たく体毛の少ないこの体ではちと寒い。
「ふ、む、これは、難儀、だ。うぐむ……」
思ったことを口にすると、潰される寸前の羊のような声が私の耳に届いた。
人の姿を借りるのは久しぶりだ。声の出し方など忘れてしまった。宴で歌う女達の声はあんなにも美しいというのに……。
「あ、ああ、あー」と、今度は雨が降った後のかえるのような声を出していると、どこからか風に乗り歌声が聞こえてきた。
はて? まだここは村の外だ。豊穣祭が迫るこの時間に、こんな所に人がいるとは思わなかったが……。
それにしても美しい声だ。
誘われるように、歌声に近づいていくと、西に傾く太陽の日差しに同化するように一人の女が歌っていた。
麦穂と同じ色の黄金色の髪の毛は、日差しに照らされ上質の絹糸のように輝いている。風にさらわれ、さらりと流れる髪の毛は、澄んだ水面を連想させる。
もっと聞きたい欲求にかられ、近づいていくと女は歌を止め私を見た。
口に手を当て、大きく目を見開いている。
「あなた!」
女はそう叫ぶと、すぐさま走り寄ってきた。私の肩を掴むとまじまじと顔を見つめた。
大きな瞳からは驚きの色が読み取れた。まだ幼さの残る風貌だったが、後、数年もすれば美しい女になりそうだ。肌は日に焼けていたが、艶っぽい肌はつい触れたくなる衝動に駆られる。
「一体どうしたの! 裸じゃないの! 盗賊に襲われたの?」
そうか、しまった。人は服を着るのだった。
「ああ、心配しなくてもよいぞ。このまま素肌で村の雰囲気を感じるのもまた一興だ。ちと寒いがな」
「何言ってるの? 女性なのに……。とにかく私の家に行きましょう」
女は私に覆いかぶさるようにしながら、村の入り口まで私を連れていった。麦畑の側にあった収穫用の麻袋を豪快に破り、一枚にすると私の体に被せた。強く手を握り周りを気にしながら歩き始める。
まったく。話を聞かない女だ。
それにしても、麻袋のささくれがチクチクとくすぐったい。
「うふふ」
思わず笑ってしまうと、女は訝しげに目を細くした。
ころころと変わる表情は可愛らしい。無造作に麻紐で括り背中に流れている黄金色の髪が麦穂と同じように輝いていた。
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「とにかくそこに座って」
促されるまま、イスに座らされた。
「まったく、なんて格好で歩いてるのよ。信じられない」
女はぶつぶつ言いながら、何やら木箱を弄っているようだ。
「だから言ったであろう。この村の雰囲気を肌で感じたかったのだ」
「もう近隣の村からたくさん人が集まっているのよ。あっちの方角は街道が無いから人は少ないけど……。あなたみたいな綺麗な人があんな格好で歩いていたら襲われちゃうよ」
本当に話を聞かない女だな。
ふむ、しかし、綺麗か。そうだな、そのように化けたのだ。女の姿であった方が宴では何かと好都合だ。酒に酔った男共が、これでもかと酒と肉をご馳走してくれるからな。
「私の名前はエルマ。あなたは?」
エルマと名乗った女は、木箱からほっそりとした青い生地のワンピースを取り出した。それを私に突きつける。着ろ、と言うことだろうか。
「私の名前は……うーむ」
そういえば、私には名前などないのだ。名を呼んでもらうことなどなかったし、必要なかったからだ。
「うーむ。そうだな、私の名前はヴィアとしておこう」
そう言いながら私はワンピースを被るように着る。さらり、とした感触が全身を包む。
ふむ。服など動きにくく邪魔だと思っていたが、着てみるとなかなか肌触りがよい。
「ヴィア……この村の名前と同じだね、それにしても……」
エルマは青い瞳を少し濡らし、愛おしそうに私の肩を撫でた。
「お姉ちゃんみたい」
エルマは私の顔をまじまじと見つめる。青色の瞳が涙に濡れ、宝石のように輝いていた。
「ちょっと、後ろ向いて」
エルマは私の両肩を持つと、くるりと反転させた。そのまま、私の髪の毛をさするように撫で、何やら編み始めた。
「おいおい、何をしている」
「ちょっと待って、動かないで」
私は「むぅ」と、小さく不満を漏らしつつ、されるがままにしていた。しばらくすると、エルマはまたも器用に私の体を自分の方へ向ける。
「本当にお姉ちゃんにそっくり……」
エルマはグズグズと鼻を鳴らすと、指で目頭にたまった涙を拭った。
後ろ手で背中を触ると、長くさらりとしていた髪の毛が、一本の縄のように編み込まれている。頭を振ってみても髪の毛が散らばらずまとまっている。
