四
六月十二日、金曜日の午後。私はいつも通り野球部の練習に参加していた。
現在はアップやランニングも終え、私はピッチング練習でブルペンに入っていた。ピッチャーはもちろん太田。ひまわりは、さっきまで隣で木元と練習していたが、早めに切り上げてフリー打撃に入っている。ひまわりが打席に立ち、秀也がピッチャーを引き受けているらしい。どこか仲がよさそうな雰囲気である。
ひまわりとは未だ口を聞いていない。相変わらずよく目は合うが。
「あ、すんません!」
ボールがショートバウンドした。私はとっさに膝を落とし、ミットを地面に立てる。そして前屈みになり、後ろにだけはそらさないよう体で止める姿勢を作る。ボールは防具の上から胸のあたりに当たって、手前に落ちる。すぐにボールを拾い、すかさず一塁方向に目を向ける。ここまでほぼ条件反射である。
落ち着いてからマウンドの太田に目を向ける。
「す、すんません……」
太田はビクッとして、もう一度頭を下げた。別に深い意味はないのだが、これも反射的に睨みつけてしまったらしい。私はボールを投げ返しながら、溜息交じりに言った。
「明日試合だぞ。そんなことで大丈夫かよ」
「大丈夫っすよ。どうせ俺、出番ないっすから」
「お前な……」
府抜けた顔で言った太田に、私はまた溜息を返した。
明日は練習試合が控えている。代表決定戦前の最後の実戦である。ひまわりが早めにピッチングを切り上げたのも、明日先発する予定だからである。
「ひまわりが調子悪かったりしたら、本職のピッチャーはもうお前しかいないんだぞ。状況によっては、いつだって登板はありえるんだ。油断するな」
「え、でも光葉先輩、そうそう打たれますかね?」
「打たれただろ。五月の終わり。県大会」
「ま、まあ、そう言えばたしかに……。でも明日の相手、鶴谷中っすよ? 調子悪くたって、光葉先輩ならまさか打たれないっすよ」
「階級が違うわけじゃないんだ。同じ中学生同士。どこが相手だって打たれるときは打たれる」
「……わかりました」
太田は不服そうに納得した。たぶん太田にとって、ひまわりは美人の先輩で、かっこいいお姉さんで、憧れの大エースなのだ。そんなひまわりが、そこらの公立校に打ち込まれる姿を、想像できないんだろう。
そしてそんな考えられないようなことをネチネチと忠告する私は、小言のうるさい姑か、近所のひねくれたばあさん、ってところか。つくづく損な役回りだ。
「さて、それじゃあそろそろ切り上げるぞ。ダウンだ」
「あ、はい!」
私が立ち上がると、太田は山なりにボールを放った。
クールダウンを終了して、私と太田はフリー打撃に合流した。明日登板のひまわりはピッチングを控え、今は外野で球拾い中。ピッチャーには引き続き秀也が入っている。私は端っこの方で球拾いをしながら、近くに木元を呼び寄せた。
「おい木元。ちょっと来い」
「げ……」
「……何だ、今の『げ』って」
「い、いや、また説教かなって……」
「まあ、お前に言いたいことは山ほどあるが、今日はそうじゃない」
「え、違うんですか? 珍しい」
珍しいって、私はそんなに怒ってばっかの印象なのか? いやまあ、優しくした覚えはひとつもないけど。
「じゃあ、なんすか、先輩?」
「ああ、ちょっとな。……ひまわりの調子、どうだ?」
「はい?」
「いや、明日試合だろ? ピッチャーの調子とか、キャッチャーは把握する必要がある。私は最近、ひまわりのボール、捕ってないから」
「あ、ああ、そういうことっすか。普段そんなこと聞かれないから、何事かと思いました」
たしかに、こんなこと聞いたのは初めてである。少なくともひまわりの調子は私が誰よりも理解していたし。こんなことを木元なんぞに聞くのは、ある意味恥かもしれない。
「うーん、そうっすね……。特にいつもと変わんないと思いますけど……。速いし、コントロールもいいし」
「ああ、そうか。わかった」
まあ、いつも通りなら問題あるまい。いつも通りの組み立てでいいだろう。
「でもそんなに気になるなら、意地張ってないで捕ればいいじゃないっすか。いや、俺は光葉先輩と話せるんで、うれしいんですけど……」
「……別に気になるわけじゃない」
打球がひまわりの所へ飛んだ。ひまわりはそれをしっかりと捕球すると、まっすぐ秀也に投げ返し、大きな声で「ナイスバッティング!」と叫んだ。木元との話は、それで途切れた。
翌日、鶴谷中との練習試合当日になった。鶴谷中の野球部はすでに集まっており、ウォーミングアップも済ませ、現在は試合前ノック中。キャプテンのジャンケンでうちが先攻に決まっている。
