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流れ渡る彩りの花

作者: 赤瀬雪菜

琳夕(りんゆう)。あなただけでも…」

 優しく頬を撫でる母の顔を見ると泣きそうになった。

 母がどんな思いでそう言ってくれているのかがわかるだけに何も言うことができない。ただ、涙を堪えて母の顔を見つめる。その凛とした姿を目に焼き付けるために。

「琳夕」

 優しく名を呼ばれ、そちらの方を向くと歳の離れた兄たちが強く抱きしめてくれた。その力強さに弛みそうになる涙腺を懸命に堪える。

時間がないことはわかっている。それでも、離れがたくて。

 琥珀色の優しい瞳の奥に誰よりも強い意志を秘めていた父。その多忙な父の分まで愛情を持って育ててくれた母。そして一番近くで一番心配をかけてしまっていた兄たち。

 生まれてから今までの記憶が走馬灯のように浮かぶ。

 本当は自分も一緒に行きたかった。だがそんなことは言えなかった。これは国と私を思ってくれているからの行動。決断するまでにどれほど苦悩があったのか、想像に難くない。だから、自分の本音は胸の奥深くにしまっておく。――涙と一緒に。

「…そろそろ、お支度なさいませんと」

 そっとかけられた声に兄たちは込めていた力を抜いていく。完全に力が抜けてから、兄のもとを離れる。

 名残惜しそうな顔をしている二人の兄に精一杯の笑顔を向ける。今生の別れとは思いたくはない。だけど、自分は今から自分を捨てなくてはいけない。次に会えたとしても他人の振りをしなくはならない。できることなら、そんなことにはなりたくない。だけど、私が生き残るためにはそうしなければならなかった。

「琳夕。お前に一番辛い役を押し付けることになってしまってすまない。だが、これだけは憶えていて欲しい。…私たちはいつでもお前の幸せを祈っている。私がこんなことを言ってはいけないのだろうが…いざとなったら役目など捨てて生きなさい」

 それは父の立場からしたら絶対に言ってはいけない言葉。その言葉を慈愛に満ちた顔で言う父に堪え切れなくなった涙が頬を滑っていく。幾筋も流れていく雫を感じながらも私としての最後の言葉を紡ぐ。


 最後に見た家族の顔は満足そうな、それでいてとても心配そうにしている笑顔だった。



❀ ❀ ❀



長い山道をようやく抜け、眼下に広い海原が広がる。初めて見る海原にしばし見とれていたが、急いでいたことを思い出し慌てて足を動かす。

走りながら後ろを見るが、追手が来ている気配はない。

このまま逃げ切れるかと思った時、前方から人の気配がし、咄嗟に近くの林へと逃げ込む。

「…は?」

「まだ…い」

「こちらに…か?」

途切れ途切れに聞こえてくる声に心拍数が跳ね上がる。見つからないように気配を殺し、様子を見ていると話をしていた人たちは山の方へと駆けて行った。

完全に気配が遠のいたことを確認してから林から出る。そのまま周囲を見渡し、誰もいないことを確認してからなるべく足音を立てないようにして海原の方へ駆けて行く。

追手はもうすぐそこまで迫っている。一刻も早くこの国から出て行かなければならない。そのために船着き場へと向かっていた。

「…!」

船着き場が見えた時、見たくないものまで一緒に見えてしまった。――追手だ。船に乗ることを見越して先回りしたのだろう。桟橋には武器を持った男たちが十人程いた。

このままでは見つかってしまう。しかし、山に戻っても先程やりすごした追手と鉢合わせる可能性がある。どちらにしても状況は良いものではない。

 どうしたものかと思案していると桟橋に居た男の一人と目が合ってしまった。慌てて逃げようとしても既に遅かった。「見つけたぞ!」と叫ぶ男たちが一斉にこちらに向かってきている。走ってもすぐに捕まるだろうその数を見てある作戦が頭に浮かんだ。成功すれば船に乗れる。しかし、失敗すれば捕まってしまう。一か八かの賭けだ。

 迷っている暇はないと思い、踵を返して男たちの方に向かって駆けて行く。その突飛な行動に男たちは一瞬たじろいだ様子を見せたが、好都合だと思ったのか、先程よりも勢いを増してこちらに向かってくる。

 近づいてくる男たちに向かって腰に穿いていた刀を抜く。同時に男たちもそれぞれの得物を手に向かってくる。

 掛け声とともに振り下ろされる得物を自身の刀を使って防ぎ、男たちの間を器用にすり抜けて行く。が、避けきれなかった得物が肌を裂いていく。それでも構うことなく追手の間をすり抜けて行く。

 最後の斬撃を防ぎ、反撃してから小船に向かって全力で走って行く。

「逃がすな! 捕まえろ!!」

 男たちの怒声に怯むことなく小船に乗り込み、繋いでいたロープを斬り落とし、小船を波へと流す。追ってきた男たちの追おうと船に乗り込もうとした時、突風が吹き、男たちが乗ろうとしていた船が横転せんばかりに揺れる。

 風が止み、気がつくとかなり遠くまで進んでいた。このまま一気に逃げきろうとオールを漕ぎ始めた時、肩と背中に鋭い痛みが走った。痛みのある箇所に触れてみると矢が刺さっている。まさかと思い岸を見て青ざめた。幾人かがこちらに狙いを定め、今にも矢を放とうとしている。

 まずいと思い小船の中に身を隠す。動く度に激痛が走るが歯を食いしばり我慢する。

 そうやって追手からの攻撃から身を守っていると段々寒気がし始め、眠気まで襲ってきた。

 寝てはダメだと思うが酷使しすぎた身体は言うことを聞かず、ゆっくりと意識を手放してしまった。



❀ ❀ ❀



 久しぶりに出た城下はいつも通り活気に溢れていた。

 声を張り上げ商品を売り込む商人。引かれるように商人のもとへと行く一般国民。重い荷物を軽々と担ぎ、船へと運んで行く人々。それらはいつもと同じだった。違ったのは微かにした胸騒ぎだけ。いつもならこの風景を見て胸騒ぎなどしないはず。だが、今日は何かが起こる。そんな感覚がいつまでも消えない。気のせいと思い込めば思い込む程強くなっていく気配を探るように街に目を巡らしていく。が、別段変ったところは見受けられない。

 ただの気のせいかと思い、港の前を通った時、何かが視界の端に映った。

 それは意識を凝らさなければ見えない程の距離だったが、確かに目の端に映った。

 遠目から見ても鮮やかな緋色。それが岩に引っ掛かるようにして広がっている。一瞬大きな花かとも思った。確かめるようにその物体に近づいていくとそれが人だったことがわかる。身なりからしてこの国の者ではない。格好から見ると女性のようだ。

 疑問を確かめるようにその人物のすぐそばまで寄ってみる。岩が血で汚れていることからかなりの重傷を負っていることが知れた。他に何か身の上が証明できるものがないかと見回して見ると、着ている服に目が止まった。

「これは…」

 血で汚れてはいるが、着ているものからこの女性がどこの国の人物か知れた。

「…手当てが必要か…」

 紙のように白い顔をしてピクリとも動かない女性を抱え、あることを思い付いて不敵な笑みを浮かる。

 まずは手当て。そう思って彼は女性を抱えたまま歩き出した。


❀ ❀ ❀


(お願い、やめて!)

 どれほど願っていてもその思いは口に出せない。口に出せば全てが水の泡となってしまう。だから、この先を見るのは過酷だとわかっていても何も言わず、ただ唇を強く結んでいることしかできない。そんな状況を歯痒く思うが、どうにもならない。できることといったらしっかりと目を開けて見ていることくらい。

(見たくなんて、ない)

 そう思っても目は彼らを見つめ続ける。

 壇上に上がった彼らは民衆の視線を受けながらも凛としていた。自分の生き方を誇るように堂々としている彼らは輝いて見えた。

(いや…)

 どれほど心の中で願ったところで視線の先の人物には何一つ伝わらない。徐々に近づく最後の時に胸が締め付けられる。

 ふと、壇上の人物達と目が合った。慈しむような顔を向けられ、叫び出しそうになるも、手で口を抑えて我慢する。言葉を発してはならない。目立ってはならない。その一心で口を塞ぐ。泣きそうに歪めてしまった顔を必死に笑顔に変え、壇上の人々を見つめ返すと心配そうな顔を向けられた。

目線の先の人物に向かって刀が下ろされる。それはまるでスローモーションかのようだった。

逸らさぬように目を見開いていると、落ちた何かが地面を転がり、視界に赤が散る。それが何か理解する前に周囲から鳴き声と叫び声が上がる。

民衆の悲鳴を聞きながら、一人押し殺した絶叫が胸の中でひっそりと木霊した。


❀ ❀ ❀


「っ!」

 見たくなかったも情景を思い出し飛び起きる。全身には嫌な汗をかいたのか、ぐっしょりと濡れている。バクバクと鳴る心臓を抑え、乱れた呼吸を整えるために一度大きく息を吸ってゆっくりと吐きだす。

 嫌な夢を見た。できれば見たくなかった、思い出したくなかった場面。心の奥底にしまっておこうと思っていた景色を夢で、それもあの日に戻ったかのように鮮明に思い出してしまった。思い出した絶叫が口から出なくて良かったと安堵する。声はあの時あそこにいた人々と共に失くしてしまったから出るわけはないのだが、それでも安堵する。

 嫌な感じで疾走している心臓を抑えるために息をついてからはたと気がつく。

――ここは一体どこだろう?

 見たこともない部屋に寝かされていたことに気づき、思わず身体を固くする。

――まさか、捕まった…?

 そんな疑問が浮かんだ時、正面の襖が静かに開いた。

「あ、起きたんだ。怪我の具合はどう?」

 思考の途中で現れた女性に驚く。柔らかい笑みで問いかけてくる女性を目を大きく開いて凝視してしまう。

 女性の標準よりも少し高い背。肩につかないくらいで切り揃えられている藍色混じりの艶やかな黒髪。着物のような服でありながらも袖がなく、丈の短い服装がよく似合う細く長い手足はとても魅力的だった。

「どうかしたの?」

 不思議そうに尋ねてくる女性に慌てて意識を取り戻し、なんでもないというように首を横に振る。

 その様子に女性は「そう?」とまだ若干不思議そうにするが、すぐに気を取り直してこちらへと近づいてくる。

女性の手に持っているお盆の上に目を向けるとそこには薬の袋が乗っていた。しかも、(せん)(おう)(こく)の言葉で書かれた薬袋だ。

疑問を投げかけるより先に女性は布団の横へと歩みより、腰を下ろしていた。

「傷はどう? 痛みはない?」

問いかけられた言葉の意味がわからず、首をかしげると困ったような笑みで「そこ」と背中を指された。指された箇所を見ようと首を回そうとした時、数か所に鋭い痛みが走った。痛みに顔を顰めながらも恐る恐る痛む箇所を確認する。

腕や足に軽い切り傷が数か所。右肩、左わき腹、左肩甲骨下辺りに動かすのも嫌になるくらいの痛みがあった。

(あの時の…)

小船に乗った時に受けた矢傷だと思い出し、身体が強張る。

あの時確かに小船の中で気を失ったはずなのに、なぜここにいるのか。どこかに流れ着いていたところをこの女性が介抱してくれたのだろうか。

 いくつも疑問が浮かんでくるが、何もわからないため、女性を仰ぎ見てしまう。すると女性は疑問に気付いたのか、労わるような笑みを向けてきた。

「紹介が遅れたね。あたしは(へき)日向(ひなた)。アンタのことはあたしの主から世話を頼まれたんだよ」

 日向、と名乗った女性は話しながらも手際よく薬の準備をしていく。そっと腕を取られ包帯を替えるところを見ながらこれからどうするべきか悩む。寝かされていた部屋を見た限りこの屋敷の主は扇桜国でもかなり高い地位の人物であることが伺い知れる。広い部屋、美しい情景が描かれた襖、意匠を凝らした小物。いつの間にか着替えている服も扇桜国ならではの染料を使ったもの。扇桜国の染め物は市場に出ている数が少ないため希少価値が高い。そんな貴重なものを寝巻にできるということは相当裕福な人物であるはず。

 もしこの屋敷の主が扇桜国でそれなりに高い地位にいる人物であったなら事情を説明し、協力を仰いだ方が得策かもしれない。

 だが、そこまで考えたところで問題が一つ浮かんだ。それはどうやって事情を説明し、信じてもらうか。

 奇跡的に助けてもらい、その上保護までしてもらっている相手にこれ以上迷惑をかけたくない。それに、自身の問題のあまり込み入ったことを話すのは憚られる。となると、適度に話を省きながら話さなければならない。しかし、そんなことで信じてもらえるのかと少し心配になる。

 どうするべきか考えている間に手当てが終わり、日向は粥を渡してくる。

「お腹が空いてる時に薬を飲むのは胃に良くないんだ。食べられるだけでいいから食べて」

 そう言って差し出される粥は暖かく、食欲をそそる匂いがする。粥と共に差し出された蓮華に粥を少し掬い、口に運ぶ。咀嚼し、飲み込むと身体が少し温まり、次いで猛烈な空腹を感じ、夢中で粥を食べた。寝ていたのがどのくらいかわからないので正確には言えないが、覚えている限り三日は食事らしい食事をしていなかった。そう考えるとよく生きていたな、と我がことながら少し感心してしまった。

「おかわりあるけど、いるかい?」

 控えめに聞いてくる日向の言葉に首を振って辞退する。空腹だったと言っても元からあまり食べないのでお椀一杯でお腹がいっぱいになった。

 空になったお椀を日向に返し、深々と頭を下げる。その仕草に日向は少しだけ笑った。

「口で言えばいいのに」

 日向が何気なく言った言葉に少し困ったような笑みを浮かべる。だが、日向はその笑みの意図に気づかず、薬を渡してくる。

「疲れてるだろうから、薬を飲んだらもうひと眠りするといいよ」

 優しい笑顔を向けてくる日向に笑顔を返し、薬を飲み込む。それを見届けた日向は横になるように促してきたので大人しく従った。

 お腹が満たされたせいか、横になるとすぐに眠気が襲ってきた。徐々に薄れる意識のなかで、今の出来事が夢ではないように祈った。



 次に目が覚めた時には辺りが暗くなっていた。粥を食べ、薬を飲んだおかげか大分具合が良くなっている。

 痛む身体を慎重に起こし、薄暗い室内を見回す。襖、窓、机と見ていき、ふと机の上にある紙に目を止める。

 上質な紙と筆と硯が置いてある机に近づく。意匠が凝らされた筆が珍しく、思わず見入ってしまう。高価でありながらも使い勝手の良さそうなそれらを見ているとある考えが浮かんでくる。

――使っても…いいかな?

 思いながら手を伸ばし、紙と筆を取る。それから布団に戻ろうとゆっくりと身体を向き直した時、強い視線に気づいた。

 慌てて室内を見回すが、室内に人影はない。どこからのものなのかと探っていると音もなく襖が開かれた。

「……」

 突如として現れた男は入るなり開けた時と同じく音もなく襖を閉める。

 全身黒ずくめ、目以外に露出している部分はない。見るからに不審な男に身体が勝手に後ろに下がる。一瞬この屋敷の人かとも思ったが、男が放っているのは、殺気。

 拾ったはいいが邪魔になったから消そうとしているのかもしれないとも思ったが、それならさっさと殺されているか追い出されている。こんな風に暗殺まがいのことはするには手間もかかるうえに面倒だ。それくらいなら起きた時に追い出しているだろう。

 考えながらも痛む身体を抑えながら後退し続ける。一歩、また一歩と近づいてくる男と距離をとるために。

龍家(りゅうけ)の者か?」

 始めより幾分か近づいたところで足を止めた男はそう問いかけてくる。

 聞いたことのあるような家名だが、その家の者ではない。否定の意味を込めて首を横に振る。

「そうか。…だが、ここにいるということは龍家に関係のある者だな。悪いが、見られたからには死んでもらう」

 男が懐から鈍く光る鋭利な物を出したのが見えて恐怖で顔が強張った。叫びたくても叫べない口を両手で押さえてしまう。

「依頼遂行の為だ。悪く思うな」

 何の感情も感じられない声で言い放たれ身体が震え始める。

――なんとか、しなくちゃ…!

 止まっていた思考を無理矢理動かす。

 再び近づき始めた男に顔を向けるが、表情は一切分からない。どうするべきかと目だけで周りを見る。すると傍には筆と紙と硯があった。

「…!」

 せめてもの抵抗とばかりにそれらを男に向かって投げてみるが、簡単に避けられてしまう。だが、男の注意がそれらに向いた瞬間を狙って悲鳴を上げる身体を叱咤して立ち上がる。立ち上がった時に重傷箇所と思われる箇所に激痛が走ったが、歯を食いしばって耐える。

「抵抗するな。楽に死なせてやる」

 男がこちらに一歩踏み出した瞬間に襖に向かって走る。が、瞬時に距離を詰められ目の前に現れた男が喉元に冷たいものが押し付けてきた。

 下手に動いて傷つきたくはないので動かずにいるが、諦めないという気持ちを込めて目だけは気丈に相手を睨みつける。その様子に少しだけ相手の瞳に好奇の色が宿る。更に押し付けられる刃物に僅かな痛みを感じるが、それだけであとは痛みも何も襲ってこない。それどころか首から冷たいものが消えた。不思議に思い相手をよく見ると相手の首筋に銀色に輝くものが押し当てられている。

「俺の客に手を出すなんていい度胸だな、お前」

「龍家の後継者…か」

「へえ…お前には聞くことがありそうだ」

「…分が悪いな。ここは引かせてもらう」

 状況がわからず困惑するも目で黒ずくめの男を追うと逃げるように窓へ近づいているところだった。こちらを警戒しつつも窓に近づいている男を見つめていると視線が合った。目しか見えないから感情などわからないはずなのに、男が笑っているように見えた。それも、何か企んでいるような、そんな笑顔。

「お前…面白いな…」

 不気味な声で朱鈴に向かって言い放つと同時に男は窓から逃げ出す。

「逃がすと思うなよ。玖暎(くえい)、追え!」

 広い背中の主がそう命令するとどこからともなく現れた小柄な男が黒ずくめの男を追って窓から出ていく。

 窓を見つめ、一体何だったのかと茫然としてしまう。いきなり現れた黒ずくめの男だけではなく目の前に立つ人物やたった今窓から出ていった小柄な男。彼らは一体何者なのだろうか。

「さて…」

 先ほど『龍家の後継者』と呼ばれていた人物がこちらを向く。

 漆黒に見えるその髪は窓から入る月光のせいか、藍色にも見える。切れ長の菫色の瞳はぶれることなくこちらを見ている。

「うちのごたごたに巻き込んで悪かったな」

 男は容姿端麗。その言葉がよく似合っていた。実際に今まで見てきた人の中でも一、二を争うくらいの容姿だ。

 思はずボーっと見つめていると男はおもむろにこちらの首に手を伸ばしてきた。少し冷たい手が首に触れるとピリッとした痛みが走り、身体を竦めてしまう。

「血が出てるな。…日向!」

 眉を寄せた男がそう言うと襖の向こうからパタパタと誰かが走ってくる音が聞こえた。

「呼んだかい?」

「お前は…敬語使えって言ってるだろ」

 スッと開いた襖の向こうから世話をしてくれた日向ともう一人、男が現れた。

「あ、アンタ起きたんだ。身体は大丈夫?」

 問いながら近づいてくる日向にコクコクと頷いているともう一人の男もため息をつきながらこちらへ歩いてくる。

陣炎(じんえん)。危険なことをするなって何度言えばわかるんだよ」

「日向。首んとこの怪我の手当て頼む」

「はいはーい」

「聞け、陣炎!」

「聞いてる。近くに誰もいなかったんだから仕方ないだろう」

「呼べばよかっただろう!」

「呼ぶより自分で行った方が早い」

「陣炎!!」

 言い合う男たちを見ていると日向が救急箱を持ってきてくれた。

 立ったままだと手当てしづらそうなので座って大人しく手当てしてもらう。その間も目は二人の男に向いている。

「うるさくってごめんね」

 手当てをしながら謝る日向に慌てて首を振る。静かな空間より騒がしい空間の方が好きなので別段問題はない。それにお世話になっている身で文句など言えるはずもない。

 満足気な顔で「できたよ」と教えてくれた日向に深々と頭を下げるとまた「口で言えばいいのに」と笑われた。それにまた困ったような笑みを向けるしかなかった。

「おい」

 日向の方を向いていて気付かなかったが、すぐ隣に菫色の瞳があり驚いて後退さってしまう。その際に左わき腹が痛んで顔を顰めてしまう。

「陣炎! 驚かさないの!!」

 窘める日向に目もくれずまっすぐにこちらを見つめてくる。その菫色の瞳に心臓がトクンと脈打つ。だが、

「お前、()(りょう)(こく)の者だな」

 その言葉に動いたばかりの心臓が動きを止めたような気がした。

――まさかもう知られている? 知った上で助けたの…?

