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9 大好き

 パロマが泣きやんだ後、フアンは自分の部屋でホットココアを淹れた。大きなカップを渡すと、パロマは嬉しそうにそれを受け取った。目は赤くはれていたが、それでもなんとか涙は止まっていた。鼻の先まで真っ赤になっており、フアンは心配だった。しかし、またあの愛らしい笑顔が戻ってくれてよかったと胸をなでおろした。もうずっと笑わなかったらどうしようと、本気で心配していたのだ。

「フアンの分はないの?」

 パロマはベッドの上で膝を曲げて座っていた。フアンは傍にあった椅子を引きずってパロマの近くまで持ってくると、そこに座って微笑んだ。うまく微笑めたかは分からなかった。

「俺はいいよ」

「そっか」

 パロマは一口ココアを飲むと、おいしいよと微笑んだ。

「もう落ち着いたか?」

「うん、だいぶ。……ねぇフアン、どうしてあんな早く戻ってきたの? 三十分は……」

 パロマはそこで口をつぐんだ。そんなパロマを見て、フアンは心底申し訳なく思った。俺の予想が合っていればおそらく――「あいつが、アルがそう言ったんだな」

 黙って頷くパロマを見て、フアンはどうしていいのか分からなくなった。後悔ばかりが押し寄せた。どうして彼女を一人にしたんだ。どうしてしっかり守ってやれなかった。

「三十分時間稼ぎしようと……思ったけど無理で、もうだめ……かと思って」

 パロマの大きな瞳から、またも涙があふれ始めた。ごめんね、とパロマは慌てて涙をぬぐった。

「でもね、あのね、フアンが助けに来てくれてね、嬉しかったの。びっくりしたの。正義の味方みたいで……ほんとよ」

「……正義の味方なんて、そんなこと。俺がちゃんと守ってやろうと思ってたんだ……それなのに……」

 言葉が続かず、フアンは頭をかいた。外は静かで、沈黙が重くのしかかる気がした。

「びっくりしたけど、フアンが助けてくれなかったら、私はびっくりしたどころじゃないことをされてたの」

 パロマは怒ったようにそう言った。その口調が予想もしていないものだったので、フアンはうまく返事をすることができなかった。

「お……あぁ」

「だからフアンは凄いの! フアンが私を助けてくれたの!」

 パロマは顔をしかめ、ぼろぼろと泣き始めた。今度は涙をぬぐう事もしなかった。

 え、これは、俺が泣かせてしまっているのか?

 フアンはうろたえた。立ち上がろうとしたが、立ち上がってどうすると思いとどまり、かといってかける言葉も見つからず、あー、うー、えっとーと声を出すしかできない。

「あー、えっとパロマ、あーっと……」

「フアンは私を守ってくれたのに……フアンありがとう……嬉しかったのに……」

「お、おう、あーっと、そうか、あー」

 パロマは子供のように泣きじゃくっていた。フアンは頭をかき、手を出したと思ったらひっこめ、ただひたすら挙動不審な動きをしていた。もうパロマもとうとう言葉にならない声を出しはじめ、フアンまで泣きだしたい気持ちになった。

「ご、ごめんパロマ」

「うー……」

 パロマは首を横に振りながら、涙をごしごしと拭った。

「わだしもごめんなさい……なんが泣きだしだら、とまんなぐなっちゃっだの」

「お、おう、そんなこともある、な」

 もう大丈夫なのだろうか? と、フアンはパロマを不安げにちらちら見つめた。パロマは何度も鼻をすすると、落ち着くまで黙っていた。フアンもティッシュの箱を慌てて差し出した後は、何も言わず、パロマが話しはじめてくれるのを待った。

「フアン……」

 しばらくして、パロマが口を開いた。

「はい」

 フアンは緊張した声で答えた。その反応に、パロマは面白そうに笑った。

「ありがとう。……なんで早く戻って来られたの?」

「お? あ、あぁ」

 フアンは髭をなぞると、小さく言った。

「財布、忘れた」

「え、そんな理由!」

 財布万歳だわ! とパロマが大声で笑いはじめた。なんだかフアンは恥ずかしくなり、ふんとそっぽを向いた。

「きゃはは、あっははは、間抜けな理由! あっははは」

「い、いいだろ別に! たまにあるんだよ、もうこの年になるとね!」

「年のせい! まだそういうのには早い年でしょ!」

「わーやめろそんなに笑うな! なんか恥ずかしいだろ!」

 フアンの言葉に従うはずもなく、パロマは笑い続けた。泣きに泣いた反動のように、大丈夫かとフアンが心配するほどに笑い転げた。あまりに大きな笑い声は、一番上の階に住むアンナにも届くほどだった。

