一
私が光葉ひまわりと喧嘩したのは、一昨日のことだった。
昼休みの新青葉中学、三年一組の教室は、賑わっていた。
私は窓際の一番後ろの席で箸先をくわえながら、真ん中の席に座るひまわりをボーっと眺めていた。ひまわりは三人のクラスメイトと机をくっつけ、楽しそうに談笑している。
内容はプロ野球の話だった。三人はどの選手がイケメンだとか、頭の悪そうなことを話しているが、ひまわりは女子中学生らしからず、リーグ分析などを語っていた。
「今年の巨人はね、戦力的に見ると頼りない感じだけど、でも巨人だからね。今年は何だかんだで優勝だね!」
やっぱり頭悪そうな話だった。しかしそんな、女子中学生が一ミリだって食いつきそうにない話題でも、「ひまわりらしい」などと、聴衆は楽しそうに聞いている。彼女のバカな発言は、すべて彼女の魅力の下、女神の歌声に変わるのである。
ちなみに今年の優勝は楽天イーグルスである。ぶっちぎりの最下位であるが、ここから奇跡が起こるのである。現実逃避ではない。
私の知る限り、ひまわりほど、女からも男からも好かれる人間はいない。
何せ新青葉中学野球部のキャプテンにしてエース、さらに三番打者である。まあ別に新青葉中の野球部は名門とかじゃないけど、それでも彼女が入ってから、強豪ひしめく神奈川で全国に王手をかけるほどには強くなった。つまり新青葉中は、彼女がいるから強くなったのである。
性格は明るく闊達で、いつも堂々としていて、頼りがいがある。それでいてあの、そこらのアイドルなら公開処刑できそうな容姿である。多少勉強の不出来なところはあるが、彼女の場合はそれも愛嬌。誰しもが彼女に好意を寄せ、そして憧れるのである。彼女を嫌う者があるとすれば、そいつは相当なひねくれ者だろう。
つまり私は、そんな大スターと喧嘩をしたのである。
不意に、ひまわりと目が合った。彼女は一瞬驚いたが、すぐにむすっとして目をそらした。私もむきになって目をそらし、弁当の白飯をやけ食いした。どうでもいいが、今時の女子中学生の弁当が日の丸ご飯ときんぴらと唐揚げだけというのは、ちょっとどうかと思う。超多いし。まあ作ったの自分だが。朝とか時間ないし、冷凍食品を適当に詰めるのが一番楽である。
「お前ら、まだ喧嘩してんのかよ……」
梅干しを口に入れて、予想外の酸っぱさに顔をしかめたところで、そんな声がかかった。声の発生源に目を向けると、呆れたような表情の男子中学生が菓子パンを持って、机の前に立っていた。私は箸で取り出した梅干しの種を弁当箱のふたに乗せ、あえて嫌な顔をして窓の外を見た。男子中学生はまた溜息をついた。
「いつもは一日たったら仲直りしてただろ? どうしたんだよ、今回は」
「秀也には関係ないだろ」
「いや、関係あるだろ。キャプテンが当事者じゃ、監督にいろいろ言われるのは副キャプテンの俺なんだから」
秀也は困ったような顔で言った。何だか中間管理職みたいな悲哀を感じる。表情だけで言えばサラリーマンの才能がある。
彼は村井秀也。新青葉中野球部の副キャプテンにして、四番ショート。我が野球部の誇る、もう一人の天才である。外見は割と普通だと思うのだが、なぜか女子の間ではイケメンとか言われて人気がある。たぶん野球が巧いってだけで五倍くらい補正が入ってる。
たしかに中性的な顔立ちだとは思う。しかし残念。こいつはアニメオタクで、しかも百合厨である。
「それに俺たち三人、小学校からずっと一緒にやってきた仲だろ? お前らがぎくしゃくしてると、なんか調子狂うんだよ」
朝練からファインプレイ連発で絶好調だったやつが何を言うか。と思ったが、こいつは天才だから、凡人には、不調でも好調に見えるのかもしれない。
秀也の言う通り、私たち三人は小学生から同じチームで野球をやっている。小学生のときは近所のおっちゃんがやっているクラブチーム。中学では学校の野球部である。
「そもそもの話としてだな。結局どっちが悪いんだ?」
「何だよ。私が悪いっていうのか?」
「いや、そういうわけじゃねえけどさ……」
「ひまわりだよ。完全に」
「本当か? お前にも実は悪いとこ、あったんじゃないか?」