 怯えたような目で見つめていると菫色の瞳がふっと優しげに細められる。

「別に取って食いはしない。安心しろ。…俺は(りゅう)陣炎(じんえん)。お前は?」

 敵ではないことに安堵していると名前を聞かれ、口を開こうとしてハッとする。そして室内をキョロキョロと見回す。そんな様子に三人から不審気な目を向けられるが、目当ての物を見つけてパッと顔を輝かせる。

 それは部屋の隅に転がっている紙と筆。黒ずくめの男に投げつけたものだった。

 ズキリと痛んだ身体を押さえ、それらを拾って戻ってくる。

「おい、一体なんなんだ?」

 陣炎の問いかけに笑みを返し、何度か悩みながら紙にさらさらと書きこんでいく。

 出来上がったそれを陣炎に渡すと左右にいた日向と名の分からない男が手元の紙を覗きこむ。

(はく)(しゅ)(りん)と申します。助けていただきありがとうございます』

「お前、話せないのか?」

 驚きで目を見開いている陣炎に困ったような笑みを向ける。

「そっか…。だからなんだ」

 今までの行動の意味に納得がいったのか日向はうんうんと頷いている。

「…しかし、生まれつき話せないという感じじゃないな。失語症…とも違うようだし…精神的な問題か?」

 紺青色の瞳を鋭くして冷静に分析してくる男に朱鈴は気まずそうな顔を向ける。そんな朱鈴の顔を見てなのか、隣にいた日向がバシッと頭を叩いた。

「日向! 何すんだ!!」

(りゅう)()が怖い顔してるから朱鈴ちゃん怯えてるじゃんか」

「俺は別に怖い顔なんてしてないだろ」

「元が怖いの」

「……」

 二人のやり取りにオロオロとしていると陣炎は特に気にした素振りも見せず「琉惟も挨拶しておけ」と促すだけだった。

 促された琉惟と呼ばれた青年は朱鈴に一瞬険しい目を向けた。が、すぐに元の無表情に戻り居住まいを正した。

(せん)(りゅう)()だ」

 無愛想にそう告げる琉惟に朱鈴は慌てて居住まいを正して頭を下げる。怖い、とは感じなかったが、どことなく雰囲気が怒っているように感じられる。

「もういいだろう。戻るぞ、陣炎」

 頭を下げている朱鈴に見向きもせず琉惟は陣炎を促す。だが、陣炎は動こうとはしない。それどころか朱鈴の目の前に座り、白紙を差し出している。

 白紙を差し出された朱鈴は意味が不思議に思いながらも大人しく白紙を受け取る。

「お前には聞きたいことがあるからな。話せないなら紙に書いてもらう」

 にやりと笑う陣炎に朱鈴はサッと顔色を変える。安堵しきっていた顔から警戒心を全面に出す様を見て陣炎は笑みを深くする。

「ちょっと陣炎。朱鈴ちゃんはまだ傷が癒えてないんだからもう少し待ってからでも…」

「というか、目を覚ましたなら元いた場所に返してこいよ」

「琉惟!!」

 二人の言うことなど聞かず陣炎はじっと朱鈴を見つめる。菫色の瞳に見つめられた朱鈴は見返すことができず顔を背ける。深い菫色の瞳は朱鈴の全てを暴こうとしているようで、少し怖かった。

 目を逸らし続けている朱鈴は何を聞かれても黙秘を貫こうと決心した時、窓からふわりと風が入り込み、朱鈴の長い緋色の髪を揺らした。

「報告します。あの男には巻かれました。ですが、武具や戦い方を見る限り樹俚(きりの)(くに)の者ではないかと…」

「樹俚国…」

 音もなく部屋に現れたのはあの黒ずくめを追って窓から出ていった小柄な男だった。少年、というにはいささか落ち着きすぎているように見えるし、青年、と呼ぶのにはまだ若い気がする。

 朱鈴が陣炎と話す男をまじまじと見ていると視線に気づいたのか、陣炎がこちらを見てくる。

「そう言えばコイツを紹介していなかったな」

「…(こん)玖暎(くえい)と申します」

 一拍遅れてから丁寧に自己紹介され、朱鈴もお辞儀を返す。

 忍びのような服装で中性的な顔立ちの玖暎は陣炎や琉惟、日向よりも身長が低めだった。そうは言っても朱鈴よりは高いのだが。

「こいつ等は俺の…側近のようなものだ」

 ぐるっと三人を見まわし陣炎が説明をしてくれる。〝側近〟ということは陣炎が主であるということ。見たところ随分と若く見えるが、側近がいてこのように広い屋敷を持てるということは彼は扇桜国でもかなり高い地位にいるようだ。

 感心しながら陣炎を見つめていると横から琉惟が少し苛立ったような声で陣炎の名を呼んだ。陣炎が琉惟の方を見るのにつられて朱鈴も顔を向けると琉惟は苛立ちを露わにした顔をしていた。その様子に日向はため息をつき、玖暎は感情のない顔を向ける。

「陣炎。そいつに何を言う気だ?」

 紺青の瞳を鋭くし、陣炎を見つめる。その瞳の冷たさに朱鈴の方がゾッとした。だが、見つめられた当の本人は飄々としていて余裕さえ感じられる。琉惟も気づいたのか、苛立ちの気配を一層強くしながら陣炎を見つめる。その様子を日向と玖暎はいつの間にか離れたところから見ている。

 そんな中、自分はいったいどうすべきなのかと朱鈴はオロオロと周囲を見回していると日向に手招きされた。おずおずと招かれた方へ行くと日向は申し訳なさそうな顔を朱鈴に向けた。

「ごめんね。琉惟は悪い奴じゃないんだけどさ、頭が固いから…身元のわかってない朱鈴ちゃんを保護するのに反対してるんだ」

 日向にそう言われ、朱鈴は妙に納得してしまう。だから自分への態度が冷たかったのか、と。

 わかったと同時に申し訳ない気持ちも生まれる。自分がここにいるだけで争いの種になってしまっている。ならば早く去るべきなのかと。

 しかし、本心を言えば傷が治るまでは、という甘えもある。心の中で葛藤していて、はたと気がついた。いつの間にか室内の空気が変わっている。先ほどまでは琉惟による苛立ちの空気だったものが、重苦しく冷たい空気に変わっている。

 何事かと思い二人を見ると、苛立っていたはずの琉惟が気まずそうに目を背けている。対して陣炎は先ほどまでの飄々とした態度から一変し、高圧的で冷たい雰囲気を纏っていた。

「勘違いするなよ、琉惟。俺はお前の主だ。対等だと思うなよ」

 聞いた者を震え上がらせるような声、冷たい瞳で言い放つ陣炎に朱鈴は思わず自分の身体をきつく抱きしめていた。

 ――怖い。

 それが素直な感想だった。自分に向けているわけではないはずなのに、どうにも怖い。

 無言で睨み合う彼らを震えながら見つめていると呆れたようなため息をついて日向が二人の間に入る。

「はいはい! 二人とも落ち着きなって。朱鈴ちゃんが怯えてるのがわかんないわけ?」

 日向の言葉に二人が一斉に朱鈴の方を向き、見られた朱鈴はビクリと身体を震わせ、近くにいた玖暎の背後に隠れてしまう。玖暎が僅かにこちらを見たが、それすら気にしている余裕はない。

 怯えている、という言葉を理解した二人は渋々ながら黙る。黙ったことによって少し空気が軽くなり、そのことに朱鈴は密かに安堵の息をついた。

「まあ、いい。今のうちに言っておくぞ。こいつ…朱鈴は俺の客として此処に滞在させる。既に父上にも許可を貰ってある」

「陣炎!!」

「騒ぐな、琉惟。決定事項だ」

 淡々と話す陣炎とは対照的に怒りを露わにする琉惟に朱鈴はまた怯えてしまう。その様子を見てとった日向が琉惟の頭を殴った。

「学ばないねえ。朱鈴ちゃんが怯えてるって言ってるだろ?」

「…日向…」

 殴られた琉惟がじろりと日向を睨むが、睨まれた当人はどこ吹く風でその視線を無視する。

「それより、陣炎。話しするならあたしたちいない方がいい?」

 気を取り直して問いかける日向の言葉に朱鈴はぎょっとして日向に駆け寄る。先ほど怖いと感じてしまった陣炎と二人きりで落ち着いて話などできる気がしなかったからだ。

 焦って日向の服の裾を掴んで勢いよく頭を左右に振ると、始めこそ意味がわからないといった態だったが、少ししてから理解したようで今度は困ったように陣炎を見た。視線を受けた陣炎は気にする様子を見せず一つ頷いた。

「別に、お前らに聞かれて困る話でもない。好きにしていい」

「って、ことらしいから、あたしはここに居させてもらうよ」

 優しい笑みを向けてくれた日向に朱鈴はホッとしながら笑みを返すと同時に左わき腹に鋭い痛みが走り、顔を顰めながら手で押さえる。緊張が解けて忘れかけていた痛みが主張し始める。動いたせいで傷口が開いたのか、服が血に濡れている。痛む箇所は他にもある。どれも脂汗が流れる程の痛みを伴っているから、その他の傷口も開いたのだろう。

 痛みに耐えるように歯を食いしばるが、視界が徐々にぶれていく。立っているのがやっとで心配そうに顔を覗きこみ何かを言っている日向の言葉は聞き取れない。それでも心配してくれているのがわかったので大丈夫という意味を込めて笑みを作った途端、両足が地面から離れた。

「我慢してもいいことなんてないぞ」

 耳元で聞こえる呆れと労わりを含んだ低い声。無駄な筋肉のない厚い胸板。間近に見える端正な顔。触れる体温は朱鈴よりも少し暖かかった。

「琉惟、寝床を整えろ。玖暎、薬の用意を。日向は替えの服を持ってこい」

 朱鈴を抱き上げた陣炎は素早く指示を飛ばす。指示を受けた三人は返事を返しながら自ら与えられた指示をこなすべく動き始める。その姿を見ながら朱鈴は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。やはり事情を話すわけにはいかない。暖かい腕に抱かれながら朱鈴はひっそりとそう心に決めた。



 諸々の支度を終えた後、話は後日するため今は休息を取るようにと言われ朱鈴は再び横になっていた。よほど顔色が酷かったらしく、大人しく寝ているようにと日向に厳命された。しかし、十分に睡眠をとったため眠気は一向にやってこない。横になったままため息をつき、これからのことに考えを巡らせる。

 親切にも助けてくれた人たちには何か考えがあって助けてくれたらしい。だが、朱鈴としてはこれ以上迷惑をかけることをしたくないのでこちらの事情を話したくはない。

――どうしたらいいんだろう…?

 迷ったところで意味はないのかもしれない。陣炎の瞳は力強く、真っ直ぐで、嘘をついてもすぐにばれてしまうかもしれない。それに、何か目的があったとしても助けてもらったのに嘘をつくのは心苦しい。

 堂々巡りの考えに小さくため息をつくとわき腹が痛んだ。思ったよりも深手らしいそこには包帯が巻かれている。他にも怪我をしたところは丁寧に手当てがされている。朱鈴を気遣いながら手当てしてくれた日向は身元を明かしていないにも関わらず、とても優しかった。琉惟は怖かったが、決して実力行使をしようともしなかった。玖暎は何もしゃべらなかったが、雰囲気からして邪険にされていないことだけは分かった。

――いい人たち…だったな…。

 そう思うと胸が痛む。事情が事情だけに、軽々しく話すわけにはいかない。むしろこれは一人でなんとかしなければならない問題なのだから頼ろうとする事自体間違っているのかもしれない。

 再び小さなため息をつき、今度は窓の方へ眼を向ける。

今は夜なのか、暗い空に三日月が浮かんでいる。窓から入る切なく冷たい月光が傷ついた朱鈴を照らす。

 あまりに月が綺麗で朱鈴は思わず寝床から起き出し、窓に近寄る。身体は痛むが、月を見たい気分だったから我慢して移動した。

 窓辺によると月がよく見えた。決して大きくはない窓だが、月光がよく入ってくる。その月明かりを身に受けながら朱鈴はこれからどうするか思いを巡らせた。


❀ ❀ ❀


「陣炎。お前、何を考えているんだ?」

 自室に戻る道すがら、琉惟は未だに納得していないようでしつこく聞いてくる。陣炎はもう何度目になるかわからないため息をつき、琉惟を振り返る。その行動に真後ろにいた琉惟は驚きながらも同じように足を止める。琉惟のその後ろにいた日向や玖暎が追いつくのを待ってから陣炎は口を開く。

「前々から華陵国とは貿易をしたいと思ってたんだ。それに利用させてもらうだけだ」

「貿易? そんな話あったか?」

「さあ? でも、確かの華陵国と貿易できればうちとしてはかなりいいよね」

「だろう? 華陵国は鉱山資源も豊富な上に食料や織物、染料もかなりいいものを作ってる。貿易出来ればうちも潤う」

「…それだけか?」

 訝しげに問うてくる琉惟に陣炎は思わず笑みを零す。用心深いのは琉惟の長所であり、短所だ。今回は主である陣炎を心配しているから尚更用心深くなっているのだろう。それがわかっているから今回は陣炎は怒らずに笑うだけで留めておく。だが、当の琉惟は笑われたのが気に食わないらしく、顔を顰めている。

「陣炎…本当に…」

「あーもー! 琉惟は細かすぎる!! いいじゃない、朱鈴ちゃん可愛いし」

「…日向…そう言う問題じゃないだろう…」

 どう返答してやろうかと陣炎が悩んでいるうちに琉惟の後ろにいた日向がバシバシと力強く琉惟の背を叩いている。琉惟とは反対に大雑把な日向はこういう時助け船を出すのがうまい。もっとも、本人は助け舟のつもりはないだろうが。

「俺は、華陵国は閉ざされていた国なんだからもっと慎重に確かめた方がいいと言ってるだけで…」

「朱鈴ちゃん嘘ついてるように見えないからそれでいいじゃない。(おう)(すい)様も許可くれたんだし」

「お前は…! 陛下と呼べ!!」

「桜水様がいいって言ったからいいじゃんか!」

 最早最初の話題はどこへやら。二人で騒ぎ始めた琉惟と日向にため息をついて陣炎は歩き出す。近頃は喧嘩なのか何なのか区別がつかなくなった応酬を眺めるのにも飽きてきた。早く自室に戻ってしまおうと歩いていると半歩後ろから玖暎がついてきているのが気配でわかった。いつもならば呼ばれるまで隠れているのに珍しい事があるものだと玖暎に目線をやれば、鳶色の瞳がじっと陣炎を見つめていた。

「どうかしたのか、玖暎?」

「…機嫌がいいように見えます。何かよいことでもありましたか?」

 不思議に思ってそう聞いてみれば顔色を変えずにそんなことを言ってきた。これには陣炎は目を見開いて驚いてしまった。

 確かに今陣炎は上機嫌だった。だがそれを悟られないようにいつもどおりに振舞っていたのだが、玖暎には通用しなかったらしい。さすがに間者を務めているだけあって人の感情の変化に聡い。陣炎は僅かに笑みを零しながら自分よりも身長の低い玖暎の頭を撫でた。

「玖暎は聡いな。…だが、上機嫌の理由は秘密だ」

 子ども扱いが気に食わないのか、玖暎は少しだけ嫌そうな顔をする。それにまた笑みを零してから陣炎は自室へと向かった。


 確かに機嫌がいい。それは前々から願っていた華陵国との貿易利用できる人物が手元に来たからというのもあるが、それよりも陣炎は彼女自体を気に入っていた。

 倒れているところを見つけた時、そこに大きな花が咲いているか思い、目を奪われた。話したこともなく、ましてや起きて動いていることを見たわけでものに彼女に心を奪われてしまった。どんな人物か、楽しみにしながら会いに行くと、彼女は正体もわからぬ人物に刃物を突き付けられているにも関わらず、気丈に振舞っていた。そこが、好ましいと思った。ただ怯えて助けを待つだけの女なら興味など湧かないが、彼女は違う。今まで見てきた女性の中でも一際美しく、そして面白い。

「…楽しめそうだな…」

 彼女がいる間は退屈しなくて済みそうだと、陣炎は笑いを噛み殺しながら廊下を歩いた。


❀ ❀ ❀


「体調が万全でない時に悪いんだが、早めにこちらの目的を話しておこう」

 暗殺者騒ぎから数日後。朱鈴がようやく身体を起こしても支障がなくなると早速陣炎達が部屋へとやってきた。世間話も前置きもなくいきなり本題に突入する陣炎に朱鈴は緊張したように姿勢を正す。その様子に朱鈴のすぐ傍に居た日向が僅かに笑みを零し、いきなり肩を掴み、揉み始めた。

「大丈夫だよ、取って食いは…しないと思うから!」

「…日向は黙ってろ」

「何さ? 朱鈴ちゃんが緊張してるから解してあげてんでしょ?」

「陣炎が話難いだろ!」

「琉惟が怒鳴るから話難いんでしょ!」

「二人ともうるさい」

 朱鈴を挟んで言い合いを始めた琉惟と日向を一言で黙らせ、陣炎が朱鈴に紙と筆を渡してくる。

「お前専用だ。何か話したいときはこれを使え」

 通常使うような紙ではなく、僅かに紅梅色の混ざった紙と同じく紅梅色の筆を渡されて朱鈴は驚きで目を見開く。まさか特注で作ってくれたのかと申し訳なく感じ、紙と筆を持つ手が震えた。するとその様子を見た陣炎が朱鈴の震えの理由を的確に悟ったのか、紙と筆を指してきた。

「これは試作品だ。使い難い点とかあったら遠慮なく言ってくれ。使い心地がいいようなら商品化したいからな」

 にやりと笑みを浮かべる陣炎に朱鈴は安堵の息をついて首を縦に振る。試作品ならば思う存分に使うことができる。そう思うと手の震えが止まった。

 筆を持ち直していざ紙に書こうとするが、そこであることに気づく。台がない。朱鈴は台がなくとも書けることには書けるが、読みやすさを考えたら台があった方がいい。そう考えて机のあるところまで移動したいという旨を書いて見せれば陣炎達は簡単に了承してくれた。

「じゃあ、何か聞きたいことがあったら聞いてくれ」

 そう前置きすると陣炎は自らのことを話し始めた。

 陣炎は扇桜国の王家の跡継ぎだった。龍家と言うのがどこかで聞いた覚えがあるのもそのせいだ。扇桜国は大陸で最も大きな国と称されている。朱鈴はどこかで聞いたことがあると思ったのだが、これならば当然だろう。大陸一大きな国、扇桜国を統括する龍家の名は大陸中で知られている。

 その龍家は前々から華陵国と貿易をしたいと考えていたらしい。だが、貿易を開始しようにも断られ続けており、諦めかけていた時に朱鈴を発見したらしい。

「華陵国は義理堅いと聞いている。国民を助け、手厚く看病し、無事に国に帰したらさすがにこちらの申し出も断りにくいだろう」

 そう笑う陣炎の瞳には裏がなく、本当にそれだけのために助けてくれたようだ。助けてくれた理由としては理解できるものなので朱鈴は僅かに安堵の息を零す。だが、国のことをよく考えるとあまり安心できるものではなく、朱鈴はすぐに顔を引き締める。目的は理解できるものであっても協力することができない。朱鈴はしばしの間考えに耽ると筆を取り、紙に文字を記していく。

『目的は理解しました。ですが、あまり協力出来そうにありません』

 難しい顔をしてそう書いた紙を見せると陣炎の顔が顰められる。

「どういうことだ?」

 聞いてきたのは陣炎ではなく琉惟の方だった。紙から顔を上げ、朱鈴を見つめる目には疑惑の色が宿っている。その鋭い瞳にたじろぎながらも朱鈴はもう一度紙に文字を記す。どこまで書けばいいのかわからないので時々筆が止まってしまうが、それでも彼らは辛抱強く朱鈴が書きあげるのを待っていた。

『国内で少し問題が起きています。それの所為で今は貿易が出来る状況ではないんです』

「…問題? そんな話は聞いたことがないぞ」

『つい最近の出来事で国外にはあまり知られていないんです』

 朱鈴の紙を読み上げた後、琉惟は何かを考えるようにして黙り込んでしまう。陣炎も黙ってしまい、室内には沈黙が落ちる。その沈黙に朱鈴は気が気ではなかった。嘘を書いているわけではないが、事情全てを話すわけにはいかず、大筋しか話していない。信じてもらえなかったらどうしようという不安が頭を巡っていると、隣に居た日向から暖かいお茶を差し出された。

「少しでも気分が悪くなったら言ってね」

 片目を瞑ってそう微笑んでくれる日向に朱鈴も笑みを返すと日向は満足そうな笑みを浮かべてから陣炎や琉惟にもお茶を配る。陣炎はそのお茶を一口飲んでから顔を上げてくる。

「玖暎、居るな?」

「…ここに」

 陣炎の言葉に応えるように音もなく現れた小柄な影に朱鈴は驚きを隠せない。一体どこから出てきたのかと辺りを見回して見るが、辺りには隠れられそうなところはない。

「華陵国内を探ってこい。至急な」

「はい」

 不思議に思っていると陣炎の言葉を受けて玖暎が現れた時と同じように音もなく消える。目の前で見ていたはずなのに追い切れなかった動きに朱鈴はお茶を落としそうになってしまった。

「悪いが、今のままだとお前の話を判断できない。玖暎が戻り次第また話をする。だからそれまではゆっくりと傷を癒すといい」

 何か言う暇もなく陣炎が立ち上がり、部屋から出ていく。その動きに朱鈴は茫然と見つめることしかできなかった。

 有無を言わせず追い出されなかったのは幸いだが、このまま保護されているのは申し訳ない気がした。陣炎側の要求を呑めそうにないのにここに居てもいいのかと自問してしまう。

「あー…怒ってるわけじゃないから気にしなくていいよ」

 あまりに突然のことに陣炎の出て行った方をひたすら見つめていると日向が慰めのような言葉をかけてくれた。陣炎の雰囲気から怒っていないことはわかった。朱鈴が驚いているのは追い出されなかったことに関してなのだが、日向の気遣いが嬉しかったので笑みを返しておく。

「俺も行く。…正直、俺は利用価値がないなら早く追い出すべきだと思うんだがな…」

「琉惟! アンタねえ!!」

「思ってるだけだ」

 辛辣な言葉を残して部屋を出ていく琉惟に日向が怒るが、すぐにため息をついて朱鈴の方を向く。

「ごめんね、口が悪くて。…あたしも行くよ。多分仕事があるだろうから。この部屋から出ても大丈夫だから何かあったらその辺の人捕まえて。皆には言ってあるから」

 朗らかに笑って出ていく日向に朱鈴も笑顔で見送る。しっかりと襖が閉まった事を確認してから朱鈴は息をつく。

 追い出されなかったのはいい。だが、玖暎が国内情勢を探りに行ったということは本当の事が陣炎達に知られるのも時間の問題だ。朱鈴自身の身の上まではわからないだろうが、本当の事が知られてしまえば追い出されることはわかりきっている。出来れば追い出される前に出て行ってしまおう。陣炎は居てくれていいと言ったが、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。それに、朱鈴には行くべき場所があった。ここで何日過ごしたかはわからないが、急がなくてはならない。