「あ、ゴメンね。つい……嫌だったらほどくから」
「ううむ……なんだか、頭の皮が引っ張られているようで気持ちが悪い。解いてよいか?」
麻紐を解くと、まとまった髪の毛がふわり、と散らばる。
「この方が良い」
エルマは私と目が合うと、寂しそうに微笑んだ。
「どうかしたのか?」
「あ、ううん。なんでもない。ああ、そうだ。ヴィアさんもこの村の豊穣祭に?」
「ああ、そうだ。この村の豊穣祭は一年で一番の楽しみだ。酒と食い物を味わいながら見る神にささげる歌と舞は格別だ」
「そうだったの……だったらゴメン。今年の歌はあんまり期待しないほうがいいかも」
「……なぜだ?」
エルマは私の言葉に身をすくめた。怒られた子供のように、上目使いに私を見ている。
「今年の歌い手は……わ、私だから」
「そうか! おぬしが……。しかし、それが何か問題か? たしか、豊穣祭での歌い手は村の総意で決まるはずであったが……」
豊穣際では途中、私に捧げる歌と踊りが行われる。男たちが楽器を掻き鳴らし、女たちが歌と舞を披露する。それまでは、酒と食い物に心を奪われていた村の人間たちも、しばらくの間、歌と舞に心を奪われる。それもそのはず。今年、ヴィア村で一番の歌い手と舞い手が神の前で自らを披露するのだ。それを見る為、近隣の村からも人が集まる。
と、言うことはエルマがこの村一番の歌い手のはずだ。
「歌ってみてくれぬか?」
「え?」
「こうして縁があったのだ。豊穣祭の前にそなたの声を一人占めしたい、と思うのはわがまま過ぎるか?」
エルマは何かを言いたそうに、口を開きかけた。手を胸の前に持ってくると、一つ息を吐いた。
「ええ。分かった。聞いて」
そう言うと、エルマは大きく深呼吸をした。
エルマの歌声は、早朝の水面のように澄んでいた。清らかで濁りのない歌声は称賛に値する。
……だが。
「足りぬ」
思わず、そう漏らしてしまった。
確かに耳触りは良い。しかし、ただそれだけであった。
エルマは歌いながらも、私の声が耳に入っていたようだ。歌うことを止め、目を大きく見開き、唇を震わせている。
「すまぬ。失言だった」
私がそう言った後も、エルマは歌を再開できずにいた。
「ヴィアさん。私ちょっと用事思い出したから……」
エルマは私の顔を見ずに、そそくさと家を飛び出して行った。
イスの背もたれに深く座るとぎしり、と音を立てた。天井を見上げる。
「ふぅむ。いらぬことを言ってしまったようだ」
エルマが出て行った扉から隙間風が入り込んできた。ワンピースの裾が静かに揺れていた。
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すでに西の空には、赤く熟れたリンゴのような太陽が地平線に沈もうとしていた。
ヴィア村の各所には松明が掲げられ、夜に向けた準備も整っているようだ。既に村の広場には酒や食べ物が運び込まれており、気が早い男たちが既に酒盛りを始めていた。
村の人間たちだけではなく、近隣の村の人間たちも集まっているようだ。尋常ではないくらいの酒や食べ物がそれを物語っている。村の中心で存在感を放っている社にも酒と食べ物が運び込まれていった。豊穣祭の最中、社の中に神が降りると言う。まあ、実際はふらふらと出歩いているわけだが。
エルマが家を飛び出してから、だいぶ時間が経つ。しばらく待ってはいたが、なかなか戻ってこないため、こうして探しに来たわけだったが……。
「ふぅむ。広すぎてどこに行ったのか分からぬ」
現在のヴィア村は麦畑もそうだが、家畜の放牧地や住居などでかなりの面積を誇る。この地に村が作られた時は、人々の顔も覚えていたものだったが、今ではさすがに多すぎて分からぬ。細かくは知らぬが、人口も千人は超えているだろう。すでに村と言うよりも「都市」と言った方が良いかもしれないが、ヴィア村では特にそういった感じは見られない。
「ふう。疲れた。パンと酒が欲しい」
太ももがだるくなり、その場に座り込む。すると目の前から、人が二人も入ってしまうような、大きな小麦の麻袋を二つ、両肩に抱えた女が歩いてきた。
「そこの者。ちとこっちへ」
一人で探すより、誰かにエルマの行き先を聞いた方が早いかもしれん。
女は私に気が付くと、地鳴りのような足音と共に近寄ってきた。目の前まで来るとフンッ、と大きな鼻息を出して私を見降ろした。
なんとでかい女だ。私の三倍はあるのではないか?
