14話:一時の眠りを
眩い光に包まれ、モフィーの中にある悪の心が増幅し、その影響で姿形も魔物と化す……はずだった。だが光が収まるとそこには何の変化も無いモフィーの姿があり、彼女は先程と同じ様に静かに眠っていた。
「……ッ!?」
天を仰いでいたエメラルドは体勢を立て直し、思わず目を疑った。
対象が変貌するのには個人差があるものの、ここまで反応が無いという事は有り得ない。では何故何も起きないのか?儀式が失敗したか?魔力が不十分だったか?何らかの不具合が生じたか?エメラルドは様々な可能性を予測して分析するが、原因は判明しなかった。
「な、何故……!? 何故何も起きないんです!? 悪の心が増幅し、怪物に変貌するはずなのに……何故あの少女にも何も変化が起きない!?」
自身の黄金の髪を掻きむしりながらエメラルドは狂ったようにそう叫んだ。地面を蹴り、思う様に事が運ばない事に苛立ちを目立たせる。
有り得なかった。儀式は全て上手く発動した。失敗する要素など一つも無い。エメラルドの実力は足らなかったという事は断じて無い。なのに、モフィーに何の変化も起こらないのは何故か?薄々と勘づいているエメラルドは思わず唇を噛み千切った。
「有り得ない……有り得ない有り得ない有り得ない! こんな事ある訳が無い! 絶対におかしい、何かが、何か……ッ!!」
エメラルドの口から次々と否定の言葉が吐き出された。起こった現実を受け止めきれず、目を泳がせて壊れた人形のように繰り返し同じ言葉を言い続ける。
その時、神殿内が大きく揺れだし、壁の一部が爆風によって吹き飛ばされた。瓦礫が飛び散り、衝撃にエメラルドは身を低くして免れる。そして腕を降ろして顔を上げると、そこにはあの銀髪の少女のシャティアの姿があった。
「確かに、お前の儀式は完璧だった。だがエメラルド……お前は一つだけミスをしたんだよ」
シャティアはコツコツと足音を立てながら神殿の中を歩き、台座の方にエメラルド達に近づいて行く。その途中、魔法の枷によって動きを封じられているシェリスを見掛けるとシャティアは軽く手を振った。
「悪いがシェリス、お前は眠っていてくれ」
「なに……うっ……」
誰が現れたのか見ようとシェリスが首を曲げる前にシャティアは魔法で彼女を眠らせ、何事も無かったかの様に再びエメラルドの方へと近づいた。エメラルドは警戒心を高める。先程は一時的に退ける事は出来たが、シャティア相手に同じ技は二度も通じない。今度ばかりは運は味方してくれないのだ。エメラルドはシャティアに気付かれない様に手の平に魔力を込めた。
「シャティファール……ミスですって?一体、私がどんなミスをしたと言うのですか?!」
時間を稼がなければならない。それにシャティアの言うミスという言葉も気になる。エメラルドは空いているもう片方の腕を振るってシャティアにそう語りかけた。シャティアは歩みを止め、呑気に腕組みをして口を開く。
「簡単な事だ。お前がかつて信じていた人間も存外、純真だったお前のように清らかな心を持つ者も居るという事さ」
シャティアはいとも簡単にそう言ってのけた。あれだけ裏切られ、あれだけ人間の愚かさを見つつも、まだその人間達を信じていた。エメラルドは切れている唇を更に噛み締める。黒ずんだ血が首筋まで伝って行った。
「嘘だ……そんな事ある訳が無い」
「大人ならともかく、子供は誰もが清き心を持っている。お前だって覚えてるはずだぞ?昔は街の子供達と良く遊んだじゃないか。その事はお前自身がよく分かっているはずだ」
「違う……そんなのある訳が無い……人間は、人間はぁ……!」
シャティアの語り掛けをエメラルドは首を振って否定する。頭に手を当て、まるで駄々をこねる子供のように、ただただ否定を続ける。その姿はとても痛ましく、かつての彼女を知っているシャティアからすればとても辛い物だった。
「いい加減目を覚ませ、エメラルド。お前がやっている事は争いを増やすだけの我が最も嫌悪する無意味な行為だ。今すぐ、モフィーを解放しろ」