 親切にしてくれた人たちに挨拶もなく、ましてやお礼も言わずに居なくなるなどと言う恩知らずな真似はできればしたくなかった。だが、事情が事情だ。朱鈴は自分に仕方がないと言い聞かせて筆を取る。さらさらと紙に記し、丁寧に折る。そしてその紙をどこに置くべきか迷ったが、机の上に置かせてもらうことにした。

 出るならば早い方がいいだろうと朱鈴は辺りを見回す。窓から逃げることは不可能なため、正面から堂々と逃げることにした。傷は癒えきっていないが、動けない程ではない。少しの間なら大丈夫だろうと決め込む。

 いざ襖を開けて部屋を出ようとするが、服が寝巻のままであることを思い出し、躊躇する。何か羽織ってから出るべきかと布団の辺りを見ると朱鈴がもと着ていた服がきちんと畳んで置いてあった。破れていた箇所も丁寧に繕われている。それを見て胸が痛くなるが、朱鈴は頭を振ってその思いを振り切る。そして元の服に着替えてからそっと部屋の外へ出る。

 部屋を出てすぐに見えたのは見事な庭園だった。腕のいい庭師がいるのか、庭はとても綺麗にされていた。こんな時でなければじっくりと見てみたい程だ。

「あら? 何か御用ですか?」

 庭に見とれていると使用人らしき人に出会った。朱鈴は咄嗟に懐から筆と紙を取り出し、『お手洗いに』に書いてみせるとその人は微笑んで案内してくれようとしたが、朱鈴は慌てて一人で行けることを書き記した紙を見せるとその人はあっさりとどこかへ行った。

 いきなりの危機に朱鈴は額の汗を拭い、改めて気合を入れ直して廊下を進む。入り組んだ廊下を歩いていくが、一向に出口は見えてこない。どうするべきかと立ち止まっていると向かいから使用人らしき人が歩いてきているのが見え、朱鈴は慌てて物陰に隠れる。

「これは調理場で、こっちが外の洗い場だよね」

「そうそう。間違えないでね」

「間違えるとお給金引かれるよ」

「もう! 大丈夫よ」

 楽しそうに歩いていく使用人の会話を聞いた朱鈴は幸いとばかりに彼女たちの後をつけていくことにした。外の洗い場の近くまで行けたら後は簡単に出ることができるだろう。朱鈴は見つからないようにしながら歩いていくと、砂利を踏む音が聞こえて外が近いことを知った。

「じゃあ、洗い場の方に行ってくるね」

「ええ。先に調理場に行ってるから」

 二手に別れた使用人の外に出る方についていくと簡単に外に繋がる戸を見つけることができた。砂利を踏む音と水を流す音、それに眩い太陽の光を浴びながら朱鈴は外に出た。

 高い塀の近くまで忍び足で行くと、ちょうどよく勝手口を見つけた。そこには見張りの人がいたが、朱鈴は臆することなく進んでいく。

「ん? 外に用かい?」

 疑うことなく聞いてくるおじさんに朱鈴はこっくりと頷くと対して理由も聞かないうちに勝手口を開けてくれた。そんな簡単でいいのかと目を見開いているとおじさんは「気をつけてな」と声をかけてくれた。その声に我に返り、朱鈴は慌てて笑みを浮かべて外へと出た。

 外は人も市も多く、活気に溢れていた。この屋敷は街よりも少し高いところにあるのか、街が一望できるようになっている。初めて見る扇桜国の市に朱鈴は開いた口が塞がらなかった。華陵国の何倍もある市に圧倒されながら足を進めると色んな人に声をかけられる。大きな声で呼びこみをしているだけなのだろうが、あまり大声を聞きなれていない朱鈴は声をかけられる度に身体を竦ませてしまう。

 美しい小物、色鮮やかな反物、美味しそうな食べ物などが並ぶ市を抜けて朱鈴は船着き場へと急ぐ。時刻は既に夕刻に差し掛かっており、辺りは茜色に染まっていた。急がないと船がなくなる。暗くなれば船に乗ることができなくなってしまう。そうなれば行き場のない朱鈴は野宿をすることになる。朱鈴は市を見て歩くよりも細い道の方が近道になるだろうと大通りから逸れようとする。すると今まで微風だったはずが、いきなり強い向かい風が吹く。それはまるでこの先に行くなと言っているようだったが、朱鈴は無理矢理進んだ。心の中で謝罪を述べながら。だが、それが悪かったらしい。

 細い道を半ばまで進むと突然後ろから口を塞がれ、喉元に冷たい物を押し当てられる。この感覚は最近にも感じたことのあるものだった。

「こんなところで会うとは思わなかった」

 聞いたことのある声に視線を上に向けるとそこには見たこともない人物がいた。だが、相手は朱鈴を知っている風である。

「龍家に追い出されたか、それとも逃げ出したか…まあ、どちらでもいいか」

 知らない人のはずが聞いたことのある声だと朱鈴は混乱しそうになる。ごく最近に聞いたことのある声だと思いながら視線が相手の瞳を捕えた瞬間、その人が誰であったか思い出した。

「…雇い主がお前を連れて来いと言う。ついてきてもらうぞ」

 あの夜に会った黒づくめと同じ瞳、同じ声をしている男に朱鈴は目を見開き、次いで激しく抵抗する。

「動くと死ぬぞ」

 脅しではないことを強調するように喉押し付けられていたものがぷつりと皮膚を裂く。首筋を撫でる風が傷口に当たり、僅かに痛む。その痛みに驚いて抵抗を止めると男は突き付けていた刃物をおろす。

「そのまま抵抗するなよ」

 感情のない声に答えるように震えながら頷くとやっと口から手を離された。しかし、もう片方の手でしっかりと腕を捕まえられている。このままどこかへと連れて行かれるのかと男を睨み上げると小さな衝撃が襲い、意識が急速に遠のいた。

「意識があると面倒だ」

 呟くような声を最後に朱鈴の意識は途切れた。


❀ ❀ ❀


 頬を撫でる潮風を受けながら陣炎は広い海原を見つめる。

 朱鈴の話を聞いた後玖暎を華陵国に送ったが、情報を得るために自らも街へときていた。扇桜国の都であるここ雅京は港があるため人が多い。そのため噂話には事欠かないのだが、華陵国についての噂話は一つも聞くことができなかった。元々閉鎖的な国だったが、それでも常時ならば噂話の一つや二つはあった。しかし、今回は何の話も聞くことはできなかった。常ならば気にも留めない小さな問題だが、朱鈴の話を聞いた後の所為か、今はとても気になる。

 国内で何かあったにしても何かおかしい気がする。人の噂話と言うのは怖いもので、いくら厳重に箝口令を敷いたところで必ずどこからか漏れ出てしまうものである。それがこうも完璧に閉ざされているとなると、それはそれでおかしな気もする。華陵国とは少し離れており、普段の交流は皆無と言っていい程だが、妙に気にかかった。それは朱鈴が絡んでいるからかもしれないが、龍家の後継者という立場から見ても華陵国に何か起こっているというのは見過ごせなかった。

「…と。もうこんな時刻か。そろそろ戻らないとまた琉惟の小言を食う羽目になるな」

 海が茜色に染まり始めたのを見た陣炎は港から離れる。収穫はないに等しいが、今日のところはこれくらいで帰った方がいい。視察も兼ねての外出だったため父に報告もしなければならず、遅くなるのはまずいとばかりに陣炎は屋敷に早足で向かう。市を通るよりもいつも使っている近道を使って戻ろうと細い道に入ると、滅多にしない人の気配がした。僅かに漏れ出る殺気を敏感に感じ取った陣炎は咄嗟に物陰に隠れて気配を消す。そしてそこから様子を覗うと、緋色が見えた。

 まさかと思いつつも覗き込むとそこにはもと着ていた服を纏った朱鈴が見知らぬ男に捕えられていた。

 何故こんなところに居るのかという疑問が浮かんだが、それは朱鈴が力なく倒れたことで飛んでしまった。

「そこに居るのは俺の客なんだが?」

 迷いなく物陰から姿を現すと男は機敏な動きでこちらを振り返った。その顔に覚えはないが、どうやらあちらは陣炎の事を知っているらしく、小さな声で「龍家の後継者か」と呟いたのが聞こえた。

「連れて帰るから返してもらおうか」

「断る」

 短く返答を返してきた男は朱鈴を片腕に抱いたまま短刀を構える。陣炎は舌打ちしながら構える。自身も小刀を持ってはいるが、使う気はなかった。ここは狭い道な上に相手は朱鈴を盾に使うかもしれない。それならば小刀を使うのは得策ではない。だが、小刀が使えないことで陣炎は圧倒的に不利な状況にあった。いつもならば遠慮なく暴れられるのだが、今回は朱鈴を取り戻すことが目的だ。無節操に暴れるわけにはいかない。

 じりじりと相手との距離を図りつつも目は離さない。その場の雰囲気が緊張で高まり、ついに互いが動き出そうとした瞬間。

「じーんえーん! どこに…って、いた…!?」

 陣炎とは反対側から日向が入ってきたことによって図らずも男を挟み打ちすることができた。

「日向! そいつを逃がすなよ!!」

「え!? …わかった! 琉惟、こっち!」

 状況は完全に理解できていないだろうが、質問することなく構え、更には琉惟を呼んでくれた日向に陣炎は笑みを零す。形勢逆転とはまさにこのこと。

 不利だと悟ったらしい男は舌打ちするなり抱えていた朱鈴を陣炎の方へ投げ飛ばし、逃げ出す。

「日向っ!!」

 投げ出された朱鈴を抱き止めながら日向の名を呼ぶと彼女は追うことはしなくとも自身の得物を男に投げつけていた。殺傷能力の低い武器だが、数打てば当たるというやつで、男は小さな呻き声を漏らしながら逃げていった。その後を追いかけるような足音が聞こえたということは琉惟辺りが追いかけたのだろう。捕えられるとは思わないが、見事な連携に陣炎は笑みを零した。

「陣炎! 大丈夫かい?」

「ああ。それより、なんで朱鈴がここにいるんだ?」

 男の気配がなくなったことに安堵の息をつきながら日向に聞くと彼女もわからないようで首を傾げていた。

「まあ、いい。…戻るぞ」

 腕の中でぐったりとしている朱鈴を抱き直すと陣炎は日向と共に屋敷へと戻った。


❀ ❀ ❀


 誰かの話し声がすぐ近くで聞こえて朱鈴は意識が浮上してきた。重い瞼をこじ開けるように目を擦りながら身体を起こすと所々痛みを感じて半覚醒だった頭が痛みによって完全に覚醒する。

「ん? 起きたのか?」

「陣炎! 話を逸らすな!!」

「だーから、琉惟はうるさいって!」

 スパンといい音がして目を開くとそこには陣炎達が揃ってこちらを見ていた。その様子に朱鈴は眠る前の記憶を手繰り寄せ、現状を理解しようと努めた。が、何故彼らがいるのかはわからなかった。それ以前に抜けだしたはずの屋敷にいて混乱してしまった。朱鈴は必死に記憶を掘り返すと、自分が暗殺者らしき男に捕まったところまでをようやく思い出すことができた。しかし、それと彼らが目の前にいる理由が結びつかず、疑問符が頭を巡る。

「朱鈴ちゃん、怪我は大丈夫?」

 混乱の残る朱鈴に気遣わしげに声をかけてくれた日向に頷いてみせると彼女は安心したように笑み浮かべた。

「お前、一体何が目的なんだ?」

 眼光鋭く朱鈴を見つめてくる琉惟に身体が竦む。怒っている、というのが雰囲気から伝わってきたが、理由を告げるわけにもいかない朱鈴は俯いてしまう。

 嘘はつけない。と言うよりはつきたくない。苦手と言うこともあるし、上手く嘘をつける自信はない。その上嘘をつき通す自信はない。故に朱鈴は黙り込む以外どうすることもできなかった。

「うちの屋敷から何か盗まれた、又は誰かが傷つけられたという報告はない。…お前は一体何のつもりで屋敷を抜けだした? 何故あの男に捕まった? お前は…何者だ?」

 何も言わない朱鈴に静かな声で陣炎が詰問してくる。だがどれにも答えることができす、朱鈴は布団を握りしめたまま動けない。

「…これは、一体どういうつもりだったんだ?」

『お世話になったのに何も言わずにいなくなることを許して下さい。この恩は必ずお返し致します。お世話になりました』

伏せたままでも見えるように差し出された紙は朱鈴が置いていったものだった。ここから何も言わずにいなくなることが心苦しく、せめて御礼だけでもと思い書いたものだ。こんなに早く戻るつもりはなかったため、朱鈴はそれすら直視できなかった。

沈黙を守り通していると陣炎から小さくため息が聞こえた。怒って追い出されるのかと思っていた朱鈴はため息の後に頭を撫でられ、思わず顔を上げてしまった。

「利用価値がなくとも怪我が治るまでは置いてやる。それだけは約束してやるから、逃げなくてもいい」

朱鈴の頭を撫でる手つきが不器用で、少し乱暴だった。朱鈴はかつて同じように頭を撫でてくれた人を思い出して、視界が歪んだ。泣かないようにと堪えてきた涙がここにきて決壊しそうで、朱鈴は必死に唇を噛んで、布団を握りしめて堪えた。

「馬鹿だねえ…。泣きたいなら泣いていいのに」

 優しい手つきで日向が力の限り布団を握る朱鈴の手を包んでくれる。その言葉に、その優しさに朱鈴は涙を零しそうになったが、懸命に笑顔を作って浮かべた。

 涙は流さないとあの時決めた。だから朱鈴は泣くわけにはいかなかった。どんなに優しくされても泣くわけにはいかない。朱鈴はたくさんの人の希望を胸にしているから泣くわけにはいかないと自分に言い聞かせ、涙を堪えた。

「陣炎様」

 ふわりと風が頬を撫でたと思うと窓際には玖暎がいた。小さな窓があいているところを見ると彼は窓から入ってきたらしい。泣きそうになっていた朱鈴は玖暎の身のこなしに涙も忘れ、少し感心してしまった。

「玖暎か。どうだった?」

 陣炎の言葉を受けた玖暎はチラリと朱鈴に目をやるが、すぐに陣炎の方へと戻す。その仕草が何故か気にかかったが、問う暇もなく玖暎は報告してきた。

「華陵国王家は樹俚国の手の者によって断絶されたようです。現在は樹俚国の支配下にあるようで、兵士が多く見られました。華陵国の国民で外に出て仕事をしているのは子どもと老人だけで、若者の姿は一切見られませんでした」

「…華陵国が樹俚国に取られたか…」

 陣炎と玖暎の間で淡々と交わされる会話の中で朱鈴は耳を疑った。玖暎の報告の中では樹俚国が華陵国を支配しているという。そんなことが信じられない朱鈴は声が出ないことも忘れて玖暎に縋り着くようにしながら叫ぶように口を開けてしまう。だが、声が出ないことを思い出して歯噛みすると急いで筆と紙を取り出す。

『本当に樹俚国ですか? 松按(しょうあん)(こく)ではないんですか?』

 玖暎に向かってそう書いた紙を勢いよく見せると玖暎は僅かに驚いたように目を開いたが、すぐに元の表情に戻る。

「松按国を装っていましたが、髪の色や瞳の色、それに武器などを見ると樹俚国であることがわかりました。言葉も松按国の言葉を使ってはいましたが、微妙に樹俚国の訛りが出ていました」

 淀みなく告げられた言葉に朱鈴は勢いを失い、掴んでいた玖暎の腕を離し、その場に力なく座り込んでしまう。

「…その様子だと攻め込まれたことは知っていたが、攻め込んだのは松按国だと思っていたらしいな」

「でもなんで松按国を装わなきゃいけなかったのさ? ていうか松按国も樹俚国も華陵国の同盟国でしょ? なんで?」

「俺に聞くな。そんなことわかるわけないだろ」

 琉惟の言う通り、朱鈴は華陵国が攻め込まれていたことを知っていた。と言うよりも攻め込まれたその場に居て、逃げ出してきたのだ。朱鈴が負っている傷は逃げた事が知られ、連れ戻されそうになっている時についたものだ。下手をすれば死んでしまっていたかもしれない怪我だ。攻め込んで来た樹俚国は朱鈴を捕まえる、と言うよりは情報が漏洩することを恐れていたのだろう。市で華陵国の噂が一つもなかったことを考えてみると樹俚国は華陵国を攻め入ったことを他の国に知られたくないようだ。

「何にしろ、樹俚国の目的を知る必要があるみたいだな…。戻ったばかりで悪いが、玖暎。樹俚国の動向を探ってきてくれ」

「承知しました」

 茫然としている朱鈴の前から玖暎が姿を消したことでようやく我に返る。信じられないことだが、どうにも信じなければいけないようだ。朱鈴は止まっていた思考を動かし、これからの事を考える。

 実は朱鈴は樹俚国へ助けを求めに行くところだった。攻め込んで来たのが松按国だと言うのならもう一つの同盟国の樹俚国へ助けを求めた方がいいと言われていたのだが、今の話を信用するとなれば樹俚国へは行けない。行けば捕まりに行くようなものだ。だが代わりに松按国にも助けを求めに行けない。樹俚国が松按国を装っているなら、何か罠があるかも知れない。それに各国の装いは独特で通常は真似できるものではない。もしも松按国と樹俚国が手を結んでいるのだとしたら、助けを求めることなどできない。しかし、それでは朱鈴の役目が遂行できない。たくさんの人から託されたこの役目を遂行することが朱鈴の目的であり、生きる意味だ。

 そこまで考えて朱鈴は唇を噛みながら陣炎達の方へと向き直る。同盟国である二国には助けは求められない。だとしたら大陸一の大国である扇桜国に協力を仰ごうと思ったが、陣炎達を見るとそれが得策ではないように思えてきた。もしここで陣炎達に事情を話して協力してもらうとなると、華陵国が再興した際に扇桜国に大きな貸しを作ってしまうことになる。大国である扇桜国から何か無茶な要求をされたりしたら小さな国の華陵国はすぐさま潰れるか、潰されるか、隷属することになるだろう。例え華陵国が復興できる一番確実で一番早い方法だとしても、後の事を考えると頼むことができない。

 だが、そんな朱鈴の胸中など知らない陣炎は口元に笑みを浮かべる。

「樹俚国が相手なら少しは協力してやる。先の暗殺者のことを入れても、あそこはうちに取っても危険な国だからな」

「陣炎! またお前は…!」

「いいだろ、少しくらい」

「そうそう。ケチだねえ、琉惟は」

「日向…!」

 唇を噛みしめていた朱鈴は陣炎の軽さに呆気に取られる。協力をしてくれるのはありがたいが、今しがた朱鈴の中で扇桜国には頼らない、という結論が出たばかりなので素直に受け取れず曖昧に笑ってしまう。申し出は嬉しいが、その言葉の裏に何かあるのかと探ってしまうのは彼が龍家の後継者だからなのだろうか。

「まあ、今は怪我を治すのに集中した方がいいだろう」

 気遣うような笑みを浮かべる陣炎に朱鈴は目を見開き、次いで感謝を述べるように丁寧に頭を下げた。気遣うように細められた菫色の瞳が魅力的で見とれそうになった朱鈴は頬が朱に染まっていた。それを隠す様に下げていた頭を上げる時に手で顔を覆う。

「具合悪いの?」

 朱鈴の顔を覆う仕草を具合が悪くなったと取ったらしい日向が顔を覗き込んでくる。それに朱鈴は慌てたように首を振るが、信用出来なかったらしく、額に手を伸ばして計温し始めてしまった。陣炎に見とれて自分でもわかるくらいに熱くなっている朱鈴は慌てて逃れようとするが、日向に抑えられてしまった。

「微熱がある。今薬を持ってくるから、ちゃんと寝てな!」

 止める間もなく出て行こうとする日向に大丈夫だと表現してみるが、「安静に!」と怒られただけで彼女は足早に部屋から出て行ってしまった。日向を止めることができなかった朱鈴は申し訳ない気持ちになりながら言われた通りに布団に戻ろうとすると、陣炎と琉惟がまだ部屋に居ることを思い出した。

「俺はもう行く。…日向の言う通りにしておかないと後が怖いぞ」

 朱鈴の視線に気づいた陣炎が悪戯じみた笑みを浮かべて腰を上げると従うように琉惟も腰を上げる。どうやら彼も陣炎と共に出ていくようだ。

 二人が出ていくのをきちんと正座して見送っていると琉惟くるりと振り返った。

「もう逃げるなよ」

 それだけ言うと彼は踵を返して今度は振り返ることなく部屋から出ていく。静かに襖が閉まるのを待ってから朱鈴は胸を抑えて大きく息を吐いた。

 逃げるな、と言った時の琉惟の顔が怖かった。悪戯をした後に怒られた子どものような心境になっている朱鈴は何度か大きく息を吸って、吐いて、呼吸を落ちつけた。

 琉惟の事は嫌いではないが、あの切れ長の紺青色の瞳で睨まれるとどうにも息がし辛くなる。怖いと言う感覚とは少し違うのだが、動けなくなる。迷惑をかけているので琉惟が苛立ちを感じて朱鈴に対する態度がきつくなるのはわかるが、ああも睨まれてしまうと仲良くなれそうにはないように思えて、少し寂しい。

 朱鈴はもう一度だけ大きく息を吐くと布団へ戻る。まだ傷が治るまでには時間がかかる。その間に考えることもあるので朱鈴は大人しく布団へ戻った。身体を横たえると疲労を感じ、瞼が重くなったが、聞いたばかりの話を整理しておきたくて目を擦って無理矢理意識を持ち上げる。