でかい女は、私を見ると大げさに目と口を大きく開けた。肩に抱いた麻袋をドスン、と地面に下ろした。
「カミラ……ちゃん!」
でかい女は私の肩を思い切り掴んだ。なんて力だ。
「痛いではないか。それに私はカミラと言う名前ではない。私は……えっと、ああ、そうだ。ヴィアと言う」
「この村の名前と一緒……そうだよね。カミラちゃんはもう……つい、似てたから」
エルマも私も見て、姉に似ていると言っていたな。
「カミラとはエルマの姉の名前か?」
「ああ、そうだよ。あなたエルマちゃんの知り合い? この村の人間ではないみたいだけど」
「ああ、先ほど知り合った」
「そうなの……二人は仲の良い姉妹だったんだけどね。カミラちゃんは去年病気で、ね……」
でかい女は、眉尻を下げ、悲痛な面持ちで視線を下ろした。
ふむ。そうだったか。そのような事情があったのだな。
「ところで、そなた。エルマを見なかったか?」
「エルマちゃん? ああ、そういえば、さっき丘の方へ走って行ったけど……」
でかい女は小高い丘の方を指さした。
「そうか。呼び止めてすまなかった」
丘の方へ歩き始めようとすると、「ねえ、あんた」とでかい女に呼び止められた。
「うむ?」
「エルマちゃん。今年の歌い手に選ばれたことで悩んでるみたいだからさ。いろいろ話聞いておくれよ」
「ああ、分かっている」
でかい女は満面の笑みで私を見送った。
太陽は完全に地平線に沈み、辺りは徐々に暗くなっていく。
後、数時間もすれば豊穣際も始まるだろう。私は小走りで丘へと向かった。
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「ふう。太ももがだるい。腰が痛い」
すでに、辺りは暗闇に覆われている。気をつけないと、地面の石などに足を取られてしまう。空には星が見え始め、月が輝きを増していった。
まったく、人はこんな不便な体で生活しておるのか。まあ、だからこそ不便を解消しようと、文明を築いていったのだと思うが。
だるい太ももをさすりながら、坂道を登っていくと、開けた高台に出た。高台からは松明に照らされたヴィア村が一望できる。
ここまで登ってくる間に汗をかいてしまったが、さわやかな風が私の体を通り抜け、何とも言えない清涼感が感じられた。
丘の一番高い所に、人の腰ほどの高さの石が大地に突き刺さっていた。そこにエルマが佇んでいた。
「エルマ」
静かに声をかけると、ゆっくりとエルマがこちらへ振り返った。その表情からは感情の色は失われていた。
エルマは私に返事をせず、再び前を向いた。
「カミラの墓か?」
私はカミラの墓の前まで行き、ひざまずいた。手を組み合わせ祈る。
すると、エルマは静かに口を開いた。
「ヴィアさん。毎年、豊穣際には来ているんでしょう? 去年と比べて私の歌はどうだった?」
エルマの声が震える。
「声はまるで鳥が奏でるかのような、美しいものだった、しかし、去年、いや、これまでと比べて心に訴えかけるものは無かった」
お世辞を言っても仕方あるまい。私は正直な感想を述べた。
エルマは口を引き結び、肩を震わせた。
「お姉ちゃんはね、去年まで歌い手を務めていたの。でも、あんなことになっちゃって……村のみんなが私を歌い手に選んでくれたときは頑張ろうと思った。お姉ちゃんの分まで。でも、駄目だった。私、お姉ちゃんみたいにはなれない」
「何故だ? そなたの声はとても美しいものだった」
「でも、駄目なんでしょう!」
エルマの声が夕暮れに響いた。
