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ひっそりと咲く  作者: 薬師寺のぼる
6/8

 ピピピッという、無機質な電子音が鳴り、私は目を開けた。顔を上げて目をこすりながら、状況を確認する。たしか、ちょっと一休みのつもりで本を閉じて、顔を伏せたところまでは覚えている。で、この状況である。どうやら、そのまま机の上で寝落ちしたらしい。

 立ち上がって目覚ましを止めると、結局使わなかった布団を片付けた。何年かぶりに、このアラーム音を聞いた。目覚まし時計は重要である。

 机に戻って、本を確認する。涎とかはついていない。何となしにパラパラとめくってみる。半分くらいまで折り目が付いていて、読んだ痕跡はあるのだが、覚えがない。たぶん夜更かしなんかしたから、気が入ってなかったんだろう。慣れないことはするもんじゃないな。

 覚えのあるページにしおりを挟んで、本棚に戻す。私はまたいつも通りにルーティーンをこなし、ランニングに出ると、昨日の続きを考えた。


 自室でゲームをしていると、不意にケータイが振動した。時刻は午前十時十五分。朝のルーティーンワークは全てこなしている。

 画面を確認すると、秀也から一言「暇か?」と、メッセージが来ていた。暇じゃない。私は今、レートで忙しい。お前などに構っている時間はない。

 ということで、メッセージは見なかったことにして、私は再び3DSに目を移した。

 しばらくすると、今度は「おーい」というメッセージが届き、それも無視すると「返事してください」と敬語で送られてきた。さらに無視していると、ついに電話がかかってきたので、仕方なく出てやる。

「何の用だ」

「あの、平然と既読スルーするのやめてくれます……?」

 電話口の秀也は思いつめたように言った。

「私に何か伝えたいなら電話をしろ。それかてめえが来い。どうしても文字媒体がいいなら手紙を書け」

「いつの時代の人だよ、お前……」

 秀也は溜息交じりにツッコむと、本題に移った。

「それでお前、暇か?」

「暇じゃない」

「何か予定あんの?」

「レートで忙しい」

「れっ……」

 一瞬言葉を失ったように押し黙ると、秀也は恐る恐る尋ねた。

「……つまり暇ってことだろ?」

「暇じゃないと言ってるだろ」

「いやお前、レートって……。お前もう今季絶望だろ。ていうか毎季絶望だろ」

「まだ終わってない。諦めたらそこで試合終了だと、どこぞの先生が言っていた」

「諦める選択肢あるくらいには終わってんじゃねえか……」

「なるほど、一理ある」

 たしかに。反論できねえ。「俺はまだ諦めねえ!」みたいのは、基本終了してるから映えるセリフである。まさか秀也に屁理屈の言い合いで負けるとは。

 私は気を取り直すために咳払いをし、話を本題に戻した。

「で、何の用だ」

「ああ、いや、暇ならせっかくだし、一緒にどっか遊びに行こうぜ」

「なぜ」

「遊びに理由を求めるなよ……」

「特に理由がないならレートしてたっていいだろ。むしろ家でゲームしてる方がいいだろ」

「そういやお前、根本的にインドア派だったな……」

 そう。私は根っからのインドア派である。野球のときは仕方ないが、それ以外なら特別の理由がなければ外なんざ出たくない。おうち最高である。

「理由はあるっちゃあるが、今は言えないっていうか……。ええと、とにかく来い! なんていうか、今すぐ来い! マジで! 駅にいるからな!」

「お、おい、どうした、お前! 何か変だぞ!」

 と、言い終わる前に、電話を切られた。意味わからん。

 が、本当に秀也は駅で待っているつもりなのだろうか。私はケータイを置き、駅でたたずむ秀也を想像する。

 まあ、何だ。たしかに最近の連敗に次ぐ連敗で、プレイングも多少雑になってきたかもしれない。下がり続けるレートはとどまることを知らず、急所と麻痺に3DSを投げようとしたことも数知れず。ここは少し気分転換をした方がいいのかもしれない。

 私は少し考えると、お母さんに昼は外で食べると伝えた。


 ケータイやら財布やらの最低限の装備を持って、私は駅に向かった。服もタンスにあったTシャツとズボンを適当に履いてきた。

 制服と部屋着さえあれば生活に支障はないから、私服はほとんど持っていない。お母さんが買ってきたものを適当に着まわしている。服に金かける思考が私には理解できない。まあ、秀也と会うくらいなら気にする必要もあるまい。