 助けを求めに行こうと思っていた樹俚国には行けない。松按国にも樹俚国と繋がっている可能性があるために助けを求めに行くことはできない。となると朱鈴はどこへも助けを求めに行くことができない。元々小さく閉鎖的な国であったために同盟国は必要最小限にしていたことが今、災いしている。どこの国にも助けを求めに行けないのは朱鈴としては少し辛いものがある。華陵国を救いたいのに救う手段がない。それはとても歯痒かった。華陵国の現状を玖暎から聞いたことで朱鈴は一刻も早く国に戻りたいのだが、華陵国を救う手立てもないまま戻るわけにはいかない。

朱鈴はせめぎ合う感情に呑まれそうになりながらも必死に考える。使いたくはないが、最後の手段が朱鈴にはある。それを使えば華陵国を救うことは可能だが、それを使うにはあまりにも危険が大きい。出来れば最後の最後、どうしようもなくなった時以外では使いたくはない方法だ。今はまだその時ではないからその方法を使うことを考えたくはない。

 また瞼が重くなり始めて朱鈴は目を擦る。だが、どうにも眠気が飛ばずに意識が途切れがちになる。まだ考えたいことがある朱鈴としては今寝たくはないのだが、思考に反して意識は遠退いていく。

 途切れゆく意識の中で朱鈴の脳裏に懐かしい人々の顔が浮かんで、少しだけ泣きそうになった。


❀ ❀ ❀


「ねえ、陣炎」

「何だ?」

「アヤメの紋って何かわかる?」

「アヤメの紋?」

 自室で書類作業を進めているとお茶を入れに来た日向が突然そんなことを聞いてきた。聞かれた陣炎は記憶を掘り返すが、アヤメの紋に覚えはない。そう素直に返せば日向は何かを考え込んでしまった。

「どっかで聞いたことがあるような気がするんだけど…」

「アヤメの紋がどうかしたのか?」

 情報通の日向が珍しく悩んでいるのが気になり手を休めて聞いてみると日向は頭を抱えたまま返してきた。

「朱鈴ちゃんを着替えさせた時に見えたんだけどさ、朱鈴ちゃんの左胸の辺りにアヤメの紋があったんだ。それが気になってさ…」

「ただの珍しい痣じゃないのか?」

「痣…とは違う気がするんだよ…」

 気のない返事をする琉惟に真面目に返した日向はまだ悩んでいる。こうまでして悩む日向は本当に珍しかった。情報通で、もの覚えがいい彼女をそれほど悩ませる朱鈴のアヤメの紋というのが段々と陣炎も気になってきた。

「文献には載ってなかったか? 昔のやつが保管庫に残ってたはずだが」

「もう見てきたんだけど…ほら、華陵国って文献自体少ないから書いてなくて…」

 未だに唸り声を上げて考え込んでいる日向に琉惟は興味がないのかため息をつきながら書類を片づけている。

「日向、陣炎の邪魔をしに来たのか?」

 呆れたように琉惟が言うと日向はすぐに「違うよ!」と言い返すが、それがいつもの日向ではなく、そのアヤメの紋がどうしても気になっているようだった。そんな日向についに琉惟が観念したように息を吐く。

「俺も人に聞いてみるから、お前は仕事に戻れ」

 追いやるように手を払うと日向は怒ったような声を出すが、それもすぐに唸り声に変わる。そのまま唸りながら部屋を出ていく日向を心配そうに見ている琉惟が可笑しく、噛み殺す様に笑みを零すと、耳聡い琉惟に笑い声を拾われてしまった。

「陣炎…。さっきから手が止まってる」

「気になるなら日向を追いかけろよ。俺は気にしないから」

「陣炎…!」

 からかうように言えば案の定琉惟は怒ったような声を出してきた。顔が僅かに赤くなっている琉惟にまた笑みが零れたが、琉惟は怒る気も失せたのか陣炎から意識を逸らして書類整理を再開させた。その様子がつまらなく、陣炎はすぐに笑みを引っ込めてしまう。

「アヤメの紋…か…」

 先程日向が言っていたことが妙に気になって口から漏れ出る。日向には聞いたことがないと言ってしまったが、実は聞き覚えのある言葉のような気がしてきた。それをどこで聞いたのかまでは憶えていないが、誰かから聞いたような気がする。

「後で父上にも聞いてみるか」

 自分でもどうしてこれ程気になるのかわからないが、気になりだしたものは仕方がない。陣炎は日向の言葉を頭の隅において書類を片づけ始めた。


❀ ❀ ❀


 怪我も順調に回復し、動いても支障がなくなり始めた頃。朱鈴は陣炎の許しを得て保管庫から樹俚国に関する書物持ち出し読み漁っていた。古い文献ばかりだが、何か役立つ知識はないかと目を光らせながら読んだのだが、樹俚国の歴史や文化について書かれているだけで、結局朱鈴が欲しいような情報は記載されていなかった。

 朱鈴はため息をつきながら古く分厚い本を閉じる。暗殺者などの存在を危惧しているために外には出られないが、屋敷の中では自由に行動していいと言われてから朱鈴は出会う人に話を聞いたり書物を読んだりして情報収集に努めていたが、結果は思わしくない。話を聞く過程で幾人か仲が良くなった人がいるくらいで、他に成果らしい成果はない。時間だけが無情に過ぎてゆき、朱鈴は焦りを感じていた。

 もうすぐ怪我が完治する。その前に樹俚国の情報を得たり、これからの事を決めたかった。しかし、現実はそううまくいかず、朱鈴は最近ため息ばかりついている。

――せめて玖暎から話を聞けたら。

 そう思うがまだ玖暎は樹俚国から戻ってきていないようで、陣炎も気を揉んでいた。玖暎が樹俚国へ偵察に赴いてから既に五日以上経っている。通常間者がどれくらいで戻ってくるのか朱鈴は知らないが、陣炎が気を揉んでいると言うことはいつもより時間がかかっていると言うことなのだろう。考えたくはないが、どうしても嫌な考えが浮かんでくる。どこか怪我をして動けずにいるか、見つかって捕えられているのか。朱鈴は心配だった。玖暎と話したことなど数えるほどしかないが、それでも心配だ。優しくしてもらったわけでも親しくしているわけでもないが、朱鈴は玖暎の事を気に入っている。無口で表情の変化に乏しいが、それでも朱鈴を見る瞳が僅かに優しさを帯びているという点が、ある人と共通しているからなのかもしれない。

 頭にふと浮かんだ人たちの顔を思い出して朱鈴は泣きたくなった。どうにもここにお世話になってから涙腺が緩みそうになることが多くなった。それは自分だけが手厚く保護され、穏やかに生きている所為なのだろう。時間がない、と思っているのにここから出るようとしない。怪我の事があるからだとしても、今はもうほぼ完治に近い状態だからここを抜けだすことはできる。だが、朱鈴は逃げ出さずにいる。情報が足りていない、今後の事をまだ決められていない、と言うのもあるが、ここを出にくくなったと言うのが一番の理由だ。優しくしてくれる彼らのところにいると自分の役目を忘れそうになる。それは決してよいことではない。国では朱鈴の帰りを待っている人たちがたくさんいる。その人たちのためにも朱鈴はなんとかして華陵国を救いたいのだが、その方法は未だ思い付かない。諦めて最後の方法を使おうかと考えるといつも父の言葉が甦る。優しい父の言葉を思い出すとここに居続けたいという思いが溢れてくる。だが、朱鈴はその度に頭を振ってその考えを頭から放り出す。

 今も頭を振ってその考えを放り出す。勢いよく頭を振り続けていると窓から入る風が優しく頬を撫でた。その感触に頭を振ることを止めると、同時に襖が勢いよく開いた。

「玖暎が戻ってきた。お前も話を聞きたいなら俺の部屋に来い」

 突然の来客で驚いていた朱鈴だが、陣炎の言葉を聞くと急いで立ち上がる。それを確認した陣炎は歩き出す。振り向かずに歩く陣炎に朱鈴は襖をきっちりと閉めた後に早足で追いかけた。



「連れて来たぞ」

 初めて訪れる陣炎の部屋には玖暎の他にも琉惟と日向が既に待っていた。朱鈴は戻ってきたばかりの玖暎を見るが、怪我を負っている様子はなかったので、ホッと胸をなでおろした。

「朱鈴ちゃん、こっちおいで」

 どこに座ればいいのかわからずに室内を見回すと日向に呼ばれたので日向の隣に腰を下ろす。朱鈴が腰を下ろす時に日向の逆隣に座っていた琉惟が鋭い目線を送ってきたので怯みそうになったが、なんとか腰を下ろす。

「玖暎、報告をしろ」

 全員が座ったことを確認すると陣炎が傍に控えていた玖暎に目を向ける。その視線を受けた玖暎は小さく頷くといつも通り淡々と話始めた。

「樹俚国では戦の準備をしていました。兵士の中には華陵国民の姿も見え、戦の戦力を増やすために華陵国に攻め入ったのかと思われます」

「戦、か。狙ってくるならうちじゃないのか? 陣炎は陛下から何か聞いてないのか?」

「父上は何も言っていなかったな。…玖暎、樹俚国はどこを攻めるつもりなのかわかったか?」

「決定的な話は聞けませんでしたが、話から推測するに扇桜国である可能性があります」

「まあ、仲悪いからねー」

「日向は黙ってろ。…いつ頃攻め入りそうなんだ?」

「具体的にはわかりません。ですが、準備の進み具合から言うと近いうち、でしょう」

 深刻そうに話す四人に朱鈴は大人しく話を聞き続ける。玖暎の情報が正しいなら朱鈴は行動を急がなければならない。華陵国の国民が戦の道具に使われるなど許せなかった。何としても戦が起こる前に華陵国を取り戻さなければと決意を新たにしていると玖暎がこちらを見ていることに気づき、朱鈴も見つめ返す。

「それから、松按国の方へも行ってみましたが、あちらは常時となんら変わりはありません。樹俚国には利用されただけで繋がりは皆無だと思います」

「何だ、松按国まで行ってたのか? それなら遅いのも納得だ」

「申し訳ありません」

「いや、よくやった」

 朱鈴を見つめて報告してくれた玖暎に呆気に取られるが、朱鈴はすぐに我に返って玖暎に向かって深く頭を下げる。

 陣炎には樹俚国の偵察しか言われていなかったが、朱鈴が松按国のことを気にかけていたからわざわざ様子を身に行って来てくれたらしい。決して楽ではない事、しかも主人の命令に入っていなかったことを玖暎が自ら進んでやってくれたことに朱鈴は深く感謝していた。その思いが少しでも伝わればと思い深く、丁寧に頭を下げる。

「樹俚国か…。陛下に報告した方がいいんじゃないか?」

「あー…。父上のことだから知っている可能性が高いな。知ってて俺を試してそうだ」

「桜水様ならやりかねないねー」

「だから陛下と呼べ!」

「琉惟はうるさいって!」

「俺からしたら二人ともうるさい」

 言い合いを始めそうになっていた二人に陣炎が笑みを交えて言うとピタリと口を噤む。その様子がおかしく、朱鈴が小さく笑みを零すと琉惟に睨まれてしまった。

「で、朱鈴はどうする?」

 琉惟に睨まれたために笑いを引っ込めようとしていると突然陣炎にそんなことを聞かれた。始めこそ何のことか意味がわからなかったが、すぐにこれからの身の振り方について聞かれているのだと思い、懐から筆と紙を出して書き記す。

『怪我が治り次第お暇したいと思います』

「ここを出た後どうするつもりだ?」

 予期していなかった陣炎の質問が咄嗟に理解できなかったが、すぐにまた筆を走らせる。しかし、どう書けばいいものか悩んでしまい、結局筆が止まってしまう。何度か筆を持ち直して何か書こうと思うが、筆は紙の上を走ってはくれない。

「まだ身の振り方が決まってないのか?」

 琉惟に棘のついた言葉を投げられ、朱鈴はうなだれてしまう。

 一刻も早く国を救いたいとは思うが、実際どう行動するかはまだ決まっていない。松按国が樹俚国と無関係なことを聞いたのでそちらに向かおうかとも思うが、助けを求めに行く間に戦が始まってしまったらと思うとまた悩んでしまう。

 筆を握ったままうなだれていると頭を乱暴に撫でられた。

「身の振り方が決まるまで、ここに居るか?」

 陣炎の言葉に頭を上げると菫色の瞳がすぐ目の前にあって心臓が大きく跳ねた。だが、それよりも気になったのは陣炎の言葉で、朱鈴は目を見開いてしまった。

「お前一人くらいなら邪魔にならないしな。どうする?」

 朱鈴の頭に手を置いたまま陣炎に訊ねられ、朱鈴は咄嗟に反応が出来なかった。本当にいいのかと返答に詰まっていると先に声を上げたのは琉惟の方だった。

「陣炎! お前はまたそうやって…!!」

「樹俚国に支配されてる華陵国に戻すわけにもいかないだろう。うちの屋敷なら一人増えたところで支障はない」

「そう言うことを言ってるんじゃない! お前は後継ぎなんだからもっとよく考えて…!!」

「拾った人間を途中で見捨てるわけにもいかないだろう」

「人間を犬猫と一緒にするなっ! 子どもでもないんだからそこまでしてやる義理はないだろう! ましてや利用価値はもうないんだぞ!?」

「うるさい琉惟は放っておいていい。お前が決めろ、朱鈴」

「陣炎っ!!」

 陣炎の後ろで必死に声を上げて反対している琉惟を無視して朱鈴の方だけを見つめる。朱鈴を見つめる菫色の瞳は強い意志を宿していて、陣炎の言葉が嘘でないことがうかがい知れる。

 正直、朱鈴は迷っている。身の振り方を決めるまで、という言葉に甘えてもう少し考えてから行動するべきか、それとも一刻も早くここを出て松按国を目指すべきか。朱鈴の頭の中で天秤がぐらぐらと揺れていた。どちらかに傾きそうで傾かず、陣炎に返答が出来ずにいると隣に居た日向が腕を引いてきた。

「そうやって考えるくらいなら甘えちゃえば?」

 悪戯じみた顔でそう囁いてきた日向に朱鈴はキョトンとして思わず頷いてしまう。後からしまったと顔を強張らせるが、目の前に居る陣炎は笑っていた。

「決まりだな。ゆっくりしていけ」

 朱鈴の頭を軽く叩くようにしてから手を離すと陣炎は未だに反対している琉惟を黙らせていた。

 陣炎の手があった頭に自分の手を置いてみるとなんだが陣炎の温もりがあるような気がして顔が熱くなった。自分でも何故こんなことをしているのかわからないが、陣炎の触れたところに触れたくて手を伸ばしていると勘違いして日向が陣炎に向かって「加減しなよ、陣炎!」と叫んでいた。朱鈴は慌てて頭から手を離して日向を止めるが、日向には伝わらなかなったようで「痛かっただろう?」と優しく頭を撫でてくれた。頭を撫でてくれる日向の暖かさで陣炎の温もりが消えて寂しく感じたのは朱鈴だけの秘密である。


❀ ❀ ❀


「あのさ、玖暎」

「何か?」

「アヤメの紋って聞いたことある?」

「アヤメの紋?」

「またそれか、日向?」

 日向は先日から気になり続けていることが未だに思い出せずにいるらしい。ここまで来ると珍しいを通り越しておかしいとすら思ってしまう。

「陣炎も琉惟も知らないって言うんだけど…玖暎は?」

 お茶を出しながら玖暎に聞いている日向に陣炎は手を休めずに耳だけ向ける。本当は手を休めて日向の話を聞きたいのだが。傍で琉惟が見張っていてそれができない。最近度々街に降りるようになったから書類仕事が溜まってしまった。それを片づけるまでは部屋の外に出さないと琉惟に脅され、今は部屋に軟禁されているような状態でいる。元はといえば仕事を放り出していた自分が悪いのでさすがの陣炎も大人しく従っている。

「聞いたことは……あると思います」

「本当に!? どこで?」

 しばらく考え込んでいた玖暎の言葉に日向が飛びつかんばかりの勢いで聞いてくる。顔のすぐ目の前まで近づかれた玖暎は驚いたように身体を仰け反らせている。

「どこで? どこで聞いたの?」

「日向…玖暎が困ってるから離れろ」

 仰け反っている玖暎に更に近づいていく日向に見かねた琉惟が注意すると日向は琉惟を見つめるが、大人しく下がり、元いたところまで下がる。日向が下がったことで玖暎は僅かに安堵の息をついて元の姿勢に戻った。

「確か…華陵国で聞いたと思います」

「華陵国で?」

「はい」

 確かめるように陣炎が聞いてみると間を置かずに返事が返ってきた。華陵国で聞いたことがあると言うのなら朱鈴は確かに華陵国民なのだろう。だが、日向が気になるのはそこではないらしい。

「じゃなくてさ、アヤメの紋って何かを指してなかった?」

 少し考えながらそう告げてくる日向に陣炎も琉惟も首を傾げる。陣炎は日向達の話が気になるあまり手を止めてしまっているのだが、琉惟は気がついていない。どうでもいいような態度を取ってはいるが、琉惟も気になっているのだろう。

「アヤメの紋を華陵国で聞いたことがあるなら、それを持つ者が華陵国民であることを指すんじゃないのか?」

「違う。…はず…」

 曖昧ながらも琉惟の考えを否定して日向はまた考え込んでしまう。玖暎も考え込んでいるようで室内には沈黙が満ちる。聞いたことのない陣炎と琉惟は互いに顔を見合わせ、肩を竦ませるしかない。

「父上に聞いてみたが、あの時の様子からすると本当に何も知らないらしい」

「アヤメの紋…やっぱり聞いたことがないが、どうしてそこまで気になってるんだ?」

 わからない者同士で考えてみるが、すぐに行き詰る。大人しく日向達の言葉を待つしかないようだ。だが、二人はいつまで経っても言葉を発せず、唸るだけ。やがて考えることに飽きた陣炎は書類へと目を映した。

 気になってはいるが仕事を片づけなければならない。せめて片付く頃には思い出していて欲しいと思いつつも陣炎は仕事を再開させた。


❀ ❀ ❀


「失敗した?」

 先の任務を報告すると雇い主は怪訝そうな声を出した。頷いて肯定を示すと途端に不機嫌そうな顔に変わる。

「龍家の後継者達に阻まれました」

 続けざまの任務失敗に堅い声で報告すると何かが飛んできてすぐ傍で砕けた。横目で見ると湯のみが割れている。癇癪を起して投げてきたらしい。

「ようやく行方を掴んだと思ったら龍家に匿われているのか…。厄介な…」

 親指の爪を齧っている雇い主に俺は声もなく気づかれないように嘲笑を浮かべてしまう。

金で雇われているだけなので雇い主に対して尊敬の念もなければ恩義もない。ただ金を払うので働いているだけだ。でなければ頭の足りない彼に仕える意味はない。

「まあまあ。次がありますよ」

 彼の傍から聞こえた声に俺は相手に気づかれない程度に顔を顰める。最近彼の傍に居るようになった優男が癇癪を起こす彼を宥めている。正直、俺はあの優男が気に食わない。優男が来てから雇い主が随分と無茶なことを言うようになった。華陵国を攻め落とすこともこの男の案だった。神の加護を受けているという伝説を持つ華陵国に攻め入ることに雇い主は始めこそ反対していたが、最後には丸めこまれて攻め入ることなった。男の言うままに攻めて落とすことができたため雇い主は今では男の言いなりだ。それこそ、自国を放ってまで言うことを聞いている。お陰で今、国の情勢は酷く不安定だ。常々頭が悪い雇い主だと思っていたが、ここまでとは思わなかった。全ての変化は男が現れてから。俺はため息が出そうになるのを堪えて平静を装った。

「行方知れずだった巫女が見つかっただけでもよいでしょう。それに、国思いで懸命な彼女なら、進んで自分の身の上を龍家の若君に話すはずがありません。何の価値もない少女をいつまでも匿っている程龍家もお人好しではないでしょうから、一人で出てきたところを狙えば良いのです」

「そうか…そうだな…。龍家がいつまでも匿っているわけはない。…だが、一刻も早く手に入れたいのだ」

 優男の言葉を受け入れながらも我儘を言う彼に小さい笑い声が聞こえてきた。それは近くに居る彼には聞こえていないようだったので、俺の錯覚だったのかもしれない。

「ならばこうしては如何でしょう?」

 秘密の話をするかの如く小さな声で話しているようだが、生憎と俺は耳がいい。これくらいの距離ならば囁き声を拾うことは簡単だった。表面上は指示を待っているように見せ、実は神経を尖らせて優男の言葉を拾っている。

「如何ですか?」

 優男の話が終わると俺は舌打ちをしたい気分になった。俺自身頭がいい方ではないが。この方法は危険を伴うことは少し考えればすぐにわかる。だが、雇い主は優男の話に乗り気なようで、先程までの不機嫌が消え、今では上機嫌に変わっている。

「早速やるとしよう! おい、頼むぞ!」

 嬉々として命を出そうとしている雇い主に俺は不機嫌さを押し殺して返事をした。

 彼の隣に立つ優男が俺を見て小さく笑ったのに気づいた俺は、今度こそ本当に舌打ちをして部屋を出ていった。


❀ ❀ ❀


 窓から差し込む月明かりを浴びながら朱鈴は紙と睨めっこをしていた。机の上にある紙にはこれからどうするか、いくつかの候補を書き出してある。それを睨むようにしながらもう何時間も見つめているのだが、決心はつかない。色々な可能性を考えると迂闊に動くことができず、こうして悩んでしまう。早く決めなければと気持ちばかり急いで行動がついてこない。それに苛立ちを感じてしまって朱鈴は小さくため息を漏らした。

 身の振り方が決まるまではここにお世話になることになったが、朱鈴としてはなるべく早く出て行きたかった。琉惟に言われたように、今の朱鈴は彼らに取って利用価値がない。それなのに置いてもらうことが心苦しくて朱鈴は早く決めてしまおうと躍起になる。迷惑をかけないため、早くと急いているのだが、実はそれ以外にも理由があった。それは陣炎の事。不器用ながら優しくしてくれる陣炎を、朱鈴は意識し始めていた。何度か頭を撫でられたり見つめられた事があったが、その度に心臓が跳ねてうるさい。この気持ちが何と言うものなのか朱鈴にはわからないが、無意味にここに居続け、陣炎から離れがたくなるのは朱鈴としてはよくない。そうなる前に、という気持ちもあって決断を急いでいるのだが、決まらない。