そんなはずはない。ひまわりが一方的に悪い。私は潔白である。裁判したって全面勝訴の自信がある。
まず、事の発端は一昨日、五月三十日、土曜日の午後に行われた野球の試合である。神奈川県中学校春季軟式野球大会、という長ったらしい名前の大会。要するに県大会。
これは横浜市の中学野球部にとって、とても大事な大会である。なぜならこの大会には、横浜からは二校が代表して出るのだが、そのうち勝った方が、全日本少年軟式野球大会、すなわち全国大会への切符を手に入れられるのである。
我が横浜市立新青葉中学校は、そんな大事な大会の決勝戦まで進んでいた。相手はもうひとつの横浜代表。つまり優勝した方が全国行きという試合であった。
勝てたはずの試合だった。
相手は強豪だけど、ひまわりの調子はよかった。
ストレートは浮き上がるみたいに伸びて、私の構えたところにピシッと決まる。対して、ストレートとほとんど変わらないフォームから放たれるカーブは、ググッとスピードが落ちる。たった二球種の組み合わせに、バッターが面白いように空振りした。
ダブルヘッダーで前の試合も二イニング、つまり決勝でフルイニング投げる、投球制限ギリギリまで投げていたけれど、そんな疲れもものともせずに、ひまわりは相手を圧倒した。
そして試合は最終七回を迎える。ランナーを一塁に置いて、ラストバッターだった。
私はほとんど勝利を確信していた。一点差だが、前に出たランナーは、打ち損じがライトとセカンドの間に落ちたポテンヒット。ラッキーがそう何度も起きるはずがない。代打で出てきたデカい右バッターは、たしか打撃が得意だったはずだけど、油断さえしなければ脅威ではなかった。
案の定、ツーストライクに追い込むのは簡単だった。あと一球で、全国のはずだった。
バッターの挙動は、明らかにストレートを狙っていた。ストレートは際どいのでも振ったのに、カーブは真ん中付近をピクリと反応して、見逃した。ストレートに強いというデータもあったと思う。直前にストレートで遊び球を投げたこともあって、マスクをかぶっていた私は、カーブのサインを送った。
勝てたはずの試合だった。
ひまわりは首を振った。私は訳が分からなくて、もう一度カーブのサインを送った。しかし、ひまわりはまた首を振った。タイムをかけて相談に行くと、ストレートで勝負したい旨を伝えられた。根拠を説明して、説得すると、こう返された。
「私のピッチングが信用できないの?」
はっきり言って、殺意が湧いた。どう考えたってストレートで勝負するのは危険だ。勝てば全国、という場面で、無駄なリスクを背負う場面ではない。それでもストレートで勝負するなんて、ストレートでも勝てるなんて、自惚れも甚だしい。
何より、私はひまわりのピッチングを誰よりも信用していた。信用していたからこそ、ひまわりのカーブなら、きっと相手を抑えられると信じていた。それを言うなら、私は逆にこう聞きたい。
私のリードが信用できないのか、と。
もう私のリードがいらないのなら、キャッチャーがただボールを捕るだけの壁であればいいのなら、あるいはただ盗塁を刺すだけの固定砲台であればいいのなら、そこに私がいる必要はないじゃないか、と。
しかしその言葉で、私の説得する気力は完全に削がれてしまった。
「わかった」
と、一言だけ言って、私はキャッチャーボックスに戻った。極力感情は出さないようにしたけど、たぶん顔とか声に出ていたと思う。
私は心の中で、いっそ打たれちまえ、と思った。
プレイが再開して、私はひまわりのお望み通りの、内角高めに構えた。ピッチャーというものは、ここで空振り三振が取れると一番嬉しいらしい。サインなんてどうせ意味ないから、出さなかった。
ひまわりがセットポジションでストレートを投げた。ひまわりのフォームは中学生になったぐらいのころから変わった。バッターを威嚇するというか、相手を見下すみたいな、思いっきり上から投げ下ろそうとするフォームだ。
完璧なストレートだった。バックスピンはどこまでも純粋な縦回転で、スピードもよく出ている。しかし、所詮は中学生の球。同じ中学生相手に、舐めてかかって通用するほど、野球は甘くない。