 駅までの道のりは、なんか近々東京と直結するとかの影響で、最近工事が続いている。何作ってるのかは知らない。

 十五分ほど歩くと、駅が見えてくる。秀也は駐輪場の前でケータイをいじりながら、ちらちらと辺りを警戒していた。

「おお、月見! 来てくれたのか! マジで来ないかと思った!」

 秀也はホッとしたような笑顔で言った。

「まあ、ちょっと気分転換に……つっ!?」

 秀也の背後に人影を見つけ、私はギョッとした。

 秀也の影に、ひまわりの姿があった。ひまわりは車止めのバリカーに座り、むすっとした顔でケータイをいじっていた。

 しまった。何で私はこんな適当な服装で来てしまったんだ。ひまわりが来るとわかっていればもっとかっこいい……。

 じゃねえよ。何で私は服なんざ気にしてんだ。ひまわりがいようといまいと、私には関係ないじゃないか。

「……帰る」

 私はすぐさま踵を返し、つかつかと歩きだした。秀也が慌てて引き止める。

「おい、来たばっかじゃねえか!」

「うるせえバカ。一緒に遊べるわけねえだろうが」

「いつまでもこのままって訳にはいかないだろ」

「だいたいあんな告白宣言聞いて普通にいられるか。私が気を使う」

「つっ! そ、それは今関係ねえだろ!」

 秀也はとっさに否定した後、思い直したように息を吐き、目を上にそらして言い直した。

「い、いや、やっぱ関係ある。あれだ、あの、ひまわりの好感度あげたいから、手伝ってくれ」

「へ? あ、いや、それは、荷が重いっていうか、私はそういうの得意じゃなくて……」

「頼む。こんなこと頼めるのはお前しかいないんだ」

「お、おう!」

 何となく勢いで了承してしまった。まあ、幼馴染のよしみである。これだけ懇願されてしまえば仕方ないか。

 私と秀也は元の位置に戻ってきた。

「それじゃあまず、昼飯どうするか。月見はどこがいい?」

「何で私に聞く。ひまわりに聞けよ」

「いや、何かさっきから、ひまわり話してくれないんだ……」

 ひまわりを見やると、相変わらずむっとしたままケータイをいじっている。たぶん私がいるの逆効果なんじゃないだろうか。

 私は溜め息交じりに視線を戻し、意見を述べる。

「牛丼だな」

「牛丼って……。女子力の欠片もない答えだな」

「うるせえ。私は女子である前に野球選手なんだよ」

 何せ安い、早い、美味い。である。それに加えて肉と米の組み合わせで腹にたまる。金のない運動部の学生には打って付けである。

 というかここら辺、他はラーメンかファミレスしか選択肢ないし、私にそんな高級料理に使う金銭的余裕はない。あと何かインド人がやってるカレー屋は、入るのちょっと怖い。

「わかったよ。じゃあ、ひまわりも牛丼でいいか?」

 秀也が聞くと、ひまわりは、無言で一つうなずいた。


 私たちは昼食のため、駅前の牛丼屋に入った。自然な流れでカウンター席に向かうと、ひまわりと秀也がテーブル席に着いた。私は仕方なくテーブル席に向かうと、ひまわりと秀也が向かい合って座っていた。私は一瞬考え、秀也の隣に腰を据えた。

 秀也だけがメニューを開いて品定めする中、すかさず女性の店員が三人分の水を持ってやってきた。

「ご注文決まりましたら、お呼び……」

「牛丼大盛で」

 私は店員の言葉をさえぎり、注文する。私が牛丼屋で食べるのは決まっている。

 まず、牛丼屋で牛丼食べないとか論外である。

 それを踏まえて、私の胃袋では並盛くらいがちょうどいい。しかし野球選手としては体重を増やす必要がある。とはいえ出先で死にそうになりながら食事するわけにもいかないので、多すぎるのも却下。無難な落としどころが大盛である。卵はそれに六十円とか払うのが何となく嫌なので、注文しない。

「あ、私は特盛で」

 私に続いて、ひまわりが注文した。ひまわりの注文もいつも決まっている。なので、普段なら気にしなのだが、なぜだろう。負けた気がする。

 私は慌てて秀也が開くメニューを横から見て、目についた言葉を口にした。

「あ、あの! やっぱ私、ドサ! ドサ盛で!」

「え、ど、ドサ? ああ、えっと牛丼大盛をドサ盛に変更、でよろしいでしょうか?」

「は、はい!」

 一瞬狼狽した店員に、私は注文の勢いそのままに返事をした。

「何だ、ドサ盛って? うわ、何だこの頭悪い量……」

 秀也はメニューで確認すると、つぶやいた。

 そういえば勢いで頼んでしまったが、ドサ盛とは何だろうか。私はあらためてメニューを見やると、その瞬間に秀也と同じ感想が頭に浮かんだ。

 うわ、何だこの頭悪い量。「新登場!」と銘打って宣伝されるその牛丼は、もう何かどんぶりがヘルメットである。数字としては「並盛の五倍!」とか書いてある。盛り方も「とりあえず乗っけとけ!」みたいな感じで肉が山盛りされていて、すげえ頭悪い。

 これを企画したやつも頼んだやつも相当のバカである。私頼んじゃったよ。バカかよ、私。

そしてもちろん、量に合わせて値段も高い。マジか。節約のために牛丼屋入ったのに、マジか。

「食えんのか……?」

 秀也が恐る恐る聞いてきたが、言ってしまってはもう引き下がれまい。

「わ、私にかかればこれくらい……」

 私は虚勢を張ることにした。

「そ、そうか……。まあ、頑張れ……。えっと、じゃあ、俺は特盛と卵」

「かしこまりました」

 秀也が注文を終えると、店員は注文を略語で叫びながらキッチンに歩いていき、すぐに品物を持って戻ってきた。さすがに早い。

 テーブルに置かれたドサ盛を前に、私はもう一度辟易した。うわ、何だこの頭悪い量。

「く、食えんのか、これ……?」

「私にかかれば……これくらい……」

 もう、引き下がれまい……。

 どれほど過ぎただろうか。しばらくして、私はヘルメットみたいな器を前に、顔を突っ伏していた。どんぶりにはまだ半分以上の肉と米が残っている。

 完敗である。さすがは五倍。頭おかしい。私からすれば半分食べただけでも自分を褒めたい。

「どうした月見、箸止まってるぞ」

 秀也は呆れた顔で言った。秀也のどんぶりはすでに空になっている。

 ちらっとひまわりを見ると、彼女はむすっとした顔で窓の外を見ていた。ひまわりも完食しているらしい。

 私は再び箸を持つと、どんぶりに突き立てる。しかし牛丼が目に入った途端に気持ち悪くなってきて、また顔を突っ伏した。

「秀也、取って」

 しばらく消沈していると、不意に正面から声がした。

「え、何? 紅ショウガ?」

「いや、牛丼」

「え、あ、ああ」

 秀也は曖昧に返事をすると、私のドサ盛をひまわりの前に差し出した。ひまわりはそれに箸を入れると、黙々と食べ始めた。

 私は何か言い返そうかと思ったが、そんな気力もなく、ただひまわりが私の牛丼を食べる姿を見ていた。

 昔からそうなのだ。ひまわりは小さいころからよく食べて、その栄養は余すことなく、身長やら胸囲やら、頭以外の部分にバランスよく行き渡る。

 それに引き換え、私が必死になって摂取した栄養は、少しだけ脳みそに行くと、残りはほとんど体には残らず、霧消する。まあ、口から入ったものが、口から出ているだけなのだが。これ以上は察していただきたい。