「あー……」

 笑いつかれたパロマは、どさりとベッドに倒れこんだ。やっと落ち着いたか、とフアンが呆れた表情を見せる。もう五分以上笑い続けていたんじゃないか、この娘は。

「涙出ちゃったよ」

 パロマは目の端を拭った。まだ表情は笑っていた。

「ねぇフアン。私ここに居ていい?」

「え?」

「フアンが居なくなれって言ったら、私居場所が無くなって、家に帰るよ」

 フアンはすぐに返事をすることができなかった。どうしたのだろう。パロマは自分になんて言ってほしいんだ?

「俺になんて言ってほしいんだ、それは」

 浮かび上がった疑問を、すぐに言葉にしていた。訪ねた後に失敗したか、と思ったがそんなことはなかった。パロマは眉間にしわを寄せ、そうだねと答えた。

「そんなことないよって言ってほしいんだと思う。ごめんね、弱虫だよね」

「………………いや、そんなことないだろ」

 パロマは天井を向きながら、

「フアンは」

 と言いかけた。きっと優しいね、とかお人よしだね、とかそんな言葉を言おうとしていたのだろうとフアンは思った。そんな言葉を聞きたいわけではなかった。

「俺はな」

 フアンはパロマの言葉を遮った。意図的に遮ったために、声が大きくなってしまった。パロマは少し驚きながら、フアンの方に向き直った。ベッドに体を預けたまま、ごろりと横になってフアン言葉を待つ。

「俺はお前の気持ち、少しだけ分かる」

「うん」

「俺もお前と同じだった」

「うん?」

 パロマは体を起こし、ベッドの上に胡坐をかいた。

「そんな恰好するなよ」

「いいじゃない。ねぇどういうこと?」

 表情はいつになく真剣だった。フアンは息を大きく吸って、小さく長くそれを吐いた。

「なんかおかしいな、と思うようなことはあったろ? メリッサのうっかり発言とか」

「……あぁ、うん。違和感を覚えた会話は、確かにあったよ」

「それにさっき、アルにパロマの否定は俺の否定だっていうようなことも言ったろ」

「うん。気になってた」

「……俺は何も、盗みがばれたっていうあの状況から逃げ出したくて、仕方なくパロマを盗んだわけじゃないんだよ」

 この話をパロマにするかしないかを、フアンはずっと考えていた。

 同情を引くかもしれないし、パロマの自分に対する態度が変わるかもしれない。

 それでも今回のような事件があって、パロマが自分の置かれた環境がどんなものかを知った時に、それでもなお信頼しようとしてくれているフアンことを何も知らないのは、彼女の誠意に反するのではないか、とフアンは考えた。

 何故パロマを盗むと言ったリスキーな行動に出たか。

 何故パロマの生活を補助し続けるのか。

「どうしてこんなに優しくしてくれるんだろうって思ってたよ」

 パロマは微笑んだ。フアン心を読んだようだった。

「自分を重ねていた」

 フアンは過去を思い出していた。パロマの投げかけるまっすぐな視線から目をそらさず、フアンは微笑んだ。多分、弱気な笑顔になっているだろうことは、自分でも予想がついていた。

「聞きたい?」

 パロマはにこりと笑うと「話したい?」と訊き返した。

「聞いてくれるなら」

「聞くわよ、なんだって聞く。驚かないよ」

 パロマは両手を広げた。

 その仕草に、フアンは、彼女は何でも受け止めてくれるような気がした。

「俺も金持ちの家の出だよ」

 笑顔のまま、彼は言った。

 パロマは目を丸くしたが、それ以上何も反応を見せなかった。広げた手をゆっくりと閉じ、じっとしている。あくまでフアンが語り出すのを待ち続けていた。

 いい子だな。

 ほんとうに、素敵な子だ。

 フアンはそんなことを思いながら、ゆっくりと自分の過去について話しはじめた。


 俺は生まれた時から金持ちの家の息子だった。家もパロマの家ぐらいの豪邸だった。今はもうないが、ここから車で四時間ぐらいのところに建ってたよ。

 あの生活を、贅沢だとも嫌だとも思ったことはなかった。うまい飯を食べて、買いたい物を買ってもらって、たまにパーティーに出かけて親の機嫌を損ねないようににこにこ笑ってる。普通だったよ。将来的に誰かと結婚するのだって、それでいいやって思ってた。あの状態の生活が続けば、それでよかった。