 朱鈴は小さな窓から見える月を見上げる。三日月が太り始め、満月に向かっているが、まだまだ満月には遠い。それを見つめてまたため息をつくと襖を叩く音が聞こえてきた。

「入るぞ」

 襖の向こうから聞こえてきた声に朱鈴の心臓が跳ねる。つい今しがたまで考えていた本人が静かに襖を開けて朱鈴の部屋に入ってきた。

 夜に陣炎一人で朱鈴の部屋に来るのは初めてのことだ。いや、昼間だとしても陣炎一人で部屋を訪れるというのは初めてだ。いつもは琉惟か日向が一緒に来る。だが、今夜は陣炎一人で来た。しかも、片手にはお盆を持っている。似合わない組み合わせに目を丸くしていると陣炎は朱鈴のもとへと近づいてくる。

「お前、甘い物は好きか? 日向が買ってきた菓子なんだが、中々うまいぞ」

 言いながら畳みの上にお盆を置く。そこにはお茶の入った湯のみが二つと菓子が乗った皿が一つ置いてあった。

 朱鈴は華陵国では見たことのない菓子を不思議そうに見つめる。

「これはカステラという菓子だ」

 饅頭や団子のような朱鈴の知っている菓子とはまるで違うそれを見つめていると陣炎に食べるように促された。恐る恐る手を伸ばし、楊枝を取ってカステラを切ってみると予想以上に柔らかく、少し驚いた。小さく切り分けたカステラを口に運んで咀嚼してみると、ふわりとした触感と程良い甘さ、それに優しい卵の香りがしてとても美味しかった。朱鈴は思わず笑顔になって残りのカステラに手を伸ばし、ゆっくりと食していく。その様子を見た陣炎は満足そうに笑いながらお茶を飲む。

「気に入ったみたいで何よりだ」

 微笑みを向けられた朱鈴はその優しい顔に心臓が跳ねてしまい、カステラが詰まりそうになって慌ててお茶を飲んだ。陣炎は朱鈴のその奇妙な動きに気づきながらも首を傾げてお茶を飲む。

「この菓子はな、日向がお前のために買って来たんだ」

 皿に乗っていたカステラを食し終えた朱鈴に陣炎が面白そうに話す。聞かされた朱鈴は目を見開き、次いで申し訳なさが込み上げてきた。

 お世話になっているだけでも心苦しいというのに菓子を買ってもらうなどと気を使ってもらうのはとても申し訳なかった。だが陣炎は朱鈴がそんな風に思っているとは知らずに笑みを浮かべたまま話続ける。

「食の細いお前の事を日向が心配しててな、菓子なら食うだろうって買って来たんだ。…お前、日向に好かれたな」

 くつくつと笑う陣炎を申し訳なさで小さくなったまま見つめる。こうして可笑しそうに笑う陣炎を朱鈴は初めて見た。いつもは飄々として大人な陣炎だが、こんな風に笑っていると少年のようにも見える。生意気で悪戯が好きそうな少年。自分よりも年下に見えるその笑みにつられるように朱鈴も少し笑みを浮かべる。

 月明かりだけが光源の部屋で陣炎と二人で笑っているとふと陣炎が真顔になり、朱鈴の長い髪へと手を伸ばしてきた。

 月明かりに照らされる長く少しごつごつとした手が朱鈴の緋色の髪を掴む。そのまま梳くように何度か撫でていると一房だけ握り、おもむろにその髪へと口づけた。蒼い月明かりに照らされたその仕草が妖艶で、朱鈴は魅入られたように動くことができなかった。

 動かない朱鈴に陣炎はゆっくりと近づいてくる。髪を掴んでいた手はいつの間にか朱鈴の頬を優しく撫でている。陣炎がすぐ傍まで近づいているのに朱鈴は未だに動けない。見つめてくる菫色の瞳に見とれて、息をすることすら忘れてしまったようだ。

 陣炎の顔が近づく。あと少し。もう少しで肌が触れ合う。視界一杯に陣炎が広がったその時。

「おい、陣炎! ちょっと話…が……」

「……馬鹿! 邪魔しちゃダメだよ、琉惟!!」

 予告もなく襖が開き、琉惟と日向が顔を覗かせたことによって陣炎の接近が止まった。朱鈴も二人の乱入のおかげで自分が今どんな状況にいるか今更ながらに理解し、一気に顔に熱が集まる。そのまままだ近くに居た陣炎から逃げるように勢いよく部屋の隅へと素早く後退する。

「あーあー。琉惟が邪魔するから…」

「…いや、待て。俺の所為なのか?」

「もちろん」

 襖の辺りで固まっていた琉惟は未だに状況がよくわかっていないのか、いつもの怒鳴り声ではなく、僅かに混乱の滲むような声を出している。日向は楽しそうに陣炎と朱鈴を見つめるが、陣炎が大きく息をつくと琉惟は思い出したように声をかけてくる。

「あー…陣炎。少し話があるんだが…」

「今行く」

 珍しく歯切れ悪い言い方をする琉惟に陣炎はいつも通りの声を出す。変わりのない陣炎を見た朱鈴はからかわれたと思い、更に顔を赤くして隅で顔を隠して蹲ってしまう。

「……悪い…」

 襖が閉じられる寸前に小さな声が聞こえて顔を上げると既に襖はしっかりと閉まっており、陣炎達は出ていった後だった。朱鈴は静かになった部屋で深呼吸をしてからもといた場所へ戻る。

 先程のあれは何だったのか。それを考えようとすると先程の情景が鮮明に思い出されてその度に朱鈴は赤くなってしまう。頬が熱くて手の熱で冷まそうと頬を包むと、冷たい夜風が頬を撫でてくれる。その感触が心地よく、朱鈴は窓を開ける。窓越しよりも鮮明に見える夜空を見上げ、心の乱れを鎮めようと目を閉じていると室内で紙の落ちる音がした。風が入ったせいで机にあった紙でも飛んだのかと思い朱鈴は目を開けて室内を見ると、部屋の中央付近に見慣れない紙が落ちていた。朱鈴がいつも使っている紅梅色の混ざった紙ではなく、通常使われている白い紙。陣炎達が落としていったのかと思った朱鈴は不思議に思いながらも紙を拾い上げた。陣炎達の落し物ならば届けた方がいいが、本当に陣炎達の落し物なのか判断のつかない朱鈴は心の中で謝罪しながら内容を読んでみることにした。

――もしかしたら樹俚国についての情報が書いてあるかもしれない。

そうとも思ったのだ。

 だが、その紙には朱鈴の思ったようなことは一つも書かれておらず、それどころか顔が青ざめてしまうようなことが書いてあった。

 手紙の内容を読んだ朱鈴は慌てて手紙を懐に仕舞うと辺りに気を配りながら部屋を出ていこうとする。部屋を出ようと襖を開けた瞬間に押し留めるような強風が吹いたが、朱鈴の足を完全に止めることはできなかった。なるべく足音を立てないように注意しながらも朱鈴は屋敷の中を駆けていく。一度通ったことのある道を通って外へと出ると、見張りのいなかった勝手口から屋敷の外へ出ていく。

 屋敷を出るときに陣炎達の顔が浮かんだが、朱鈴はそれどころではなかった。急いで港に行かなければならない。朱鈴は心の中で何度も陣炎達に謝りながら夜の街を駆けて行った。

 急ぐあまり部屋を出る時に吹いた風の所為で懐からあの紙を落としてしまったことに、朱鈴は気づいていなかった。


❀ ❀ ❀


 朱鈴の部屋を琉惟たちと一緒に出ると我知らずのうちに大きなため息が零れた。自分の先程の行動はどうかしていた。そうとしか思えなかった。本当は朱鈴に菓子を届けて元気づけるだけのつもりだった。出来れば今後のことも話しておきたいと思い、琉惟たちを連れずに一人で朱鈴の部屋に行ったのだが、それが災いした。

 明かりもつけずに月明かりだけの部屋に居た朱鈴は月の光と相まって神秘的に見えた。長い緋色の髪が風に揺れて広がり、儚く揺れる一輪の花のように見えて陣炎は見とれそうになった。平然を装えたのは奇跡としか言いようがない。

 平然を装って彼女と話していたが、カステラを口にして微笑む姿や陣炎の笑みにつられて笑う姿が可憐で、つい手が出てしまった。髪に触れるだけ。そのつもりだったはずが、無意識のうちにどんどんと彼女に近づいて行ってしまった。怯えることもせずにただ見つめ返してくる紅梅色の瞳に抗えなくなって彼女の頬に触れた。一度でも触れたら歯止めが利かなくなり、どんどんと近づいてしまって。

「助かった…」

「陣炎?」

 あの時琉惟たちが来ていなければどうなっていたか、それはあまり考えたくはない。ここまで一人の女性に夢中になることは今までなかったはずなのだが、どうにも朱鈴相手では常が通用しないらしい。

 陣炎は不思議そうにこちらを見ている琉惟になんでもない、と告げてまたため息をついた。

「で、話ってなんだ?」

「あ? ああ…街を視察しに行ってた玖暎から報告を受けたんだが、どうにも港におかしな船があるらしい」

「港に?」

 琉惟の報告に陣炎はあっという間に意識を切り替えて怪訝そうな顔をする。夕刻まではそんな報告がなかったはずだと思い出し、陣炎は一抹の不安を覚える。

「それで、玖暎はどこだ?」

「もう一度見に行ってもらってるよ。見間違いじゃ困るからね」

 主がいなくとも迅速な対応をする三人に陣炎は笑みを浮かべる。これだからこの三人は頼りになる。

「念のため俺も見に行く。日向は…」

「陣炎様!」

 指示を飛ばそうとしている時に珍しく切羽詰まった声が聞こえて陣炎は目の前に現れた玖暎を見つめる。

「玖暎! アンタもう戻ったの?」

 驚きながらも声をかけてくる日向を玖暎は完全に無視し、焦ったような表情で一枚の紙を差し出してくる。突飛な行動に怪しみながらも陣炎がその紙を開くと更に驚くようなことが書いてあった。

『華陵国民と共にお優しき巫女様を港にてお待ちしております』

「…これがどうした?」

「街から戻ってくる最中に朱鈴様らしき人影をお見かけしたので、失礼とは思いましたがお部屋に侵入させていただきました。お部屋にはその紙が落ちていた他、朱鈴様の姿が見えなかったので急ぎお知らせに参りました」

「まさか…巫女って朱鈴ちゃんのことなの…?」

 玖暎の報告に舌打ちをすると陣炎は紙を握り潰して駆け出す。向かったのは出てからそう時間の経っていない朱鈴の部屋。

「朱鈴!!」

 駆けてきた勢いのまま襖を開け、中に居るはずの人物の名を叫ぶが、部屋の中には誰もいない。開け放たれた窓から冷たい風が入り込んでいるだけだった。

「陣炎! 朱鈴ちゃんは…って陣炎!」

 遅れてきた日向の問いを無視して陣炎は朱鈴の部屋を後にする。今度向かうのは屋敷の外。月が真上に見える程の夜中に外に出ていると考えられないが、玖暎が見た人影と言うものを信じて港を目指す。

 朱鈴は国思いの少女だ。巫女という言葉は引っ掛かるが、華陵国民と待っているなどと書かれた紙を見たとすれば彼女のことだからすぐさま港に向かうだろう。

「樹俚国の仕業か…!」

 華陵国民を捕えていると言うような文面から推測すると樹俚国の者の仕業だろう。華陵国民の朱鈴が龍家に居ると言うことがどこから知られたのか、何故朱鈴を狙っているのか考えるのは後回しにしてとにかく陣炎は走った。

 朱鈴を樹俚国に取られるような最悪の事態を防ぎたい。

 陣炎は何故そこまで朱鈴に執着するか自分でもわからないまま、月明かりが照らす街を疾走した。


❀ ❀ ❀


 息を切らせながら朱鈴は港に辿り着いた。怪我をしてから体力が衰えているのか、全力疾走をした足は震えていた。

「来たか…。こっちだ」

 港をキョロキョロと見回していると小舟に乗った人物に声をかけられた。朱鈴は警戒しつつもゆっくりと近づくと、それはいつかの暗殺者だった。今は全身黒ではないが、纏う雰囲気は冷たい刃のようで、近づくだけで緊張してじっとりと汗をかいてしまう。

「乗れ。沖まで行く」

 あからさまに警戒している朱鈴に対して彼は態度を変えることなく小舟に乗るように促してくる。朱鈴は信用していいものかと悩んだが、すぐに覚悟を決めて乗り込む。

 ゆっくりと動き出す小舟の縁を掴んで沖を睨むと、そこには大きな船が小舟を待つように待機している。朱鈴は縁を掴む力を強めながら船を見つめる。

 室内に入り込んだ紙を読んだ後に急いで駆け出してきたまではよかったが、走っている最中に罠であるような気がしてきて朱鈴は行くか行かないかを迷った。だが、文面に『華陵国民と共に』と書いてあった以上行かないわけにはいかない。嘘か真実か行かなければ確かめられない上に文面には『巫女様』と記されていた。知られている以上は行かないわけにはいかない。扇桜国の文字で書かれた文面だが、確実に相手は樹俚国であると朱鈴は踏んでいる。でなければ華陵国民と共になどと書かないだろう。敵の挑発に乗ってしまったような気がするが、今更引き返すことはできない。朱鈴はゆっくりと近づく船を見つめ続ける。

「着いた。上れ」

 単語くらいしか話すことはない暗殺者に警戒しながらも船から垂らされた縄梯子を使って船に乗り込む。波の影響で時々揺れて怖かったのだが、顔には出さずに上りきる。

「連れてきました」

 朱鈴の後から上ってきた暗殺者の彼は誰かに呼び掛けるように不機嫌さを滲ませる声をかけると、船の中から数人の男が出来てきた。その中の一人、月明かりに照らされる深緑の髪、翡翠色の瞳を輝かせて見つめてくる男が今にも踊りだしそうな程上機嫌で朱鈴の近くへとやってきた。

「おお! 鮮やかな緋色の髪、見る者を魅了する美しき紅梅色の瞳。まさにお前に言った通りだな、()(げつ)!!」

「うわさ通り、お綺麗な巫女様でいらっしゃいます」

 深緑の髪の男は傍に居た若草色の髪の男に興奮した様子で話している。朱鈴を無視しているその二人に怒りを滲ませ挑むような目線を送る。それに先に気がついたのは若草色の髪の男の方だったが、彼は微笑むだけで何を言ってくるわけでも何をするわけでもない。微笑みを浮かべ続けている彼を見ると胸の奥がざわつく。朱鈴は一層警戒して男たちと対峙した。

「華陵国の美しき巫女! 以前は偽物に騙されたが今回は本物のようだ」

 上機嫌のまま男は朱鈴へと手を伸ばしてくるが、朱鈴はそれを跳ね除ける。国の敵とも言える者に触られたくはなかった。ただそれだけだったのだが、男は何を勘違いしたのか「気高く美しい」と惚けた事を言ってきた。それに対して朱鈴は眼光を鋭くしただけで後は油断なく距離を取る。

「ああ、そうだ。まだ名を告げていなかったな。私は樹俚国の王、()緑千(りょくせん)。こっちは…」

()(げつ)と申します」

「そなたの名は?」

 無理に距離を詰めてこようとはせずに呑気に自己紹介などする樹俚国の王に朱鈴は意図をくみ取ることが出来ずにひたすら近づかぬように、そして油断しないように注意深く彼を見つめる。相手の問いにも一切答えることをせず、早く要件を述べろと言う雰囲気を醸し出す。だが、彼らはそんな朱鈴の様子に微塵も気づかない。いや、湖月と名乗った男の方は気づいているように見える。朱鈴を見つめる瞳に嘲りに色が含まれている。それがまた悔しく、きつく睨みつけるのだが、相手は全く堪える様子を見せない。

「気高いのはいいが、愛らしい声が聞こえぬはつまらんな…」

「緑千様、小鳥は警戒心があるからよいのですよ。懐かない小鳥を懐かせることこそが楽しみなのですから」

「うむ……それもそうだな」

 先程から着飾った物言いばかりする緑千に鳥肌が立ってくる。彼らにどんなに美辞麗句を並べられたとしても朱鈴は今のように鳥肌が立つだろう。それほどまでに朱鈴は相手が気に食わない。ましてや、相手が朱鈴の大事な国を攻め、今も国民を苦しめ続けている張本人ならば尚更。燃えるような怒りは覚えても、褒められて嬉しいなど感じることなどあり得ない。

 いい加減に上辺だけの会話に飽き飽きした朱鈴は苛立ち交じりに船の縁を拳で強く叩く。すると湖月と何事かを話していた緑千の顔がやっと真面目なものになる。

「怒りに震える巫女も美しいが…まあ、よい」

 ようやく朱鈴の苛立ちに気づいた緑千はため息をつきながら一歩朱鈴の方へと踏み出してきた。

「美しき華陵国の巫女よ。そなたにはこれから樹俚国で仕えてもらいたい」

 何を言い出すのかと構えていた朱鈴は怪訝そうに眉を寄せる。力づくで華陵国に言うことを聞かせている樹俚国の王が何を言っているのかと怒りを増せば、緑千は付け加えるように言葉を重ねた。

「おっと、断ることはしない方がいい。華陵国の民は私の既に手中にある事を忘れない方がいい。…国思いと評判の巫女様ならばわかってくれると思うが?」

 嫌な笑みを浮かべる緑千に罵倒の言葉を投げかけてやろうとするが、口を開いても声が出ないことに気づいて歯噛みする。声が出ないと言うことがこんなにももどかしい事なのかと朱鈴は今更ながらに痛感する。声を大にして罵倒してやりたいのにできない。やり場のない激しい怒りが胸の内で燻る。

「…神をその身におろし、神の力をふるうことができる華陵国の秘密の巫女。それが我が国に仕えてくれれば何も恐れることはない。…巫女を手に入れるためだけに華陵国を攻めたのだ。巫女が断れば華陵国などには用はない…断らないだろう、国思いの巫女?」

 力の事を知っている緑千に朱鈴は青ざめるが、視界の端に若草色が揺れているのを認めてそちらを見ると湖月が小さく笑みを零している。意味ありげなその笑みにまた胸の奥がざわつく。まるで朱鈴のことならば全て知っているとでも言いたげな湖月の笑みに朱鈴は眉を上げる。

 湖月から目を離し、緑千を見るが、彼の得意げな顔を見る腸が煮えくり返りそうだった。決断は朱鈴に預けるような言い方をしながら断ることを許さない緑千に朱鈴は怒りで目の前が真っ赤に染まった気がした。卑怯な手口を使って断れないようにしたにも関わらず、朱鈴の逃げ道を塞ぐかのように決断を預けてくる緑千が憎い。

「さあ、どうする?」

 また一歩朱鈴へと近づく緑千に朱鈴は逃げるように船尾まで駆ける。華陵国が人質となっている以上完全に逃げることなど出来るはずがないとわかっているはずなのに、近づかれることを身体が拒否した。

 暴れようにも武器もなく、力もない朱鈴にはこの状況をどうしようもなかった。緑千は朱鈴が何も出来ないと思い込んで武力行使してこないのがせめてもの救いだ。それでも、朱鈴を追うように船尾へと向かってきているのが見えて、朱鈴は唇を噛む。

 ここから逃げたい。だけど国民の事を考えると逃げることなんてできない。二つの感情の狭間で揺れていると背にした広い海から一際大きな波音がして朱鈴は何事かと目を向けると遠く離れた港の方から一艘の船が見えた。遠すぎて誰が乗っているのかなどわからないはずが、朱鈴には陣炎達が来てくれたのだと信じてしまった。

どうしてかわからないが陣炎達が来てくれている。確信などないのに朱鈴はそう思うと抵抗する気力が出てきた。

 このまま捕まって敵国で仕えることになるよりも逃げて華陵国を取り戻す方を選びたい。敵に捕まってしまえば今度は朱鈴自身が人質として使われかねないうえに、彼らのために力など使いたくはない。囚われてしまっている国民には申し訳なく思いながらも朱鈴は逃げ出すことを決意した。陣炎達がこちらに向かってきてくれているのだとしたらなんとかしてこの船に居ることを知らせるべきだと思うが、生憎と朱鈴はまだ声が出ない。試しに何度か緑千に向かって叫んでみるが、疲れるだけでかすれ声すらでない。

「逃げ続けてもどうせ海の上。行き場はないぞ」

 笑いを浮かべる緑千に諦めないと言う気持ちを込めて睨むが、緑千には通用しない。

「大人しく仕えてくれればそのうち華陵国の民に会わせてやろう。今回は邪魔な輩は置いてきたからな」

 そう言って下品に笑う緑千に朱鈴は小さな情報を得た。この船に邪魔な輩が乗っていないというのなら華陵国民は乗っていないはず。確かに先程から見える人影は全て樹俚国の者。しかも必要最低限できたのか人数が少ない。

 逃げられるかもしれない、と朱鈴の胸に僅かな希望が宿る。使いたくなかった方法を今ここで使えば逃げられる。だが、問題は使った後のことなのだが、最早朱鈴に迷っている暇はなかった。もう一度確認するように港の方を見ると、何と扇桜国が遠ざかっていた。あまりに揺れが少ないために停泊していると勘違いしていたが、この船はゆっくりと進んでいるらしい。小さく見える船が確認できるうちに何とかしなければならない。一度夜空に浮かぶ月を見てから朱鈴は覚悟を決めた。