 勉強は、やれば誰でもできるものである。できないと嘆くやつは、本当はやってないだけで、積み上げてきたやつらと同じくらい必死にやれば、誰だってできるようになる。

 だから、例えば本当に「才能」というものがあるとすれば、それは体格に他ならないのだと思う。どんなに凡人が欲しても、身長には遺伝的な限界がある。筋肉の質も違うらしい。

 生まれた瞬間にオギャーと泣かず、「天上天下、唯我独尊」などと口走れるやつなどいないが、生まれた瞬間の体重の差は明確にある。

 技術は体力のベースに乗っている。心技体の内の二つは「才能」で、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉が真実なら、心技体のすべてが「才能」ということになる。

 性格は周りの環境による後天的なもので、たまに努力の天才などと表現される人々があるが、努力は才能などではない。それが意識的にせよ、無意識的にせよ、やるかやらないかは意志ひとつ。そう簡単にはできなくても、誰だってやれるはずのことなのである。

 だから私がこれまでに身に付けた分析力、駆け引きというものは、いわゆる天才たちが「必要ない」と切り捨てた、あるいは凡人たちが「意味ない」と無視していた、本当は誰もができるはずのことに他ならないのである。

 私はそこまで思い至ると、また顔を突っ伏した。


 ひまわりが残りの牛丼を食べ終え、しばらく私のお腹が落ち着くのを待ってから、私たちは牛丼屋を出た。ガラス戸の前で、また秀也が議題を投げかける。

「さて、これからどこ行くか」

「最初から決めとけよ。計画性ないな」

「それは、すまん。何せ急に決めたことだから。それはそれとして、どっか行きたいところは?」

 ひまわりはまたケータイをいじっている。ここで提案するのも私の役目だろう。

「バッティングセンター」

「また女子の提案じゃねえな」

「野球選手の発言としては極めて妥当だろ」

「それはそうかも知れんが、中学生の休日って言ったら、もっとあるだろ。カラオケとか」

「素人の歌なんざ聞いて何が楽しい。歌うなら一人カラオケの方がよっぽど気楽だ」

「お前ほんと何でチーム競技やってんの?」

 愚問である。チーム競技だからやっているのではない。野球だからやっているのだ。

「まあ、いいか。じゃあ、バッセンな」

 行先が決定し、私たちは駅に向かった。

 私たちの住む町は何もない。住宅地だから仕方ないが、恐ろしく何もない。横浜まで出れば何でもあるが、そこまでは遠いし、電車代もちょっと高い。

 そこで電車で隣の駅まで行けば割といろいろ、それこそカラオケ店なら同じ通りに三つとかあるくらいなので、新青葉中の生徒はそこに集まる。

 もちろん、目的地であるバッティングセンターも隣駅にある。家からなら歩いてもいいのだが、せっかく駅まで来たので、電車に乗った。

 電車から降りて、駅を出る。そこから一路、バッティングセンターに向かっていると、不意に秀也が立ち止まった。

「なあ、ちょっとゲーセン寄ってかないか?」

 秀也はゲームセンターの看板を指差した。

「なぜ」

「だから理由を求めるなよ……。何となくだよ。目に付いたから」

「何となくでバッティングセンターより優先される理由にはならん。私は早くバッティングセンターに……」

 いや、しかし考えてみれば、そもそも今日は秀也がひまわりの好感度を上げることが目的で、私はその手助けをするために参加したのだった。

 今までにやったことと言えば、とりあえず牛丼屋で昼食を取っただけ。ロマンティックの欠片もない。このままメインディッシュのバッティングセンターに行ってしまえば、その後はおのずと解散だろう。

 それにバッティングセンターは、本来なら野球部で四番を打つ秀也にとっては見せ場なのだろうが、ひまわりに限っては本人の打撃が巧いだけに何のアピールにもならない。とすれば、ゲームには疎いひまわりの前で、何か適当な格ゲー辺りでわざと負けてやれば、多少はかっこいい感じにはなるのではないか。ロマンティックは欠片もないが。

「まあ、わかった。せっかくだし行くか」

 私は渋々付き合うことにした。

 ゲームセンターの中はうるさかった。あと学生よりおっさんが多い。たまに奇声が聞こえたりするが、日本は大丈夫なのだろうか。

「いやしかし、久しぶりだな、ゲームセンターは。三年になってから来てなかったし、一年ぶりくらいか。な!」

 秀也は私たちの先頭を歩きながら、楽しそうに同意を求めてきた。

「お、おう。そうだな」

 私は秀也の後に続き、辺りを警戒しながら返事をする。

「……どうした?」

「いや」

「そういや、お前とゲーセン来たことないな。……お前もしかして、ゲーセン来んの初めて?」

「い、いや、まあ、存在は知ってるっていうか。アニメとかによく出てくるし」

「そうか、意外だな。俺よりこういうの詳しいと思ったのに」

「や、野球でそれどころじゃないからな」

 というか、私としてはわざわざ外にゲームしに行くのがちょっと意味わからない。家庭用に面白いゲームがあるのだから、それでいいじゃないか。何でこう、わざわざ人がいっぱいいるところに行かなきゃならないんだ。もう帰ってパワプロにしないか。負けてやるから。