待ってましたとばかりにバットを振りぬかれ、ストレートは簡単にはじき返された。打球はサードの頭上を超え、レフト線の長打コース。一塁ランナーは悠々とホームに帰り、同点。バッターはデカい体を激しく揺らし、巨体からは考え付かないスピードで三塁を陥れた。
その後、何とかそのイニングはしのいだが、ひまわりがマウンドを降りた延長八回、リリーフの太田がつかまり、私たちは全国の切符を掴みそびれたのである。
しかし話はそこで終わりではない。試合後、ひまわりと個人的に開いた反省会で、私は完全にキレた。あの一球のわがままを問い詰めたとき、彼女はめんどくさそうにこう言ったのだ。
「もういいじゃん、そんなこと」
よくねえよ。これがよければ、なぜ私たちが必死になって勝とうとするのか。なぜ高校球児が必死になって甲子園を目指すのか。すべての説明がつかなくなる。
これだからピッチャーという人種は嫌いなのだ。まるで自分がチームの、いや世界の中心だとでも思っている。チームのことより、自分が最高のピッチングをすることが最重要。目立ちたがり屋で自分勝手な連中だ。
とまあ、以上が顛末である。どうだろう。私に非はあるだろうか。いや、あるまい。ひまわりのわがままを聞いて、その結果が敗北。挙句の果てには開き直りである。もはや怒りを通り越して憐れで仕方ない。
と、言うような思いを込めて、私は秀也に返答した。
「全部ひまわりのせい」
「そ、そうか……」
私の気迫が伝わったのか、秀也は若干気圧されて言った。
「まあ、じゃああれだ。ひまわりが悪いってのはよくわかった。でも、とりあえずはお前が大人になってだな、ひとまず頭を下げてみたらどうだ? キャッチャーだろ」
思わず殴りかかりそうになって、すんでのところで堪えた。私がこの世で最も嫌いな言葉は「キャッチャーだろ」である。
これはいわゆる「女房役」という傍迷惑な俗称の弊害である。なぜキャッチャーであるというだけで、ピッチャーのわがままに付き合わなければならないのか。キャッチャーの役目とはピッチャーのご機嫌を取ることではない。
第一、結婚……の約束はまあしたな。小学生のころ。でもあれだ。子供のころのことだし、本気ではない。ていうか女同士じゃん。
そもそも、この「女房役」というのが仮に真であったとして、昨今の夫婦は亭主関白などということはほぼないのだから、むしろ旦那が折れろよという話である。
しかし、それをそのまま言ってやるのは癇に障る。なので私はこういう時、厭味で返してやることにしているのだ。
私はまた窓の外に目をやり、できるだけ厭味ったらしい声で言った。
「そりゃ秀也はひまわりのこと好きだもんな。ひまわりの肩持つよな」
「はっ!? お前、何言ってんの!? そそ、そんなわけねえじゃん! バッカじぇねえの!?」
うわ、三次元の男のツンデレとかキモイ以外の何物でもねえ。そういうのはお前、次元一個引っこ抜いてからやれよ。
しかし、これは秀也の撃退方法として効果てき面である。こいつは深夜アニメとか日曜朝の女児向けアニメとか見てるオタク野郎で、しかも百合厨とか言うどうしようもないやつだが、唯一愛せる三次元の女がひまわりなのである。
あ、私? 私はいいんだよ。女だから。日曜朝のは女「子」向けアニメだろ? 深夜アニメ? あれは……最近の淑女のたしなみだろうが。
「とにかく、あれだ。早く仲直りしてくれよ。代表決定戦まで時間ねえんだし」
秀也はそう言い残して、自分の席に戻って行った。
代表決定戦は、全国へ行くため、三年の私たちに残された最後のチャンスである。全日本少年軟式野球大会は横浜スタジアムの開催ということで、地元の神奈川県には二チームの出場枠が与えられている。
残る一枠は中学野球部の代表と、トーナメントで勝ち上がってきたクラブチームの代表で争うことになり、最後の試合が六月二十日、土曜日に行われるのだ。つまり、もう一か月もない。
「わかってるよ、そんなこと……」
私はそう窓に向かってつぶやくと、弁当の残りをかき込んだ。
授業が終わり、部活の時間が始まった。