 夜空に浮かぶ月は三日月よりも太ってはいるがまだ満月ではない。この分では反動が大きいだろうと思いながらも朱鈴は祈るように胸の前に手を組み、静かに目を閉じた。

「まさか…! 誰か、巫女を止めてください!!」

 焦ったような声が朱鈴の耳に聞こえてきて、次いで幾人かが船の上を走る音が聞こえてきたが、誰も朱鈴を止めることはできなかった。

 月に向かって祈るようにしていた朱鈴の身体から淡く燐光が放たれる。風になびく鮮やかな緋色の髪が徐々に薄くなっていく。そして次に朱鈴が目を開けた時には紅梅色だった瞳が金とも銀ともつかない不思議な色へと変わっていた。

「な、なんだ…? あれは…。なんなんだ、湖月!」

「…まずいですね…。逃げようにも逃げ場が…」

 わけがわからず慌てる緑千を他所に湖月は冷や汗を流す。じりじりと後退しているところを見ると逃げようとしているらしかった。

「な、なんでもいい! 捕えろ!!」

 湖月に相手にされなかった緑千は叫ぶように告げるが、兵士たちはその場を動けずにいる。

 月明かりを受けて輝く髪は瞳と同じで、光の当たりようで金にも銀にも見える。先程まで怒りの感情を隠すことなく発していた朱鈴だったが、今は何の感情も映さない空虚な瞳をしたまま兵士たちを見つめている。朱鈴を取り巻くように吹く風が朱鈴の長い髪を煽り、躍らせる。その様子はさながら天から舞い降りた天女のように美しく、そして神々しかった。

 誰もが朱鈴に見惚れ、動けずにいる中で一人だけいち早く正気に返って朱鈴に接近する者がいた。

「悪く思うなよ」

 朱鈴を拘束するように暗殺者の彼が後ろから羽交い絞めにするが、朱鈴は眉ひとつ動かさない。捕えられても平然としている朱鈴を訝しげに覗き込むと朱鈴は何の感情も映さない瞳で暗殺者を見つめた。

「愚か者め…」

 小さく呟くと同時に船を揺るがす大きな波が起こる。その中で大半の者はバランスを崩し、船に転がる。暗殺者の彼も例外ではなく、朱鈴を捕えていた腕を離し、自身のバランスを取るのに必死になる。そんな中で朱鈴は全く動じず、全く揺るがずにいる。

「此の娘と此の娘の住む国に手を出した事、後悔するがいい」

 何の感情も浮かべていなかった顔に極上の笑みを浮かべると同時に波が襲ってくる。この船の近辺だけで起こる通常ではありえないような波に人々は混乱し、対応に追われる。そんな中で一人冷静に朱鈴を見つめてくる湖月に朱鈴はつまらなそうな目を向ける。

「さすが、と言ったところでしょうか?」

「…何故おぬしがここにいるかはわからぬが……此の娘はやらぬぞ」

 殺伐とした空気が流れる中、波音にまぎれて声が聞こえてくる。常人には決して聞こえない声量だが、今の朱鈴ならば聞くことができる。声の主は確認するまでもなく朱鈴が待ち望んでいた彼らだった。

「次こそはいただきますよ」

 船員の混乱に乗じて船尾に足をかけていた朱鈴は苦々しく吐きだす湖月を一瞥すると、一気に下へと降りる。否、飛び降りた。

「巫女っ!!」

 オドオドとしながら船の柱に捕まっていた緑千が飛び降りた朱鈴を追うように船尾まで走る。が、すぐに襲ってきた揺れの所為で船内を転がる。見かねた暗殺者の彼が助け起こすと彼は往生際悪く船尾に近づこうとするが、船員たちの説得でなんとか抑える。

「湖月…湖月! 巫女が…巫女が…!」

 泣きそうな顔を向けてくる緑千に湖月は見つからないように小さくため息をついて目線を合わせるようにしゃがみ込む。

「緑千様。彼女の大切なものはこちらの手の中です。急ぐことはありません。今回は出直しましょう」

 優しく慰めるように言うと緑千はすぐに了承する。操りやすい彼に湖月は笑みを浮かべて彼を船室に入るように促す。

「…必ず手に入れて見せますよ。…必ず、ね」

 波の所為で混乱している船員たちを背に、湖月は朱鈴が消えた方向を見つめて呟く。その唇には小さな笑みが刻まれていた。


❀ ❀ ❀


 朱鈴を追って港まで走ると沖に見なれない船が停泊していた。港からは遠く離れているが船体に記されているのが樹俚国の紋様であることに気づくと陣炎は舌打ちをしながら近くにあった小さめな船に乗り込む。

「待て、陣炎! 俺たちも行く!」

 後ろから追いかけてきた琉惟と日向、それに玖暎が船に乗ったことを確認すると船を出す。船に乗る前に港をざっと見回してみたが朱鈴の姿は見えなかった。朱鈴を狙っているらしい樹俚国の船が沖にあると言うのならきっと朱鈴もそこへ行ったに違いない。軽い胸騒ぎを覚えつつも陣炎は沖にある船へと向かう。

「陣炎! 動き出したぞ!」

 琉惟に言葉に陣炎が樹俚国の船を見ると確かに動き出している。今宵は無風の所為で動く速さがゆっくりだが、確かに動いている。

 港からさほど動いていない陣炎達の船が動き始めた樹俚国の船に追いつくことはできそうもない。元々の距離もある。どんなに急いでも追いつけない。歯噛みしながらも諦めずに船を進めていると突如後押しするように強い風が吹いてきた。それによって陣炎達の乗る船の動く速度が大幅に上がる。

「見えてきたよ!」

 風の後押しのおかげでなんとか樹俚国の船の全貌が見える辺りまで来れた。大きな船の上の様子を覗うように目を細めると船尾に月明かりを受けて輝く人影が見えた。風を受けて揺れる金とも銀ともつかない髪色に一同が見惚れているとその人影がいきなり船から飛び降りてきた。

「ちょっと! あれ、まさか朱鈴ちゃんじゃ…!!」

 日向の悲鳴のような声で我に返ると陣炎達は急いで人影が飛び降りた辺りへと船を進めようとする。だが、樹俚国の船の回りだけ波が激しく、近づくことができない。落ちて見えなくなってしまった人影を探す様に海を覗き込むと水の跳ねる音を聞いて陣炎が目を上げる。

「…よう来てくれた」

「…お前…朱鈴……なのか…?」

 一体どういう原理なのか陣炎達の乗る船に近づく女性は海の上を平然と歩いてくる。着ている服や顔を見ると朱鈴なのだが、髪の色、瞳の色が全く違う。その上話せないはずの朱鈴は淀みなく言葉を話している。だがその話し方もどこかおかしい。

陣炎は目を見開いてその姿を見つめていると朱鈴はそのまま歩き続け船に乗り込んでくる。陣炎の問いに答えることなく乗り込んだ朱鈴からはいつもの穏やかで優しげな雰囲気は一切感じられず、代わりに触れることも躊躇われるような神々しさと美しさを感じ、雰囲気に圧倒されて言葉が出ない。陣炎の後ろに控えている琉惟や日向、玖暎も同じなのか、一様に口を噤んだまま朱鈴を見つめている。

「龍家の若よ。此の娘、渡すなよ」

 艶然と微笑む朱鈴に陣炎は思わず息を呑む。普段と全く様子の違う朱鈴に戸惑いを見せるものの、なんとか言葉を紡ぐ。

「……仰せのままに」

 朱鈴の雰囲気に気押されて恭しい態度を取った、と言うよりは陣炎の本能が恭しい態度を取らせた。逆らわず、失礼のないようにしなければならない。それは本能的に感じたことで、陣炎はそれに逆らうこと無く従う。神々しさに怖気づきそうになる心を叱咤して笑みを浮かべると朱鈴は笑みを深くする。

「見事守り通してみよ。さすれば我が加護…を…」

「朱鈴ちゃん!!」

 言葉が不自然に途切れたかと思ったと同時に朱鈴はふらりと身体を揺らして倒れ込む。船から落ちそうになるところを間一髪のところで陣炎が抱き止める。糸が切れたようにぐったりとして目を閉じている朱鈴の髪はいつも通りの鮮やかな緋色に戻っている。月明かりの所為なのか顔が青白く見え、呼吸も浅い。

「これは…一体…?」

 茫然と呟く琉惟を押しのけて日向が朱鈴に駆けより、脈拍や熱を計る。重症と言うわけではないもののあまり具合のよくなさそうな朱鈴を抱えている陣炎は朱鈴を落ちないように抱いたまま日向の作業を見つめている。

「アヤメの紋…」

「玖暎?」

 それまで沈黙を守っていた玖暎が朱鈴を見つめて小さな声で呟いたのを陣炎は耳聡く拾い上げる。

 玖暎が呟いたのはこの間から日向が気にしていた紋のこと。それが今関係あるのかと疑問に思っていると朱鈴の身体を診ていた日向が大きな声を出す。

「そうだよ! アヤメの紋!!」

「日向うるさい」

 意識のない人間の傍で大声を出す日向の頭を琉惟が軽く叩くと日向はいつものように怒りの声は上げず、琉惟を睨むだけですぐさま陣炎を見た。

「陣炎、アヤメの紋思い出したよ」

「俺も思い出しました」

 勢い勇んでいる日向と、日向の言葉に頷きながら小さく手を上げている玖暎の両人の顔を見てから陣炎は朱鈴を見つめる。日向があれだけ大きな声を上げたにも関わらず朱鈴は目を覚まさない。それほどまでに具合が悪いのかと心配しながらも陣炎はひとまずは日向達の話を聞くことにする。

「アヤメの紋って一体何だ?」

 視線を近くに居る日向に向けると日向は陣炎の腕に抱かれている意識のない朱鈴へと向ける。

「アヤメの紋ってさ、華陵国を守る巫女を指すものなんだよ」

「巫女? 紙にも書いてあった気がするな。でも、それは別に珍しいものじゃないだろう?」

「確かにそうだな。うちの国にも巫女はいるはずだ」

「そういう巫女と華陵国の巫女は全然違うんだよ」

 意味がわからない陣炎と琉惟は日向を見つめるが、日向の方はどう説明すればいいのかと言い淀んでしまう。どうにも説明しにくいようで、日向は何度も口を開けては何も言わずに閉じて、という動作を繰り返していた。

「…華陵国の巫女と他国の巫女はある決定的な違いがあります」

 見かねたらしい玖暎が日向の代わりに説明してくれるらしい。陣炎と琉惟は玖暎の方に目を映すと悩んでいた日向も少し安堵したような顔をして玖暎の方に目線を映す。助け船を出してくれた玖暎の話を大人しく聞く気らしい。

「他国の巫女は通常、神事で舞などを奉納するか、宮の雑多な仕事をこなすだけで神託を告げると言うような力はありません。ですが、アヤメの紋を持つ華陵国の巫女はその身に宿る力を使い、神と対話できると言われています。小さな国である華陵国が今まで戦禍に巻き込まれること無く平和な歴史を歩めたのも全てはその巫女が神託を告げていたからだと言われているのです」

「確か、当代の巫女は歴代随一の力の持ち主って聞いたことがあったけど…まさか…朱鈴ちゃんが巫女だったとはね…」

 小さく息を漏らしながら朱鈴を見つめる日向の目には労わりの色が浮かんでいる。それは朱鈴の境遇を憐れんでいるのか、それとも今までの朱鈴の力の功績をねぎらっているのか、それは陣炎には判断がつかなかった。

「じゃあ…樹俚国はその巫女の力が欲しいから華陵国に攻め入ったのか?」

「でも…今まで華陵国は戦禍を免れてきたはずなのに、なんでここで簡単に攻め落とされたのか気になるよ」

「そうですね。巫女の力がある限り華陵国には手出しできないはずなのですが…」

 巫女のことは理解したものの疑問の残る一同は眠る朱鈴の顔を見つめる。

 確かに琉惟達の疑問は気になる。だが、今はそれよりも朱鈴の身が心配な陣炎は息をついてから三人を見る。

「それは起きたら本人に聞く。それよりも早く屋敷に帰るぞ」

 船を動かす手を止めていた琉惟達にそう告げると三人は慌てて船を動かし始める。その様子に静かなため息をついた陣炎は腕に居る朱鈴の顔を見る。

 瞼を閉じた朱鈴は顔色が悪い以外に常と変わりがない。先程のような神々しさもなければ近寄り難さもない。いつも通り、儚い美しさを持つ少女だった。

 頬にかかっている長い髪を優しい手つきで退けてやる。体温が低く冷たく感じるが、胸は微かに上下している。

――生きている。

 それが感じられる朱鈴を陣炎は抱いていた腕に力を込めて抱き寄せる。

 朱鈴が屋敷を出たと聞いた時に感じていた不安は消え、確かに腕から感じる確かな重みに、陣炎は深い安堵の息をついた。

 自分でもわからなかった朱鈴を大切にしたいと思う感情。それが今ようやく形になってわかり、陣炎はため息とも安堵ともつかない息を何度も吐きながら船が港につくのを待った。


❀ ❀ ❀


 穏やかな風が頬を撫でて目を開けた。なんだか随分と長い夢を見ていたようで頭の中は霞みがかかったようになっていてすっきりとしない。頭を振ってみても目を擦ってみても頭の中の霞みは取れず、何故今ここに居るかが思い出せない。記憶喪失でもないのにおかしなこともあるのだと思いつつもいつものように川へと向かう。

「起きたんですか、巫女姫様」

「うん。おはようございます」

 いつも通りに挨拶を返すと彼女達も笑顔で挨拶を返してくれる。それは本当にいつも通り。なのに、どこかがおかしいと感じてしまう。まだ頭に霞みがかかっているからなのかもしれない。冷たい川の水で顔を洗えばすっきりするだろうと思って川に近づこうとするが、足は意識に反して川とは反対の方へと向かう。

 進む道の途中ですれ違う人々に挨拶をしながらある場所へと向かう。

「お、やっと起きたな。この寝呆助!」

「もう仕事は始まってるぞ。お前も早く準備しなさい」

 目指した場所には探していた人物達がいて、その人物達の顔を見たら酷く安心した。自分でも何故これ程安心しているのかと思うくらい深く安心して、涙が出そうになった。

「おい、どうした? 怖い夢でも見たのか?」

「馬鹿だな。夢は夢でしかない。安心しなさい」

 心配してくれる二人の兄に笑顔を見せたいのに泣きそうな顔になってしまって上手く笑えない。困ったような顔をする兄たちに必死に笑顔を作っていると二人は同時に頭を撫でてきた。片方は乱暴に。片方は優しく。正反対の二人らしい暖かな撫で方に泣きそうな気持ちは更に増していく。

「ちょ…! 泣くなよ!!」

「お前の撫で方が乱暴すぎるからだろう」

「俺の所為かよ!」

「二人とも、騒ぐのはいいが仕事もしなさい」

 今にも涙を零しそうにしているのを見てしまった二人は言い争いを始めそうになったが、二人の後ろから声が聞こえてきて二人の動きが止まる。

「元気がいいのはいいことよ。…あら、やっと起きてきたのね?」

「いつもより遅かったな。何かあったか?」

 動きを止めた二人の後ろから現れた父と母に堪えていた涙が一つ、零れた。それを見た四人は驚きで目を見張るが、すぐに優しい目で見つめてくる。

「お前には苦労をかける。すまない」

 くしゃりと頭を撫でられ、また零れそうになった涙を唇を引き結んで堪える。泣いたらいけない、そう思って耐えると父は苦笑した。

「…忘れないで欲しい。私たちはいつでもお前の傍に居るよ。いつでも見守っている。お前は一人ではないんだ」

「こんな危なっかしいのを一人にしたら心臓が持たないからなー」

「危なすぎて目を離すことが出来ない」

「あらあら、二人とも素直に心配だと言えばいいのに」

 母に図星を指されたらしく兄たちは少し気恥ずかしそうに顔を赤らめている。色々と言っているが四人の瞳はいずれも優しい。暖かく包んでくれるような雰囲気に少し元気づけられる。それでも、泣きそうな顔は変わらなくて、しっかりと歯を食いしばっていないと大声で泣き喚いてしまいそうだった。それを堪えてしっかりと見つめると四人の手が頭に、手に、頬に触れてくる。

「あんまり無茶すんなよ」

「栄養はしっかりと取れ」

「泣きたかったら泣いていいのよ。それから、誰か頼れる人を見つけなさいね」

 温もりを感じる四人の手に精一杯の笑顔を浮かべる。

 ここまで来たらどうして違和感を感じていたのかわかってしまった。

 つかの間の幸せ。それを噛みしめるように、心に焼きつけるように笑顔を向ける。四人の心配が少しでも薄れるように、涙を隠して微笑む。

 家族の皆は強がっていることがわかったのか、苦笑しているが何も言わない。ただ、黙ったまま触れていた手が離れていく。温もりが離れたことで時間がもうないことを知って再び涙が込み上げてきたが、もう絶対に溢さない。

「一つだけ言っておく」

 最後まで触れている頭に置かれた大きな手がゆっくりと動かされ、指が泣きそうになって熱くなった瞼を撫でる。

「もうダメだと思ったら、諦めていい。自分だけの幸せを探しなさい。お前の幸せだけが私たちの願いなのだから」

 最後まで優しい言葉をかけて、四人の姿が遠ざかる。追いかけたい気持ちを無理矢理抑えこんで笑顔で見送る。四人は心配そうな笑顔を浮かべているが、それでもよかった。つかの間でも会えたことが嬉しかった。もう少し頑張れる気がしてきた。だから、追いかけない。諦めるにはまだ早いから、止まって自分に出来ることをやる。そう決意して四人が消えた方向を笑顔で見続けた。

 意識が沈んでいく。もう行かなければならない。自分の生きる世界へと戻らなければならない。

 今のことを決して忘れないように記憶してから、ゆっくりと瞼を閉じた。


❀ ❀ ❀


 意識が浮上してきて朱鈴は目を開けた。霞む視界をハッキリさせたくて目を擦ると布が畳に擦れる音が聞こえた。

「起きたか?」

 半分だけ開けていた瞼がその声で完全に開く。霞んでいた視界が一気に鮮明になり、朱鈴は声の主を凝視した。

「まだ寝ぼけてるのか?」

 苦笑しながら額に手を乗せられる。その仕草に顔が心臓が疾走して顔が熱くなる。沈んでいた意識が完全に覚醒したが、額に手が乗せられて動けなかった。

「熱はないな。…具合はどうだ?」

 乗せられていた手が退けられたので朱鈴は身体を起こす。少し身体が重く感じられたが、特に不調は感じなかったので首を振る。すると小さく安堵の笑みを零されて朱鈴は疾走している心臓がこのまま口から飛び出してきてしまうかもしれないと不安になってしまった。

 朱鈴が寝ていた布団のすぐ傍には書類を広げた陣炎が一人でいた。他に人の姿はなく、彼が朱鈴についていてくれたらしい。朱鈴は自分が寝込む原因となった事を思い出すと疾走していた心臓が別な意味で大きく跳ねる。熱かった顔からは冷や汗が流れ、不安な目つきで陣炎を見つめてしまった。見られた陣炎は朱鈴の表情の変化に少しばかりキョトンとした顔をしていたが、すぐに表情を引き締めた。その変化に朱鈴は唇を引き結ぶ。

「…お前は三日間寝込んでいた。あれは…巫女としての力を使ったからか?」

 やはり知られているのか、と気分が沈みながらも朱鈴は小さく頷く。

 あの時見えた船はやはり陣炎達のものだった。それを承知したうえで力を使ってしまったのだから知られないわけがない。むしろ知られて当然だったのだが、朱鈴は心の隅で小さく知られていなければいいと思っていた。しかし、その願いは空しく散ってしまった。

「悪いが、お前のことは全て日向や玖暎から話を聞いた。だが、アイツらの話だけではわからないこともある。…お前の口から教えてもらえないか?」

 陣炎の言葉に朱鈴は小さく息を呑む。全て、と言ったが、本当に全て知られてしまったのかわからず、すぐに答えることができない。黙っていると陣炎は持っていた書類を放り投げ、胡坐の上で頬杖をつく。

「お前が華陵国で重要な地位に居るのなら俺たちも協力は惜しまない。だから、話してみないか?」

 そこまで言われて朱鈴はついに観念した。覚悟を決めて頷き、陣炎を見つめると彼は笑みを浮かべて見返した。

「よし、なら少し待て。今アイツらを呼んでくる」

 散らかしていた書類を手早く片付けると陣炎は立ち上がり、さっさと出て行ってしまう。残された朱鈴は陣炎が戻ってくるまでの僅かの間に心の準備をしようと深呼吸をした。



「待たせたな」

 それほど時間を置かずに戻ってきた陣炎の後ろには琉惟や日向、玖暎の姿があった。日向は起きている朱鈴を見つけると飛びついてこようとしたが、隣にいた琉惟に抑えられ、不満そうな顔をしていた。いつも通りのその様子に朱鈴が小さく笑みを零すと琉惟に睨まれたのですぐに表情を引き締めた。

「じゃあ、頼む」

 日向が入れてくれたお茶を前に朱鈴が筆を持って書き記そうとすると日向が陣炎が待ったをかけてきた。

「お前、話せるんじゃないのか?」

「そう言えば話してたよね?」

「声の出ぬふりは面倒だからやめたらどうだ?」

 三人に言われて朱鈴は大きく目を見開く。驚きの目二つに睨む目一つで負けた朱鈴は恐る恐る声を出そうと喉に手を当てる。

「…あ…」

 小さく掠れた声が出て、一番驚いたのは朱鈴だった。あの時から出なくなっていた声が今出せて朱鈴は涙が出そうになった。

 きっと、これはあの夢のおかげだ。あの夢を見たから声が出るようになったに違いない。朱鈴は心がじんわりと暖かくなって涙腺が緩んだが、すぐに気を持ち直して陣炎達を見つめる。

「み…身分を…!」

「朱鈴ちゃん!」

 掠れ声を出しつつも話始めようとすると咳が出た。大分長い間声を出していなかったので声帯が痛んだ。ひとしきり咳をしてから日向が差し出してくれたお茶を飲んで喉を潤わせてからもう一度話始める。本当はまだ声帯が痛むのだが、ここで話を止めることはできない。