 でも、確か十七のときだ。両親の会社がつぶれた。理由は聞かされなかったが、すぐに分かったよ。ある程度大きな会社だったから、調べればすぐに情報は出てきた。

 簡単に言えば、払うべき金を払わず、隠し持ってたのが見つかってあれよあれよと会社がつぶれたわけだ。馬鹿だと思ったね。情けなくも思った。いきなり反抗の気持ちが芽生えた。こんな家に居ても腐るだけだと思った。せっかっくいい暮らしができているのに、守るべき約束も守れずに自滅した親がみじめで仕方なかった。憤りを感じたよ。もうここにはいたくないと思った。

 理由は違うけど、俺もパロマと同じで、家を飛び出した。

 飛び出しやすい環境だったからな。あっさり家を出れたし、おいかけてくる人も少なかった。それどころじゃなかったんだろうな……荷物が減ってすっきりしたかもしれない。よく知らない、あのあと親がどうなったのかも、何も。

 放浪して、歩き疲れてこの場所でぶっ倒れた。所持金もあっさり底を尽きて、仕事も見つからなかった。家を飛び出たはいいが、所詮は恵まれすぎたおぼっちゃまだってことを思い知らされた。絶望のうちに死ぬのも悪くないと思っていたころに、助けてくれたのがアンナだった。どこの誰だか知らないが、私の陣地で勝手に死ぬのは許さないってね。

 今はもうあいつは足を洗ってるけど、そのころはあいつも泥棒だった。生きるためだと盗みの方法を教えてくれた。その方法が正しいとは思っていない。でも俺はそうやって生き延びるしかなかった。そうやってしか生きていけないと思った。

 今思えば、自分を納得させるためにそう思いこんでいただけなんだけどな。

 ここに住まわせてもらって、十年ちょっと、俺は泥棒をしてなんとか生きてこれた。贅沢が無い暮らしはとてもきつかったけど、やがて慣れたよ。ここの生活に少しずつ染まって行った。泥棒をすることに対しての罪悪感も消えてった。

 そんなとき、パロマの屋敷に入った。お前に会った。過去の自分に会ったみたいだった。ここを出たいとパロマは目を輝かせて、真剣に言っただろ。

 逃がしてやらなきゃ、と思ったんだ。必死に止める自分もいたけど、それでもその気持ちには逆らえなかった。自分を助けるみたいに、パロマを助けたいと思った。

 だからパロマを助けたんだよ。

 面倒も見るつもりだった。これからも、パロマがここを離れたいと思うまで。ここでの生活は分からないことがたくさんあるって知っていたから。俺の先生はアンナだったように、パロマの先生になりたかったんだよ、俺は。

 このことはいつか言うつもりだったよ。思ったより早くなっちゃったけど。

 でもここで言っておこうって思ったんだ。

 こういう事件があったのは俺の不注意のせいだ、ごめんな。……でも、それでも俺からあの屋敷に帰れなんて言わない。俺は、お前の気持ちが少しでも分かってるって思ってるから。

 好きにしていいよ。パロマを盗んだ時点で、俺はどうあってもお前の味方だから。


「…………じゃぁここに居る」

 パロマはしばらく考えた後、確認するように小さく言った。

「おう」

 フアンの返した言葉も、短いものだった。

「ねぇ」

「ん?」

「私、今フアンが自分の気持ち話してくれて、本当にうれしかった。多分、フアンが思っている以上に」

「そりゃ……」

 よかった。フアンがそう言う前に、パロマは静かに立ち上がると、フアンの両手をとった。そしてフアンが反応を見せる暇も与えず、パロマはその腕をぎゅっと自分の方に引き寄せた。

「な……」

「気持ちを話してくれてうれしい、助けてくれてうれしい。今日はとっても幸せな日だよ」

 甘い香りがした。あぁシャンプーのにおいだ、とフアンはそんなことを考えていた。フアンの首に手が回される。ひんやりとした感触が首の後ろに伝わった。小さなパロマの頭は、フアンの首元に押しつけられた。

