支那事変を始めたやつはマジキチ(1)昭和12年7月~12月
はじめに
ちょいちょい日中戦争で日本軍は負けていなかったと聞くけど、支那事変ってなんなのか? ミリオタとして興味と疑問を持ち、大東亜戦争開戦前までを纏めてみた。
戦争自体は満州事変の頃から続いていたけど1937年7月7日の盧溝橋事件に端を発した。
支那事変は日中両軍の全面衝突に拡大し、日本の31倍の国土を持つ大陸の広さを舐めていた日本は無茶苦茶強気のくせに、大東亜戦争終戦時で100万の将兵を拘束されていた。格好悪いよね。
満州と言う限られた戦場とは違い、敵は奥地に後退する事で戦える。日本軍は長い戦いに引きずり込まれた。
中国側によると悪の日本軍は抗日戦の士気、物資面の土壌を破壊すべく無人地区を作る三光作戦を行った、らしい。それを始めたのが中国軍の教育にも当たっていた北支那方面軍司令官の多田駿中将とのこと。
正義の中国も黙って殴られていた訳ではない。毛沢東を指導者とする中共軍の八路軍は第115師(林彪)、第120師(賀竜)、第129師(劉伯承)を東進させ東北、察南、晋西北、冀西、冀中、晋東南、冀南、魯西等で遊撃戦を展開させた。
一方、悪の日本軍は「人口比で5倍の中国、下手に敵を増やすわけにはいかん」と支配地域の住民を集団部落に移動させ、無人地区を作りゲリラの活動を阻害した。COIN作戦の手段としては世界中で行われた常套手段だが、とにかく日本軍はやった事が全て悪いのだ! と言う事らしい。アホ臭い。
1.盧溝橋事件
1937年(民国26年、昭和12年、皇紀2597年)7月7日午後11時左右(前後)、北平西南三里盧溝橋の北方1Kmで夜間演習中の支那駐屯軍歩兵旅団第1連隊第3大隊第8中隊は不法射撃受けて一名が行方不明に成り、こりゃ中国第19路軍の攻撃だと言う事で反撃を開始した。疾風の如く龍王廊を占拠、冀察第29軍37師を襲撃し武装解除した。
だが行方不明の兵士は後で見付かっている。勘違いで戦争を始めたのである。翌日、中国共産党は日本の侵略は許さん。断固として抵抗するぞ、とアジっていたが11日、国民党政府外交部との合意で日中両軍は停戦する。
※日本政府は7月11日に北支事変と発表した。
だけど、7月15日に国共合作が発表され「日本、ぶっ飛ばすよ」と言われたので、日本政府も激怒プンプンで「チャンコロが舐めんじゃねえよ」と北支へ40万の派兵を決定した。
※この当時、中国海軍は艦艇120隻(第1~第3艦隊の合計、6万トン)を保有していた。その戦力は日本海軍の1/20と大きく開きがあり、最大の巡洋艦でも艦齢41年、排水量2,950トン、個艦能力も低く渡洋作戦を阻止する事は不可能だった。
※当時の出版物によると『日本では、できるだけ事件が大きくならないやう、また、できるならばわが駐屯軍と北支の支那軍との間で事件が解決できるやうにと努力しました』、『帝国は極力不拡大方針を堅持し、事件を局地的に解決すべく現地に於いて折衝を重ねたるも~』とある。努力とは戦場の拡大らしい。
7月28日、朝鮮第20師団が北平に進行。翌日に陥落した。30日には天津も攻略。
8月、蒋介石は傅作義を指揮官とする第7集団軍(第35軍(第211、第218旅)、第61軍(第101師、新編第200旅)、騎兵第1軍、騎兵第6軍他)を北平の側背に向けた。
2.八一三松滬会戦(第二次上海事変)
平和を作る気があったのか? 外交で対話をしたのか、周りは諌めなかったのか? その辺りはスルーして戦闘パートに入る。
8月9日、上海機場(空港)で海軍陸戦隊の大山中尉が殺害された事(大山事件)を受けて、もう二度とするんじゃねえぞ! と言う事で中国側に下手人である保安隊(中国警衛)の撤退を要求したが、拒絶。12日、中国軍2個師が到着し共同租界を囲む様に防壁を築き戦備を固めた。
中国側の記録によると1937年8月13日上午(午前)9時15分、日本海軍陸戦隊一部が租界から越境してきた。中国軍第88師第262旅523団先頭部隊と遭遇。これを火種に八一三事変は勃発したらしい。日本側の記録によるとアイシス劇場付近で陸戦隊の斥候が支那兵に射殺され、午後4時半に敵の砲撃が始まったとある。
上海を管轄する第4方面軍は第8、第9集団軍で構成される。第8集団軍は長江北岸、第9集団軍は杭州湾南岸を警戒していた。
軍事委員会は張治中を第9集団軍司令に任命した。直轄兵力として第87、第88、第36、第61、第98、第11師。この他に第39軍、第345旅、張発奎の第18集団軍(第55、第57師、独立第20旅、独立第45旅等も展開していた。
