割ったのは僕じゃないです2
景色が反転する。
先ほどまでお姉さんの顔が見えていた位置に縮こまっていたのに今見えるのはお姉さんの背中。場所が変わったんだ。
じゃあどこに変わった。ほんの数メートルの所。先ほど倒れてぐっちゃぐちゃの状態の棚に腰掛ける形になっている。
お尻が痛い。ドミノ倒しになっている棚の縁の部分にお尻が突き刺さっている状態だ。圧が痛い。
「あぁ! またポーションが割れた!」
パリーンと音がしたけど、ポーション? ファンタジー世界の回復アイテムか。
なんで割れたか、何で壁を見ているお姉さんがポーションが割れたとわかったのかは知らない。まあ音がしたからだろうけど。
とりあえずだ。背後を取れた。つまり隙ができたということだ。
俺はぎゅるりと首を回す。目指すはカウンターの隣の扉。
俺は急いで立ち上がり、踵を正す。前へ進めと脳が体に鐘を鳴らし、鞭を打ってくる。
足を前へと踏み出し、一歩踏み出した途端に走り出そうとした。
が、
「うごっ!? な、何だ!?」
何かが俺が前に進もうとするのを阻んだ。
いや、阻んだのではない。留めていると言った方が正しい。
背後、背中にまるで引っかけに絡まったような感覚。何かが甚平を掴んでいる。
何が一体どうなっているんだと確認しようにも自分の背中を見れないのが通り。
俺はただ蜘蛛の巣にかかった蟲のように暴れるしかなかった。
「クッソ! 何で、何でだ!?」
「驚いた。今のスタン・トレード? 入れ替えのスタン・ト……スタン・トなんて骨董品を今どき使う奴がいるなんて思いもしなかったけど……驚いたわ」
「スタン・ト? て言うか、動けない! 早く……早く!」
一歩。力強く歩みを進める。しかし重心が動かず。
もう片方の足を前に出す。足の裏が地に着いたのはそれこそ元の位置。
全く持って動けない。これも異世界特有の異能なのだろうか。
「待って。待って、待ってぇ。何でそんなに逃げようとするのよ。顔を合わせて話をするぐらいできないのかな。と言うより、異世界人だと思ったけど。スタン・トを使うしただ珍しい装束を着た異国の子?」
ぴくんと耳が反応する。
このお姉さん。今俺のことを異国の子と言った。さっきは異世界人と疑っていたけど、ここで付け入るべき。異世界人だと思いこまれていてはさっきの二人組や爺さんの二の舞になるやもしれん。
「そ、そうなんですよ! この服のせいでどうにも異世界人だ異世界人だって間違われまして! この服、スタン・トで旅人から奪ったやつなんですよ! 意外に動きやすいんですよね! アハハハ!」
「……ねぇ君」
「な、何ですか?」
「口は禍の元って言葉を知ってるかな? スタン・トには他人から何かを奪うなんて能力はない。あくまで『逃走術』なのよ。スタン・トレードを使うほどの君がそんなことを知らないとは思えないんだけど」
サーっと血の気が引いた。
口は禍の元。まさにその通りだ。
無駄な設定を作らずに素直に『異国の者です』の一言で済ますべきだった。
だけど吐いた言葉は飲み込めない。
吐息と共に空気へと混ざる。
「そういえば異世界人はやけに強めの人法を使うって話も聞いたし……どうしたの?」
「あ、あは。アハあハアはア。待って! アンタも、俺に刃物を向けるのか? 手足ブチ折ってけんぺーとかに差し出すのか? 俺は何もしてない! ここに来ただけなんだ!」
「落ち着きなさいって。別に通報とかしないよ」
「嘘だ! だってさっきのおっさん共は俺の手足をブチ折るって言って追っかけてきた! アンタもそうなんだろ! 懸賞金があるとか言ってたし! 俺を捕まえて手足ブチ折るんだろ!」
「ほんとに落ち着きなさいって。本当に、子どもは本当に手がかかる」
進めないすめないススメナイ!
足をバタバタさせて、必死で抗い背中に引っかかっている何かに手を伸ばす。
これは……手? 手が服を鷲掴んでる?
「キモチワル! 何だこれ!? 逃げ、逃げ! おぅ!?」
ふわっと、身体が硬い布触りだが、柔らかく暖かい熱に覆われる。
押し当てられる熱が体を鎮めてくれるような……肩回りに圧し掛かる心地の良い重み。
「大丈夫。大丈夫だよ。誰もとって食べやしない。ここには君の敵はいないから」
耳元でささやきが聞こえる。
おひょひょい。体がくすぐったい。この感触。首周りにまとわりつく腕。背中にほんのりと押し付けられているお乳の感触。
これまさか。お姉さんが俺を抱きしめているのか?
「あ、あの? 何してるんでふか」
お姉さんの手が頬を突いてくる。軽くつねってはビヨンと伸ばしてくる。
「やっぱり子供は柔らかいなぁ。クスッ」
体を包んでいたぬくもりが解かれていく。
するりするりと擦れては昇っていく腕が俺の肩に置かれた。
「扉の向こうへ行きたいならどうぞ。どうせ行ったところで外には出れないし、行って気が済むならそれでいい」
トンと肩を押され、体は少しだけ前に進んだ。
俺は振り返り、お姉さんと改めて目を合わせる。
たれ目がちな眼。だけど優しいその視線とさっき包み込まれた柔らかな熱に生唾を呑んでしまう。
「どうしたの? 行かないの? 行かないっていうなら、お姉さんと少し話さない?」
「……話をするだけですか? 誰かに突き出すとか」
「しないしない。そりゃお金が入ったら得だけど、君みたいな子供をお金のために通報するのも気が引けるし、何より懸賞金程度頑張ったら稼げちゃうほど儲かってますから」
ケラケラと鈴の音を鳴らす様に愉快に笑った。
先ほどの二人組とは違い、優しい大人の人なんだと気持ちが和らいだ。
「だから君に危害を加えるようなことは……いや、ちょっとぐらい。つまんでもいいかな」
お姉さんの眼が細くなってまるで獲物を狙うケモノの様。
生唾を呑む音が聞こえて小さく舌なめずりをしている。
ヤバイ。この人。さっきの二人組とは違う意味で危険な感じがする。
身の危険と言うより貞操の危険を感じる。
「あの~……」
「グヘヘ……ハッ! だ、大丈夫大丈夫。別に悪いようにはしないから。君。名前は?」
またしてもお姉さんは腰を折って聞いてくる。
にしてもデカいなほんとに。頭一個分は違うぞ。無駄にスタイルもいボンキュッボンだし。
欧米モデルか何かかこの人。
「屑桐煉瓦です」
「クズキリレンガ? 長いなぁ。うん。じゃあレンって呼ぼう。そうしよう!」
ニックネームを付けられたけど、実際にレンって名前は妹や友人から呼ばれているので別に違和感はなかった。
「じゃあ私も自己紹介しないとね。私はテレズス・テスタロッサ。皆からはテレサって呼ばれてる近所じゃ気立ての良いお姉さんで通ってるの。気軽にテレサお姉ちゃんって呼んでね」
そんなもの気軽に呼べるわけがない。
とりあえず俺は乾いた愛想笑いを溢して適当に治めた。