第二グラウンドは長方形で、レフトが極端に広くなっているので、大き目のネットを出して小さくしている。
ちなみに新青葉中のオーダーは前回大会と一緒。ひまわりは三番ピッチャー。秀也が四番ショート。私は九番キャッチャーである。あと木元は意外にもバッティングが巧く、さらに肩もよくて足まで速いので、一番センターで出場している。太田はベンチスタートである。その太田は、今は山際監督の後ろでボール渡しをしている。
鶴谷中は、特段強いチームではない。大会では割と早い段階で姿を消す。少なくとも私が新青葉中に入ってからは、鶴谷中相手には一度も負けていなかったはずである。
ではなぜ大事な試合前最後の実戦がそんなチームなのかというと、近いからである。電車でひと駅。人によっては歩いて来れる。
あと伝統というか、義理である。近いから毎年仲良く練習試合をしていたらしい。新青葉中も、たまたま私たちの代が一部の人たちのおかげで強くなっちゃっただけなので、今まではレベル的にもちょうどいい相手だったのだろう。
また、主要な大会はすべて終わったようで、鶴谷中の三年にとってはこれが引退試合らしい。
まあ、そんなこんなであまり燃えない相手ではあるが、実戦感覚をつかむためには手を抜けない。何より目の前の試合を落とすというのは野球人として許せないので、無論全力で叩き潰すつもりである。
ノックのラストはキャッチャーフライ。山際監督はバットでキャッチャーフライを上げられないので、手で投げ上げたボールを走って追いかける。傍から見ると茶番である。いや、やってる側としても茶番である。ちなみに相手の監督もキャッチャーフライ上げられないらしい。
試合前ノックの七分間が終了し、ついに試合が始まる。ベンチが一つだけ置いてある簡素な一塁側ダグアウトに整列し、審判の合図を待つ。三塁側、鶴谷中のダグアウトにはとりあえず屋根が付いているが、こっちはそれすらない。直射日光が目に染みる。
「集合!」
審判が叫び、選手たちが一斉に走り出す。ホームを境界に整列。
「これより、新青葉中学と鶴谷中学の試合を始めます!」
「よろしくお願いします!」
ホームに元気な挨拶が飛び交った。
鶴谷中のナインが守備に散り、私たちはダグアウトに引き返す。一番の木元はバットを持って右打席に向かった。
鶴谷中の情報は、何度も対戦しているので売るほど持ってる。投球練習をしている今日の先発も見知った顔だ。三年生で、鶴谷中のエース。彼の中学野球での最後のマウンドである。
右のスリークォーターで、変化球はスライダーにカーブにチェンジアップ。といってもスライダーもカーブもほぼ曲がらず、そうと言われれば錯覚で何となく変化したように見える程度。チェンジアップはコントロールがアバウト。ストレートは特に速くないし、まあ、大したことはない。
しかしデータとはあくまで過去であるから、大幅に成長している可能性は充分にある。集めたデータを過信はできないし、現状を見て対応も変えていかなくてはならない。
「プレイ!」
審判が宣し、試合開始。ピッチャーが初球を真ん中付近に投じ、木元が見逃してストライクとなった。こちらから見た限りでは、前とさほど変わらないように感じる。
その後、木元はカウント2‐2、平行カウントからの三球目を叩き、セカンドゴロ。一塁を駆け抜けて首をかしげながら帰ってきた。しかめっ面でバットを睨み、凡退の責任を道具に擦り付ける様は実に憐れである。私はそんな憐れな後輩を呼び止めた。
「どうだった?」
「え、何がっすか?」
「何がじゃねえよ。相手のピッチャーがどうだったか聞いてんだよ。前と比べて」
「え、あー。どうっすかね? そもそも前がどんなだったか覚えてねえっす」
「お前、しょっちゅう戦ってる相手なんだからそれくらい覚えとけよ……。頭ん中は綿でも詰まってんのか?」
私はもはや怒る気にもなれず、呆れて溜息をついた。これだから感覚派は嫌いなんだ。
木元と話している間に二番がサードファールフライに倒れ、ツーアウトとなった。ネクストバッターズサークルに四番の秀也が入り、右打席には三番、ひまわりが立った。
ピッチャーが投げ込んでいくと、早々にスリーボールとなる。ひまわりのバッティングがすごいのは、すでに周知の事実であるから、まともに勝負するなんてバカげている。だから慎重にコーナーを突きに行って、結果全部ボールになっているのだろう。しかし四球目、ピッチャーの頭にフォアボールがちらついたか、外寄りに甘い球を放ってしまい失投。ひまわりはそれを逃さず捉え、左中間を割ってツーベースヒットを放った。