「お姉ちゃんのように歌おうとしたけど出来なかった! お姉ちゃんのような表情で。お姉ちゃんのような立ち振る舞いで! でも、駄目だったの。私もう歌えないよ!」
エルマはカミラの墓に抱きつき、泣きじゃくっている。
背後からの村の楽しげな音と、悲痛なエルマの泣き声が対照的だった。
「エルマよ。今から話すのは私の独り言だ。聞いてもらってもよいし、五月蠅いと思えば立ち去ってもらってもかまわん」
エルマはカミラの墓に抱きつきながら、まだ嗚咽を漏らしている。
「もう千年も前になるだろうか。ある意識が突然芽生えた」
立ち上がり振り返ると、ヴィア村の人間たちが豊穣祭の準備に追われている様子が確認できた。
「その意識は生まれた土地に祝福を与えることにした。土地を肥えさせる祝福だ。まあ、自分が何者なのかも分からないし、特にやることも無かったのでな」
エルマは顔を上げ、私を見た。目は赤くはれ上がり、涙で顔中ぐちゃぐちゃだ。
「すると、どこからか数組の家族がこの土地に移り住んだ。家を立て、作物を植え、小さな村が出来上がっていった。数十年もすると、人もどんどん増え飛躍的に発展していった。すると、いつからだろうな。この時期に神に向けての祈りが行われるようになったのだ。ただ、ふわふわと宙を漂い、村を見守っていた意識は神になったのだ」
エルマはまだ不思議そうに私を見ていた。しかし、その表情は寝床で母に神話の続きをねだる子供のようにも見えた。
「神は崇められることに対しては少しむず痒かったが、心底嬉しかった。その後も、戦争や疫病など、村存続の危機の訪れ。農法やこの土地に住む人間の考え方……様々なものが変わっていったが、神を崇める思いだけはいつまでも変わらなかった。毎年育つ、この村の小麦のようにな」
エルマは私を見据えながら、一つコクリ、と頷いた。私はしゃがみ、エルマの涙を指ですくった。暖かい涙は指を伝い地に落ちた。頬を撫でると、安心したように穏やかに目を閉じる。
「そなたは何故歌うのだ?」
「そんなの……歌が好きだからに決まってる。それに、私はこの村が好き。神様に報告するのよ。この村の事、私の事。一年でこんなことがありましたって……。みんなもそうだと思う。舞で、楽器で」
「分かっているではないか」
立ち上がると、エルマは名残惜しそうに私を見た。私の姿にカミラを重ねているのだろう。
「カミラのように歌う必要はない。そなたはそなただ。カミラの……これまで生きてきた人間の思いだけを受け継ぎ、歌えば良いのだ。その思いを感じることができれば、私は嬉しい」
エルマは、はっとして私を見た。
「もしかして、あなたは……」
もう何も言うことはあるまい。
空を仰ぐと、満天の星空が私の視界を埋めつくした。この星空は千年前から何も変わらぬ。変わっていくものと、変わらぬもの。どちらも、美しいと感じ楽しめることが私は嬉しい。澄んだ空気と、背後から聞こえる人々の楽しげな声を一息に吸い込んだ。
私の体は光る粒子となり、少しずつ風にさらわれ、らせん状に空へと立ち昇っていく。人の身を離れ、私の意識が宙に解き放たれる。
光る粒子が、空に浮かぶ星空と混ざり合い、無数に輝きうねる。それがこの世界に生きる人々の思いにも見え胸が張り裂けそうになった。
□□□□□□
空には小さく輝く無数の星と、見事な丸い月が浮かんでいた。地上ではヴィア村だけが暗闇を切り開くかのように煌々と明かりに満ちていた。
上空に漂っていても、人々の楽しげな声が聞こえてくるようだ。
そろそろか。
星空の空中遊泳も一区切りつけよう。私はヴィア村に下り、社の中へと入った。