「…身分を偽っていたことをお詫びいたします。龍家の若様には匿っていただいたにも関わらず、このような事態になるまで身分を明かさずにいたことをお許しいただきたく存じます」

 時々声を掠れさせながらも淀みなく言い、丁寧に頭を下げる朱鈴に一同は驚きで目を見張っているのだが、当の朱鈴はそれに気づかずに話を続けてしまう。

「私の本当の名は(よう)琳夕(りんゆう)と申します。華陵国現国王…いえ、既に亡くなりましたので先代国王ですね。先代国王、()(なん)の娘にして当代巫女を務めております。この度は私の争いごとに皆さまを巻き込んでしまって、申し訳なく思っております」

 もう一度丁寧に頭を下げてから陣炎達の顔を見ると、三人は先程よりも大きく目を見開いている。玖暎も僅かだが驚いた様子を見せており、朱鈴は回りを囲む四人が何故そんなに驚いているのかわからず、言葉を切って首を傾げてしまう。

「お前…が、陽家の娘?」

 信じられない、と言った態の琉惟の言葉に頷くと彼は額を押さえて肩を落とした。

「華陵王家に姫がいるなんて聞いたことがないぞ…」

 琉惟と同じように額を押さえて言う陣炎に琳夕は、どうしてそこで驚くのかと思いながらも理由を口にする。

「私は赤子の頃から紋がありました上に、王家の者に巫女の紋が現れると言うのは初めてのことでしたので、私のことは姫、と言うよりは巫女として育てられていたんです。ですから表舞台にはほとんど出たことがないので他国の方には知られていないんです。……と、いうか、私の事を全て知っているのではなかったのですか?」

 あまりにもおかしな反応をするので心配になって思わず聞いてみるが、陣炎と琉惟は項垂れたまま返答を返してくる気配がない。仕方なしに日向と玖暎の方へと目を向けると二人は気まずそうな顔をして顔を見合わせていた。

「あのね、朱鈴ちゃん…じゃない。この場合は琳夕様って言った方がいいのかな? ともかく、驚かないで聞いてね?」

「はい?」

「俺たちは貴女の全てを知ってはいませんでした。いえ、正確には知っていたと思っていたのですが、間違いだったようです」

「…え?」

 日向と玖暎の意外すぎる言葉に琳夕が固まる。何も言えずにいると日向と玖暎は迷いながらも丁寧に説明してくれる。

「あのね…えーっと……あたしたちが知ってたのは琳夕様が神と対話できる華陵国の巫女様だったってことだけで…」

「貴女が華陵国の姫君であったことは存じませんでした」

「…本当に?」

「そう。本当に。いや―…陣炎も琉惟も見事に撃沈してるね!」

「二人は琳夕様に対する態度を思い出しているのでしょう」

「いや、それを言ったらあたしは相当だよ?」

「日向は図太いので問題ないのだと思います」

「玖暎…アンタねえ!」

 最早琳夕の事を放って言い争いを始めた日向と玖暎。未だに沈んでいる陣炎と琉惟。頭が混乱しきっている琳夕は取り残されている隙に必死にこの状況を理解しようとしていた。

 陣炎は全て知っていると言っていた。だが、それは思い違いで、本当は琳夕が神と対話できる巫女であると言うことしか知らなかった。それなのに琳夕は全て知っていると言う陣炎の言葉を信じ込んで自分の事を全て話してしまった。そう、琳夕の勘違いで、全てを、一部しか知らなかった陣炎達に、話してしまった。

「…えええっ!?」

 あまりのことに琳夕は思わず絶叫してしまった。全ては自分が勘違いしたことが招いたことだ。いや、もしかしたら思わせぶりな事を言った陣炎も悪いのかもしれない、だが、確認しなかった琳夕も悪い。

 一番やってはいけないことを見事にやってしまった琳夕は焦りで青くなったり、早とちりした自分が恥ずかしくて赤くなったりする。

 昔から兄達に抜けている、危なっかしい、騙されやすい、など言われ続けてきた琳夕だが、正直ここまでだとは自分でも思っていなかった。最も重要な事をうっかり人に漏らした揚句、その人たちは大国、扇桜国の若君とその側近。国でも琳夕を事を知っている人は少ないのによりにも寄って一番敵に回してはいけない人たちに秘密を暴露してしまった。

あまりの衝撃で涙目になりながら時間が巻き戻せるなら戻して欲しい、と全力で神に乞うたが、風が慰めるように頬を撫でただけで時間が巻き戻りはしなかった。

「…あー…とりあえず、話を進めろ」

 一番早く正気に戻ったらしい陣炎が乱暴に頭を掻きながら琳夕に先を促してきた。顔を埋めて小さくなっていた琳夕はその言葉に顔を上げると躊躇いつつも話を続けた。琉惟は未だに沈んでいるようで、全く動かない。

 だが、進めろと言われた琳夕は何を話せばよいのか先程の衝撃で忘れてしまい、陣炎を見つめてしまう。

「お前…琳夕は何故ここに来たんだ?」

 琳夕が姫だということに気を使ったのか、陣炎が名前を呼んでくる。だが、口調自体は改める気はないようで、粗野な物言いのままである。正体を知ってもいつも通りに接してくれる陣炎に琳夕も少しだけ緊張を緩めた。

「私は本当は扇桜国に来るつもりではありませんでした。華陵国から船に乗り、樹俚国へ行くつもりだったのです」

「樹俚国へ? 敵国に何しに行くつもりだったんだい?」

 率直な日向の言葉に朱鈴は苦い笑みを浮かべる。あの時は樹俚国が敵とは思わなかったのだ。

「攻めてきたのが松按国だと思っておりましたので、もう一つの同盟国の樹俚国へ助けを求めに行こうとしたのです」

 苦い笑みを浮かべたままそう答えると日向はすぐに自分の失言に気づいたのか、気まずそうな顔をして謝ってきた。謝る日向に大丈夫だと笑みを浮かべた琳夕は言葉を続ける。

「敵が攻めてきた時に、他国に存在を知られていない私だけが助けを求めに行くという役目を下され、家族に、国民に、逃がされたのです。本来ならば姫としても、巫女としても国を離れるわけにはいかなかったのですが…巫女の方は代役を立て、逃がされました」

「だが、それが何故扇桜国に流れ着いたんだ?」

 その時の事を思い出して悲しみで顔を伏せてしまうと、ようやくショックから回復したらしい琉惟が疑問の声を上げる。琳夕は問いに答えるために伏せていた顔を僅かに上げて口を開いたが、それよりも先に陣炎の方が口を開いていた。

「逃げているところを追手に見つかり、重傷のまま船に乗って波に流された。…そんなところだろう?」

「…その通りです」

 あの時の恐怖と痛みを思い出して琳夕は唇を噛む。あの時は琳夕だから逃げられた。普通の人であったならすぐに追いつかれてしまっていただろう。あの時吹いた風は神風のようだったが、実際あれは傍に居た風の神が琳夕を助けてくれたのだ。風の神はいつでも琳夕の傍におり、警告や慰めなど、様々な事態に風を使って琳夕を手助けしてくれる。その身におろして力を借りずとも力を貸してくれる風の神に、琳夕はいつも感謝している。

 本当に全てを話してしまっている琳夕は今更ながらに不安に襲われた。本当に何もかも話してよかったのか。適度の嘘をついてしまった方がよかったのではないとかいう考えが頭を巡る。親切にしてくれた人々を疑うことなどしたくはないが、陣炎達は大国である扇桜国の人間だ。しかも王家の人間。ここまで素直に話してしまってから不安になるのでは遅いかもしれないが、それでも利用されたら、と考えると冷や汗が出てくる。琳夕は華陵国最後の王族である上に当代の巫女である。その事実は決して他国には漏れぬように細心の注意を払ってきたのだが、ここにきて琳夕自ら話してしまった。もし、陣炎の言う通りに扇桜国の協力が得られ、無事に華陵国を復興させることが出来たとしても扇桜国に大きな恩ができてしまう。それを盾に無茶な要求をされては小さな国である華陵国は逆らうことができない。仮定の話ではあるが、絶対にないとは言い切れない可能性に琳夕の顔が険しいものになる。

「まあ、いい。朱鈴…いや、琳夕の身の上とここに流された経緯は理解した。だが、聞きたいことはまだある」

 それまでの雰囲気ががらりと変わり、空気が張り詰める。琳夕は我知らずの内に背筋を伸ばし、陣炎を見つめる。ここまで雰囲気が変わってしまう疑問とは何か、考えたところで完全な答えは出なかったが、心当たりはあった。それは琳夕が一番話してはならないこと。できればそれに関するものではないと思っていたのだが、願いはいとも簡単に破られた。

「樹俚国の船からどうやって逃げ出したんだ?」

 ひやりとしたものが背中を滑ったような気がして琳夕は小さく震えた。見つめてくる陣炎の菫色の瞳が嘘を許さないと言っているようで、逸らすことができない。だが、見つめているといつまでも震えが止まらず、また、言葉が出て来なかった。

 鋭く見つめてくる陣炎に嘘は通用しないだろう。大まかな説明でも納得しないように見える。きっと真実を話さなければ納得はしないだろう。それは琳夕を見つめる陣炎の瞳から読み取れる。

 全てを話すと覚悟を決めたはずだった。だが、決意は弱かったようで、こうして話せずにいる。何も言わなければ諦めてくれるかと期待したのだが、期待に反して諦める気は全くないようだ。いつまでも続く沈黙を大人しく守り続け、琳夕の言葉を待っている。話難そうにしていれば日向が仲裁に入ってくれるかもしれないとも思ったのだが、陣炎の側近達は主に従うように沈黙を守り続けている。普段は全員がそろえばうるさいくらいに雑談をしている人たちが沈黙しているとなんとなく気まずい。だが、気まずさに勝るくらい話したくない話である。しかし話さなければこの重苦しい沈黙からはいつまでも解放されることはないだろう。

 琳夕はゆっくりと陣炎から目を逸らし、力を込めすぎて白くなっている自身の手を見つめた。

 ここまで話してしまったのだから話してしまっても変わりはないだろうと思う。だが、これは本当に重要なことだ。簡単に話せるものではない。

「…あの時」

 話す気がまるで見られない琳夕に小さな声が届く。見れば陣炎は先程と変わらない菫色の瞳でぶれることなく琳夕を見つめてきている。その瞳には諦めた様子は見られない。

「船から飛び降りてきた琳夕は、琳夕じゃなかったな。…あれは、なんだ?」

 普通の人が聞いたら意味のわからない言葉。だが、琳夕はその言葉で心臓が大きな音を立てた。そして、それと同時に諦めがついた。あの姿を知られているのならばこれ以上隠し通すことはできない。無理に隠そうとするだけ無駄だ。

 琳夕は一つ息をつくとしっかりと陣炎の瞳を見返した。もう迷いはない。こうなってしまったのは自分の不注意が原因だ。なるようになれ、と半ば自棄になる。

「…私は、他国の巫女とは少し違うんです」

「それは日向と玖暎から聞いた。神と対話できる力があるんだろう?」

 どうやら事情を知っていたらしいが、少し違っている。元々国の外には知られないようにしてきた力なので完全に知られていないのは当然だ。むしろ力の事を少しでも知っているだけでもすごいことだ。それだけ玖暎は優秀なのだろう。日向はどうやって知ったのかはわからないが、情報を得ているだけで十分賞賛に値する。

「大筋は合っていますが、少し違います。私の力は単に神と対話できると言うものではありません。…そもそも、何故華陵国の巫女が神と対話できるのだと思いますか?」

「華陵国の巫女にその力があるからだろう?」

「では、何故華陵国の巫女にはその力があるのだと思います?」

 質問に質問を返す琳夕に怒ることなく四人は話を聞いてくれる。

 琳夕が話し始めたことで沈黙は破られ、室内にあった張り詰めた空気は霧散した。代わりに普段の空気が流れ、日向達も口を開くようになった。

「生まれつき、とかじゃないのかい?」

 しばらく考えていた日向が琳夕に聞くが、首を振られる。更に考えるも四人は降参とでも言うように息をついて琳夕を見た。

「華陵国の巫女は生まれつきその力を有しているわけではありません。先代の巫女が亡くなると同時に、誰かの左胸に巫女の証が現れるのです」

「それがアヤメの紋、ということか」

「…そこまで知っているんですか?」

 琳夕は僅かに目を見開いて琉惟を見つめるが、琉惟は指で日向や玖暎を指す。知っていたのは二人の方と言いたいのだろう。指された二人は琳夕の視線を受けて苦笑いを浮べている。いや、実際に苦笑いをしているのは日向だけで玖暎は決まりが悪そうな顔をしているだけなのだが。

「ともかく、その証が現れると神と対話する力が使えるようになるんです。ですから、他国の巫女とは選出の仕方が違います。仕事として行っていることも違いますが」

「巫女の候補とかもいないのかい?」

「誰が選ばれるのかは私たちには完全にわからないのです。唐突に現れますから」

「予想も付けられないのか?」

「予想は…つく場合とつかない場合がありますね」

 曖昧な言い方をすると疑問の目を向けられる。琳夕は自分がわかりにくい言い方をしているのを自覚しているので苦笑して説明を付け加える。

「華陵国の巫女とは神に愛されし娘のことなんです。ですから、神に祝福されている者が巫女になることが多いんです。祝福を受けている人はわかりやすい祝福をいただいていることが多いので、そういった人がいる場合は予想がつきます」

「神に愛されし…娘?」

 盛大な疑問符が四人の上に上っている事を琉惟の声から察するが、その部分はどう説明したらいいのかと琳夕は頭を悩ませてしまう。

「わかりやすい祝福、というのはその髪と瞳の色のことか?」

 苦笑したまま悩んでいるといち早く理解したらしい陣炎が琳夕の髪を指してくる。

「華陵国民の特徴は栗色の髪に琥珀色の瞳だったはずだ。琳夕のような鮮やかな緋色の髪や紅梅色の瞳の者は見たことがない」

 陣炎の言っていることは当たっているので素直に頷く。琳夕自身わかりにくい説明だと思っていたのにあっさりと理解してしまった陣炎に少し尊敬してしまう。さすがは龍家の若君と言ったところだ。これくらい頭の回転が速くなければこれほど大きな国を背負えるわけがない。まだ若いと言っても後継者なだけはある。

 自分と比べてしまって落ち込みそうになった琳夕に陣炎は先を促してくる。琳夕は沈みそうになった意識を押し上げてからどこまで話したかを思い出し、続きの説明にかかる。

「アヤメの紋はその時一番神に愛されている娘の現れます。神に愛されている娘だからこそ耳を傾けてもらえ、神託をいただけるんです」

 感嘆の息を漏らす日向とは反対に陣炎と琉惟は険しい顔をしている。どうやらまだ納得できていないらしい。こんな突拍子もない話を聞いてすぐに信じられるわけではない。それは話した本人である琳夕でさえそうなのだから彼らもそうだろう。まだ話が終わっていないために琳夕が再び口を開こうとするが、それよりも早く琉惟が疑問をぶつけてくる。

「お前…じゃない。琳夕様は先程、自分は赤子の頃から紋があった、と言っていましたが、それはどういうことなんですか? 貴女が生まれると同時に先代の巫女が亡くなったのですか?」

 崩壊の危機にあるとはいえ、一国の姫である琳夕に琉惟は口調を改める。納得していないために険しい顔をしているのだとばかり思っていた琳夕は、琉惟の鋭い疑問に感嘆して目を見開く。今から説明しようと思っていたことを先に聞かれて驚いたと言うこともあるが、琉惟が思いのほかしっかりと話を聞いていたことに琳夕は驚いてしまい、反応がやや遅れてしまった。だが、四人は気にした様子を見せないので琳夕は気を取り直す。

「私の場合は特殊だったんです。私の紋は先代が亡くならないうちに現れるという異例のことだったんです。それに加えて王家から初の巫女選出で、色んな意味で特別でした」

「琳夕様は歴代随一の力の持ち主だとお伺いしました。それに何か関係があるのですか?」

「そ…うですね…。そこまで知っているんですか…」

 玖暎と日向の情報収集能力に感心しながらも驚き、琳夕の心中は複雑だった。素直に二人の情報収集能力を称賛したいのに、自国の機密事項に近い情報を知られていることに軽い衝撃を受けてできない。箝口令を敷いたわけではないが、情報の漏洩はないように細心の注意を払っていたはずだ。それに国民にも隠す様に指示していたのだが、他人の口を完全に閉じてしまうことはできないらしい。琳夕は奇しくもそのことを今学んだ。

「…何故こんなことが起きたのかは、正直私たちにもわかっていません。ですが、私の場合は紋の現れ方も特殊なら、力の使い方も特殊だったんです。通常ならば巫女は神に乞うて神託を授かるしかできません。ですが、私には他の巫女とは違うこともできるので歴代随一などと呼ばれているんです」

「…それが、樹俚国の船から逃げ出した時に使った力か?」

 頭の回転の速い陣炎に肯定を示す返答をすると案の定と言った風に息をつく。陣炎に聞かれていて、答えていなかった問いに答えにようやく辿り着く。

「私は他の巫女と違って神託を授かる力を持つ他に、神の御力をお借りすることができる力があります」

「力を借りるって…どうやって?」

「簡単です。私の身体を依代にするんです。神に私の身体におりて頂いて御力をお借りします」

 何でもない風に微笑むと琉惟や日向は目を剥いた。

「そ、それって…大丈夫なのかい? …その…身体に異常が出たりとか…」

「はい?」

「神と人は違う。そんな事をして害はないのですか?」

 二人が何に驚いているのか琉惟の言葉でわかった琳夕は僅かに眉を曇らせる。どう言えばいいものか僅かに躊躇うが、ありのままを告げてみることにした。

「害はないのですが…なにぶん巫女としては未熟ですから、体力を使います。神の力が満ちる満月の日ならば何の影響も出ないんですが…満月以外の時に神託をいただこうとしたり神の御力をお借りしようとすると何日か寝込んでしまうんです。今回樹俚国が攻めてきたのは新月の日で巫女の力が使えなく…このような事態になってしまったのです」

 琳夕は自分の未熟さを恥じて目を伏せる。

物心ついた時から巫女として修業を積んできたが、まだ最終段階に入ってはいない。時間があると思ってゆっくりと進めてきた結果がこのような未熟者になってしまったことに後悔している。何故もっと真剣に取り組まなかったのか。今となっては考えるだけ無駄なのだが、それでも過去の自分の怠惰さを叱りつけてやりたかった。

「ってことは、今回寝込んでたのは満月以外で力を使っちゃったからってこと?」

「そうです。…あまり使いたくはなかったんですが、非常事態だったので…」

 苦い笑みを浮かべて話すと日向も苦笑を返してくれる。想像で状況を理解してくれたらしい。

「あの時は何の神の力を借りたんだ?」

「海の神の御力です。今思えばあの場合は風の神の御力お借りすればよかったんですが…海の真ん中と言うことで、海の神に助けを乞うたんです」

「…だから加護、なのか…」

 琳夕の言葉に陣炎が小さく言葉を零すが、小さすぎてよく聞こえなかった。聞いてみようかとも思ったのだが、陣炎の疲れている表情をみると聞かない方がいい気がして、ひとまずは聞かないことにした。

「それにしても…神の力を借りれるなんて…便利だねえ…」

 感嘆の息を漏らす日向に琳夕は引き攣りそうになった顔を必死に笑顔に変える。日向の言うことは普通の人なら抱く感想だ。ここで感情を表に出せば日向に気を使わせてしまうので琳夕は笑顔を作って向けた。そんな琳夕の頬を優しい風が撫でていく。慰めてくれている事を理解しながらも崩れそうになる笑顔を必死に保った。

「便利、とは思うが俺はそんな力欲しくはないな」

「…え?」

 突然の陣炎の言葉に作っていた笑顔を剥がれてしまう。茫然とした顔で陣炎を見つめると菫色の瞳が細められ、乱暴ながら頭を撫でられる。

 わけがわからない琳夕はされるがままになっているが、髪が乱れ始めたのが気になり上目遣いで陣炎を見つめてみる。と、動かしていた手が急に止まり、次いで陣炎の顔が僅かに赤くなった。ように見えた。すぐに顔を手で隠してしまったので確証は持てないが。それでも、顔を覆ってそっぽを向いてしまった陣炎は何だか照れているように見えた。

「あの…どういう意味ですか?」

 そっぽを向かれた事に軽いショックを受けながらも聞いてみると陣炎は目だけで琳夕を見て、それから大きく息を吐いた。ため息にも似たそれに琳夕は更にショックを受けるが、陣炎の顔が戻ってきたのでそのショックが少し和らいだ。

「…確かに神の力を借りれるのは便利だと思う。けどな、その所為で国を攻められたり狙われたりするくらいなら…そんな力は欲しくない」

「陣炎?」

「力を得る代わりにそんな代償を払うくらいなら、そんな力はなくてもいい。琳夕には悪いがな」

 険しい顔をするでもなく、微笑むでもなく、至極真剣な顔をしてそう告げた陣炎に琳夕の胸が高鳴ったが、苦い笑みを浮かべてしまう。

 今回のことで琳夕も僅かながらもそんな考えを持った。だが、この力があったからそこ今まで国を守れてきたと思うと力を否定することはできない。第一、否定してしまっては琳夕を愛してくれ力を貸してくれる神たちに失礼だ。人には過ぎた力だとは思うが、その力が要らないと本気で思うことはない。

 それでも、陣炎の言葉に賛同したい気持ちはある。琳夕も国民を大事に思うからこそ思うのだが、決して口には出さない。何も言わずに笑みだけを浮かべておく。

「…この話はもういいか。琳夕、隠していたことはこれで全部か?」

 小さくため息をついた陣炎に聞かれ、琳夕はしばし考えてから頷く。が、声が出なくなっていた理由を話していなかったことを思い出して声を上げようとしたが、既に陣炎や琉惟達が琳夕に聞こえないように話を始めてしまっているのを見て、声を引っ込める。話したくないことであるし、話したところで気を使わせるだけだと思い直して琳夕は陣炎達の話が終わるのを大人しく待つ。