ダグアウトからすかさず「ナイスバッティング!」などの声がかかり、ひまわりは二塁ベース上で手を上げて応える。調子は悪くなさそうである。
次の秀也は当然のように敬遠され、ツーアウト一、二塁から、続く五番が巧くライト前に落としてひまわりが帰塁、先制点となる。その次は三振に倒れたため、初回は1点で終わった。
攻守交代となり、私はミットとマスクを持ってグラウンドに出る。キャッチャーボックスに座り、投球練習。マウンドにはひまわりが立っている。
試合前のウォーミングアップでも、私の相手は太田だった。つまり私は、実に二週間ぶりにひまわりの球を捕ることになるのである。
私が無言で構えると、ひまわりは何も言わずに投球を開始した。グラウンドに乾いた捕球音を響く。その瞬間、私は何となく違和感を感じた。何と言うか、いつもよりインパクトが薄い感じである。しばらく太田の球ばかり捕ってきたから、感触が狂っているのだろうか。
違和感の正体はわからぬまま、七球の投球練習が終了。ひまわりにボールを投げ返すと、私は立ち上がり、叫んだ。
「しまっていくぞお!」
「おお!」
グラウンドに威勢のいい声が響いた。ただひとり、ひまわりだけは、無言だった。
私が座り直すと、左打者がバッターボックスに入り、プレイがかかった。私はマスク越しにバッターを一瞥する。前回対戦したときもトップバッターだった選手である。体格は小柄で、フォームはオープンスタンス。グリップの位置は高いため、振り下ろす意識が強く感じられる。おそらくパワーにはあまり自信がないのだろう。打席に入る前の素振りを見た限りでは、ずいぶんとコンパクトなスイングを心がけていた。内角の球は得意なのだろうが、外角は強く弾き返せないだろう。決め球は外角、それも速いストレートである。
さて、では初球であるが、過去の対戦データでは、こいつは初球にあまり手を出さないタイプである。それも意図を持って見逃しているなら警戒する必要もあるが、こいつは一番だから何となく見逃しているやつである。となれば、早いカウントでは内角勝負でも危険は少ない。初球は内角、ストレートである。
私はストレートのサインを出し、内角低めにミットを構える。ひまわりがワインドアップを始め、初球が投じられる。しかし。
「ボール!」
初球は真ん中高め、まったく見当違いのコースに外れた。思いっきり腕を伸ばして何とかキャッチしたものの、肩がボールの勢いに持って行かれて、ちょっと痛かった。
しかし、今のボールは何だ。ひまわりはコントロールのいいピッチャーだから、近頃ではあんな失投はしたためしがない。もしや私に喧嘩を売っているのか。いや、まさかそんなわけはあるまい。いくらひまわりが自分勝手でも、自らのピッチングを曲げるようなことはしないはずだ。ならば、何が原因だ。
さっきの球は高めに大きく外れた。なら、たとえば踏み込みがあまく、腰が高くなっている、とかだろうか。
私はひまわりのフォームに目を凝らし、同じところに二球目を要求する。
「ボール!」
違う。しっかり踏み込めている。ならば、イップスだろうか。とすれば、制球が定まらない理由は手首のスナップスローと考えられるが。
「ボール!」
これも違う。他には何が考えられる。制球が定まらない理由。ひまわりのフォームの、いつもと違う場所……。
「ボール! フォアボール!」
四球目のボール球を受け、ようやく気づいた。相手打者はバットを置いて一塁に歩いていく。
腰も手首も問題なかった。ただ一か所。軸移動の終盤の一瞬。ストライクゾーンに向けて、そしてバッターを威嚇するように高く伸ばしたグローブ側の左手。それが、いつもより低かった。
私が投球練習のときに感じた違和感はこれだった。いつもに比べて怖さというか、圧倒的な威圧感がなくなっていた。
ピッチングとは、たったひとつの動きが狂うだけで、壊れてしまうものなのである。
「タイム」
二番が入る前に、私は審判にタイムを要求し、マウンドに向かった。
「ああ、お前ら寄ってくんな」
同じくマウンドに駆け寄ろうとした秀也たち内野陣を追い払い、私はひまわりに小声で話しかける。ひまわりは私を無視するように、かかとでマウンドを掘っている。
「……左手、上がってないぞ」
「わかった」
終始、私と目を合わせないまま、ひまわりは返答した。私とひまわりの二週間ぶりの会話は、それで終わった。
キャッチャーボックスに戻り、プレイが再開した。今度は様子見もかねて、慎重に外角に構える。しかし、ボールはまた高めのボール球になった。