新青葉中の女子更衣室は校舎の三階にある。空き教室の真ん中に壁を入れ、もう半分を備品室とかにされているため、結構狭い。しかし今日は、何だか少し広く感じた。
いつもと勝手が違うことといったら、ひまわりが横にいないことだろうか。
私はいつも、授業が終わると、ひまわりと一緒にダッシュで更衣室へ向かい、一緒に着替えをする。しかし今日は声をかけず、ここまで一人で来たのである。教室を出る前、横目にひまわりを見たが、彼女はチャイムが鳴ってもなお、他の女子とおしゃべりしていた。
手早く着替えを済ませ、グラウンドへ向かった。新青葉中には敷地内のグラウンドの他に、第二グラウンドという広いグラウンドがあり、野球部は朝練以外ではそこを使用している。第二グラウンドまでの数分の道のりを、私は一人で歩いた。
グラウンドには一番乗りだった。倉庫からベースやらを出して準備をしていると、遅れて後輩たちがやってきた。後輩たちは私に気づくと、慌てて走ってきて、「俺がやりますよ!」とか言って準備を手伝い始めた。このやり取りはほぼ毎日行われる。いつも私らが先にやってんの見てんだから、もっと早く来いよと思う。
ほんの少し遅れて秀也とかの三年生がやってきて、ひまわりはその三年どもよりさらに遅くやってきた。重役出勤ですか。さすがはキャプテン様である。まあ、まだ集合時間前だが。
キャプテン様の号令でランニングが始まり、三周走るとアップに入る。一通りのストレッチを終えて、私はキャッチボールの相手を目で探した。
ひまわりが視界に入り、自然と目が留まった。ひまわりも同じタイミングで私を見つけたようで、図らずも目が合ってしまった。
一瞬の静寂があって、ひまわりがはっとして、目をそらして声を上げた。
「き、木元!」
「へ!? あ、はい!」
遠くで声がして、一人の男子が走ってきた。木元は二年生の控え捕手である。
「な、なんすか、キャプテン?」
「今日は私とキャッチボールしよう!」
「え、俺っすか!? 俺、いつも太田とやってんですけど……。御影先輩は……?」
「いいから付き合いなさい!」
「あ、はい。別に、いいっすけど……」
木元てめえ、あからさまにデレデレしてんじゃねえ。練習中だぞ。
私は何だかもやもやする気持ちを溜息として吐き出してから、とりあえず辺りを見回し、一人残された太田を探した。
「太田、ちょっと来い」
「は、はい!」
返事がして、太田が走ってきた。太田は一年生の二番手投手。二年生に投手志望がいないという異常事態のため、一年生ながら次期エースである。ちなみに一昨日のキャプテン様のわがままのせいで、最終的に負け投手となってしまった悲運の右腕である。
「木元がお前を売った」
「木元先輩? え、と……。どういうことっすか?」
「詳しいことはあのキモイにやけ顔を見ればわかる」
太田は、ひまわりとキャッチボールを始めた木元の横顔を見ると、「ああ……」と呆れたように言った。
「というわけで、キャッチボールの相手をしろ」
「そうっすね……。わかりました……」
木元にうらやましそうな視線を向けて、太田はがっかりそうに言った。てめえも美人の方がいいのか。これだから男は。
数十球キャッチボールを続けると、ひまわりの号令がかかった。キャッチボールが終了し、肩のクールダウンに入る。軽い投球に変えて、距離を少しずつ詰めていく。それが終わると、今度は監督の下に集合して、適当な挨拶を聞く。それも終われば、ついに練習スタートである。
中学野球部はとにかく走る。ベースランニング、塁間ダッシュ、ミニハードル、インターバル走、坂道ダッシュなどなど。
アメリカンノックはノックと名前が付いているが、あれは捕ることよりひたすら走らせることが目的なので、ただの下半身トレーニングと言って差しさわりない。というか守備練習とは総じて下半身強化とイコールである。
走るだけでこれだけの種類があるのである。こういった練習のどれかを、毎日のメニューの中にひとつは取り入れる。「俺たち陸上部より走ってね?」とは、どこの野球部員でも一度は思うことなのだ。ちなみにうちに陸上部はない。
