吐息
時計を見ると、とうに日付は変わってしまっていた。現在は午前一時すぎ頃だ。そろそろ寝ようと重い腰を上げて自室のある二階へと足を向ける。二階へ上がり自室へと向かう途中で通り過ぎた部屋では、既に夢の中へと旅立った両親とその足元で飼い犬が寝息を立てていた。犬が開けたであろう隙間からは冷房の風が流れ込んでくる。親切ついでに部屋の扉をきっちりと閉めておいた。
今日も寝るのは自分で最後だ。数時間前にドライヤーで乾かした髪はすっかり乾ききり、ぼさぼさに近い状態の頭を掻きながら、引き戸を開ける。途端にむわっとした暑苦しい空気が襲い掛かり、思わずため息を吐く。今日も寝苦しい夜らしい。
自室は兄妹兼用で使っていたが、つい先日にその兄妹が部屋を出たため、部屋に入ると左手に無人のベッドが一つ、正面に自分のベッドがあるだけの何とも寂しい空間である。それでもだいぶ慣れたものだった。
「……あっつ」
誰に向けるでもなく舌打ちをして、冷房をつける。忘れずタイマーを三時間後に設定してから、ベッドへと潜り込む。電気を消してしばらくしなければ、部屋に常備してある非常灯は消えない。やがて、ゆっくりと辺りは暗闇に包まれ、家具の輪郭さえ分からなくなった。
「さっさと寝よ……」
実は、この部屋で寝るのは昔から少し怖かった。というのも、今では模様替えをしてやや変わってはいるが、昔は足をこの出入り口に向けて寝ていたものだった。しかし、どうも家族が寝静まった時間帯の出入り口に人が居るような気配がしてならない。もちろん、自分の想像だ。
寝てしまえば、自動的に朝になる。そう分かってはいたが、効きの悪い冷房では、まだ部屋の生暖かい空気を冷やすことが出来そうにない。身体は疲れていたが、眼は冴えていた。
充電器にさしっぱなしの携帯電話をいじりながら、眠気が来るのを待つ。そうして数分後には眠ってしまっていることを、自分はよく知っていた。
「……っ」
思った通り、はっと気が付くと、いじっていた携帯電話も灯りを消して沈黙してしまっている。今が何時なのかを確かめようと眼を開けると、部屋の前にある廊下が点灯していることに気が付いた。
自宅の廊下の照明は、人が来ればそれを察知して点くという人感センサーというもので点くようになっている。それが点いているということは、恐らく両親のどちらかが夜中に目を覚ましてトイレにでも行ったのだろう。少し待っていると、トイレで水を流す音がした。
ほらね、やっぱり。
昼間に見た心霊番組の内容を思い出しかけていた記憶を無理矢理に遠くへ押しやり、ほっと息を吐く。からからから、と扉の閉まる音がした。
再びしんとした空気に包まれる。聞こえる音は冷房機器の稼動音だけとなった。へんな時間に起きたなぁと出入り口に背を向け、うとうとと眼を微睡ませる。不意に、背後でおかしな音が聞こえた。
ひたっ、ひたっという足音だ。ぱっと人感センサーが動く。今度は飼い犬が目を覚まして一階にある水を飲みに行ったのだろう。容易にその場面を想像しながら意識を手放そうとする。階下ではぴちゃぴちゃと水を飲む犬の息遣いがした。そのまま、かちゃっかちゃっと爪を鳴らしながら階段を昇ってくる。そのまま両親の寝室へ行くのだろうなと思いきや、犬は自室へと入ってきた。
からからから、と引き戸が遠慮がちに開けられ、廊下の照明が目に飛び込んでくる。その眩しさは、まだ眠りから覚めきっていない眼には毒だった。逆光で黒い影となった犬が鼻をふんふんと鳴らし、ベッドの傍までやってくる。可愛い奴め、淋しくなったかと片腕だけをベッドから垂らして近付いてきた犬の頭を撫でてやると、柔らかい背中の毛を撫でた感触がした。
飼い犬は我が儘ものだ。一度だけ撫でてやると満足したのか、また自室から出て行き、明るい廊下から両親の寝室へと戻っていく。猫みたいな奴め、と内心で呟きながら出入り口の引き戸を閉めに行く。
「……ん?」
そこで、あることに気が付いた。犬が寝室へ入り、自分も廊下には出ずに引き戸を閉めようとする。そのとき、見るでもなく廊下の人感センサーがまだ点いていて、目の前ですぐにぱっと消えようとする際に、階段のところで人の頭のようなものが見えた気がした。
あぁ、両親かな。半分は寝てしまっている頭でそう結論付けてベッドに入り直し、出入り口に背を向ける。と、またもはっとなった。
親がトイレに立ち、戻り、その後で犬が部屋を出た。そこまでは自分も耳で聞いている。だが、階段を下りたのは飼い犬だけだ。ほかに母も父も下りてなどいない。下りていれば、あの両親は一緒に起きだした飼い犬に話しかける。両親は二人ともそんな人間だ。しかし、あの時は犬だけが上ってきて、自室にやってきたかと思うとまた寝室に戻っていった。両親のどちらかを一階に置いて。それだけなら良いが、さっきからその人影は寝室に入ろうとする素振りが無かった。