 フアンはパロマに、力強く抱きしめられていた。気が付いたらフアンも、そっとパロマの背中に手をまわしていた。パロマとは対照的に、壊れそうなものを触るように優しく触れた。パロマは、ベッドの上に座ったままフアンに抱きついていたため、フアンに体重がかかっていた。軽いな、とフアンはそんなことを考えた。

 フアンはパロマの頭を優しく一度撫でた。小さい子を寝付かせるように、それから何度も、頭を撫でた。パロマはしばらく何も言わなかったが、やがて不満そうにつぶやいた。

「子供みたいな扱いしないで」

「えっ、あっ、え、ごめんなさい……」

 フアンは慌てて手の動きを止めた。

「馬鹿フアン」

「……すみません」

 何に対して馬鹿と言われたのか、フアンは全く分からなかったが、また泣かれても困ると思い、素直に謝っておいた。

「ありがとうね。面倒くさいって分かってるのに、私を盗んでくれて」

「いや、俺がしたくてしたことだ」

「フアン大好き」

「………………」

 言葉に詰まる。

 さらりと重要なことを言われた気がして、フアンは、ん? と首をかしげた。

 今なんて?

 聞き返そうとしたが、それは違うだろと思い言いとどまった。

 いやいや、あれだろ、小さい子が大好きって大人に言うような……。

 子供扱いしないで、というパロマの言葉が耳にこだました。

 フアンは混乱した。こんなとき、どういう言葉を返せばいいんだ?

「フアン」

 パロマが、これ以上できないというほどに、もう一度力強くフアンを抱きしめた。

 パロマの声は、少しだけ震えていた。

「フアン、大好きよ、ほんとよ」

「………………」

 フアンは何も言わず、パロマを抱きしめる手に力を入れた。

「……フアン痛い」

「あっ」

 ごめん。

 そんなに強く抱きしめていたか。

 フアンは慌てて手を離した。大丈夫だよ、とパロマは笑い、そっとフアンから離れた。

「煙草、買いに行く?」

「え?」

 唐突な提案にフアンは思わず聞き返してしまった。パロマは首をかしげ、

「煙草!」

と元気よく言葉を繰り返す。

「お、煙草、おう」

 フアンは何度も頷いた。うん、とパロマは嬉しそうにほほ笑んだ。

「一緒に行く?」

「行く」

「じゃぁ準備するね」

 ぴょん、と身軽にベッドから降りると、パロマはクローゼットに向かって駆けて行った。

「十分ぐらいでしたくするから、ちょっと待ってて」

「お、分かった」

 じゃ、とフアンは立ち上がり、平静を装いながら、二人の部屋を繋ぐ扉を開け、自室へと戻って行った。


「いや」

 ドアを閉め、直後に座り込んでしまう。

「いやいやいや」

 急に立ち上がり、よろける足でベッドに向かった。

 倒れ込み、ベッドに向かって叫びたくなったが、ぐっと抑える。

「どうしよう、もう無理だ」

 代わりに出た弱気な声は、自分でもびっくりするほど素直な感想だった。

「あんなの反則すぎるだろ……というか、無防備すぎる……」

 すぐ後ろに、ベッドがあると言うのに、抱きついてきやがって。

 押し倒されたらどうするんだ、あそこにいたのが俺じゃなかったら、押し倒しててもおかしくないんだ――というか、押し倒されてもよかったのか?

 いやいや!

 慌てて首を振るが、ポジティブな思考は止まらない。

 大好きって言ったし、つまりオッケーってことだったんじゃなかったのか。もしかして俺はためされていたのか? でもあんな事件の後だ、押し倒せるかっての! ていうかあの事件があった無かった関係なく、俺は、そんな、好きだと言われてオッケー俺も好きだぜって言ってベッドにどさり、みたいな、そんな、そんな、いやあったかもしれないけど、というか大好きって、そもそもそういうことでいいんだよな? 告白でいいんだよなあれ、違うのかあれ、どう捕えればいいんだ。

 あいつは!

 なんなんだよ!

 愛してるって言ってくれたら分かりやすいのに、大好きだなんて曖昧な言葉!