もちろん新青葉中野球部でもそれは同じである。一試合戦いきるだけの体力づくりだとか、論理としては充分に理解できるのだが、はっきり言ってあんま楽しくないので好きではない。
しかしやっぱり、やらねばならぬことに変わりはないので、私は仕方なくベンチにミットを置いた。チームメイトたちはホームの後ろに集まっている。今日はたしかベースランニングである。
「ああ、御影。お前はちょっと話がある」
私がチームメイトに合流しようとすると、後ろから呼び止められた。振り返ると、ベンチ前に大人の男が立っていた。
この人は野球部の顧問兼監督、山際監督である。担当は国語で、一年から三年まで、全学年教えている。スポーツマンタイプの若い教員で、女子の間でも結構人気がある。でも実は全然スポーツマンじゃない。学生のころは文芸部だったらしい。野球はやったことないらしい。
どう考えてもめんどくさい話なので、普段なら死ぬほど嫌なのだが、今回ばかりはベースランニングを公然とサボれるので嬉しい。私は帽子を脱いで監督と正対した。
「何ですか?」
「うん。お前、まだ光葉と喧嘩してんのか?」
ベースランニングの方がましだった。
「別に喧嘩とかじゃないです。じゃ、私は練習戻りますんで」
「待て待て。早い早い」
帽子をかぶって立ち去ろうとした私を、山際監督はすぐに引き止めた。仕方ないので振り返ってやり、思いっきりめんどくさそうな表情をして睨んでやった。
「そんな露骨にめんどくさそうな顔すんなよ……」
「じゃあ、どんな顔すればいいんですか」
「もっとこう、純粋な野球少年のような表情をだな……まあいいや。とりあえず座れ」
山際監督はそう促すと、自らもベンチに腰を下ろした。私は溜息を吐き、仕方なく座った。グラウンドでは、チームメイトたちがダイヤモンドを全力ダッシュしている。誰が一番速いだので、明るい笑い声が聞こえる。楽しそう。
「お前の言い分もわかるけどさ、なんつうか、そこは何とか我慢して、お前が折れてみてもいいんじゃないか? キャッチャーだろ」
あんたもか。
思わず口に出かかって、ついでに手も出そうになったのも、私は何とか我慢した。
教師が正義を歪めていいのか、という問題には、とりあえず目をつぶるとしよう。それよりも、その言葉だけは許せない。
いつもそうなのだ。バッテリーで何かあれば、まずキャッチャーが何か言われる。キャッチャーが保護者か何かと勘違いされているのだ。
何でも、「抑えればピッチャーのおかげ、打たれればキャッチャーのせい」なんて言葉もあるらしい。つまり、すべての名声がピッチャーに集められ、すべての責任はキャッチャーに降りかかる、ということだ。
同じチームで、同じく勝利を目指す仲間であるはずなのに、その間には不当な格差があるように、私には思えてならなかった。
というようなことを長々と語ったところで、三言目くらいから聞き流されることは目に見えているので、代わりに厭味を返してやる。
「なるほど。捕ることしかできない無能な壁キャッチャーである私と、私の壁みたいな胸部をかけたわけですか。はっはっは、巧いですねえ。セクハラで訴えますよ」
「やめっ! おまっ、やめろ! そういうの最近敏感なんだから!」
たぶん痴漢冤罪とかと同じ理論である。結局セクハラは当人がそう感じるかが大きいのだから、ねつ造しようと思えばできるのだ。これをセクシャル・ハラスメント・ハラスメントと名付けることにしよう。
山際監督は一通り慌てた後、自らを落ち着かせるために溜息を吐いて、苦笑しながら言った。
「そんなこと一言も言ってないだろ。お前ってほんとにめんどくさい性格してるよな」
教師にあるまじき発言である。さっきのセクハラはセクハラハラだが、これはれっきとした言葉の暴力である。私の親が話題のモンスターさんだったら、最悪自殺まで追い込まれる可能性がある。まあ私の母はたぶん何もしないと思うので、自分で慰謝料を搾り取るしかないが。
「監督、いえ先生。今の発言は私のガラスのハートを著しく傷つけました」
「お前のハートはチタン製だから問題ない」
もっと傷つきましたよ、私の豆腐メンタルが。あれ、何か違う?