私はボールを投げ返して、考える。たぶん、私の言った意味が理解できなかったわけではないと思う。さっきよりはグローブも上がっていたから、修正する努力はしたんだと思う。しかし、それでもダメだった。
私は後ろを振り返り、また審判にタイムを要求する。
「タイム。ファールカップ付け忘れました」
「え、ああ、はい。どうぞ。ええと、タイム!」
主審は面食らったように反応してから、タイムを宣言した。私はいそいそとダグアウトに向かって走り出した。
無論ファールカップ、通称、金カップは付けている。キャッチャーとしては当然だ。男子にとって最も大事なところを守る防具であるが、女子にとっても大事な場所である。
しかし、こう何度も短い間にタイムを取ると不審に思われるので、無理やり理由をでっち上げた。
恥ずかしいとか思ってる場合じゃない。この問題は急務である。
ダグアウトに戻ると、山際監督が不思議そうに聞いた。
「どうした、御影?」
私はユニフォームのチャックをいじり、ファールカップを取りつけるフリをしながら用件を伝える。よく考えたら女子のファールカップはチャックから簡単に付けられるものじゃないので、あの理由は無理があった。
「ひまわりはもうダメです。太田に交代してください」
「は!?」
と、山際監督と、ついでに隣で聞いていた太田が驚いた。
「お、お前、それは判断早いんじゃないか? まだフォアボール一回出しただけじゃないか」
「早くないです。少なくとも今日は、ひまわりはまともにストライク投げられません」
「それにしたって、もう少し様子を……」
「無理です。これじゃまともに試合できないし、相手に迷惑がかかります」
「いやしかし、太田を出したら後はピッチャーがいない。守備に就かせればまた出せるが、ライトの小田はまだ一打席も立ってないし、入れ替えるわけにもいかない。一、二イニングは粘ってもいいだろ」
「太田のあとは秀也にでも投げさせればいい。秀也の肩なら充分通用するはずです」
「お前、何でそんなムキに……まあいい。わかった」
山際監督は何か言いかけたが、渋々了承した。
「とりあえず太田はすぐに肩を作ってくれ」
「は、はい!」
太田は慌てて返事をすると、グローブを持ってブルペンに出た。
「それで、一応このバッターで様子見をする。もしここで光葉が立ち直ったら続投。ダメなら交代だ」
心配しなくたって、ひまわりが今日立ち直ることはない。すぐに代えたっていいと思うのだが、たしかに太田も肩を作る時間が必要か。
「……わかりました」
私はそう返答して、グラウンドに戻った。
キャッチャーボックスに座り、ノーアウト一塁、カウント1‐0からプレイが再開した。私はもうどこでもいいやと、ストライクゾーンの真ん中にミットを構える。ひまわりの投じた二球目は、ホームの前でバウンド。これまた大きく外れた。
私は体でボールを受け止めて、地面に落ちたのを拾うと、一塁ランナーに目を向けた。スタートはしていない。逸らしていればワイルドピッチになっていただろう。
さて、ストライクの入らなくなったピッチャーが次に考えることと言えば、容易に想像できる。トップバッターをストレートのフォアボールで歩かせ、二番にも二球続けてボール。どうしてもストライクが欲しくなってくるころである。そんな状況でピッチャーが取る行動と言えば、つまり。
私はまた真ん中にミットを構えた。ひまわりがセットポジションからクイックモーションで三球目を投じる。
つまり、置きに行く。
「ストライク!」
浮いたストレートが入り、ようやく初のストライクが取れた。しかしどう考えても遅いし、回転数も少ないからノビもない。何よりコースが甘い。不意に来たストライクに対応できなかったか、あるいは待球指示でも出ているのかは知らないが、今回はたまたまストライクになっただけで、おそらく次はない。
ひまわりにボールを返し、外角の厳しいコースにミットを構える。四球目、ひまわりのボールは外寄りの、やはり甘く浮いた球。さすがにこれは見逃されず、打球は一、二塁間を破ってライト前ヒット。足のある一塁ランナーはその間に三塁を陥れた。
山際監督がダグアウトから出ると、タイムをかけて審判を呼んだ。二人でいくらか話すと、太田がマウンドに走ってきた。ろくに肩は作れていないと思うが、仕方ない。これもリリーフの定めである。
秀也は驚いた顔をしていたが、ひまわりは素直にボールを渡して、マウンドを降りた。
審判が相手ダグアウトに投手交代を知らせ、交代が完了。太田の投球練習を開始する。