前に一歩足を踏み出し、シャティアは堂々とそう言い放った。エメラルドはまるで言葉の衝撃でも受けたかの様に小さな悲鳴を上げて後ろに下がる。台座に眠っているモフィーを見つめ、またシャティアの方に顔を戻して信じられないとでも言いたげに首を振った。
最早エメラルドには確かな目的と言う物は存在しない。復讐心によって理性を失っている彼女は自分がどうすればこの苦しみから解放されるか分かっておらず、ただ狂気によって思い浮かんだ殺戮を行っているだけである。故に彼女はこれからどれだけ人間を殺してもその狂気が収まる事は無い。永遠の殺戮者として、彼女は恐怖の魔女として人々に認識されるのだ。それだけは絶対にシャティアは許せなかった。そんな事だけは断じてさせない。シャティアは目を鋭くさせ、拳に力を入れる。
「私はっ……私は、ただ……ぁぁ……ぁあぁッ!!」
エメラルドは身体を縮ませ、ワナワナと震え始めた。彼女の蓄えていた魔力が浮き彫りになり、黒色の禍々しい影のような形を作り出しながらエメラルドの身体から吹き出す。それは魔力の暴走を意味していた。意味を失った彼女は、自身の中にある膨大な魔力を手放してしまったのだ。
暴走した魔力が巨大な魔力の塊と化してシャティアを襲う。しかし、シャティアは片手を振り上げると同じ様に魔力でその塊を受け止めた。その空間にギリギリと魔力同士がぶつかる音が響き、辺りに振動を伝わらせる。
「あああああぁぁぁぁあああああ!!!!」
「魔力の暴走、か……まるで子供だな、エメラルド」
エメラルドは悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。対照的に魔力の塊が更に歪み、エメラルドの身体から溢れ出ている魔力がシャティアに降り注いだ。まるで弾丸の雨のように、巨大な魔力の塊が一斉に襲い掛かる。
シャティアはもう片方の手を振ってその魔力球を弾き飛ばす、次いで伸びて来た魔力の蔓を切り裂き、自身はズカズカと躊躇無くエメラルドへと近づいて行った。
「来るな……来るな来るな来るなぁあ!! 私は、私はッ……!!!」
遠慮なく近づいて来るシャティアを拒絶し、エメラルドは泣きつくように腕を前に押し出した。すると魔力の塊は巨大な人の腕となり、シャティアを握りつぶそうと掴み掛かった。だが途端にその魔力の腕は弾けてしまった。シャティア自身が発した強烈な魔力波によって一瞬で消されてしまったのだ。またもやエメラルドは怯える様に悲鳴を上げる。
「何故……何で……どうして!? どうしてなの!!? 嫌だよ。私はただ皆とまた平和に、誰にも邪魔されず……過ごしたいだけなのにッ!! 悪いのは人間だ! 愚かで。邪な心を持つ、欲深いあいつ等がッ……!!」
エメラルドは一心不乱に魔力を投げ飛ばす。それは最早魔法と言う事すら怪しく、ただ力任せに自分の要求を押し付けるような乱暴な戦い方だった。当然そんな杜撰な戦い方ではシャティアを倒す事は出来ない。どれだけの魔力波を飛ばされようとも、シャティアはそれらを簡単に受け流し、弾き返した。そしてその間にどんどん歩みを進ませ、もう後数歩の所まで近づく。
「私達が何をした!?ただ異質な力を持つだけで迫害されて……だから大人しく森や山奥に身を潜めて暮らしてたのに……危険だからって理由だけで人間共は私達を裏切った!!」
魔力の鞭を無数に作り出し、エメラルドは両腕を振り下ろしてそれを振るう。しかし魔法の壁によってそれは受け止められ、今度はシャティアが腕に力を込めると前に押し出し、巨大な衝撃波がエメラルドを襲った。吹き飛ばされはしなかったものの、魔力の塊を剥がされ、エメラルドの身体は無防備となる。その間にシャティアはもう目の前まで迫って来ていた。そんな小さな少女を見上げ、エメラルドは泣きつく。
「何で……何で私は、こんな力を持って生まれちゃったの?」
