夜よりも黒く、艶やかな
誰も居ないリビング。
カーテンが開いたままの窓から月が無人の部屋を覗いている。
つけっぱなしになっているテレビが暗い室内を照らしながら、地元のニュースを伝えていた。
『本日午後〇時頃、県道〇〇号線で乗用車が歩道に……』
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「お父さん……杏子、似合うでしょ?」
「……あぁ……綺麗だよ杏子」
母親に促され、父親が横たわる娘の、明るい色をつけたショートヘアを撫でた。
最初は恐る恐るだった手つきが、次第に確りとしたものへ変わっていく。
「くっ……ぐぅっ!」
娘の蒼い頬にポタリと、しずくが落ちた。
────霊安室。
夫の震える背中を妻が眺めている。椅子に腰掛けたその顔は、魂が抜けた様に表情を失っていた。
「遺留品です、お確かめください」
係員が娘の所持品を並べた。
バッグ、スマホ、コンパクト……
……その中にゴムで結わえられた黒髪の束が幾つか。
「……失礼ですが、こちらは?」
「娘は……び、美容室に……髪型を変えると……」
「伸ばした髪を医療用に寄付するんだって……そう言ってましたから、それで」
たどたどしい父親の後をうけて母親が説明を引き継いだ。
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薬品臭い小さな部屋はカーテンで区切られていた。
区切られたそれぞれの空間からは人の気配がする。
それは静かな寝息ではなかった。痛みに堪える呻きであったり、押し殺したすすり泣きであったりした。
(どうして……)
窓際のベッドに座ると、夜の闇を背景に自分の姿が映される。
カーテンを閉めてしまえば、見なくて済む。見たくもない自分の姿を。
少女の手はそれでもカーテンをつかもうとはしなかった。
治療の副作用で大量の髪が抜け落ちた。
泣きはらしたまぶたは擦り過ぎて赤く腫れている。
少女の手が、カーテンではなく自分の頭を触る。
途端にボタボタと涙がまたこぼれ落ちた。
────────
「ミィちゃん、ほら見て綺麗な髪よ」
母親の手が届けられたばかりのソレを持ち上げ、少女の頭に載せた。
櫛を使って調える。
「ほら、見てみて」
母親が手鏡を差し出した。
そこに映った顔を見て、少女は自分によく似た別人にしか思えなかった。
自分とは髪の質が違う。
大人の髪だと感じた。
「あ……ありがと……お母さん」
────厭だ。
他人の髪の毛が自分の頭に乗っかっている。
……気持ち悪い。
────────
「ミィちゃんきれい♪」
「ソレいいな~」
同じ部屋の女の子達が少女の“髪”をほめた。
「……ありがと」
皆が自分をいたわっている。
自分達だって辛い思いをしているのに、明るい顔で。
それを思うと厭だとは口に出来無い。少女は力無く微笑みを返した。
(私より辛いのに)
みじめだ。
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うぇええん!
びえぇーん!
外来の子供達は煩い。
(ちょっと痛いだけでしょ!)
注射一本で騒ぎ過ぎだ。
「びーびー煩ぇよなぁ、アイツら」
同室の男の子が呆れた様に云う。
「そうだね、こっちは……」
その先を口には出来無い。
皆、その言葉は聞きたくないから。
『……死ぬかもしれないのに』
ここに寝泊まりする誰もが、その言葉に恐怖している。
「なぁ、その髪」
「……なに?」
「厭なら外しちゃえよ」
「そんなこと無いよ」
「……そっか」
────────
厭だ。
厭だ。厭だ。
夜。トイレの洗面台に向かい、少女は自分を見た。
見慣れないソレを被る自分の顔。
その黒い毛の束が頬に当たると、見知らぬ他人に触られている様で鳥肌が立った。
無造作に掴むと頭から引き剥がす。
ところどころわずかに髪の残る頭が現れた。
「……っ!」
少女はソレを思い切り床に叩きつけた。
スリッパで何度も何度も踏みつける。
こぼれた涙が黒いソレに降る。
パジャマの袖で顔を拭った時……
……鏡の向こうに誰かがいた。
(え!?)
驚いて振り向く。
もう一度鏡を見返す。
────誰も居ない。
(……見間違い?)
幻だろうか?薬のなかにはそんな副作用があるものも有ると聞いている。
そんなものが自分に処方されているかどうか、少女は知らなかった。
一瞬の事だったが、その幻は長い髪の女の人に見えた。
(ひょっとしたら幽……)
そんなものは恐くない。少女は自分に言い聞かせた。
足許にある、黒いソレをもう一度見る。
今にも蠢きそうな……
拾いもせずにトイレを出ていった。
────────
少女の眠るベッド。
カーテンが開いたままの窓を背に、その女性は立っていた。
少女は、自分が起きて目を開けているのか、それとも夢を視ているのかはっきりとしなかった。
女性の顔は分からなかった。
多分知らない人。
長く、黒い艶やかな髪が流れる様に夜のわずかな光を照り返している。
怒っているのだろうか?
それとも悲しんでいるのだろうか?
女性は無言のままだった。
────────
朝、目が覚めると少女の枕元には黒いソレ。
踏みつけた汚れ一つ無い、櫛けずり手入れされた鬘。
看護師の夜間巡回で拾われたのだろう。
それともあの女性だろうか?
「ごめんなさい」
少女は流れる髪を撫でながら呟いた。
────────
数年後。
長く艶やかな髪をした若い女性がヘアサロンを訪ねた。
「思いっきりショートに!」
「ぇえ!?いいんですか?」
「あ、切った髪持ち帰ってもいいですか?寄付したいんで」
────────終