まあ、冗談は置いておくとしよう。今さらそんなことで傷つく私ではない。
私がめんどくさい性格をしているのは自覚している。この性格はひとえに、小学一年のころから都合九年間務めあげた、キャッチャーというポジションにより培われたものである。
ピッチャーとキャッチャーをバッテリーと表す理由は、いくつかある。最も一般的なのは、「試合を動かす動力源」だから、というものであろう。野球とは常に投手が捕手に向かってボールを投げることで始まる。しかし、これとは少し違った理由を提唱する人もいる。
すなわち「ピッチャーがプラスで、キャッチャーがマイナスを表している」というものだ。これはそのままプラス思考、マイナス思考という意味である。
ピッチャーとは常にプラスに、ポジティブにものを考え、イケイケドンドンで突っ走っていかなくてはいけない。対してキャッチャーはマイナスに、ネガティブに考える。常に最悪の状況を想定し、あらゆるリスクを考え、被害を最小限に抑えるゲームメイキングをしなくてはいけない。
かなりマイナーな考え方だが、何だか的を射ているように思える。
この傾向は、ポジションを極めようとすればするほど強くなる。つまりキャッチャーは、必然的に性格が悪くなるポジションなのである。
だから私は、このポジションが嫌いなのだ。
「これは私とひまわりの問題です。監督はほっといてください」
そう言って立ち上がり、私は監督に背を向けた。歩き出すと、山際監督の独り言が聞こえた。
「そういう訳にも行かないんだよなあ……」
ベースランニングが終わると、ようやくボールを使った練習である。
まずはフリーバッティング。この時期は、レギュラーに関しては基本的に打順通り。私の打順は九番だが、三番がピッチャーのひまわりのため、いちいち入れ替わると効率が悪いので、ひまわりは後回し。ひとつ繰り上がって私は八番目である。
外野で球拾いをしながら待ち、ようやく私の順番が来た。ネットで三方を囲んだだけの、急造のバッティングケージに入り、バッティングピッチャーを一瞥する。当然のことながら、ひまわりが立っていた。
こういう場合、まずバッティングピッチャーに「よろしくお願いします」と礼をする。別に誰に強制されているわけではないが、たぶんほとんどの野球選手は礼をするはずである。
食事の前の「いただきます」みたいなもので、いつもなら何も考えなくても反射的にできていた礼だが、ひまわりの顔を見た瞬間、言葉が詰まった。
しかし、礼をしなければしないで、何となく決まりが悪い感じがしたので、とりあえずヘルメットのつばをつまんで、くいっと頷いてみる。ひまわりも不遜ながら、無言で頷いた。
一応礼らしきものはしたが、未だに何となく決まりは悪い。しかしこれ以上することもないので、私は二、三度、地面を蹴ってからバットを構えた。精神が落ち着かないからか、地に足がついてないみたいな感覚である。
私が構えたのを確認して、ひまわりが動き出した。大きなモーションのワインドアップから、オーバースローでボールが放たれ、私はとっさにのけぞった。ネットに当たったボールはシュッと音を立てて勢いを失い、転々と地面に落ちた。
第一球目は、胸元ギリギリを通る鋭いストレート。ちょっとかすっててもおかしくない球である。ひまわりは確かにコントロールのいいピッチャーではあるが、まさかここまでギリギリを狙っていたのだろうか。だとしたらデッドボールへの恐怖心とかないのかよと思う。
フリーバッティングは打つことが主目的である。なのでバッティングピッチャーは、バッターが打ちやすい球を放るのが普通である。しかし、今のボールはどう考えても本気だ。
