(五) 空の向こうと道の先『前編』
ゴミ箱さんのお話五話目です。前編なので後編へ続きます。よろしくお願いします。
その日は突然やってきた。
といっても人間の『その日』は予定通りだったのだろうがな。
大きなトラックが目の前に停車したかと思うと、時刻表の看板を取り払い、目印のポールを持ち上げ荷台に乗せた。椅子を二人がかりで持ち運び、これもまた荷台に乗せる。そしてそのままトラックは彼等を連れていなくなってしまった。
その間、私は邪魔だとばかりに、端へ寄せられていた。ギリギリ屋根の下に入るか入らないかの所に。残ったのはそんな私と外すことのかなわない小さな屋根だけだった。
薄々は気づいていた。このバス停を利用する人間が減っていることに、時間の間隔も空いていることにも、もしかしたら目の前を歩く人もいずれいなくなるのではないかということにも…。
ここは田舎とよく人々は言った。学校は閉校しバス停が廃止の流れになるのは自然なこと。自然には逆らえないことは重々承知している。人間が天気をどうこうすることができないのと同様、人間に対しても小さなゴミ箱がどうこうできるわけもなく…私に何ができるというのだ。
静かだ。
誰もいないことが『穏やかな日』といえるのか分からないが、人が来なくなってどのくらい立つのだろう?数えきれないくらいの雲を見送り、周りに群生する草花も好き勝手伸びている。彼等はどことなく楽しそうだ。それは何よりなんだが、人工的に作られた私はそうはいかない。鉄は剥げ、錆が広がり、地とほぼ変わらないに色になってきている。私の上にある元バス停の屋根もだいぶガタが来ているようだ。雨の日には板の隙間から水がボタボタと私に流れ込む。その屋根を誰かが修理するわけもなくそのまま野ざらし状態。ときたま人が通ることもあったが、こんな場所で立ち止まる者がいるわけもなく誰もが素通りしていく。私はいつもそれを見送るだけだ。
そんな日々が続くと私は眠ることが多くなった。人の眠る、がどういうものか私には分からないが、私の場合は色のない世界が広がり音も遠ざかり明暗もなく無の状態。何も考えない、思考のない時間が増えてゆく。思考をしなくなった私はただの鉄の塊となす。まぁそれでいいのではないか。
清掃に来ていた桔川の爺さんが来なくなったのもきっと似たような理由だろう。眠る時間が増えたとか。時と共に活動時間が短くなるのは人も物も同じだな。いずれこんな日が来るであろうことは分かっていたんだよ。大丈夫。そう…私がいなくなっても…問題ないだろ?
人の日常は変わらないのだから。
足音が聞こえる…。僅かな音を拾い私は覚醒する。目の前に女が立っていた。片手に収まるくらいの花束を抱えたその女は、紺色の薄いワンピースを風にたなびかせ静かに元バス停の方へ視線を向けていた。もしかしたら一度通りすぎていたのかもしれない。私はどのくらい眠っていた?季節はいつだ?花は一年中手に入ると誰かが話していたな。花の事は分からんが、彼女の服装からするに涼しい時期か。桜の花びらが地に落ちていないから、秋だな。
不思議なものだな、私はまだ覚えてることがたくさんある。思考をしなくなっても本質は変わってないのか。
女は少しの間そうしていたか…。だが突然花束をあろうことか、私へと入れた。
おいおい、そんなことしたら花が枯れるぞ?ゴミ箱としてすらもう機能しなくなった私に何故入れる?こんなに美しいものをこんなに汚くなった私へ捨てるなんて…可哀想なことを。
花を入れる瞬間、女の顔が見えた。初めの印象はまず『薄い』と思った。素肌は色白で目に力がなく唇もその肌に近い白さだった。髪は無造作に肩まで伸ばし、束ねることもせず顔に垂れるまま頬を覆い隠していた。ワンピースも良く見ればシワがつき、とりあえずあるものを着てきましたという有様。靴は爪先の出たサンダルだった。この秋の季節には寒そうだが。
そんな彼女を見て私は思考を止めた。いや、一つの思考に絞ったといった方がいいのか。彼女をただ受け入れようと思った。色のない彼女を見て私の世界に色が戻ったんだ。不謹慎だろうか…。
この日から私の『仕事』が始まった。