 琳夕に聞こえないように話している、と言っても同じ部屋で話しているので僅かながらにも会話が漏れ聞こえてくる。何やら揉めているようだ。琉惟が陣炎に向かって大きな声を出しているが、これはいつも通りの事なので別段心配はない。琉惟の怒鳴り声にすっかり慣れてしまった琳夕は冷めたお茶を飲みながら暇つぶしに窓の外を見て過ごす。

「だから反対だと…!」

「決定だ。…琳夕、待たせたな」

「陣炎…!」

 反対する琉惟に背を向けて陣炎が琳夕の方を向く。名を呼ばれた琳夕は窓から目を戻して陣炎達を見つめる。苦虫を噛み潰したような表情の琉惟とは反対に笑顔を浮かべる日向。表情のわからない玖暎に涼しい顔をしている陣炎の顔、と順番に見ていくが、それぞれの表情がばらばら過ぎてこれから話されることが琳夕にとっていいことなのか、それとも悪いことなのかが全くわからない。

「扇桜国は琳夕に協力する。樹俚国から華陵国を解放させる手伝いをしてやる」

 何の前置きもなく、さらりと告げられた言葉に琳夕は一瞬何を言われているのか理解できずに茫然としてしまった。口を開けたまま閉じることができずにいる。そのままの体勢で陣炎の言った言葉を一言ずつ区切って咀嚼し、意味を理解して瞠目してしまう。

「ほ、本当…ですか?」

「嘘は言わない。協力してやる」

 間抜けな顔をしている琳夕が可笑しいのか、陣炎は笑みを漏らしながら再度言ってくれる。可笑しそうに笑いを噛み殺している陣炎を茫然と見つめていた琳夕だったが、すぐに無償であるわけがないと表情を引き締める。

「…何と引き換え、ですか?」

 堅い声で陣炎に問いかけると陣炎は可笑しそうな笑みを、面白そうな笑みへと変える。

「回転が速いな。…だが、そう身構える必要はない。華陵国にとって悪い話ではないだろうからな」

「悪くないかどうかは国民に聞いてからでないとわかりません」

「いや、悪くないと思うぞ」

 笑みを意味ありげに笑う陣炎に琳夕は怪訝そうに眉を顰める。そこまで自信を持って言える話とは何なのか、もったいぶる陣炎に琳夕は催促するような目を向ける。

「扇桜国は琳夕に協力する。その代わりに華陵国が復興した際に同盟を組んでもらいたい。後は貿易の許可だな。…どうだ? 悪くない条件だろう?」

 にやりと笑みを浮かべる陣炎に琳夕は拍子抜けしてしまう。どんな難題を言われるかと構えていただけに脱力感が大きい。身体に余分に入っていた力が抜けていく。

「それだけ、ですか?」

「ああ。この条件なら父上も了解してくれるだろう。何しろ、華陵国との貿易は前々から希望してたしな」

「了解してくれるだろうと言うか、了解させるんだろう…」

「頑張ってください、琉惟」

「後ろで見ててあげるよ」

「いらん! と言うか、なんで俺なんだ? 言い出したのは陣炎だ。陣炎が陛下に頼むべきだろう」

「もちろん俺からも頼む。だが、丸めこむのは琉惟の得意技だろう」

 まだ少しばかり警戒している琳夕を放って四人は国王にどう了承してもらうかの話で盛り上がってしまっている。

 嫌そうな顔をしつつも拒否しない琉惟に他の三人は笑顔を浮かべて話している。その和気あいあいとした様が今はいない家族を彷彿させて。琳夕は切ないながらも暖かい気持ちになり、知らずうちに笑顔を浮かべて四人のやり取りを見つめる。

 国を思うと気持ちが急いたが、自分一人で頑張らなくともよくなったことに安堵した琳夕は、口喧嘩になってしまった琉惟と日向を笑いながら見つめ続けた。


❀ ❀ ❀


「何だったんだ、あれは!」

 陶器が割れる音が室内に響く。癇癪を起している緑千に傍にいた湖月は笑みを浮かべながら宥めている。だが、それでも癇癪はおさまらない。手につく物を投げ続ける緑千に小さく息をつくと湖月は隅に居た男に目を向けた。

狼迅(ろうじん)。止めてください」

「無理です」

即答された。湖月は期待しないで言ったので全く落胆はしていないが、それでもため息が出た。

狼迅は湖月の事を嫌っているので大人しく言うことを聞いたりはしない。彼が従うのは雇い主である緑千にだけだ。もっとも、金が払われなければすぐにどこかへと消えるだろうが。

「仕方ありませんね…」

 ため息ととも湖月は緑千に向かって足を進める。物を投げ続けていて危険なのだが、湖月は飛んでくるものを器用に避けながら進んでいる。

「緑千様、落ち着いて下さい」

「うるさい!!」

 軽く肩を叩くと緑千は振り向きざまに湖月に向かって物を投げてくる。だが、湖月はそれを予期していたようにあっさりと避けた。

 鼻息荒く、まだ物を投げようと辺りを探っている緑千の手を抑えるように握る。捕えられたことに怒りを感じたのか、緑千は湖月の手を払おうと力を加えるが、湖月は涼しい顔をしたまま握る。その手は力を込めていないように見えるのに、解くことができない。

「お気は済みましたか、緑千様」

 湖月に笑顔を向けられた緑千は途端にいつもの表情に戻る。あれほど激しかった怒りも消えてしまっている。遠くで観察するように見ていた狼迅はその様子に元々険しかった表情を更に険しくし、鋭い目線を送る。だが、湖月は殺気すら感じるようなその視線を受けながらも笑みを浮かべている。

「お気が済みましたら次の作戦を練りましょう」

 掴んでいた手を話し、傍にあった椅子へ緑千を座らせると緑千は大人しく従う。暴れ疲れたのか。息は少し荒いが、概ね元の通りだ。

「湖月よ…本当に巫女は手に入れられるのか?」

 先程と打って変わって弱弱しく、不安そうな顔を向けてくる緑千に湖月は柔らかな笑みを浮かべて頷く。

「もちろんですよ、緑千様。彼女は必ず緑千様の御手の中に入ります。私もお手伝いしますから」

「…そうか…。それならば安心だ。して、次はどのように攻めればいい?」

 湖月の言葉に不安が払拭されたのか、緑千は瞳に輝きを戻して地図を取り出してくる。

 華陵国を攻めた時も巫女を誘い出した時も、全て湖月の言う通りにすると上手くいった。次の作戦も湖月に任せれば上手くいくだろうと緑千は湖月に目を向ける。目を向けられた湖月は何かを企むような笑みを浮かべて机の上に広がっている地図に指を滑らせる。そして扇桜国に辿りつくとそこで指を止めた。

「次は扇桜国を攻めては如何でしょう?戦の準備は既に整っておりますし」

「だ、だが、扇桜国を攻めるには戦力が足らんのではないか?」

「何も扇桜国に勝つ必要はありませんよ。扇桜国の意識を戦に向け、その隙に巫女を奪ってしまえばいいのです」

 湖月の囁きに緑千は頷きそうになったが、直前で唸り声を上げた。

「それは扇桜国でも考えるのではないか?」

 唸るような声に湖月は少しだけ目を見開く。頭の悪いと思っていた緑千がそんなことを言うとは思ってもみなかっただけに、いつもは饒舌な湖月の口が閉じてしまった。だが湖月はすぐに気を取り直して笑みを浮かべて再び口を開く。

「でしたら扇桜国に攻め入る時に華陵国の国民を使いましょう。龍家に保護されているのでしたら早々に情報が伝わるはず。その上で文か…狼迅を使いましょう。ご自分の意思でこちらに来ていただければ龍家も手出しできないでしょう」

 至極簡単そうに告げる湖月に緑千はようやく頷く。

「ではすぐさま準備をする!」

 上機嫌で部屋を出ていく緑千に部屋の隅に居た狼迅が従うように消える。本来ならば湖月も緑千と共に室を出るのだが、室を出る直前に風が頬を撫でた気がして足を止めた。

窓を閉め切ったこの部屋で風が吹くはずがない。だが、実際に撫でた風は荒々しかった。まるで、風が怒っているように感じられた。だが、湖月は不気味がるわけでもなく笑みを浮かべた。

「止められませんよ」

 誰もいない室内にそう呟くが、それは誰にも拾われること無く消える。

「巫女は私のものです…」

 緑千が投げた物で散乱する部屋を出る寸前に湖月は誰に宣言するでもなく呟いて、戸を閉める。

 誰もいなくなった部屋では強風でないにも関わらず閉じられていた窓が激しく揺れていた。


❀ ❀ ❀


「後はこの書類を呼んでから一番下に名を書いてくれ」

「はい」

 陣炎に手渡された紙をよく読み、それから一番下に名を書く。琳夕の上には既に扇桜国の国王の名が書かれており、本当に了承されたことを実感した。

 協力を申し出てくれた陣炎達は本当にあの条件だけで国王を了承させてしまった。琳夕はその場に居なかったのでわからないが、相当揉めたのではないかと思う。いくら前々から貿易をしたかったと言っても、華陵国は今や滅亡寸前だ。そこを助けるために協力する条件が復興した後のものだけと言うのでは、国民が納得しないのではないだろうか。自分の国に置き換えて考えてみると暴動が起きそうだと思うと琳夕は了承させるために奔走してくれた陣炎達に申し訳なく思う。

 せめて何かお返しをしようと思ったのだが、着の身着のままで逃げだしてきたので何も持っていない。労働をしようと申し出ても陣炎に断固拒否されてしまい、琳夕は今無償でこの屋敷に置いてもらっていた。それが心苦しくあるのだが、当の陣炎は気にするな、というだけだった。

「できたか?」

「きゃあ!?」

 名前を書いた後にぼうっとしていると陣炎が手元を覗き込んでいて琳夕は尋常ではないくらいに驚いてしまった。

「す、すみません! ちょっと…驚いて…」

 バクバクと鳴る心臓を抑えながら陣炎に謝ると笑われてしまった。気にしていないことがわかっただけいいのだが、笑われてしまったことに少々の恥ずかしさを覚え、琳夕の顔が赤くなる。

「面白い奴だな。…この書類はもらうぞ」

 微笑みながら琳夕の手元にあった書類を取る陣炎に琳夕は僅かに見とれる。

 窓から入り込んでくる陽の光を浴びていつもは黒に見える髪が綺麗な藍色をしている。光を受けて輝いているように見える微笑みに心臓が鳴って、琳夕は先程よりも強く胸を抑える。

「…俺の顔に何かついてるか?」

 見つめていたことがバレ、陣炎が意地悪気な笑みを浮かべて見せる。琳夕は慌てて首と手を振って全力で何にもないことを表現すると、また可笑しそうに笑われた。

 書類を手早く片付け、次のものを渡される。

琳夕は今、誓約書を作る作業を陣炎と二人でしていたところだった。扇桜国の協力を得る事、見事復興した折の同盟と貿易開始について約束を違えることのないように公文書を作り、決して約束を違えることができないようにするのだ。

 この作業を始めた時は琉惟も日向もいたのだが、二人は別な仕事があるらしく、始めてしばらくすると部屋を出て行ってしまった。玖暎は華陵国を偵察に言ってくれているらしく、いない。したがって、今部屋には琳夕と陣炎の二人きりだった。

 気まずさはないのだが。気恥ずかしさがある。書類を読んでいる時や名を書いている時など、ふとした瞬間に陣炎が気になってしまう。それでも大切な誓約をしているのだと自分を叱って作業をしていたのだが、書類が少なってくると自然とあの時の事が思い出されて顔が熱くなりそうだった。

 あの時、陣炎が菓子を持って部屋に来てくれた時のこと。二人の顔が息が触れるほど近づいたあの夜。あの時は琉惟や日向が来てくれたので何事もなかったが。いつもそう都合よく現れてくれるとは限らない。否、それよりも今陣炎が迫ってくるとは思えないのだが、どうにも頭について離れない。気がつくと陣炎を見つめてしまっている。

「この書類で最後だな」

 言葉ととも手渡された書類に書いてあることは少なく、すぐに作業が終わってしまう。

完全に作業を終わらせてしまうと、何もすることがなくなり、琳夕は何故か慌ててしまった。何か話でも、と思うが話しの話題が見つからずにまた焦ってしまう。何かないかと部屋を見回しても何もなく、更に焦ってしまう。

 どうすればいいのかとぐるぐると考えていると不意に笑い声が聞こえて琳夕は一旦思考を止めて陣炎を見た。

 不思議そうな目を向けると何か安堵したような笑みを向けられ、琳夕の心臓が騒ぎ出した。

「やっぱりこっちがいいな」

 ぽつりと呟かれた言葉に意味がわからず、首を捻ってしまう。

「何がですか?」

 素直に聞いてみると陣炎は少し考える素振りを見せた後、琳夕の髪に手を伸ばしてきた。

「樹俚国から逃げてきた時の琳夕より、今の方がいい」

 樹俚国から逃げてきた時と言うと、琳夕が海の神をその身におろしていた時のことだ。神をおろしている間の記憶はないので陣炎が何故こんなことを言ってくるかわからない。更に首を捻る。

「あの時の髪色や瞳の色は嫌いじゃない。けど、俺はやっぱりこっちの色の方が好きだな」

 流れる緋色の髪をさらりと梳かれる。好き、の言葉に何故か反応してしまって琳夕の心臓がうるさく鳴る。髪を見つめる陣炎の瞳が優しく、琳夕は顔が赤くなっていくのを感じた。

「き、記憶がないので…わからないです…」

 心臓を宥めながら顔を逸らすと陣炎は少し意外そうな顔をした。

「記憶がないのか?」

「か、神をおろしている時の記憶は一切ないんです」

「へえ…。じゃあ、自分がどんななのかもわからないのか?」

「そうです。人から聞いた話だと、髪と瞳の色が変わるみたいですけど…」

 興味深そうにしていたので説明してみたのだが、そうではなかったようであまり気のない返事が返ってきてしまった。また早とちりしてしまったのかと琳夕は少し落ち込んだが、陣炎の髪を撫でる手つきを見ているとその落ち込みがどこかへと飛んでしまった。

 優しく、空気に触れるかのような触り方を見つめていると陣炎と目が合った。ドクン、と心臓が高鳴る。あの時と同じ状況に琳夕は身構えてしまう。身体に力が入って、顔が赤くなる。考えないようにしているのにあの時のことが思い出されて、更に赤くなる。

 唇を引き結んで陣炎を凝視していると僅かに苦笑した陣炎が琳夕の髪から手を離す。手と一緒に離れた身体を確認して、琳夕は小さく息を吸って高鳴った心臓を落ち着かせる。

「琳夕は…お前はお前のままがいい。神をおろしている時のお前よりも、今の柔らかい雰囲気を持つお前の方が、俺は…」

 不自然に切られた言葉に琳夕は続きを待つが、陣炎は口を手で覆ったまま口を噤んでしまった。

 真剣な表情で告げてきた言葉が最後まで聞けなくてよかったような、残念なような気持ちになって琳夕は慌てて首を振った。自分の気づいてはいけない思いに続きそうで急いで別な話題を振ろうと精一杯頭を巡らせた。

「あ、あの! えーっと…その…。あ! あの、本当にあの条件だけでよかったんですか!?」

 半ば無理矢理な話題転換な上に主語がなくてわかりにくい。自分でも何を言っているのかわからなくなりそうな発言に気づいて急いでつけ加えようとするが、それよりも先に陣炎が噴き出した声に気を取られた。先程と打って変わって笑いすぎて苦しそうにしている陣炎を見ると琳夕は己の失態を再確認しているようで何だかばつが悪かった。だが、なんとか空気を変えられたので、そこだけは安心した。

「悪い、笑いすぎた…」

 未だに苦しそうにしている陣炎に恥ずかしくなりながらも気にしていないと言うことを告げると、陣炎は一つ深呼吸してから琳夕を見つめてきた。その顔にはまだ笑みが浮かんでいる。

「今は条件の話だったか?」

 きちんと話を聞いていてくれたらしい陣炎に頷く。苦し紛れな話題ではあったが、気になっていたことではあるので陣炎の返答が聞きたかった。

「条件に何の不満もない。元々提示したのは俺だしな」

「でも、他の方の不満は…」

「華陵国との貿易を考えれば安いものだと言っていた。兵力を貸すのは渋ってたが…海の神との約束もあるしな」

「海の神との約束?」

 一体何のことかと首を捻るが、陣炎はすぐに笑顔で隠す。

「いや、なんでもない。とにかく、不満はないぞ」

「でも…その…もう少し…」

 琳夕は自分が何を言っているのか段々わからなくなってきた。華陵国の姫としてならばこの条件は嬉しいもののはずなのだが、琳夕個人として考えるとこれでは不公平な気がして申し訳ない。もっと条件を足した方がいいのではないかと思ってしまい、心の声が漏れ出てしまったのだが、今ここで条件を追加されても困るだけなので何も言えない。それでも、悪い気がして、相反する二つの感情が琳夕の中でせめぎ合って、言葉が出て来なくなってしまった。

「何をそんなに気にしてるんだ?」

 琳夕の顔色から悟ったのか、陣炎が呆れたような声を出す。嬉しい条件なはずなのに沈んだ顔を見せる琳夕に陣炎が呆れるのはもっともなため、琳夕の答える声は自然と小さなものになってしまう。

「その…悪い気がして…。不公平なのではと…」

 もごもごと話せば陣炎は更に呆れたような顔をする。その表情を見た琳夕は自分の情けなさやお人好しさに恥ずかしくなり、小さくなる。

「…そんなに気になるなら、条件を追加するか?」

「え!?」

 予想していなかった展開に勢いよく顔を上げて陣炎を見ると、意地の悪そうな笑みを浮かべている。こういう笑みを浮かべるときは大抵面白がっている時だと、琳夕は短い間で悟った。

「華陵国復興の後に琳夕を俺の正室として迎える、なんてどうだ?」

 陣炎の発言に度肝を抜かれて何の声も出せずにいるが、言葉を理解した瞬間に琳夕は真っ赤になって空気を求める魚のように口をパクパクとさせてしまう。

「じ、冗談…ですよね?」

「当たり前だ」

 くつくつと笑いを噛み殺している陣炎に真っ赤な顔をしたまま琳夕は安堵の息をついた。冗談しても心臓の悪い提案に、動揺せざるを得なかった。

「大体、そんな条件でお前を手に入れてもつまらないからな」

「……はい?」

「お前は俺の力で手に入れなきゃ面白くない。後継者だの何だのを捨てて、俺個人見てもらわなきゃ困るからな」

 何でもないことのように話す陣炎に琳夕の頭の回転が停止した。理解することを拒否しているのではないが、考えることができずにいる。何を言われたのか、全くわからない。

 陣炎は目を見開いたまま硬直してしまった琳夕の髪を一房掴むと、そこへ口づけを落とす。それを見ていた琳夕がようやく言葉の意味や行動の意味を理解して、体中の水分が沸騰しそうなくらい熱くなった。

「…! い、言ってる…意味が…!」

 わかっているはずなのに気がつけばそんなことを口にしていた。あまりの出来事に思考がついていかない。

 硬直は溶けたものの、未だに固くなっている琳夕に陣炎は優しげな笑みを作るともう一度髪に口づける。その仕草に琳夕の心臓はあり得ないくらいに大きな音を立てながら疾走する。

「好きだ。…お前にも、この言葉を言わせてやるから覚悟しろ」

 にやりと微笑むと陣炎は掴んでいた琳夕の髪を離す。風に拾われた緋色の髪が舞うのを琳夕は真っ赤な顔をしたまま茫然と見つめた。

「さて、書類もできたことだし…作戦でも練るか」

 心臓が破裂しそうになっている琳夕の気持ちも知らず、陣炎は一人で書類を纏め始める。告白の返事を気にすることなく陣炎は手早く書類を纏めていく陣炎に琳夕は気持ちを伝えたくとも言葉が出ず、また、手伝いをしたくとも身体が動かず、見ていることしかでいなかった。

「ほら、お前も行くぞ」

 書類を纏めて片手で持つと、陣炎がもう片手を琳夕の方へと伸ばしてくる。伸ばされた手の意味がわからない琳夕は陣炎の手を不思議そうに見てから顔を見つめる。催促するようにもう一度、ほら、と声をかけられて顔の赤い琳夕は恐る恐る陣炎の手に自分の手を重ねる。すると、強く引かれて立たされる。あまりに力が強くてよろめきそうになったが、それは陣炎が支えてくれた。

「樹俚国に対する作戦を練るから、父上のところに行くぞ」

 さらりと謁見することを告げられてしまった琳夕は驚くが、既に琳夕の手を引いて歩き出してしまった陣炎に引きずられるような形で部屋を出ていく。

 強引すぎる陣炎だが、掴む手が優しいことに気づいてしまった琳夕は嬉しさに顔をほころばせながら陣炎の後をついていく。

 繋いだ手から暖かさを感じて、琳夕はもう一人ではないことを実感した。大きな代償を払ってしまったが、協力してくれる人ができ、頼れる人ができ、想ってくれる人ができた。代償を考えると単純に喜ぶことはできないが、それでも嬉しいと感じる。

 目の前にはまだまだ問題が山積みになっている。樹俚国は一筋縄ではいかないだろう。琳夕の力を知っているようだったあの湖月と言う男も気になる。そう簡単に片付く問題ではないだろうが、陣炎達がいてくれるからきっと大丈夫だと思える。会ってそう時間も経っていない相手を何故そこまで信用できるのか琳夕自身も不思議だったが、それでも信じている。

 陣炎達が協力してくれる限りは決して諦めたりはしない。穏やかな暮らしを取り戻すために全力を尽くす。その思いを心に秘めて、琳夕は見えない明日に向かって一歩踏み出した。


約7年前にとある小説大賞へ応募した際の作品です。二次選考で落選しましたが、初めて完成させた長編小説のためとても思い入れがありました。なので今回はほんの少し手直しをして投稿することにしました。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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