「じゃあ、ひまわりも初めてだろうし、何か初心者でもわかりやすいのがいいかな。なあ、ひまわりは……あれ?」

 と、秀也が声をかけると、ひまわりはいなかった。さっきまで私の後ろにいたと思うのだが。

慌てて辺りを探すと、ひまわりは先ほど通ったクレーンゲームの前に立ち止まっていた。

 仕方ないので、私と秀也は道を引き返した。

「欲しいものでもあったか?」

 言いながら、秀也はガラスの中をのぞき込んだ。ひまわりが見ていたのは、何だかファンシーな感じの猫っぽいぬいぐるみである。デカいのから小さいのまで色々ある。

 ひまわりは昔から猫派である。部屋には猫グッズがたくさん置いてあるし、さらに目覚まし時計のアラームが猫の鳴き声である。たぶん私はそれで起きられない。ていうかひまわりも起きられないから、毎朝お母さんに起こしてもらってるらしい。アラームぐらい換えた方がいいと思うが、それでも機能性度外視で固辞し続けるくらいには猫派である。

 ちなみに私は犬派である。特に中型から大型。時代はシェルティーである。小型犬はパワーが足りない。

 ひまわりはしばらくぬいぐるみを見つめると、おもむろにバッグから財布を取り出し、百円玉を二枚投入。真剣な表情でボタンを押すと、クレーンが動き出す。クレーンが止まってデカいぬいぐるみを捉えると、そのままぬいぐるみを置き去りにして戻ってきて、ひまわりはがっくりしたように無言で頭を落とした。

「秀也、お前やってみろ」

 私は小声で秀也をたきつけた。

「え? ああ。よし、俺に任せとけ」

 秀也はクレーンゲームの前に歩み出て二百円を入れた。クレーンが動いて同じようにぬいぐるみを捉えると、案の定クレーンは一人で帰ってきた。

「あー」

 と、秀也は間抜けな声を出すと、私に目を向けた。

「それじゃ月見、後は任せた」

「何でだよ」

「いや、順番っていうか、そういう流れだろ?」

「流れって何だよ」

「何だ、できないのか?」

「うるせえ、どけ。手本を見せてやる」

 私は秀也を押しのけると、財布から百円玉を取り出し、投入した。

「いいか、そもそも掴もうとするのが間違ってるんだ。アームが弱いのは周知の事実なんだから、そのまま取ろうとするなんてナンセンス。クレーンゲームってのはちょっとずつ動かして取るんだよ」

「ゲーセン一度も来たことないのに何でそんな偉そうに言えるんだ?」

「何かずっと前にそんなようなことをテレビで言ってた」

「聞きかじり……」

「まあ見てろ」

 私は穴の近くに転がるぬいぐるみの脇腹に狙いを定め、ボタンを押す。止まったクレーンが下に降りると、アームは見当違いの場所で開いた。

 ……そもそも、掴んだのにすぐ手放すアームの弱さが問題なのである。仮にもキャッチャーと名前が付いているなら、もっとキャッチングを磨くべきだ。絶対に掴んでやるという気概が感じられない。同じキャッチャーとして恥ずかしいぞ。筋肉を付けろ、筋肉を。

 私はしばらく無能なアームを睨みつけると、再び財布を取り出した。


 二十分ほどゲームセンターで時間をつぶし、私たちは外に出た。ひまわりは大きなぬいぐるみを抱えながらニヤニヤして、私と目が会った瞬間にそっぽを向いた。

 あの後、結局私はぬいぐるみを取れなかった。秀也に両替に行かせながら何度も失敗し、最終的に見かねた店員に手伝ってもらった。今日だけですごい散財だ。

 ちなみにぬいぐるみは秀也経由で渡した。すると秀也経由で英世が数枚返って来たが、意地で突き返した。

「しかし、ゲーセン来て何もゲームしないとはな……」

 ゲームセンターの前で、秀也は遠い目をして言った。

「しただろ、クレーンゲーム」

「俺とひまわりは見てだけなんだが。その後は結局ダレて出て来ちゃったし。……お前、将来ギャンブルとか気を付けろよ。絶対歯止め利かなくなるタイプだから」

「安心しろ。賭博とタバコとドーピングは野球選手にとってご法度だ。手は出さん」

 賭博もドーピングも永久追放の対象である。タバコは成人すれば法律上問題ないが、体力が落ちるので論外である。アスリートは体が資本。早死にするのは別に構わんが、野球にとってマイナスになるのは絶対に避けねばならん。

「じゃあ、そろそろバッセン行くか」

「おう」

 秀也の合図で、私たちは歩きだした。

すると正面から、二人の少年が、私と秀也の間をすり抜けていった。

「あ、すいません」

「はは、気を付けろよ」

 帽子を外して頭を下げた少年たちに、秀也は寛容な笑顔で返した。少年たちは野球のユニフォームを着ていた。小学生だろうか。少年野球の試合でもあるのかもしれない。

 少年たちは「はい!」と元気よく返事をすると、また走り出そうとしてから、後ろを振り返って叫んだ。

「おーい、一郎! 早くしないと遅れるぞお!」

「ま、待ってよお! 俺そんなに走れないってえ!」

 何事かと振り向くと、また一人、息を切らせた少年が私たちの間をすり抜けていった。小太りの、いわゆるキャッチャー体型の少年である。

「走るのが苦手なイチローか」

 秀也は小太りの少年を見て、おかしそうに笑った。秀也は何の気なしに言っているのだろうが、たぶん一郎君は、いつも同じようにチームメイトにからかわれているのだろう。

 一郎くんはやっとの思いで追いつくと、息を整える。

「一郎、もうちょっと速く走れよ。イチローだろ? 急がないと監督に怒られるぞ」

 そういうと、少年たちはまた走り始めた。一郎くんは息も整わないうちに、また必死になって二人を追いかけた。

「何か、ああいうの見てると小学生のころ思い出すよな」

「たった三年前だろ」

「無粋なこと言うなよ。まあ、たしかに今とたいして変わらないけどな。野球始めたばっかのころから今まで、俺とひまわりと月見はずっと一緒だったし」

 秀也の言葉を聞き、私はふとひまわりを見た。ひまわりと目が合って、私はとっさに顔をそらした。ドタドタと走っていく一郎くんの背中は、まだあまり遠くない。なぜか一郎くんの後ろ姿が、強烈に目に焼き付いた。