まあ、大事な試合が近いので、より実戦に近い形で、ということなら、考えられないでもない。たぶん違うが。
さて、では先ほどのボールの目的だが、普通に考えれば、バッターに踏み込ませないためのブラッシュボール。よって次は体から遠い外角のボールが来ると考えられるのだが、ちらりとひまわりの表情を見てみる。相変わらず感情が顔に出やすい女である。
本気で怒ってるときしか見せない仏頂面。つまりあのボールの真意はというと、喧嘩売ってきたというわけである。
まあ、いわゆるやっすい挑発であるが、悲しいかな、私は結構そういうの好きである。つまり、どういうことかと言うと。
上等だ。その喧嘩買った。かかってこい。である。
私が睨みつけてやると、ひまわりはさらにむっとして睨み返してきた。
バットが空を切り、九本目の素振りを終えた。辺りにはくすんだ軟式球がいくつも転がっている。
結局一球も、ヒットにするどころか、当てることもできなかった。しかも球種はストレートのみ。カーブは一球もなかった。
私を抑えるならストレートで充分との判断か、はたまたこの間の試合で最後にカーブを要求した当てつけか。
前者ならかすりもしなかった以上なにも言えないが、もし後者だとしたら、何とも小さい女である。体だけデカくて器が小さい。女の魅力とは身長や胸囲ではあるまい。
何にせよ、これで十球目。私の番は終了である。転がったボールをケージの端に寄せ、「ありがとうございました」とも言わず、私はケージを出た。その間ひまわりは、一度も私を見なかった。
全員分のフリーバッティングが終わった。ネットを片づけると、今度はグラウンドの真ん中でノックが始まった。バッテリーはピッチング練習に入る。
私は大田を連れ、マスクとミットだけ持って、グラウンドの端っこにあるブルペンに向かった。
ブルペンと言っても、とりあえずピッチングプレートとホームプレートらしきビニールテープが配置してあり、その間だけ草を刈ってあるという、つまるところ、ただの十八・四四メートルの空間なのだが。
私がホームもどきの後ろに立つと、木元が隣に来た。その十八・四四メートル先には、当然ひまわりが立っている。私はできるだけ隣を気にしないようにして、軽くキャッチボールを始めた。
肩が温まったところで、私は座った。ピッチャーはワインドアップポジションで立つと、一呼吸置いて一球目を投じた。真ん中高めの甘い球。二球目は……。
何球目かのボールを受けて、私は首をかしげて言った。
「何か今日、調子悪い? スピードもコントロールもよくないけど……」
「え、そうすか? むしろすげえ調子いいって思ってたんすけど……」
「え、あれ?」
私は驚いて、正面を改めて見た。太田が困惑した表情で立っていた。
「あ、ああ、そうか。すまん」
謝りながら、私は隣のブルペンに目を向けた。ひまわりが一心にボールを投げていた。
いつの間にか、ひまわりのボールを捕っている気持ちになっていた。太田とひまわりじゃ、ボールもフォームも、何もかも違うのに。
投球動作を終えて、ひまわりは投げ返されたボールを受け取ってから首をひねった。
「何か今日、調子悪い? いつもよりゾーン狭い感じするけど……」
「え、ゾーン? どういうことっすか?」
「え? あ、ごめん」
ひまわりが慌ててこちらを向き、また目が合って、私たちは同時に目をそらした。
ちなみに言っておくと太田の調子は別によくない。いつも受けてる木元のキャッチングが下手だから、私が受けると相対的に捕球音が大きく響くだけで、ボール自体に変化はない。
ついでに木元にもアドバイスするなら、カーブはミットを下から上に動かして捕りに行くのがコツだ。