彼女は月に一度やって来た。どこか無機質でありながら足取りは迷わず私の元へやって来る。何をすることなく、立ち止まり、物思いに空を見上げたり時たま元バス停へと顔を向ける。そして花束をストンと私へ入れるのだ。花は季節ごとに様々で、私は花の名を知らない。だがいつも色とりどりでモノクロの世界が一気に華やぐようだ。来るたび枯れてしまった物を持ちかえり交換する。不思議な行動だが、私は何でも良かった。私は彼女の花を受け入れる仕事に精を出した。そう、私は呆れるくらい単純なのさ。役割があるだけで十分だった。彼女もあの白かった表情から幾分和らぎ次第に生気が戻ってきているようだった。私と同じように。いや違うか。私は汚れたままのゴミ箱で、彼女はどんどん美しくなってゆく。本来の姿を取り戻すように、まるで花が咲くように。
季節をいくつ越えただろう…。桜の花びらが流れてきたのはもう数えきれない。今は枯れ葉がこちらへと流れてくる。いつの間にか屋根の後ろにあった木が大木となっていた。暑い夏も屋根なしで過ごせるくらいに。その長く伸びる枝にたくさん葉が付き覆うような影に私は守られている。
彼女を守るものはいるのだろうか?雨の日も、きつい日差しが続く暑い日も、彼女はやってきてその行為を繰り返していた。
ある日いつもと違う日があった。その日は天気も良く暖かい日だったが、彼女はとても暗い影を背負っていた。表情はくもり下を向いた彼女は花を入れる前にあろうことか、私の縁へ両手を置き項垂れるように抱え込んだ。ちょうどゴミ箱の中身が見える位置へ顔がある。
「う…うっ…」
どうしてそんなに辛い顔をしてるのだ?何があったのだ?
雨が降ってきた。ポタポタと落ちてくるその水は彼女の目から流れていた。雨とは違う、透明なその水は不規則に流れ出る。綺麗な滴が汚い私の中へと落ち続け混ざり合う。彼女の心はこんなに泣いているのに背にした青空は美しく眩しいばかりで、人のいうヒコウキ雲がくっきりと白線を残していた。あの線が滲んで消えるまでを見たことがなかったな。彼女の愁いもそうやって時と共に吸い込まれて無くなってしまえばいいのに。
空を背にした彼女のアンバランスな情景に私は初めての衝動にかられていた。
彼女の涙を拭いてあげたい、どうしたんだと話しかけたい、声を聞きたい、肩に手を置きたい、垂れ落ちる髪を支えてあげたい、震える背を擦ってあげたい。
バス停で見てきた人々のあらゆる行為を思い出し私は実行したいと思った。
できるわけもないのにな…。
彼女は長いことそうしていたが、フラりと立ち上がったかと思うと、そのままいつもの道へ帰っていった。こちらを振り向くこともなく、持ってきた花は私の傍らに置いたまま…
その日から彼女は来なくなった。置かれたままの花はそのまま干からび枯れてしまった。まるで未来の私のようだ。
期待なんて持たなければ良かった。私の仕事はとっくに終わっていたのに、必要とされなくなっていたのに。私は単純で無力で弱いただの…鉄屑だ。
良かった良かった。これで人のいらなくなった汚いゴミを入れなくてすむ、愚痴を聞くことも、人の怒声も、うるさいお喋りも、早々に通り過ぎる足音も、一々気にしなくてすむ。誰かを待たなくていい。静かで穏やかな日々が戻ってきた。安寧の時を過ごせるぞ。ゆっくり眠っていられるんだ、こんなに喜ばしいことはない。そして叶うのなら、早くこの身が朽ちますように…
長い眠りの間に夢を見た。昔のこと。
私の元で美しき人が瞳を濡らし泣いている。ただのゴミ箱の身では、それを見つめるばかり。
周りでは、大樹が寒風に枝を揺らし、雷雨で地が震え、炎天に身を焦がす、哀れなものたち。手のない私は美しき人の涙を拭うこともできぬ惨めなガラクタ。
彼女が泣いている理由を知りたい。神様というものはやはり、人の願いしか叶えぬのだろうか。なら彼女の愁いを取り払ってくれないか?
人の悩みは千差万別と聞くが若い女に一番多いのは恋愛絡みか。人は恋をし、結婚し、子を産み育てる。それが一般的という人もいるが最近ではいろんな形の家族がいると聞く。一人だって幸せで楽しく生きているのも大勢見てきた。だから一概にその人の悩みが重いのか軽いのかなんてのは分からない。私には人の考えていることは未だに分からないことばかりだし、それでいいと思っていた。だが、今回ばかりは探ってしまう。
もし彼女が泣く理由が『恋』からくるものなら、私もそれを知りたいものだ。
なぁ…恋とはいったいどんなものなのだ…?
読了ありがとうございました。
後編も続けて読んでいただけたら嬉しいです。