 私が野球を始めたのは、小学一年生の夏だった。

 幼馴染だったひまわりに誘われて、何となく地元の野球チームに入ったのが始まりだった。

 私は基本的にインドア派だから、もともと野球に興味があったわけではない。一人でゲームをしたり、マンガを読んだりするのが趣味だった。夢は漫画家と声優と魔法少女だった。だから、最初は野球がやりたくて入ったのではなかった。

 ひまわりは巨人ファンのお父さんの影響で、小さいころから野球が好きだった。幼稚園のころから、夢はプロ野球選手になることと語っていた。野球の話をしているときのひまわりは本当に楽しそうで、野球のことはよくわからなかったけど、ただそんな楽しそうなひまわりと一緒にいたくて、私はいつも彼女の話を聞いていた。

 秀也は私たちと同じ日に入団してきた。小学校は同じだが、クラスが別だったので、それまで面識はなかった。

 入団した日の最初の練習で、監督にどのポジションがやりたいか聞かれた。私は野球に詳しくなくて答えられなかったが、ひまわりは大声で即答した。

「私がピッチャーで、月見がキャッチャー! 二人で最強のバッテリーになるの!」

 キャッチャーがどんなポジションなのか、そのときの私にはわからなかった。しかし、バッテリーという言葉を、私はなぜかとても気にいった。秀也は最初、ピッチャー志望だった。

 その日から、私たちの野球の練習が始まった。

 近所の子供が集まってチームを作り、危ないことをしないように大人が見ている、という程度の緩いチームなので、練習は水曜日の放課後と土日の午後、一時間だけだった。

 最初はみんな同じようなものだった。

 ポジションの希望を出したといっても、素人の小学一年生に本格的な練習をさせるはずもない。私たちの練習と言えばキャッチボールかティーバッティングだった。

 しかしそんな簡単なことでも、私たちは巧くできなかった。目の前の相手までボールが届かず、何でもないボールをそらしては走って追いかけた。バットを振れば重さに負け、ボールを乗せるティーを叩いた。

 ひまわりも秀也も、そして私も、みんな一様に下手くそだった。それでも、ひまわりと一緒にいられるだけで楽しかった。

 差が出始めたのは、小学四年生の春だったと思う。

 そのころにはもう各ポジションの練習を始めていて、私はよくひまわりのピッチング練習に付き合った。

 まず明確に変わってきたのは身長だった。もともと多少の差はあったが、そのあたりから、ひまわりと秀也は飛びぬけて高くなった。

 それから二人とも、明らかに打球が伸びた。スイングスピードが速くなったし、球速も上がった。足も速くなった。そのころ、秀也がなぜかピッチャーをあきらめた。

 実力が同級生の中でも突出し始めて、二人は年長の先輩たちを押しのけて、試合で頼りにされることが多くなった。同じ日に始めたはずなのに、私だけ置いて行かれてしまった。

 悔しかった。

 それまでは、ひまわりと一緒にいられるだけで幸せだったのに、悔しくてたまらなかった。

 悔しくて悔しくて、私は必死に追いつこうとした。

 ひまわりが毎日、素振りを百回すると聞いて、五百回振ることにした。一キロ走ると聞いて、三キロ走ることにした。追いつけなかった。

 力でダメだったから、技術を磨こうと思った。

 放課後や、練習後でもバッティングセンターに通いつめ、なけなしのお小遣いで打ちこんだ。監督に頼み込んで、日が暮れるまでノックを受けた。ユニフォームが泥だらけになっても、顔がアザだらけになっても、泣きながらボールを追いかけた。監督に許してくれと謝られるまで続けた。追いつけなかった。

力でも技術でもダメだったから、頭を磨こうと思った。

 お母さんに土下座して、目についた野球の本を片っ端から買ってもらった。コロコロコミックが買えなくなった。

 読んでいると知らない漢字や言葉がたくさん出てきたから、辞書を引きながら読み込んだ。一冊読み切るのに一か月かかった。

 いろんな試合を見てデータを集め、何時間もかけて分析した。卑怯と言われた。

 学校の勉強は嫌いだったけど、必死にやった。一時期あだ名がメガネになった。メガネかけてないのに。

 同年代の誰もが真剣に取り組まなかったことを、必死にやった。必死に他人の粗を探し続けて、私はようやく、二人とは完全に別のベクトルだけれども、彼らに追いつくことができた。

 その変わり私は、どんどん嫌な奴になった。


「おい月見、そろそろバッセン行くぞ。どうした、ボーっとして? ひまわりも……」

 秀也に話しかけられ、我に返った。見ると、一郎くんの後ろ姿はすでになかった。ひまわりもぬいぐるみを胸に抱きながら、小学生たちの走り去った方を見ていた。

「昔のことを、ちょっとな」

 私はそういうと、頭に疑問符を浮かべる秀也をしり目に、バッティングセンターの方角へひとり歩き出した。

 ひまわりも、小学生のころを思い出していたのだろうか。しかしその思い出は、きっと私のよりずっと明るく、楽しい思い出なのだろう。それともあるいは、天才故の葛藤なんてものもあるのだろうか。いずれにせよ私には想像もつかない。

