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蝶が舞う、その瞬間まで  作者: こばかい
1/6

一手目「敗局」

 火の手は眼前に迫っている。

 美しい高美濃に組んだ我が城は既に跡形もなく崩れていて、望みかけて敵陣に送り出した兵の吉報も届く前に我が将に襲う炎の方が早いのは明らかだ。

「50秒…1…2…」

 すでに大局は決している、さながら残すは腹に向けた小刀を突き刺すだけの将。

 絞り出せ。決しろ。あとは誰もが俺のたった一言を待つだけなのだから。

「3…4…」

 何度落ち着けても腹の底から出てくるのは何処で間違えたのか、何処で切り返せたのか、そればかり。

 崩れた城、金銀の城壁はとうに崩され、ハリボテの桂馬や歩で補強しただけのバラック。

 絞り出せ。絞り出せ。絞り出せ。

 もう手はない、いくら思考を巡らせて積み上げて来ても負けてしまえばどうしようもない。

「5…6…」

 何度も何度も、同じことを言っている筈なのに未だにこの一言を絞り出すのは腹が断ち切れるくらいに悔しい。

 だがもう終わりだ。一つ深く息を吸って、炎の中で乾いてく喉に一口の茶を飲んで絞り出せ。


「――ありません」

「ありがとうございました」


 自分が頭を下げたのを見て相手も下げる。

 お互いに疲労からか言葉が出ず、沈黙が幾ばくか続いた。

「失礼します」

 滑らかな音を立て襖が開かれ、観戦記者の方がそっと記録生の隣に正座で座った。

 それをきっかけに駒を初期配置に並べ直し、一局の感想戦を始める。

「中村6段、全体の流れの感触はいかがでしたか?」

「そう…ですね、難しい難しいと、それでもまだ五分五分だろうと思っていたんですが、確実にポイントを稼がれて気付けば悪くなっていました。七瀬さんとの対局なのでそこは注意しようと三間飛車から積極的に動いたのですが…うまくいなされてしまいましたね」

「67手目の角合わせた場面、遅れて気づきましたが角ではなく桂馬を抜かれていたら、その後に金が取られる変化がありました、そうなると一気に中村さんに潰されていたと思います」

「ああ!なるほど…僕はその前の銀を繰り出した場面が悪手だと思っていて、あそこで歩をかなり渡してしまったので端を攻められて香車を取られてしまうと一気に潰されてしまうと…夕食はそればかりが頭にありました」

 お互いに疲労はある、しかし観戦記者の方にもわかりやすく局後の感想戦を行うまでがプロとしての仕事だ。

 だからお互いに研究を離れた場面からは深く、しっかりと検討をする。

 そうして感想戦を終え、関西将棋会館から出たのは日付が変わる少し前だった。

 ――今日は順位戦の最終局だった。


 既に2勝7敗で降級点が俺には確定していて迎えた最終局だったが、それでも気力は全く萎えてはおらず、何よりも将棋でどんな背景があろうとも俺が負けたくない。

 順位戦は棋士にとっては最大の戦いであり、生命線でもある。

 A級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組と別れた中で、一年かけてリーグ戦が行われ、勝敗次第で各組で決められた人数が昇格したり降格したりする棋戦。

 A級優勝者は順位戦終了後に行われる名人戦への挑戦券を得る。

 名人位はプロ棋士であれば誰もが目指す高みだが、何よりもプロ棋士が順位戦に重きを置く理由、それは棋士生命がかかるからだ。

 新四段としてプロ棋士になるとまず、殆どの棋士がC級2組から参加する事になるが、C級2組のさらに下に位置するフリークラスというところまで落ちると強制引退の時計が進み始める。

 フリークラスの棋士は順位戦は指せず、その他の棋戦のみの参加になり、その成績で順位戦の復帰が出来る仕組みだ。

 その中で俺はC級1組に在籍し、そしてC級2組降格へのアウトカウントが一つ、今年度の順位戦で灯った。

 とは言ったはものの、フリークラス規定による強制引退は稀だ。

 ただ降級点がついた…その事実一つだけ…だけなのだが自分にとっては予想以上に堪える現実だった。


 駅のホームへ向かう前にコンビニで酒と簡単な飯を買っていたら終電が行ってしまった。


 はぁ、と一息ついた。溜息のはずなのに何か別のものが身体から抜けた気がする。

 しょうがないと、タクシーを拾い帰路へ着く。車内で運ちゃんが何か声をかけてくれた気がするが、何を返事したのか、もはや覚えていなかった。


 盤面がいくつも浮かぶ。脈絡も中割りもない、ただ何処かの局面だけが無数に頭の中で流れる。

 あそこでああしていたら、あそこで何故変化を考えなかったのか。――そもそも初手から間違っていたのでは。


 全てが堂々巡りだ、こんな変化も考えられない様じゃ次に何も生かせない。

 そんなことはわかっている、何度だって次へ次へと、たった一つの勝利のために勝ちを探してきたではないか。

「畜生…畜生…んだって…ああ、クソ…」

 安酒を喉に流し込む、何かをつまんでいたと思うが味なんかわかるわけがない。

 ふつふつと、そう、あのタクシーを待っている間にこぼした溜息からだ。

 湧き上がる、湧き上がり、噴き上がる。

 盤面が浮かぶ、苦しみながら模索した…あの背筋がいやに静まり返る、あの感覚を。

 将棋は悪手のゲームだ。それはさながら地雷原で1カラットにも満たない功績を探し当てるような、そんな感覚だ。

 例え見つけ、拾い上げても持ち帰れなかったら意味がない。

 優勢の局面を見つけても、勝ちきれるかは全く別だ。

 俺には抽象的だが、極限の集中下で勝ち筋が見えた時、蝶が見える。

 駒を置いた時、ふっと指先から何かが羽ばたくのだ。

 俺は将棋を指している間、ずっとその青い蝶を探している――なんて事はない、ずっと盤面を睨んで頭の中でいくつもの盤面を動かして自分の優勢を探している。

 その中で不意に蝶が見える時があるっていうだけの事。

 国民栄誉賞にも選出された、将棋ファンのみならず、一般の人でもその名を聞けば「ああ、将棋の?」という【あの方】は、勝ちを読み切ると手が震えるというが、それに似た感覚なのだろうか。


 だがまあ、どうでもいい。40代の今でも順位戦最高クラスであるA級に在籍し、名人戦への挑戦を決めた生きる将棋界の星とC級2組にまで落ちようとしている俺では比べても月とスッポンだろう。


 ああ、畜生…。


 そう何度も呻いた。プロになって何度も負けた、何度も何度も何度も、同じセリフを絞り出しているのにも関わらず――それになれる事はない。

 腹がねじ切れる思いでその言葉を吐き出しているのだ。

 勝ちたい――勝ちたい――勝ちたい――。


 それでも今の俺は…勝てない。

 将棋だけは誰にも負けたくないと、そう思ってプロまで来た。その思いは俺の中でずっと変わらず燃え続けている。

 しかし、最近はその炎がどこか青紫の煙をあげるのだ。

 不完全燃焼の青紫の煙が上がるたびに思ってしまう。


――勝てないのならもういっそ、やめてしまえ、と。


 誰かがそんな事を言ってくれた…ああ、そう、二年前に別れた彼女か…。


 俺には将棋しかないと、手の中から何かが無くなるたびにそれを埋めるように言い聞かせてきた。

 将棋で勝てないのなら…今の俺の手には、何が――。


 ああ、畜生。盤面がうるさい…。


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