46話:シャティアの消失
まるで一つの水の塊が弾け飛ぶように、それは爽快な音を立てながら爆ぜた。
寸前の所でシャティアは魔力の塊をぶつけ、自分に襲い掛かって来た黒霧を弾き飛ばした。黒い霧はモヤモヤと引きずる様に宙を舞いながら消えていき、やがて姿を消す。敵の本体の姿も無い。今の一瞬で引いたのだろうか。シャティアは警戒心を強めながら辺りの気配を探った。
「さて……どっちかな?」
集中力を切らさないままシャティアはポツリとそう呟く。
彼女が言うどっちかと言うのはどの魔女の事を指すか、と言う意味であった。この敵の正体が魔女である事は間違いない。そうなると問題は誰であるか、という事であった。シャティアが転生してから今まで出会った魔女は四人、そうなると残りは二人。このような隠れ方をするという事から何らかの敵対意識は持っていると思って間違いないだろう。残念ながらシャティアの記憶ではどちらの魔女も一癖ある為、両方候補に上がる。出来れば間違いであって欲しいとシャティアは願った。
その時、突如シャティアの背後からまたもや霧が襲い掛かった。確かな形を持たず、小さな黒い粒子の集まりがまるで幽霊の如く呻き声を上げて近づいて来る。この魔法は果たしてどちらの物だろうか?そんな事をのんきに考えながらシャティアは浮遊魔法でそれを躱す。
「この我を、その程度の霧で倒せると思っているのか?ならば誤りだと教えておこう」
「…………」
黒い霧から距離を取りながらシャティアはそう質問を投げ掛ける。当然返答は無い。そもそも今襲い掛かって来た霧が本体なのかどうかも怪しい。恐らくは幻影魔法で水魔法を掛け合わせて作り上げた魔法。その気になればどの魔女だって使える魔法である。だがここまで完璧に本体を隠せる魔法の使い方はそうそう無いだろう。
シャティアは試しに手のひらに炎の球を作り出す。そしてそれを無数に分裂させると周囲に飛ばし、炎の結界を作り出した。少しでも触れれば炎は引火する。本体が隠れている霧があればすぐに見つけ出せるだろう。
「出て来てもらおうか。娘は親に顔を見せるものだ。いつまでも我儘は通さんぞ」
指を振るい、無数の炎を動かす。それに反応して周囲に巻き散っていた霧も動き、まるで逃げるかのように散って行った。すぐにシャティアは腕を払い、追撃に向かわせる。だが霧は姿を隠して見えなくなってしまった。
一度シャティアは炎の動きを止めさせた。姿は見えなくなったが僅かに魔力の反応が残っている。まだこの近くにいるのは間違い無い。どこに隠れたのかを見極める為にもシャティアはじっと感覚を研ぎ澄ませる。相手は魔力を隠すのが上手い。どういう訳かシャティアの探知能力をも上回るのだ。だからとて、こんな近くに居るのならば見逃すはずが無い。集中さえすればすぐに分かるのだ。だがその直後、シャティアは真上から鋭い気配が飛んでくるのを感じた。強い魔力反応。反射的に上を見ると、そこには巨大に広がる黒い霧があった。
「そう来たか……!」
「…………----」
隠れるのでは無く真上からの奇襲。いきなりこれをやられては反応が遅れる。流石のシャティアも焦りを覚えたが、不思議と彼女の顔は笑みを浮かべていた。少しでも油断すれば傷を負うと言うのに、流石のシャティアでもこれだけの至近距離で魔法を使われればただで済まないのに。それでも彼女の顔は笑みを零してしまった。
「だが、甘くみてもらっては困るな……!」
シャティアはその澄んだ瞳をまるで獣のごとく光らせ、魔力の溜まった腕を振るった。瞬間嵐に匹敵する程の衝撃が上空に飛ばされる。拡散されていた霧は一瞬で消し飛び、またもやその姿を失う。だがやはり手応えは無い。シャティアは振るった腕を戻しながら僅かに唇を噛んだ。面倒な事だ。本体を叩かなければまるで意味が無い。いっその事周囲一帯に魔力波を飛ばそうか、そんな事を一瞬彼女は考えてしまう。だが此処が街の中だという事を思い出し、すぐにその考えは打ち払う。
敵がこれを狙ったのかは分からないが、こんな街中で派手な魔法を使う訳には行かない。ましてや今は爆発音で人々は騒ぎになっている。ここで更に人々を恐怖させるような事をすれば後々面倒な事になる。そう判断したシャティアは出来るだけ早急にこの戦いを終わらせようと考えた。だが、そう簡単にはいかない。シャティアは先程特大の魔力を振るった腕に痛みが走るのを感じた。痺れるような感覚。すぐに袖を捲って調べると腕は黒い霧に浸食されていた。