 たしかに私たちは、ずっと一緒に野球をしてきた。しかし小学生のあのときから、私たちはまったく別の道を、まったく別の時間を歩いてきたのだった。

「置いてくなよ」

 秀也がひまわりを連れて、追いかけてきた。近寄ってくる二人の姿が、どこか遠くに感じた。


 バッティングセンターは総合アミューズメント施設の屋上にある。私が小学生のころに通い詰めた、思い出のバッティングセンターである。

 アミューズメント施設と言っても、そんな大層なものではない。施設の二階にはビリヤードとダーツと、なんか知らんが大量のパチンコ台と少しのアーケードゲームがあるくらいで、他には何もない。

 無論私はバッティングセンターにしか興味ないので、二階にはバッティングカードのポイント交換でカウンターに立ち寄るくらいである。

 同じ会社が運営する隣のカラオケ屋の壁には、トカゲっぽい謎のモンスターのモニュメントが張り付いており、毎年小学生の間で怖いと話題を呼んでいる。中学生の今でもキモイと思う。

 階段を上がり、バッティングセンターの古めかしい扉を開けてベンチにカバンを降ろすと、私はさっそく口を開いた。

「さて、私は帰る」

「いや、意味わからん」

 同じく荷物を置いた秀也がツッコんだ。ひまわりは我関せずといった感じで、すすっとバッティングカードの販売機に向かった。

「いや、クレーンゲームでお金使いきっちゃって……」

「ゲーセンで自己破産すんなよ……」

 ほんとどうすんだよ。欲しい本があったのに。ていうか本出しすぎなんだよ、ノムさん。書いてあることほとんど同じじゃねえか。いちいち買う私も何なんだよ。

「というわけで、私はバッティングできないので帰ります。健闘を祈ります」

「い、いや、せっかくここまで来たんだから、とりあえず見てけよ」

「試合中なら別だが、何でバッティングセンターで他人の打撃見にゃならん。お前らの打撃なんざ見飽きたわ」

「だから何でお前チーム競技やってんの?」

「秀也」

 秀也と口論していると、また不意に声がかかった。見ると、カード販売機の前でひまわりが手招きしていた。

「ちょっと」

「お、おう」

 秀也が顔を赤らめて手招きに応じる。二人でしばらく話すと、秀也が戻ってきた。心なしかがっかりしている気がする。

「ほら、月見」

 そう言うと、秀也は何かを差し出した。六回分のバッティングカードである。千円の高級品である。一回二百円なので、通常より一回多くできる。

「何だ、くれるのか?」

「ああ。ひまわりがな」

 受け取ろうとして、手が止まった。

 ひまわりの施しだと。何だ、何かの罠か。何が目的だ。とりあえずここはブラフを撒いておくか。

「はっ! さすが金持ちは違うな。憐れな貧乏人に喜捨するわけか」

「お前は何でそんな考え方しかできないんだよ。まあ、今に始まったことじゃないが……。そんなんじゃなくて、お礼だそうだ」

「……お、お礼?」

「そう、ぬいぐるみの」

「い、いや、私はあのクレーンゲームを攻略したかっただけで、別にひまわりのために取ったわけじゃなくて、つまりゲーマーの意地とかそういう……」

 とはいえ、六回分のバッティングカード。かなり魅力的である。一回二十球だから、合計で一二〇球も打てる。そんな球数を人間のピッチャーに投げさせたら、アメリカ人にリンチされてしまう。

「まあ、せっかくだし、貰っておく」

 まあ、クレーンゲームで飛んでった金額に比して千円じゃ割に合わんが、今回はこれでチャラにしてやろう。

 私は秀也からカードを受け取ると、ひまわりを一瞥した。ひまわりは、いつの間にかストラックアウトを始めていた。やはりコントロールには苦心しているらしい。

 私はさっそくボックスに入り、バットを握って二、三素振りをし、コインボックスにカードを挿入する。まずは一〇〇キロくらいで肩慣らしである。

 ピッチングマシンが動き出し、私はバッターボックスで構えた。今さらだがホームベースがずれてることに気づき、ちょっとイラッとした。あとボールが結構残ってる。終わったら戻してけよ。マナーだろ。

 マシンからボールが放たれ、初球を見送る。ツーバウンドするボール球である。高めのボタンを連打し、打席に戻る。二球目は頭よりも高いボール球になった。ピッチングマシン投手、立ち上がり不安定すぎだろ。

 今度は低めのボタンを連打すると、三球目でようやくまともなボールが来た。私はボールに巧くタイミングを合わせ、打ち返す。ボールは鋭いゴロとなって、転がっていった。うーん、ショートゴロ。

 そんな感じで気持ち良く打っていると、突然隣の一一〇キロのボックスにひまわりが入ってきた。ひまわりは無言でマシンを起動すると、一〇〇キロより速いボールを、いとも簡単に打ち返し始めた。それも全部、なんか適当な感じで括り付けられているホームランのパネルの遥か上空である。何だそれは、当てつけか?

