初章 Beginning
その日の記録は、未だに鮮明である。
気温は摂氏ニ十三度、湿度四十三%という、過ごしやすい午前であった。
東欧州の小国『ノルフェース王国』。ゼブラート通り。
人々は、いつも通りの生活を送り、平和であった。
だが、その日。世界中に戦慄が走った。
後に『神の雷』と呼ばれる未曾有の人為的災害。
ヨーロッパ半分が被害に遭い。破壊――いや、消滅したのだ。
六カ国の生命、建造物が消え、災害の中心だったノルフェースでは、地面の約五メートルが削り取られていた。
状況確認に向かったイギリス軍のヘリが、災害の跡から発見した生存者は、ゼブラート通りの位置に倒れていた少年たった一人のみだった。
その状況から、その少年がこの災害を起こしたとされ、少年は主要十五カ国の代表によって構成された『世界代表裁判所』によって裁かれた。
世界中の全ての人が、その裁判の判決に釘付けだった。
そして、三週間に及ぶ裁判は終結し、判決がアメリカ人の裁判長から言い放たれた。
――『禁固千年の刑』。
当時六歳という幼さであった少年に突き付けられたのは、これから続くのであろう長い人生を、『死』と同等にするものであった。
それから十年の月日が流れた。
少年は、十六歳となった。
そして、それと同時に、ある機関が動こうとしていた。
少年を解放するために――
〈侵入者を確認。直ちに排除せよ〉
赤いランプが点滅し、スピーカーから女性の声が薄暗い通路に響く。
「おいっ。第三シェルターを速く閉じろ!」
顔を完全に覆うヘルメットに、黒の装甲スーツ。それを身に纏う数十の人影が、通路を駆け抜けて行く。手には『電磁加速式小銃コルベートフルック』が抱えられている。
「敵は現在、第四防衛線を突破。増援を求む」
一人の男が、通路に設置された通信機に怒鳴りつける。
『無理です。現在対応に当たっている者達で総員を導入しています。これ以上は、軍の出動を求める必要が――」
「構わん! ミサイルでも核でも、投入して奴を止めろ! もし最終防衛線まで破られたら、またあの悲劇を繰り返すことになるんだぞ!」
通信機から発する女性の声を割って、男が通信機に怒鳴った。
「クソッ、あと少しで殺されるはずが……」
男は、無線機を元に戻して呻いた。
「……ねえ、彼はどこに居るかな?」
男の背後。そこに居たのは、息を切らしながら笑みを浮かべる若い男。服装は、通路の暗闇に溶け込みそうな黒いバトルドレスを着ている。
男は、通路自体が暗い為、若い男の顔をよく確認できない。
しかし、若い男の足元には、倒れている人影がうっすらと見えていた。
「か、彼……?」
「わかるだろう? この場所の第一警戒区域にいる奴のことだ」
男は、咄嗟に反射で銃を構えた。
「教えるわけがないだろうっ! 貴様、何が目的だ?」
若い男は鼻で笑い、口を開く。
「悪いが、それこそ君に教える必要が無いんでね」
「くそっ、死ねぇ!」
男は、再度銃口を向け直し、トリガーを引く。
銃口から男まで約一・五メートル。
弾丸は、弾丸自体で千メートル/秒。電磁加速によって、五百メートル/秒が弾丸速度として追加される。
男から若い男までを弾丸が駆け抜けるには、僅か〇・〇〇一秒。人間の反射速度など、とうに超えた弾丸を若い男は避けた。
そして、何が起こったかもわからず、男は腹を貫かれていた。
男が痛みを感じたのは、その一秒ほど後だった。
うめき声をあげ、倒れこむ男。若い男は、的確に急所を貫いていた。
「お……お前、だ、誰だ……」
力がどんどん薄れていく男の声。若い男は、鳴り続けるアラームの中、膝をつく男に静かに告げる。
「教会の第二教父。伊乃宮 善史。冥土の土産にお持ちください」
薄れゆく男の意識の中、そのかすかに聞こえる声は、男が聞く人生最後の声となった。
――数分後。
伊乃宮は、アラーム音の届かない静寂に包まれた場所を歩いていた。
その手には、赤い鮮血のついた日本刀が握られている。頬に付着した血液を袖で拭い、足音を響かせながら歩みを進める。
「……さて、ここか」
伊乃宮が足を止めたのは、重厚な鉄製の大扉の前であった。
手を目の前に構えると、ロックを解除した金属音が響き渡る。すると、鉄扉がゆっくりと開いていき、完全に開放された。
「人と会うのも、ちょうど十年振りか? なあ、禍の子さんよ」
そこにあったのは、鉄製の檻だった。
檻の中に居るのは、見たところ十五、六歳の少年。
少年は、伊乃宮の問いかけに答えるかのように顔を上げる。しかし、音での返答は無い。
「……さて、急ぎだからさっさと言うぞ」
少年の目に、光は無かったまるで何かに絶望しているような様子だ。だが、伊乃宮の口から発せられた言葉で、その瞳に光が取り戻される。
「……ここから、出たいか?」
少年は答える。
「……出て、どうするんですか?」
「実は、我々に協力してもらいたい。身の保証はする。ここで一生を過ごすか、外の世界で人の役に立つか、どうする?」
その問いの答えは、決まっているようなものだった。少年は、静かに立ち上がり、口を開く。
「は……はい……よろしくお願いします」
あれから一ヶ月。世界は、災厄をもたらす脅威を世の中に放ってしまったことに、恐怖し、憤怒していた。
あの日から、少年の運命も、世界の運命も大きく変わったことは言うまでもない。