「翻弄されすぎだ――」

 ごろん、と仰向けになり、天井を見上げる。いつも見ているはずの天井が、今日はやけに遠く感じた。

 目を閉じる。彼女から離れた時、俺の顔は赤くなってたのだろうか。心臓がやけに高鳴っていたような気がする。今さらになって、その余韻を感じていた。彼女は至って平然としていた。あぁ、じゃぁやっぱり――「おーい! 入るぞフアン」

 ハスキーな声に、思わず飛び上がる。

「ひゃぁぃなんだぁ!? アンナァ!?」

 慌てて毛布を頭にかぶり、それにくるまりながら声のした方を見た。そこにはドアノブを握ったまま、ひきつった笑顔を見せるアンナがいた。

「え? 何ごめん私タイミング悪かった?」

「あ……ええっと」

 フアンはいそいそと毛布を置くと、ベッドから立ち上がった。

「ちょっと考えごとしてただけだ。どうしたんだよ?」

「……悪かったな。お客さんだ」

「客ぅ?」


 お久しぶりです、とアンナの後ろから姿を現したのは、パロマのお付きのシャルルだった。久しぶりなのか、と問うアンナに、えぇとシャルルは笑顔で答える。

 フアンはようとシャルルに挨拶をした。シャルルは軽く会釈をしたが、視線はフアンから外さなかった。

「俺の知り合いだよ」

「そっか。下で会ったからさ、いろいろ話し聞きながら一緒にここまで来たんだよ。んじゃあ、私はここで」

「ありがとな」

 アンナは手をあげて応えると、フアンの部屋から出て行った。階段を駆け足で上る音が響いた。きっとホセがもうすぐ帰ってくるのだろう。

「怪しまれましてね」

 ドアを閉めながら、シャルルが苦笑した。

「ボディーチェックと、職務質問をいくつかされましたよ」

「あー、あいつはそういうやつなんで、まあ許してやってくれ」

「しっかりしたセキュリティです」

「パロマは隣だぞ?」

 フアンがパロマの部屋の方を指差した。シャルルはえぇ、と頷くと、人差し指を口に持って言った。フアンは眉をひそめた。パロマには黙っていろ、ってことか?