 私はまだ数球残っているマシンを切り上げ、慌ててボックスを出た。

「なあ月見、俺ストラックアウ」

「知らん。お前に構っている暇はない」

「ええ……」

 話しかけてきた秀也を無視して、私は一一〇キロの隣、この店最速の一二五キロのボックスに飛び込んだ。

 バットを握って構え、ボールが来るのを待つ。マシンからボールが放たれ、私はバットを振りぬいた。背後のネットに跳ね返されたボールが、足元に力なく転がる。

 違う。今のはあれだ。さっきまで一〇〇キロだけ見てたから、目がそっちに慣れちゃってただけだ。二球目以降はきっと普通に打てるはず。

 二球目が放たれると、私のバットはまた空を切った。

 結局一球も当てられず、失意のままボックスを出ると、秀也がスポーツドリンクを差し出した。

「あんな大振りで当たるわけねえだろ。かっとばずバッターじゃないんだから」

「うるさい」

 私はペットボトルをふんだくると、勢いよく喉に流し込んだ。

「あ、ちなみにそれ、ひまわりからの差し入れな」

「ぶふっ」

 私は衝撃のあまり吹き出して、むせた。

 マジかよ。何、給水所感覚で取ってんだ私は。普通に考えたら当たり前だろ。私には金がないし、無料でドリンクを配布するとかいう粋なイベントをこの店がするわけもない。見かけによらずケチ野郎な秀也が奢ってくれるなんてこともあり得ない。

 そしたらもう、ひまわりしかいないじゃないか。いやそれを言ったら、お金で結ばれた友情はなんたらこうたらと、ひまわりが奢ってくれたことも一度もないんだが……。

 え、じゃあ何だよ。今日ちょっと優しすぎだろ。逆に怖いぞ。

 私は喉が痛くなるほど咳をして、落ち着くと、ボトルのふたを閉めてベンチに座った。前を見ると、一瞬ひまわりと目が合い、そそくさと一二五キロのボックスに入っていった。どうやら先ほどの様子を観察されていたらしい。

「なあ、そろそろ仲直りしたらどうだ?」

 秀也は柱に寄りかかり、私を説得するように言った。

「……やだ」

 私は自分の太ももに肘を立て、そっぽを向いて拒否した。

「もういいだろ。ひまわりだって自分が悪いことくらいわかってる」

「だったら自分で謝りにくるのが筋だろ」

「それができたら苦労しないんだ。カードだってジュースだって、言葉にできないからこその行動だろ。言いだせなくなってるんだよ、ひまわりも」

「『ひまわりも』って何だよ、『も』って」

「お前もだろ」

「わ、私は! 別にそういうのじゃない……。法と正義のために許すわけにはいかないだけだ」

「お前弁護士か何かかよ……」

 秀也はあきれ顔でツッコんだ。ひまわりは、私がかすりもしなかった一二五キロのマシンを相手に、快音を響かせている。ガラス越しに見えるその後ろ姿は、どこか孤独に感じる。

「だいたい、これは私とひまわりの問題だ。お前は口出すな」

「なっ!? 俺はチームメイトとしてだな!」

「なら余計黙ってろ。あんな自分勝手なの、許してたらチームが崩壊する」

「お前だって自分勝手だろ!」

 秀也が声を荒げた。秀也のこんな声を聞いたのは、たぶん今までで初めてだ。

「……は?」

「本当にチームのために行動するなら、嘘でも謝ればいいんだ! 曖昧にして、なかったことにすれば、みんなすぐ忘れる。チームだって案外巧く回るんだよ! それがキャッチャーの仕事だろ!」

「お、おい、落ち着け。ちょっと言い過ぎた」

 いつもなら反論するところだが、秀也の勢いに圧倒された。私は秀也をなだめながら、周囲を確認する。他に客はいないようだし、迷惑にはなってないだろうが、ガラス越しのひまわりが横目に様子をうかがっている。

 秀也は一通り吐き出すと、今度は落ち着いた声に変えて、しかし表情は興奮を隠せないままに続ける。

「すまん、俺も言いすぎた。キャッチャーがどうとか、そういうことを言いたかったわけじゃないんだ。別に、チームのためじゃなくたっていい。チームなんて結局は個人の集まりで、自分勝手なのは当たり前だ。キャッチャーだからって、いつでも理想のキャッチャーでいる必要もないと思う。でも、じゃあお前は結局何がしたいんだ? お前は何のために野球やってんだ?」

「それは……」

 私は何がしたいのか。チームのためと言いながら、なぜチームのためにひまわりを許せないのか。合理的な判断ができないのか。

 私はその質問に論理的に回答する頭も、経験も持ち合わせていなかった。だから私は。

 私は無言のまま荷物を掴み、踵を返した。

「どこ行くんだよ」

「帰る」

「話はまだ」

「帰る!」

 だから私は、逃げることにした。


「眠れん……」

 薄いかけ布団を足元に追いやり、私はつぶやいた。

 季節は夏である。いや、夏と言っても初夏であるから、それほど寝苦しい気温というわけではないのだが、なぜか火照って寝付けない。特に頭に熱を持っている感じである。

バッティングセンターを出てから、私は直帰した。お金はゲームセンターで使い切っていたので、仕方なく徒歩である。衝動的に出て行ってしまったが、電車賃くらいタカるべきだったかと、少しだけ後悔した。

 帰宅後はテレビをボーっと眺め、晩ご飯の時間を待った。どんな番組かは覚えてない。食欲は基本的にいつもないが、今日は特に食べる気になれなかった。頑張って詰め込んだが。

 食後はゲームの続きをしたり本を読んだりして過ごしたが、これもあまり身が入らなかったように思う。

 何だかあらゆるやる気が起きなかったので、私はさっさと寝ることにした。

 布団に入ってしばらくは、枕の下に手を突っ込んだり、もぞもぞ動いたりして何とか寝やすい体勢を探したが、ついぞ見つからなかった。もう考えうる策は寝巻を脱ぐ以外にない。ていうかもう全裸じゃなきゃ寝れない気さえしてきた。