まあ、何と言うか、入んねえ。
いや、一応ストライクゾーンには入るから、ひまわりよりはマシだが、ゾーン九分割はおろか、たぶん二分割でもまともに狙えない。カーブは分割しなくても怪しい。まあ、太田はもともとコントロールよくないので、覚悟はしていた。つまり調子云々じゃなくて、太田はいつもこんなもんなのである。
しかも遅い。カーブもあんま曲がらない。弱い投手ほどリードのし甲斐があるというが、冗談じゃない。太田には何も勝負できる武器がない。
七球の投球練習を終了し、私はボールを持ってマウンドに駆け寄る。太田にボールを渡し、声をかけた。
「いつも通りの方針で行く。注意点、覚えてるか?」
「え、と、何でしたっけ?」
「忘れんな、バカ」
私は太田を睨みながら、配球方針を告げる。
「いいか。まず、コントロールはアバウトでいい。ストライクゾーンに構えればストライク、ボールゾーンならボールだ。カーブは無理に入れなくていい。ワンバウンドしてもいいから、低めにしっかり投げ込め。いずれにせよ、狙ってもどうせ入んないんだから、ちゃんと腕を振りきれ。あと慌ててポンポン投げんな。投球間隔でタイミングを崩せ」
「は、はい!」
たまに「配球はコントロールがよくないと意味がない」と言う人がいるが、そんなことはない。別にコーナーに投げ分けられなくても、できることはある。いや、もちろんコントロールがあった方が幅は広がるが、最悪ストライクとボール。速いのと遅いの。それだけでも充分に配球を考えることはできるのだ。もちろんレベルが高くなれば、それだけで勝負するのは茨の道となるが。
三番バッターが右打席に入り、プレイ再開。
まずは状況を整理しよう。初回の裏、一点リードでランナー一、三塁。バッターはクリーンナップの三番。
監督からは前進守備のサインが出た。アホである。何年監督やってんだ、って感じである。……四年か。あんま経験なかったな。
前進守備を敷けば、内野がホームに近くなるのだから、ゴロを取ればホームをアウトにでき、失点を防げる。しかしその分だけ守備範囲は狭くなるから、外野に抜ける確率も高くなるのである。
まだ初回である。攻撃はたっぷり六イニング分残っており、おまけに一点リードしている状況。さらにバッターは三番、四番、五番と中軸が続くのだから、一点なんざくれてやっていい。それよりも、より確実にアウトを取って、以降のピンチを減らすことが重要である。この場面での前進守備は愚策としか言えない。
ということで、私は監督の指示を取り消して守備陣にサインを送る。内野はそれを見て、ゲッツーシフトを敷いた。監督はがっかりしたように、すごすごとダグアウトに下がった。
狙いはダブルプレイである。故に配球もゲッツー狙いにする。まあ、守備力がそんなに高いわけでもないので、最悪取れなくてもいいが、内野ゴロなら一塁ランナーだけでも封殺してほしい。
さて次に、考えられる戦術としてはスクイズがある。しかし端から一点はあげるつもりでいるので、スクイズに関してはことさら対策する必要はないだろう。好きにさせときゃいい。むしろ確実にワンアウト取れるので、やってくれれば助かるくらいである。
では配球であるが、たしかこのバッターは、初球から積極的に振ってくるタイプである。三番を打っているだけにバッティングも自信があるようで、太田の球で簡単に勝負にいくのは危険か。
こういうタイプは追い込んでしまえばかなり有利に持ち込めるのだが、太田の持ち球でツーストライクを取るのは難しいだろう。早いカウントで打たせることが重要になってくる。
アマチュア野球のバッターは、基本的にストレート狙いの変化球合わせである。ストレートを打ち返すつもりでいて、変化球にも合わせるというものである。逆は難しいので、プロレベルならまだしも、アマチュアではあまりいない。他には狙い球を完全に絞るやつもいるが、それも少数だろう。
今回はダブルプレイを狙う関係上、ある程度しっかり打たせたいので、カーブをカウント球に組み立てながら、決め球はあえて狙っているストレートとする。
以上、要点をまとめると、簡単に勝負するのは避ける。ストレートを決め球にするつもりで、カーブでカウントを取る。早いカウントで打たせる。ということである。
それを踏まえた上で、私は初球のサインを送り、ミットを構える。外角、ボールになるストレート。太田がこくりとうなずいて、初球を放った。
「ボール」
構えたところからは少し外れたが、しっかりとボールになった。腕も振れている。私はボールを投げ返し、考える。これでストレートを意識させたはずだ。