「掠ったか……」
肌の上からでは無く腕の内側から浸食されている。いつ入られたのか、触れられた感触は無い。それとも霧の僅か一部分が近づいただけでも浸食されるのだろうか。シャティアは思考するが答えを導き出す事は出来ない。とりあえず治癒魔法を掛けてみるが、やはり傷では無いので霧が出て行く事は無い。荒療治だが腕に大量の魔力を流して無理やり霧の浸食を食い止める事にした。どちらにせよすぐに決着を付ける必要になった。シャティアは魔力を高める。
「いい加減かくれんぼは終わりだ。あぶり出してやる」
念の為服を破いて腕を縛りながらシャティアはそう呟く。
強力な魔法でも人に見られない地味な魔法はいくらでもある。それこそ膨大な数の魔法を会得しているシャティアならえり好みである。ただそれをしなかったのは万が一という事を考えたからだ。いくら地味と言えどシャティアの魔力なら火を出す魔法が地獄の業火を吹き出す大魔法になる。故に躊躇した。だが、この状況ならば致し方が無い。決着を付ける為にも、手段を選んでいる場合では無い。シャティアは全身の魔力を集中させると手の先に小さな銀の結晶を作り出した。
「舞え、銀鳥」
シャティアが顔を近づけてそっと言葉を添えると、その銀の結晶は砕け散ってそこから小さな鳥が姿を現した。魔力によって生まれた銀の鳥。単なる造形魔法であるはそれは魔女の魔力によって生み出された強力な魔法生物。
シャティアは手から鳥を羽ばたかせた。その瞬間鳥は高速で飛び出す。銀の粒子を散らしながら黒い霧に向かって行く。霧は逃げるように散っていくが、その鳥に特別な魔法が仕掛けられていない事を知るとすぐさま鳥を覆って浸食し始めた。銀の鳥は黒く染まっていき、やがて形を失い始める。だがその時、僅かに霧が揺れ動いた。
「……--ッ」
「嵌ったな。ただの小鳥だと思ったか?……残念ながらそれには強力な爆破魔法が仕掛けられてある。まぁ、もう言っても遅いか」
シャティアは笑みを浮かべてそう言う。気づいた相手もすぐに銀の鳥から距離を取ろうとしたが、既にシャティアは指を鳴らした後だった。途端に銀の鳥が光に包まれ、とてつも無い爆音を鳴り散らす。銀の粒子が辺りに吹き飛び、黒い霧を飲み込んで行った。
「…………ッ!!」
形は無い。姿も無い。だが確かにその霧は苦痛を感じるかのように暴れ、すぐに銀の粒子を引きはがそうとした。本体がそこにいるのか、それとも感覚を共有しているのか。いずれにせよ反応を見る事は出来た。シャティアは動きが鈍くなっている霧をじっと見つめながら上空に移動した。
「さぁ、顔を見せてもらおうか。お前は誰だ?愛しい娘よ」
「…………」
黒い霧は銀の粒子によって動きを封じられている。霧になら同じ物質を。シャティアは魔力の籠った粒子を散らす事によって霧に対抗した。そして見事それは的中し、効果を示した。先程なら逃げる際はすぐに消えてしまう霧だが、今は銀の粒子によって逃げられずにいる。魔力によって封じられているのだ。という事はやはり、本体はその霧の中に居るという事だ。シャティアは静かに笑みを浮かべ、黒い霧の事を凝視する。果たしてその霧の中に何が隠れているのか、一体誰がその姿を偽っているのか。シャティアは答えを求める。
◇
「が……はっ……」
繰り出された鉄拳を受けてエメラルドは地面に頭から倒れ込む。頭が重たい石になったように鈍くなり、正常な思考が出来なくなる。頬から伝わる痛みは顎へ、首へ、そして身体全体へと走っていく。それでもまだ意識を保っていられるのは身体の上から薄く魔力壁を張っているからであろう。そんな瀕死状態のエメラルドの横で、悪魔が笑った。
「ふぅむ。存外硬いな……何か小細工をしているな?うっとおしい奴だ。素直に喰らえば静かに落ちれると言うのに……」
「はぁ……はぁ……くっ……」
中々気絶しないエメラルドの事を不思議に思い、怪物は首を傾げる。だがエメラルドが何か魔法で自身の拳のダメージを軽減しているのだと勘づくとすぐに面倒くさそうにため息を吐いた。エメラルドは苦し紛れに怪物の事を睨みつけ、何とか反撃を試みようと機会を疑う。だがやはり怪物は一筋縄ではいかない存在であった。目の前の敵は人間に対しても、魔女に対しても怪物なのだ。だがだからこそ疑問に思う。何故こんな怪物が存在しているのか?どうしても突然こんな怪物が生まれたのか?