攻囲する中国軍は14日午前2時、江湾、八字橋等から一斉に攻撃前進を開始した。陸戦隊が寡兵で抵抗を続ける中、日本政府は上海派兵を決定した。
※当時の公式見解としては『南京政府の反省を促す目的を以て聖戦を進めたのである』とある(笑)
15日、日本海軍は航空優勢を確保すべく96式陸上攻撃機で南京と南昌の飛行場を空爆した。
中国側にとって厄介だったのは上海は他の列強が租界を持っていた事で、日本の租界と隣接する為に戦闘行動は限定された物と成った。
8月20日、全国を5個戦区に分けた蒋介石は閻錫山を第2戦区司令官に任命した。閻錫山の指揮下に、楊愛源の第6集団軍(第33軍(新編第3旅、新編第8旅、第73師)、第34軍(第196旅、第202旅、第71師)、騎兵第2師)、傅作義の第7集団軍(第35軍(第218、第211、第202旅)、第61軍(第101師、新編第200旅)、第68軍(第143師、新編第40旅)、第17軍(第21、第84師)、第13軍(第4、第89師)他)等が配属されたが、一方で紅軍46,000名は蒋介石との合意により国民革命軍第八路軍(8路軍)に呼称変更したが、国府軍の指揮下に配属され無かった。
23日、海軍の支援で揚子江下流及び呉淞付近で敵前上陸を慣行した。黄浦江海岸では陸軍の上陸に先立って竹下少佐の指揮する海軍陸戦隊70名が先行した。
国府軍は清朝時代の募兵に代わり1933年に兵役を制定し1936年から適用をしたが、戦時動員の徴兵は根こそぎの動員に成る。だからと言ってもヤクザや土民の集まりではなく、訓練も当初は軍事顧問を呼び寄せて日本式、その後にドイツ式等を取り入れた正規軍だった。
日本軍との戦力を比較すると、1個師団(24,000~28,000)に対して1個師の兵力は半分(10,000)で、武器は自国生産よりも外国からの援助が主流だった。
事変当時の日本軍の攻撃は中国軍にしてみれば「砲火非常激烈」との事だった。
8月28日には第11師団が羅店鎮に前進、皇軍必勝の信念の現れで陸軍が敵の第一線を粉砕し戦線を押し上げると、日本の兵隊に比べて意気地の無い支那軍の勢いは衰え始めた。11月5日には杭州湾の金山衛東西海岸に第10軍(右翼第18師団、中央第6師団、左翼第114師団)が上陸。13日には上海派遣軍の応援第16師団が上海北の白卯口に上陸、上海方面の敵の背後を衝くと決定的に勝敗が決した。11月12日、上海から中国軍は撤退した。
※全軍撤退時、第61師師長であった劉安祺の口述によると第61師と李延年の第9師が援護したとある。
※第10軍上陸後、中支那方面軍が設置される。
3.太原会戦:日本軍は中国軍を撃滅すべく北支那(華北)で作戦行動を開始した。敵の野戦軍主力を撃滅すれば講和に応じるだろうと言う考えだった。太原攻略は第5師団長板垣征四郎の個人的野心でもあった。だが資源の獲得、新北支政権の結成も夢でしかなかった。
(1)忻口戦役
第2戦区の山西に日本軍が迫ると、蒋介石は第14集団軍を中央より即応派遣させた。
応援を得た第2戦区は攻勢防御を計画した。右翼軍は9月21日に太原に到着した朱徳指揮する八路軍第18集団軍(第73師、第101師、新編第2師)、1482高地の占領を目指す中央軍は立煌の指揮する第14集団軍(第9、第15、第17、第19軍)、左翼軍は愛源率いる第68、第71、第120師、独立第7旅。予備軍に第34、第35第61軍、第66師、独立第1、第3旅が控えていた。
蒋介石は日本軍を舐めては居なかった。四川の第22集団軍にも北上して山西に向かうように命じた。
第5師団長板垣さんが太原攻略の命令を受けて第21旅団、関東軍混成第2、第15旅団を以て進行を開始した。
10月4日、陽明堡が占領され第19軍は敗走。兵士はむなしくのたれ死んだ。5日、独立第7旅団の陣地を攻撃。6日、独立混成第1旅団が左翼軍陣地、第5師団主力が中央軍陣地を攻撃。宁武城が陥落した。
13日、日本軍の一部が戦車の支援で威力偵察を行ったと中国側の記録にある。
14日、混成第15旅団が原平を攻撃。第196旅は粘ったけど敗走。前哨戦だけで、むっちゃくちゃに負けまくっていた。
※10月2日、8省13地区の紅軍が再編成され国民革命軍新編第4軍(新4軍)と成った。10月11日、第2戦区の各部隊は計画の位置に進出、陣地占領した。中央軍は右、中央、左地区に別れ、それぞれ右翼兵団(劉茂恩の指揮する第15軍(第10、第83、第85師)、第33軍(第68師)、第34軍(第71師))、中央兵団(第19軍の王靖国指揮で第9軍、第61軍、増援部隊)左翼兵団(2001年まで生きていた李默庵将軍の指揮する第14軍15個団基幹)、予備隊がお椀の形に配置された。