しばらく待ってから、二球目のサインを送った。低め、ストライクゾーンのカーブ。太田はうなずき、投球。
「ボール」
ボールがホームベースの前でバウンド、バッターは一瞬手が出かけるが、押しとどまってボール。軟式球のため大きく跳ねたが、スピードはないため、しっかり反応してキャッチ。ランナーは両方ともスタートしていない。
できればストライクがほしかった。おそらくストライクゾーンでも、直前にストレートを見せたこともあり、ストレート狙いならファールになっていたはずだ。
しかし、それでも手を出しかけたことは大きな収穫である。相当打ち気にはやっているのだろう。どれ、ではもう少し焦らしてみよう。
ボールを返し、今度は一塁牽制のサインを送る。サインを受け取ると、太田はプレートを踏んだまま、一塁に緩い牽制球を投げる。その瞬間、バッターが顔をしかめた。一塁ランナーは律儀にヘッドスライディングでベースにタッチ。
バッターはもう打ちたくてしょうがない。カウントは2‐0。スリーボールになると太田が焦って、場合によっては置きに行くみたいな愚行をするかもしれないが、ツーボールならまだ余裕もあるはず。勝負するならこのタイミングである。
ファーストからボールが返るのを見て、私は太田に三球目、決め球のサインを送る。外角、ストライクゾーンのストレート。
太田はうなずくと、さっそく投球動作に入った。だからポンポン投げんなっつってんのに、もう忘れたのか、てめえ。せっかくここまで焦らしたんだから、もうひと押し頑張れよ。
私は内心でキレながら、表情に出さないようにしてミットを構え続ける。
太田が放ったボールはまっすぐに進む。外の甘いボールだが、今なら問題はないはず。案の定バッターは早めのタイミングで振り始め、泳がされる。
「ショートゲッツー!」
私は大声で指示を出す。外のボールを無理やり引っ張り、打球は三遊間のショート寄りに力なく転がる。
ショートを守る秀也は難なく打球を捕まえ、二塁に入ったセカンドに送球、フォースアウト。セカンドは握り替えに多少手間取るが、なんとか一塁へ送球。手前でワンバウンドしたボールをファーストがキャッチ。一塁を駆け抜けたバッターランナーも際どいタイミングでアウト。
三塁ランナーがホームに帰ったために一点を失い、同点となるものの、ゲッツー成立。ツーアウトを取り、さらに四、五番を前にランナーを一掃。狙い通りである。
その後、四番に左中間を破るツーベースを打たれるも、五番がセンターフライに倒れてチェンジ。同点で初回の守備を終えた。
ダグアウトに戻ると、監督の隣でひまわりが覇気なく、うなだれていた。
「太田、よくやった。その調子だ」
「は、はい!」
防具を外しながら、太田を労う。太田は慌てて返事したあと、ひまわりを見て神妙な顔になった。
外野陣がダッシュでダグアウトに戻ってきた。ヘラヘラしながら走ってきたセンターの木元に、声をかける。
「いつからだ」
「へ? いつから?」
「いつから、ひま……!」
大声で言いかけて、ひまわりが後ろにいることを思い出した。
「ちょ、ちょっとこっち来い」
「え、な、なんすか……?」
私は木元をダグアウトの端っこに連れ込み、ひまわりに聞こえないよう小声で話す。
「いつから、ひまわりのフォームが崩れた。一晩であんな大きく崩れるわけない」
「え、いや、そんなこと……。昨日も言いましたけど、特に悪い点は……。いや、でもここ最近、あんま構えたとこに来てない感じもしたような、しなかったような……」
「そういうことは早く言え!」
私は溜息交じりに、それでいて強い口調で言った。木元はビクッとして、「す、すんませえん!」と、裏返った声で答えた。
こいつ本格的に頭空っぽなんじゃねえか? ただ捕って、ただ投げて、ただ打ってるだけである。ずっと捕ってて、ピッチャーの調子も見抜けねえで何がキャッチャーか。
ひまわりがこれだけフォームを崩したことは、今までに一度もない。なぜなら、いつもなら少し崩れても、すぐに私が気づいて修正するからである。だが、最近私はひまわりのボールを捕っていない。その間に少しずつおかしくなっていき、そして今日の試合で、何が一番の原因になったかは知らないが、それが完全に決壊したのだろう。
「み、御影先輩……。次、先輩の打席っすよ……?」
私が考え事をしていると、木元が恐る恐る進言した。見ると、先頭の七番は一塁ベースを駆け抜けたあと、がっかりしたようにバットを拾って戻ってきた。ネクストバッターズサークルの八番が打席に向かい、その次は九番の私である。