変化の軌道に合わせて捕りに行くと、ミットが下がってボール球に見える。そこで捕球の一連の動作として下から上にミットを動かすと、審判からも投手からも際どいところがストライクに見え、結果ゾーンが大きく見えるのだ。
ただし捕球してからミットを動かすと審判の心象を悪くするだけなので、一連の動作でできないならミットを固定した方が有利に試合を運べる。
まあ第一段階として、木元はそのミットを固定することを覚えるべきだが。捕球後にミットが流れまくっているようでは、そりゃ何でもボールに見えるだろう。
基本的に審判を騙すのはよくないが、騙すのなら自然に、騙されていると感じさせないようにする必要があるのだ。この辺は何度もボールを捕って、体で感覚を覚える必要がある。
以上、勉強と実践を積み重ねて身に着けた技術である。つまり何が言いたいかというと、もっと自分から勉強しろ、ということだ。
その後、ピッチング練習は三十分ほどで切り上げた。隣のバッテリーはまだ投げるつもりのようだったので、木元に「無理させないのもキャッチャーの役目だ」とだけ伝え、私と太田はノックに加わった。すぐに、ひまわりと木元も合流した。
日が傾き、六時半で練習を終了した。全員で片づけをし、グラウンド整備をして学校に戻った。更衣室にはすでに、私以外の荷物はなかった。ひまわりはもう帰ったらしい。
制服に着替え、帰宅しようと校舎を出ると、校門に秀也の姿があった。
「よう」
「……ひまわりと一緒に帰ればよかっただろ」
「第一声で悪態ついてくんなよ……。いやさ、お前のこと待とうって言ったら、何か先帰っちゃって」
「じゃあ秀也も先に帰ればよかっただろ」
「今までずっと三人で帰ってたのに、いきなり険悪になりすぎだろ……。とりあえず帰るぞ」
そう言うと、秀也は歩き出した。私もわざわざ意地張って帰らないわけにも行かないので、秀也に続いた。
「それで、結局何にも進んでないのか?」
「……何が?」
「仲直りだよ。まあ、進んでないんだろうな、これじゃ……」
秀也は虚空に向かって溜息を吐いた。わかっていたが、やっぱり。こいつがひまわりと帰らずに私を待っていたのは、また私に折れるように言うためだったか。
「何度言われたって、私は謝らないからな」
「お前だって、このままじゃ嫌なんじゃないのか? ずっとバッテリー組んできたんだし」
「別に、ひまわりとは、ただのチームメイトだし。たまたまずっと同じチームだっただけだし」
チームにピッチャーはひとりじゃない。太田とだってバッテリーを組んでいるし、小学生の頃だって他のピッチャーをリードした経験は何度もある。ひまわりだけ特別なんて、あるわけがない。
ただ、そう言えば、と私は思い返した。
今日のピッチング練習で、私は太田のボールをひまわりのと錯覚した。あのとき、私はひまわりのことを意識しないようにしていたけれど、頭のどこかで考えていたのだろうか。
うちの野球部は、毎週日曜日を山際監督のために休暇にしている。だから昨日はそもそも、バッテリーでのピッチング練習をしていない。
しかしそう言った日を除いて、ひまわりのボールを受けなかったことは、今日が初めてなんじゃないだろうか。毎日毎日、たしかに私は、他の誰よりもひまわりのボールを捕ってきたかもしれない。
そう言えば、もう二日も捕ってなかったのかと、私は今さら気づいた。
その後、私と秀也は無言のまま、坂道ダッシュのときにも使う、長く急な坂のふもとまで下った。道は左右に分かれており、秀也とはここで別れる。
「じゃ、ここで」
「ああ、また明日。仲直り、考えてくれよ」
「……また明日」
返事はせず、私は秀也に背を向けた。
たしかに、ひまわりは他のピッチャーと違うかもしれない。けれど、だからこそ、私は彼女に謝るわけにはいかなかった。