社の中には、ヴィア村で今年作られた小麦のパンや、麦酒などが祭られていた。
今一度、人の姿を借りる。パンを取り一口かじる。豊潤な香りが鼻を抜ける。
やはり美味い。
こうして味わってみると感慨深いものがある。
初めて、この村で作られたパンを口にしたときは、お世辞にも良い物とは思えなかった。しかし、長い年月を経てここまでの味になったのだ。
来年は、もっと良いものになっていくだろう。再来年も、その次の年も。
ヴィア村の今後に考えを巡らせていると、社の外の喧騒が止んだ。少しすると、しん、とした静寂の中、控えめに楽器の音が鳴り始めた。弦楽器や打楽器、管楽器の音なども私の耳に届いてくる。一見、統一性が無く、無茶苦茶な音に聞こえるが、私にはそれぞれの音が混じり合い、演奏者が一年間、ヴィア村で何を考え、どんな生活を送ってきたのかが良く分かる言葉のように思えた。
体の奥底から熱いものがこみ上げてくるようだ。ふと、窓の外に目をやると空を見上げなにやら思案にふけっている女がいた。エルマだ。
エルマは胸の前で手を組み、空を見上げていた。その瞳は力強さに溢れている。
心配はないだろう、とは思うがよく見ると組んだ手は震え、足元もおぼつかない様子だ。
全く世話が焼ける。
私は髪の毛を束ね、後ろで編んだ。祭られた麦穂を一房取ると、茎で髪をまとめた。
ふむ。やはり頭の皮が引っ張られてしまう。
その後、窓からするり、と体を滑らせ外に出て「エルマ」と声をかけた。
エルマは一度、体をビクつかせると、驚いた様子で私を見た。闇夜でも分かる綺麗な瞳を大きく見開く。
「お姉ちゃん」
そう言うと、何かを求めるように手を私に向け伸ばした。しかし、その手は私に触れることなく下ろされた。
「有難う」
それだけ言うと、エルマは立ち去っていく。
うむ。それで良い。これでもう、本当に心配はないだろう。
私は今一度、社の中へと戻ると、正面の扉の隙間から外を見た。
外では、美しい女たちが月明かりに照らされながら舞っていた。舞い手の体から発せられる情熱は私の心を捕える。月明かりに照らされ飛び散る汗が闇夜に溶け込み、幻想的な光景が視界に広がった。
次第に、楽器の音が一段と掻き鳴らされ、舞も激しいものになってくる。その中心にエルマがいた。エルマは何かを抱き寄せるように、ゆっくりと腕を広げた。
歌が始まる。
激しく掻き鳴らされていた楽器はエルマの声を邪魔することなく、穏やかなものへと変わっていく。
エルマの歌声はヴィア村を優しく包み込むように辺りに満ちていった。私の体に染み入り、意識に働きかける。エルマの思い、感情が手に取るように分かる。
素晴らしい歌だ。エルマよ。
いつまでも聞いていたい欲にかられるが、物事には終わりがある。だからこそ、次を待ちわび期待を持てるのだ。
歌が終わると同時に、エルマはその場にしゃがみこんだ。手で顔を覆い泣き崩れている。エルマの表情に悲壮感はない。とても晴れやかな顔だった。
今年も素晴らしい豊穣祭だった。
私の意識が夜空へと解き放たれる。
今後も、ヴィア村は様々なことがあるだろう。体を焦がすような幸福も、絶望も。変わっていくかもしれない。しかし、思いは紡がれていく。これまでの千年がそうだったように、これからの千年も。
「ふぅむ、そう言えば、今年はパンを一切れかじっただけだったな……まぁ、よいか」
ヴィア村の明かりは途切れることなく、闇夜に輝いていた。
「また来年。黄金色の季節に」
私は誰に言うでもなくそう呟いた。