「……わかった」
私は溜息を吐き、ヘルメットとバットを持ってネクストバッターズサークルに向かった。
さて、この状況、どうすればいいだろうか。
ネクストバッターズサークルでしゃがみこみ、ピッチャーのボールを見ながら、私は考えた。
この試合のことではない。ここはまだ何とか戦えるし、そもそも練習試合だから、「勝ちたい」という感情的な部分を除けば、負けたって構わない。
しかし、来週のロブスターズ戦は、そうはいかない。とても重要な試合だし、ロースコアゲームが前提となる以上、太田のピッチングでは到底勝てない。ひまわりのピッチングは不可欠なのである。
となれば、どうにかひまわりに復調してもらう他ないのだが、あれだけ崩れたフォームを、たった一週間で治せるだろうか。いや、そうするしかあるまい。大変不本意ながら、前回の一件はひとまず水に流し、今日は話し合おう。
ただ、今すぐでは私の心の準備ができてないし、突然話しかけたりするのも不自然だと思うので、まあ、今日のミーティングの後にでも話すか。
考えているうちに八番バッターが三振に倒れ、私の打順となった。私は思考を断ち切って打席に向かい、バットを構える。とりあえず後のことは置いておいて、今はバッティングに集中しよう。私はじっくりとピッチングを観察しながら、四球目、カウント2‐2から内角のストレートに詰まらされ、ピッチャーゴロを放った。
「ゲーム!」
「ありがとうございました!」
ホームを境に整列して、両チームが頭を下げた。試合終了である。
結果は6‐4で、新青葉中の勝利。太田はフォアボールとエラーで何度も窮地に陥ったが、秀也の守備に助けられながら、何とか四失点で最終七回を投げ切った。攻撃では秀也の打撃と相手のフォアボール、エラーが絡み、六得点。ロブスターズを相手取ることを考えれば物足りない。
試合が終わると、恒例のトンボの奪い合いが始まった。ホームを整備していた私のところにも鶴谷中のユニフォームを着た男が来て、執拗に「代わりますよ!」とか言ってきたが、追い返した。私のホームには誰にも触れさせん。
私はホームベース付近にトンボをかけながら、グラウンド整備に協力する鶴谷中の選手たちを見た。達観したみたいな爽やかな表情の奴もいれば、目を赤くして半べそかいてる奴もいる。セカンドベースの秀也が、何か暑苦しそうな奴に絡まれて、困った顔しながらうんうん頷いている。
どうやらグラウンド整備に出ている鶴谷中の選手は、ほとんどが三年生のようだ。はじき出された後輩たちも、荷物を片づけながら悔しそうに泣いている。たぶん負けたから悔しいのではなく、引退という、青春の燃え尽きる瞬間の哀愁に浸っているのだろう。
否定するつもりはないし、それはそれでいい部活の思い出になるのだろうが、一歩引いた立場から見ればそれは、茶番にしか感じられなかった。
最後に鶴谷中の選手たちから暑苦しいエールをもらい、見送ると、私たちは部室に戻ってミーティングをした。
いつもはキャプテンのひまわりが主導で行うのだが、今日のミーティングは秀也が進行した。ひまわりは、部屋の隅でおとなしくしていた。
「それじゃあ、今日はこれで解散。みんな気を付けて帰れよ。ああ、村井、御影。お前らは残れ。話がある」
チームワークが何だのとか、具体例のほとんど出ない普段通りの不毛なミーティングの解散後、山際監督から呼び出しを食らった。ひまわりは、すでに荷物を持って部室を出ていた。
ひまわりと話そうと思っていたが、仕方ないので、私は秀也と部室に残った。三人だけになった部室で、秀也が聞いた。
「監督、何ですか?」
「うん、まあ、ちょっと相談っていうか、なんて言うか……」
山際監督は難しそうな顔で言葉を濁してから、意を決したように続けた。
「今度のロブスターズとの試合、太田を先発にしようと思う」
「なっ!?」
秀也は唖然としたように声を上げ、聞き返した。
「そ、それは、ひまわりは投げさせないってことですか?」
「投げさせないと決めたわけじゃない。リリーフの準備はしてもらう。しかし、その可能性もある」
「ま、待って下さい! 今日のひまわりは、たまたま調子が良くなかっただけで……。だいたい太田のピッチングじゃロブスターズには通用しません!」
「光葉の意志だ」
「え……?」
「今日の試合中に、光葉本人から希望があった。次は投げたくないと」
「そんな……」
秀也は衝撃のあまり、以降の言葉を逸した。傍らで聞いていた私も、一瞬心臓が止まったような錯覚がした。