最後にエメラルドの口から出たのは人間達への憎しみでは無く、自身の魔女の力に対しての疑問だった。その言葉を聞いてシャティアは硬直する。それはかつてシャティアも聞いた事があった言葉だった。初めて会った時、エメラルドと出会った時、彼女は今と同じ様な言葉を発した。その時の表情は酷く悲しそうで、今もまたその時の表情をしている。シャティアは静かに瞳を揺らした。
「エメラルド……」
「……う、ぐ?……ぁぁぁあああああっ」
一瞬の躊躇。シャティアはまたもや隙を作ってしまった。本来なら近づいた瞬間にエメラルドを気絶させるなり行動不能させるなり何らかの行動を取るべきだった。だがシャティアはエメラルドの言葉を聞いて動揺してしまった。その結果、事態は最悪の結果を招いた。
エメラルドは突然胸を抑えて苦しみの声を上げた。先程の魔力の暴走とはまた違う、別の暴走。それは暴走よりも酷い物であった。
「これは、暴走……違う。まさか……“崩壊”か!」
シャティアはエメラルドの症状を見て汗を垂らしながらそう言葉を発した。
エメラルドは馴染みの無い人形の身体に無理矢理憑依魔法を使った。だがそれは本来失敗だった。魔女のおかげかエメラルドは憑依魔法の失敗の反動で魂を失くさずに済み、自身の元の身体を移植する事で生き延びたが、それでも限界があったのだ。そしてその限界が魔力の暴走によって今来てしまった。
魂を憑依させておく事が出来なくなった人形の身体は崩壊が始まる。ボロボロと鱗が剥がれるように部品が崩れて行き、エメラルドは体勢を保つ事が出来ずにその場に踞った。加えて魔力暴走もしている為、彼女の身体からは絶えず強大な魔力が漏れだしている。正に最悪の状況であった。
「ああああぁぁぁ! 嫌だッ……ぁあ……死に、たく……なッ、ぁあああ!!!」
「エメラルド……!」
魔力の突風に押され、シャティアは後ろに吹き飛ばされた。何とか耐えるが、エメラルドは悲鳴を上げて魔力と崩壊を抑えきれずに居る。このままではエメラルドの身体は崩壊してしまうだろう。そして魂も失い、彼女は本当に死んでしまうのだ。更に不味いのは魔力の暴走も起こっている事。最悪、此処等一体が吹き飛ぶ程の自爆が起こってもおかしくは無い。何とかしなければならないとシャティアは悟り、突風に耐えながらエメラルドに近づいた。
「すまない……我の力量不足だ。お前を救ってやれる程の器を我は持っていなかった」
「シャティ……ファール……違う、私が……私が悪いんです……私がッ……」
苦しむエメラルドの頭にそっと手を乗せ、シャティアは申し訳なさそうに告白した。するとエメラルドは苦しそうに藻掻きながらも初めて正気の瞳で声を発した。あれだけ狂気に駆られていたエメラルドの瞳に光が戻ったのだ。
「私は、人間達を最後まで信じる事が出来なかった……忘れてしまったんです。私がかつて信じた人間の可能性を……愚かな復讐心のせいで」
エメラルドの人形の身体はまず足から崩壊した。体勢を崩し、床に伏しながらエメラルドはシャティアを見上げて言葉を続ける。その一言一言がシャティアの胸に突き刺さり、彼女は泣きそうになりながら口を手で覆った。
「何でかなぁ……どうして上手く行かないのかなぁ……私は、人間と仲良くしたかったはずなのに……何で、こんな事になっちゃのかなぁ?」
「……心配するな……お前が次目覚めた時は、きっと平和な世界になっているはずさ」
エメラルドは自分の願望を零す。かつては人間との共存を望み、誰よりも平和を願っていたはずだった。なのに、一体何を間違ってこんな事になってしまったのか?どうしてこんな取り返しに付かない事になってしまったのか?彼女は黒ずんだ涙を流す。シャティアはそんなエメラルドにそっと笑い掛けた。優しげな声を掛け、そして彼女は、手の平を広げて無数の魔法陣を解き放った。
「だから、今は眠れ……【眠り歌】」
眩い光が辺りに飛び散り、世界が白に染まる。そして再び光が一点に集中し、全てが消え去る。そして飛び散った光の球と共にエメラルドの魔力の暴走も収まり、動力源であった魔力を失った彼女は瞳から光を失わせ、静かに顔を俯かせた。