 別に全裸になることに抵抗はない。自分しかいない部屋で全裸で寝るのをためらうほど、私は純真でもなければ、自意識過剰でもない。

 とはいえ、まだまだ夏の本の序の口で最終手段を使ってしまえば、本番で地獄を見ることになるのは、火を見るより明らかである。まあいざとなればエアコンを点ければいいのだが、我が家の財政と地球の環境のため、乱用すべきではあるまい。ここは今の内に忍耐力を付けておくべきである。

 となれば何とか全裸にならずに寝付ける方法を探さねばならいないのだが、さてどうしたものか。

とりあえず、素振りしてくるか。

 そう思い立って、私は起き上がった。困ったときはとりあえずバットを振る。隙のない完璧な結論である。

 電気を点け、寝巻をジャージに着替える。バットを一本担ぐと、玄関に向かう前にお母さんの寝室を覗いた。

「あの、お母さん、起きてます?」

「んー」

 暗い部屋のベッドで緩慢に動きながら、お母さんの返事が聞こえた。

「ちょっと素振りしてくる」

「あ、そう。行ってらっしゃーい」

 お母さんは寝ぼけた声でそう言うと、また寝息を立て始めた。一人娘が夜に家を出るというのに、そんなんでいいのか、あんた。いや、引き止められても困るけど。

 とりあえず断りは入れたので問題はないだろう。私は静かに家を出ると、公園へ向かった。

 公園にはいくつかの街灯が立っており、夜でもある程度は明るくなっている。入り口に着くと、真ん中付近に人影が何やら動いているのが見えた。見られるの恥ずかしいので、割と困る。

私はできるだけ目立たないように公園へ入り、近くのベンチでバットを置く。不審者だったらどうしよう、とか考えながら、人影にちらりと目を向ける。

「つっ!?」

 途端に私はギョッとした。人影が私の声に気づき、こちらを向く。

 街灯に照らされたひまわりの顔が、おそらく私が今しているのと同じ表情をしていた。とっさに胸の前で組んだ手には、白いタオルが握られている。

 何だ。何でこんなとこにいるんだ、この女。

 たぶん目的は自主練習である。頃合いの場所がなければ壁当てはできず、かと言って何も持たないで投げフリだけすると肩を痛めるので、一人で練習する際ピッチャーは、タオルを使って投球練習をすることがある。

 しかしタオルは自宅でできる練習だし、むしろ鏡が見られる分、フォームチェックとしての効果は自宅の方が高い。たとえば気分転換のために、わざわざ外でやるにしても、ひまわりの家には立派な庭があるのだから、こんな公園まで来る必要はないはずだ。

 しばらくお互いに固まっていると、不意にひまわりが「あっ」と小さな声を発し、若干端の方にずれると、私に背中を向けてタオルピッチングの続きを始めた。

 これは、私の分のスペースを空けた、という解釈でいいのだろうか。でもここ結構大きい公園だし、わざわざ開けなくてもスペースなんてそこかしこにあるんだが。

 しかし、どうしようか。

 先客がいた時点で一瞬やめようかと思ったくらいなのに、それがひまわりとなれば、とても素振りをする気分にはなれない。今も運動する前から嫌な汗がびっしょりである。

 とはいえ、せっかく外に出て何もせず帰るのも変な話である。

 まあ、何だ。気にしなければいいか。

 私はひまわりと少し離れたベンチ前を陣取り、ストレッチを始めた。

 ごく簡単なストレッチを終えると、私はさっそくバットを握った。本来はその前にランニングもするところなのだが、今回はやめておく。むやみにアクションを起こしたくないし、何となく自分のテリトリーを最小限にとどめたい。

 ところで回数はどうしようか。いつもの自主練習なら百回と決めているが、今回は違う。寝付けないから、とりあえず振りに来ただけである。とすれば、ここは上限を設けず、飽きるまで、というのが妥当か。

 私はひまわりの背中を一瞥してから、後ろを向いて素振りを始めた。

 静かな公園はバットが空を切る音と、タオルがはためく音だけがしている。夜の広い公園の中で、微妙な距離の二人の女が、背中合わせで野球の練習をしている様は、傍から見ればかなり不審である。

 そう言えば、と私は昼にバッティングセンターで聞いた、秀也の言葉を思い出した。

 ひまわりも私も、ただ言いだせなくなっているだけだ、と秀也は言っていた。

 そんなことはない。ひまわりのことは知らんが、少なくとも私は違う。

 これまでに私から歩み寄ろうとしたことは、何度かあった。この前の練習試合後も、監督に呼びだされさえしなければ、きっと言いだせていた。ことごとくタイミングが悪いだけであって、その気になれば、話くらいいくらでもできる。

 なら、なぜ今言わないのだろうか。

 ひまわりは今、私のすぐ後ろにいる。今なら誰に邪魔されることなく、話をすることができるだろう。振り向いて、声をかけて、それで「もういいよ」と水に流せば、それで済む話じゃないのか。

 普段通りに戻りさえすれば、すぐにでもフォームの修正に取りかかれるだろう。それがチームにとっての最善の道ではないのか。

 ……いや、やはり水に流してはいけない。もちろん、ひまわりが自分から頭を下げに来れば、その限りではない。許してやらんこともない。

 しかし、私がひまわりに迎合するという選択肢は、断じてない。これは義挙なのである。

 しばらく素振りをしていると、タオルの音が止んだ。ふうと息を吐く声が聞こえると、ジャリジャリと砂を踏みしめる音がして、ひまわりが公園から出て行くのが見えた。

 勝った。

 内心でガッツポーズをした。いや、いつの間に戦ってたのか知らないけど。

 私は一気にやるせなくなって、素振りを止めて、天を仰いだ。

「何で戦ってたんだろう」

 星のない夜空は、どこまでも深い闇だった。


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