まさか、あの意地でもマウンドを譲らなかったひまわりが、自分から大事な試合の先発を辞退したというのか。
「御影。お前の意見を聞きたい。次の試合で、それでも光葉を先発させた方がいいか?」
「私は……」
そんなことは決まっている。ロブスターズはロースコアゲームが前提。一点も二点も取られるわけにはいかない。太田ではどうやっても抑えるビジョンが見えないし、ひまわりを先発させないという選択は絶対にありえない。
「……先発は、太田がいいと思います」
しかし、気が付くと私は、真逆のことを口にしていた。
「お、お前、何言って……!」
声を上げた秀也を遮るように、私は続けた。
「ひまわりがいつ復調するのか、まったく見通しが立ちません。それなら最初から太田を仕上げて、太田に投げさせることを前提に試合を組み立てた方が、効率的です」
そうだ。あと一週間しかないのだ。その期間内にひまわりが復調する保証はどこにもないし、たぶん無理だ。それに対して、弱小校が相手とはいえ、太田は今日の試合で投げ切った。どんな内容であれ、試合を作ったピッチャーの方が、きっとマシに戦えるはずだ。
山際監督は私の目を見ると、目を閉じて少し考え、「そうか……」と一言口にした。
「わかった、先発は太田にする。太田には御影から伝えてくれ。俺からは以上だ」
「わかりました。それでは」
「お、おい待てよ、月見!」
引き留める秀也を置いて、私は部室を出た。
寝巻に着替えると、私は自室の机に座った。今日は土曜日で、プロ野球は全試合がデーゲーム。昨日のアニメは消化したし、特に見たい番組もないので、自室に引き籠ることにした。もうさっさと寝るつもりであるが。
太田には、帰宅してすぐに電話して、先発の件を伝えた。太田はしばらく狼狽しながら、「自分には無理だ」と何度も泣き言を喚いた。落ち着くと今度は、ひまわりが先発でない理由を再三に渡って聞いてきて、めんどくさかったので無視して切った。
しかし太田には答えなかったが、今改めて考えると謎である。なぜあのとき太田を先発に推したのか、ひまわりが先発でない合理的説明が思い浮かばない。
太田の方がマシというのは、どう考えても詭弁である。一週間で復調の見通しが立たないのは確かだが、期間がないのはいずれにせよ同じである。今から太田を仕上げたってたいして変わるわけがないし、それならひまわりの復調に託す方がよっぽど可能性がある。
よく考えれば、いや、本当は最初からわかっていたことなのに、私はなぜあのとき、そう答えなかったのだろう。私は試合中、ひまわりと話す覚悟も決めていたはずだ。
ふと壁のカレンダーに目を向ける。六月のページの右上には、小さく七月のカレンダーが乗っている。多くの三年生は引退が近づき、受験勉強に力が入る時期である。
鶴谷中の三年生たちは、引退試合で泣いていた。彼らもしばらくは野球と決別し、勉強に励むのだろうか。
そう言えば、ロブスターズとの試合に負ければ、私たちは引退なのか。ということは、もしかしたら次の試合が、私たちにとって中学最後の試合になるかもしれない。そしてひまわりは、中学最後のマウンドに、立てないかもしれない。
とはいえ、中学を卒業した後も、私とひまわりの関係は続く。中学で最後であろうと、他に選択肢がない以上は必然的に、二人で星浜女子野球部の扉をたたくことになる。
……いや、本当にそうだろうか。
少なくとも、ひまわりほど野球を好きな人間が、野球部に入らないことはないはずだ。しかし、秀也に強豪校から推薦が来ているのは、もちろん野球が巧い「天才」だからである。それなら、同じく野球が巧い「天才」のひまわりに、推薦が来ていない道理はない。
女子野球は、男子の野球ほどに人気のある部活動ではない。それでも少しずつ盛り上がりを見せており、いわゆる強豪と言われ、推薦によって選手を集める高校もいくつか存在する。
もしかしたら、私とひまわりがバッテリーを組むことは、もうないのかもしれない。
だからどうした、ということではない。そんな個人的なこと、チームには、私には関係ないことのはずだ。
ひまわりが先発を辞退したのは、ひまわり自身の意志だ。投げる意志のないものに投げさせても、その投球に力は入らない。投げたくないのに投げさせて、打たれて、本人につらい思いをさせるだけだ。チームにとっても、ひまわりにとっても、いいことじゃない。
だから、きっと私の判断は間違っていなかったはずだ。
私はすでに敷いてある布団を一瞥すると、本棚に向き直り、読み止しのプロ野球選手の自伝を手に取った。
私の判断は、間違ってないはずだ。




