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蝶が舞う、その瞬間まで  作者: こばかい
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五手目「胎動」

 振り飛車戦法は基本イメージはカウンターだ。

 角道を開け、閉じ、飛車を振る――この一連の流れは居飛車相手からすれば手損と言える。

 手損というのは文字の通りの意味で一手の損だ、特にプロ同士の対局では一手差で勝ち負けが別れる事が多く、無駄な手と言うのは最も忌むべきものなのだ。

 しかし、振り飛車の開幕は違う。勿論、それをカバーすべく少ない手数で組める美濃囲いが人気な理由でもあるのだが、飛車と角の二枚の連携を高め敵陣を食い破るため、手数よりも一手の質を高める、


 それを始めとした戦略の技が『捌き』と呼ばれる振り飛車独特の感覚だ。


 将棋は必ず相手が指したら自分が指す、自分がさして相手がさす。

 指していればいずれ開戦の時は来るもので、その一瞬の隙にどう噛みつけるかが重要だ。

 振り飛車の戦法は序盤の形はある程度絞れるが、その形を決めた後からの進行は大きく変わっていく。

 美濃囲い、銀冠、穴熊、などその形をいかに悟られず、相手の出方を見るか、それが大事でもある。

 何気ない端歩一つでも次に相手の指すが見れれば大きな得だ。しかし、形を見せるのを保留し続ければ敵の陣形は整い、こちらは何も用意できていないという状況になってしまう。

 その駆け引きが将棋の難しさであり、面白さでもある。


 現在、こちらが美濃囲い、宮国君が船囲いから左銀を玉の右に繰り出した場面。

 これは急戦策と呼ばれる形だ、玉の守りを主とするはずの銀を高く繰り出し、中央からの厚みで押しつぶそうという対振り飛車戦法の一つ。

 しかしプロの間では急戦策は今はあまり良いとされていない、もっと早く動く超急戦か、しっかりと備える持久戦が主流だ。

 特に最近のタイトル戦を始め、角道を開けずに左美濃囲いに組むという形を作り、機を見て角道を開くという指し方もある。

 振り飛車相手には角交換、という格言は既に過去のもので、昔は振り飛車側の損だとされていた角交換も今では振り飛車側から積極的に交換するようになった。

 その中で急戦策はどっちつかずと言われやすくなったのが最近の流行だ。

 何より玉が不安定かつ、戦場に近くなりやすい、たった一筋近いだけでそれは大きな命取りになってしまう。


 ただそんなことは彼も百も承知だろう。その中であえて急戦策で挑んできたのだから何かあるのだ。

 みたい、見てみたい、と自然に俺は心の中で燃えていた。

 今はただ何気ない手の中だ。お互いに真っ白なキャンバスにどう描くかの構想が定まってきたくらいのところだ。

 だがしかし、時間の使い方、手の指し方、そういった全てが合う。

 紛れもなく棋士の勝負勘を既に彼は持っていると確信できる。

 この先の盤面がどういう模様を描くのか、まるで童心に帰ったかのように、それだけが楽しみで仕方なかった。


「――っ。ありま…せん…」

「だっはあ…ありがとうございました」

 宮国君は悔しそうに頭を下げた。

 俺自身もひたいにはいつのまにか大粒の汗が流れ、全身がサウナ上がりのような暑さでいっぱいだった。

 結果はなんとか、本当になんとかギリギリで俺の勝ち。

 始める前は心のどこかで、それでも相手は小学生だし、なんて思っていたのだろうけれど、途中からはそんな事を気にする余裕など微塵もなかった。

 さながら公式戦を行なったのと同じくらいの疲労度だ。

 むしろ中盤は彼がリードしていた。棋譜を他の棋士が見ればどっちが大人か分かったものじゃない。

 それくらい正確に指す相手を惑わせるような粘りの手で、お互い時間を使い果たした末になんとかたぐり寄せた勝利だ。

「お前たち、もう夕方だぞ」

「え?」

 呆れつつもどこか楽しげな郷田師匠の言葉に思わず外を見ると一面を青く塗りたくっていた空は、どこか郷愁を感じさせる赤い夕焼けだった。

「どうだった中村は」

「はい…めっちゃくちゃ! あ、いえ、とても、とても強かったです」

 興奮しているのか思わず年相応な言葉が出たものの、それでも宮国君は隠し切れない興奮とともにそういってくれた。

「そうかそうか、お前はどうだ?」

 そして俺もまた同じように師匠から問いかけられる。


「…正直、恐ろしいほどの才能です。持ち時間があと2時間もあれば俺は普通に負けていたでしょう。ですが、だからこそ何故、俺なのかと思ってしまいます」

 もっといい環境で、弟子の多いところで、もっと強い先生の下で。

 研修会の評判は間違いない。将来の永世位まで当たり前に期待される中学生棋士にだって彼ならなれる。

 棋士としてそれ程までの才能を持つ子が、わざわざ自分を頼ってきてくれていることは棋士冥利に尽きるくらい嬉しく、誇らしいことだ。

 だけど、それでも、やはり自分ではと思ってしまうのが現実だった。

「――嫌です…僕は、僕は! 中村先生の下でしか奨励会には入りたくありません、不可能ならば辞めるまでです!」

 それはもう叫びのような言葉だった。

 肩を震わせ、涙が今にも溢れ出しそうな顔で彼は言い切った。

「と、言ってくれているが?」

「…わかりました」

 棋士人生はまだまだだと思ってきた。そんな中20代を折り返して、今の自分には何も満足できていない。

 他の棋士はどう思っていようと知らないが、少なくとも負けるだけの将棋を指すくらいなら俺は別の人生を選ぶ。

 そう思った時、俺はあと何年この世界にいるのだろうと、この一年考えてきた。

 何かを変えたい、だけど何を変えても変わらなかった。ならば、俺は彼の師匠になってみよう、天才の親になってみよう。

 ただただ、自分本位な理由だと分かっていても、それならば俺も腹をくくってみようと思ったんだ。

 彼を絶対プロ棋士にして、そして自分は彼に劣らない棋士で居続けようと、そんな風に。

「本当にいいんだね?」

 真っ直ぐに視線がぶつかる。

「お願いします」

 宮国君の瞳の中にも獣がいた。棋士なら誰もがその腹に隠している将棋の獣、誰にも負けたくない、誰よりも強くなりたいという、一生飢え続ける貪欲な猛獣が彼の中にもいる。

 彼は彼で、俺から何かを学べると思ったのだろう、ならばこそ、やってみよう。


 そして、思い返せばこの時からゆっくりと歯車は動き出したのだ。


「よし分かった。だけどこればっかりは親御さんにも連絡してみないとな」

「えっ」

「…今、いい流れだっただろうに」

 とりあえず、暫定師匠になりました。


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