10月13日、忻口に日本軍は攻撃開始。第9軍の展開する中央地区、第15軍の展開する右翼で強硬渡河し激戦となった、らしい。と言うのも14日には独立第5旅旅長郑廷珍が板垣師団の猛烈な攻撃で死んでる。
※資料によっては『師』、又は『旅』となってる。何にしても、戦死者が殉国と愛国美談に成ってるのは日本だけの特権では無い。
※日本軍にとっては飯が美味い事に、16日には第9軍軍長郝梦龄、第54師師長刘家麒とボコボコ死んでる。
10月19日、第5師団は攻勢開始。お椀の右縁を殴る形だ。22日には増援として加わった萱嶋支隊(支那駐屯第2連隊基幹で騎兵、工兵を増強した旅団規模)が原平に到着。24日に萱嶋支隊を戦場に投入する。26日14時、左翼83師の防御を突破する。
10月31日の夜、閻錫山は撤退を決定。11月2日10時、忻口より撤退を下達した。命令の本文を読めば陣地変換と理解できる。新たな命令は持久防御と言う事だった。主戦闘正面には歩兵2万、山砲2個団(連隊規模)、野砲1個営(大隊規模)、騎兵4個連(中隊規模)。3日、第2集団軍は第3軍を編入。第14集団軍は第27路、第15、第17軍、第94師を編入。第18集団軍は新編第2師団を編入等と再編成された。
(2)太原保衛戦
前半の抵抗が激しかった分、後半戦は呆気なく短い。
11月3日、北支那方面軍より第1軍司令官に太原攻撃の統一指揮が命ぜられ、4日、第1軍司令官は第5師団に引き続き太原攻撃と占領を命じた。この時、太原は第7集団軍司令官の傅作義が指揮する第35軍(第211(第419、第421、第422団)、第218(第420、第435、第436団)、第213(第425、第426団)旅、独立(新編)第1旅(第1、2団、砲兵第22、23団)、新編第3、第8、第9団、その他欠員ありの雑多な部隊)が防御工事をしながら待ち受けていた。
4日、日本軍は勧告を行った、らしい。その翌日5日、周恩来は太原から逃げ出した。
7日、第109師団第31旅団の先遣隊が進出。20時から砲撃が始まった。8日、第5師団は北側を猛攻。火炎が全域を覆った。絶対に退かないと死を誓ったそうだが、南東から第20師団も迫っており21時に撤退を命じた。
4.南京保衛戦
上海日本軍を包囲圧迫していた中国軍であったが、日本軍が左翼に上陸した事で包囲は解かれた。
後退する中国軍を追撃する現地軍にとって南京は目と鼻の先にあった。
一方、唐生智を司令官に南京防衛に集められた兵力は雑多な部隊だが数だけは揃っていた。
当初は88師、36師、教導部隊しか居なかったが、12月初め第3戦区から9個師、12月4日に第7戦区から2個師の先鋒が到着。最終的に約15個師の15万余人に膨れ上がった。内訳は第2軍団(第41、第48師)、第66軍(第159、第160師)、第71軍(第87師)、第74軍(第51、58師)、第78軍(第36師)、第83軍(第154、第156師)、教導部隊(第103、第112師)、憲兵部隊(3個連隊)、江寧要塞部隊(砲兵第8連隊の1個大隊、対戦車砲8門、軽戦車10両、防空司令部所属各高射砲部隊27門)等であった。
三面を囲まれ背水の陣、戦闘が始まると『100万の日本軍が江南を席巻し、南京を包囲している』等と悲鳴をあげ始めた。
各部隊は12月12日から撤退するわけだが、南京大虐殺の記述へと移る。
10万以上の兵力を有した中国軍であったが、日本軍に破れ数万の捕虜と平民20万余人の合計30万人を殺戮されたと言う。さすが日本軍、連戦連勝で最強伝説の始まりである。
数字を上げると13日、第6師団が捕虜1500、第114師団が捕虜1354人を殺害。14日、第16師団が捕虜1500余人、国崎支隊が捕虜3000人を殺害等と凄い数だ。基本的には刺殺又は射殺をしたそうだ、交代で殺ったのだろうか?
スーパーミラクル虐殺タイムの間、国府軍が自国民30万人が殺されるのを指を加えて待っていたとは凄い! 見殺しにしてヘドは出ないのだろうか?
南京攻略から日を置かず、12月14日、日本は北京に傀儡政権の中華民国臨時政府を設立した。これを大義名分に蒋介石政権を相手にせず、皇軍は『協力』と言う形で行動する。
おわりに
いやぁ、戦争って本当に良い物ですね。我らが皇軍は世界に武威を知らしめたのです!