「貴方に話がしたくて」

「……なんだよ?」

 この前会った時、いきなり自分の想いをぶつけられた。今日もそんな話か? とフアンは思ったが、シャルルが持ってきた話はそのようなものではなかった。

「この前の手紙、覚えていらっしゃいますか」

 フアンは椅子に座り、シャルルにも座るよう促したが、シャルルはいえ、と手を前に出してそれを拒んだ。フアンは脚を組むと、手紙ねぇと呟いた。

「パロマのお父さんに、ってやつだろ」

「えぇ。何を書いていらしたのかは分かりませんが、旦那様からの返信がここに」

 シャルルは長い指で、胸のあたりを指差した。ふうん、それで? とフアンが続きを促す。

「なんて書いてあるのか分かりません。お嬢様がひどく取り乱す内容かもしれません」

「そうか」

「そのときは、どうか話しを聞いてあげてください」

 無言のままフアンが首をかしげると、シャルルはフアンから視線をそらし、困ったような笑顔を見せた。

「お嬢様は、大切なことは一人で悩んでしまいがちです。こちらから聞いて差し上げないと、言ってくれないこともしばしばなのです」

「……あぁ」

 知っているよ、と言いかけて、フアンは黙る。彼の方が何倍も、俺の何倍も、そのことを知っている。

「私には」

 シャルルがフアンを静かに睨んだ。悲しそうな、悔しそうな視線だった。その視線に、フアンの姿勢は自然とよくなった。

「私には、話しを聞いて差し上げるということも、もうできないのです」

 力強い声だった。力強く、そして哀しい声だった。

 シャルルはぺこりと頭を下げた。視線は下を向いていた。

「不愉快にお思いでしたのなら、どうぞお許しください。ただのおせっかい、ただの迷惑な行為で、過ぎた行為です。お嬢様には、どうぞこの行動は内密に、お願い致します」

 では、お嬢様にこれを渡してきますね、とシャルルはフアンの部屋を出て行った。

 フアンはベッドに横になると「なんだかなぁ」と呟いた。

 ゆっくり目を閉じると、どっと疲れが押し寄せた。

「あー……」

 自分が思っているよりも、低い声がした。

 腕を伸ばした後、ゆっくりと掌を瞼の上に乗せた。

「あいつ……」

 言葉に出すのはなんだか恥ずかしく、フアンは心の中だけで考えた。

 パロマはもう元気になっただろうか。

 実はまだ苦しんでいるのだろうか。

 もう掘り起こさないほうがいい問題なのだろうか。俺は何ができるのだろう。

 彼女のために何ができるのだろう。

 手紙にはなんて書いてあったのだろうか。

 彼女は自由になれるのだろうか。

 パロマは今、幸せだろうか。

 パロマは、俺のことをどういう風に見ているのだろうか。

 考え始めると、疑問は浮かんでは消え、消えては浮かび、とても声に出して言いきれるものではなかった。

「……大好きだなんて言うから」

 小さくつぶやいた言葉に、続きはなかった。

 俺はどうしたいんだろう。

「まさか、まさかでパロマのことが好きになってたりするのか?」

 声を出して自分に問いかけた。

「……今さらだろ、そんな確認」

 答えはあっさりと出てきた。

「認めたくなかっただけだ……」

 年が違うから、身分が違うから、そんな理由をつけて封じ込めて置いた想いを、こじあけたのは彼女自身だ。意識的か、無意識なのかは分からなかったが、それでも、もう彼女が好きだという気持ちに嘘はつけなくなっていた。

 ふてくされた子供のように、フアンは考えるのを放棄した。

「もうしらね。それどころじゃないし。もっと考えないことたくさんあるし」

 自分を言い聞かせるようにぶつくさと言ってみたものの、それは不平を訴える子供の口調のようで、フアンは自分に呆れかえってしまった。

 隣の部屋からは何も聞こえてこなかった。壁はそれなりに厚さがあるし、大きな音を立てないと聞こえないのは分かっている。しかし、シャルルとパロマの二人で何を話しているのかがとても気になった。あとでパロマは話を聞かせてくれるだろうか。

 コンコン、と扉の向こうから遠慮がちにノックをする音が聞こえた。音がしたのは、フアンとパロマの部屋を繋ぐ扉からだ。フアンはすぐに上半身を起こし、「どうした?」と返事をした。

「フアン、ごめんなさい。ちょっと手紙を書かなくちゃならなくなったから、買い物はまた今度で、いい?」

「あぁ、いいよ、大丈夫」

「ごめんね」

 フアンの胸の奥がざわついた。

 直感的に、嫌な予感がした。嫌なことが起こりそうだ。

 その後、フアンはすぐに祈っていた。

 やめてくれ。頼むからこれ以上彼女を悲しませないでくれ。


 結局その日は、ずいぶんと長いこと二人で話しをしていたようだった。

しばらくフアンは起きていたが、途中でパロマが「起きてる?」と扉越しに言ってきた。あぁ、と返事をすると、寝ていいよ、とのことだったので、フアンは寝ることにした。

「シャルルがいるから、大丈夫」

という言葉が、フアンを複雑な気持ちにさせたのは言うまでもない。

 次の日、フアンはパロマの元気があるかどうか心配だったが、いつも通りの笑顔で朝の挨拶をしてくれた。

「おはよ、よく眠れた?」

「あぁ」

手紙について触れていいものか迷ったが、フアンは思い切って聞いてみることにした。

パロマは困ったように笑うと、「今度話す」とだけ言った。

「もうちょっと、待ってて?」

「わかった」

「ありがと。朝御飯、私が作るね。何か食べたいもの、ある?」

 上目で聞いてくる彼女を、フアンは素直に愛おしく思った。

 好きと認めてしまうと、こんなにも正直な気持ちが生まれるのか、と思いながら、彼は微笑む。愛しい人を見つめる笑みだ。

「なんでもいいよ」

「じゃぁ、スープ温めるね。今日、煙草買いに行く?」

「行く」

「じゃぁ、ご飯食べたら行こうね」

「うん」

「できたら呼ぶね」

「わかった、待ってる」

 手を伸ばして、小さな頭を包み込んで、優しく額にキスをしたい。

 そんなことを考えながら、フアンはだまって部屋に戻った。


 大好きの意味を、いつか聞こう。ふと、そんなことを考えた。


 時刻は朝の九時近く。

 廃屋の前に、黒い車が静かに停まった。


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