噂では異形の怪物は数年前に突如姿を現したと言う。そして目的も無く破壊を繰り返す。彼曰く悪を滅していると言うが、その過激な力の振るい方は流石に目を背ける事は出来ない。そんな存在がどのようにして生まれたのかがエメラルドには分からなかった。怪物は何か特定の種族という訳でも無く、突然変異で生まれた魔物と言う訳でも無い。こんな生物は歴史上において一度も発見された事が無いと言うのはおかしい。だから理解出来ないのだ。こんな途方も無い力を持った怪物が存在している事を。ましてや魔女である自分を凌駕する程の力を持っている。一体どうして?そんな生き物を作る事が出来るなど、魔女くらいしか……いない。
エメラルドの額から一筋の嫌な汗が垂れる。そんな事はあり得ない。突拍子の無さすぎる話である。確かに魔女の中には生物を作り出す魔法を持つ者はいる。事実魔女の母であるシャティアだって魔物を愛し、飼育していた事があった。魔女は使い魔だって作り出すのだからあり得ない話では無い。だがここまで強大で、魔法も効かず、まるで魔術師を殺す為に作り出したかのような生き物を創造する訳が無い。あってはならないのだ。だがもしも、この仮説が真実だとしたら?もしもかつての自分のように人間を恨み、そして同胞である魔女の事さえ殺そうと考える者が居たとしたら……エメラルドはそう考え、息を飲んだ。直後に彼女の腹に怪物の蹴りが飛ぶ。エメラルドはまるで風船のようにふわりと宙を飛び、そして一回転すると地面に痛々しい音を立てて落下した。彼女の顔は血で染まり、結ってあった金色の髪が解け、前髪が目に掛かった。
「ぐっ……ぁ……はー……はー……」
「無駄な事はよせ。いい加減お前は眠るべきだ。これ以上無理をすれば、本当に命を落とすぞ?」
「はぁ……はぁ…………ぁっ」
怪物が冷たくそう言い放つ。エメラルドは息を荒くし、何度も酸素を肺に送り込んだ。だがちっとも胸の苦しみは治まらない。それどころか更に息苦しくなり、頭が重たくなっていった。最早エメラルドは立ち上がる事はおろか、ろくに魔力を込める事すら出来なくなっていった。そんな彼女に怪物はゆっくりと近づく。同時にエメラルドも身体を震わせながら顔を起こした。
「貴方は……一体、何者、なのですか……?」
唇を噛みしめながらエメラルドは何とかその疑問を絞り出した。掠れた声で、弱々しい声で、最後の力を振り絞ってそう尋ねる。すると怪物が動きを止め、僅かに首を傾げて思考するように沈黙した。だがすぐに興味なさげに身体をうねらせると、拳を振り上げた。
「さぁな、俺もそれが知りたい」
淡々とそう答え、怪物は何の感情も込めずに今度こそとどめの一撃を振るった。鈍い音と共にエメラルドの顔は落ち、地面に崩れ落ちる。魔力壁も完全に剥がされ、生身で怪物の一撃を喰らったエメラルドはもう起き上がる事は無かった。
◇
「…………ッ!!」
その瞬間、シャティアは強い衝撃を受けた。魔力感知能力が長けているシャティアはエメラルドが今何処に居るのかしっかりと分かっている。だから彼女が自分の言いつけ通りきちんと爆発音があった方向に向かい、そこで行動を起こしていた事も分かっていた。そしてシャティアは、エメラルドの魔力反応が突然消失するのを感じ取った。だがだからと言って目の前に敵が居る状態で隙を見せる程シャティアも甘くは無い。あくまでも冷静で、平静さを保っていた。保っていた……はずなのだ。だがエメラルドの魔力の消失を感じた瞬間、その感じたという一瞬が、シャティアの動きを鈍らせた。感じてしまうが故に身体が反応し、その動きをほんの少しだけ止めてしまったのだ。その瞬間、彼女の身体に黒い霧の腕が貫通した。
「あ……ぐ……?」
「…………ふ、ふ」
黒い霧は人の腕を形を成していた。所々掠れているのに、それは確かに腕の役割を果たしていたのだ。それが身体から突き出ている。つまり、つまり……やられた。それを理解してシャティアは口から血を吐き出した。油断したつもりは無かった。隙を見せたつもりも無かった。だが、ほんの一瞬。ほんの一瞬の差を上回れた。そしてそんな芸当が出来るという事は、やはり相手は魔女で間違いなかったのだ。背後から聞こえてくる女の笑い声を聞き、シャティアは顔をその方向に向けようとする。血を多く流しているせいか音を正しく聞き取れない。視界が正しく脳に伝わらない。身体から熱が引いて行く。時間が、無い。
「甘いっすねぇ、相変わらず。シャティファールは身内に甘すぎる……怪物でエメラルドを潰せば、いち早くそれに反応する。それが貴方の弱点っすよ」
独特の喋り方、聞き覚えるのある声色。間違いない。だが、シャティアの頭は正しく動かず、答えを導き出そうとはしない。声の持ち主はまるで嘲笑うように霧の腕を動かし、シャティアの身体を弄んだ。ズチュリと血が溢れる音が響き、シャティアはうめき声を上げる。そして声の主が思い切り腕を引き抜くと、シャティアは激痛と共にプツンと自分の中で糸が切れるような音を聞いた。
「さようなら母さん。あたしが愛した人」
浮遊魔法を維持する事も出来ず、女の声を聞きながらシャティアは落下した。地面に向かって落ちていく際、視界に黄金の髪をした少女の姿が端に映る。ああ、お前か。何故かのんきにそんな事を考え、シャティアは笑みを浮かべた。そしてグシャリと、果物が潰れるような音が耳元で聞こえた。