背後で人感センサーがぱっと消える音がしたかと思うと、またぱっという稼動音がする。まだ、あの階段に居るのだ。足音も立てず。
人感センサーが誤作動することはある。両親も父親ならばたまに足音を立てない歩き方をすることだってある。だから、あれは人間だ。決して怖いものなんかではない。
身体の奥底で氷柱を背中に押し付けられたような感覚がして、ぶるりと震える。ちがう、ちがう。寒いのは冷房のせいだ。設定温度を低めにしたせいで、寒いだけだ。
だから、ちがう。
昼間に見聞きした怖い話の一部が途端によみがえり、脳内で再生されてしまう。その話というのが、夜に寝ようとしたら枕元に女が立っていてじっとこちらを見下ろしていたというものだ。よりにもよって今の状況と似通った話を思い出してしまう自分を恨みながら、身体の全神経が、否が応でも背後にある出入
り口に集中してしまうのを自覚する。
もしも、あの引き戸がからからと開いてしまったら。自分はどうすれば良い。なおかつアレが自分の耳元までやってきたら、どうしたら良い。脳裏には昼間に見てしまった女の顔面ドアップが過ぎってしまう。
見なくても分かる。人感センサーは点きっぱなしだ。消える音もしない。ただ、廊下は不気味なまでに無音だった。部屋の冷房がうぉおんと一鳴きして動きを止める。この部屋は天窓が一つだけあって、四時になったらそれなりに室内は明るくなるのだが、眼を開けても閉じても変わらず真っ暗だった。まだ、四時になってもいないのに冷房が止まってしまった。
逃げたい。今すぐ両親の部屋に逃げてしまいたい。だが、そうするにはまさにあの廊下を通って行かなければならなかった。もし今あの引き戸を開けてアレと対面するようなことになれば。
じわぁっと額からいやな汗が噴き出て、指先や足の爪先が氷のように冷えつく。つう、と背筋を冷や汗が伝う感触がした。
どきどきとうるさい心音を聞きながら、背中にある引き戸の音に注意を向ける。耳が痛いほどの静寂がどれほど続いただろう。実は自分の見間違いだったんじゃないかと疑いだした頃。それは起こった。
からからから。
引き戸の開く音。飼い犬かと思いたかったが、飼い犬なら先程あの両親の部屋に戻ったきり何の音沙汰もない。寝ているはずだ。
じゃあ、今この背中に居るのは、誰なのか。
ひた、ひたという足音がして、後ろの誰かが口を開いてむはぁっと腐った臭いを放つ。生ごみを捨てたゴミ箱と同じような臭いだ。あと、微かだが、犬のはっはっという息遣いも聞こえた。と、同時にきんと耳鳴りがして、身体もぴんと強張って動かなくなった。動くものは、眼だけだ。
早く閉じなくちゃ。寝たふりをしないと、怖い目に遭ってしまう。普段から聞き慣れた怖い話が凄まじい速度で脳内を駆け巡り、嫌な想像ばかりが膨らんでしまう。大抵がこういう怖い話は口に出さずに般若心経を唱えると怖い目に遭ったり、眼を閉じていても開けたら目の前に立っていたりすることもあるが、これはどうだろう。
あぁ、怖い。こわい。こわい。誰か、助けて。必死にぎゅうと眼を固く瞑り、ただじっと時が過ぎるのを待つ。どんどんと太鼓のように心臓は打ち鳴らされ、だらだらと汗が流れる。それでも、背後の気配は消えることなく、ゆっくりとベッド傍まで歩み寄り、佇んでいた。見下ろされている、と感じた瞬間には、そいつがぐぐっと顔を耳元まで近づけてくる。
「……はぁ、はーっ」
神経が高ぶった状態の耳は、どんな些細な音でも拾ってしまう。耳元で妙に興奮したような声と、ごくりと自分が息を呑む音さえも、爆音のように聞こえた。
額から流れた汗が目に入り、じんとする。死んだように息も細くして身構えていると。
「なぁんだ。起きてるじゃないか」
低い男の声と、わんという犬が吠えた。
耳から吹き込まれた声にぶわりと全身の毛が逆立ち、男の声が尾を引いて脳内にこびり付く。恐怖と焦りが頂点に達し、自分は「うわぁああっ!!」と間抜けな声を上げて跳ね起きた。
「あぁあああぁああっ!!」
眼は開けずに両手を大きく無茶苦茶に左右へ振り回す。すると、両腕が生暖かいものに包まれたような感覚がして、その薄気味悪さにまた悲鳴を上げる。悲鳴を上げながら、すぐさま男を押しのけるようにして両親の部屋へ飛び込んだ。
突然のことに驚いた両親が口々に「どうしたの」と訊ねるが、じわじわと込み上げてくる恐怖にしばらくは嗚咽を漏らすことしか出来なかった。
両親は、ここにいる。犬も、ここで寝ている。
じゃあ、アレは。