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8 助けて……フアン

 次の日の朝は、早い時間に起きた。フアンは起きてすぐ、窓を開けた。朝の空気が部屋に入り込んだ。まだ冷たく、乾いている。

 顔を洗い、髪を整えてから、扉の前に立ちノックをしようとした。する寸前で止まり、待てよと考える。パロマは起きていないかもしれない。まだ朝の七時前だ。

 しかし、向こうの部屋から物音がした。どうやら何かを包丁で切っているようだ。

 フアンはその音が耳に入るとすぐにノックをしていた。パロマは元気だろうか。とても心配だった。

「はぁい」

 パロマの返事と共に、包丁で何かを切る音が止んだ。そしてすぐに、扉が開かれた。パロマは扉から顔をのぞかせ、満面の笑みを浮かべた。

「おはよう、フアン」

 フアンはその笑顔を直視し続けることができなかった。まぶしくて、可愛くて、顔が赤くなるのがすぐに分かった。それを隠すように、慌てて鼻の頭をかくふりをし、小さくおはようと言った。

「もうすぐできるの。私の部屋少し散らかってて……洋服とか、昨日着て、脱ぎ捨てたまんまなの。フアンの部屋で食べてもいい?」

「あ、おう、いいよ」

 ごめんね、と言い残すと、パロマはするりと部屋に戻った。

 扉が閉まりしばらくして、フアンは思わずその場に座り込んだ。

「…………いやいや、あれは、反則……」

 朝から笑顔って。満面の笑顔って。心配してた矢先にあの笑顔でおはようって。

「はあぁ……」

 フアンはためいきをついた。あのお嬢さんは、どこまでこのおじさんを翻弄する気なんだろうか。

 そういえば、とフアンは彼女がこのアパートに来た時のことを思い出していた。あのとき、そうだ、あのときも彼女の笑顔に、俺は「それは反則だろ」と思った……まったく、どうやら俺はあの笑顔に弱いらしい――。

「……やめだ、やめ。考えるのやめた」

 フアンは立ち上がると、部屋を片付け始めた。散らかってはいないが、気分を紛らわすためだ。食器はアンナがくれたものを持っているはずだから……コップと飲み物だけ出しておけばいいか。

 しかしなぁ、とフアンはもう一度ため息をついた。

 お嬢様がこのアパートに来てもう四日目だ。いろいろあり過ぎてあっという間だった。しかし、少しずつ慌ただしい生活ではなくなっている気がする。

 このまま彼女は、案外すんなりとこの生活に慣れて行くのだろうか。

 食べるもの、住む場所、常識……様々なズレはあるだろうが、それでも彼女なら乗り越えて行くような気がする。家の問題も、解決しそうな気がする。根拠はないが、彼女には困難を乗り越える「強さ」があると、フアンは感じていた。

「……どっか行っちまうのかなー」

 思わず呟いてしまった独り言は、あまりに寂しすぎた。

 なんだ俺は。ガキか、ガキみたいだ。どっか行っちまうのかなーって。

 フアンは頭を抱えた。もう、なんなんだよ! どうしたんだよ俺!

「フアンー、ドア開けてくれる?」

「おっう!」

 突然の呼びかけに、変な返事になってしまった。扉を開けた先には、笑いをこらえているパロマの姿があった。

「おっう! って……」

 持っているお盆がかたかたと震えていた。

「うるせ」

 フアンはふんと下唇を突き出すと、パロマの持っているお盆をうけとった。白い綺麗なお盆の上には、おいしそうなトーストとハムにサラダがのっていた。

「おいしそう」

 フアンはそれを机まで運んだ。後ろからパロマもついてくるものだと思ったが、なかなか来ない。どうしたんだ、と振り返ると、パロマはその視線に気がついてはっと我に返ったようだった。

「ど、どした?」

「い、いやいや」

 パロマは恥ずかしそうに俯くと、掌を左右に振った。

「なんだよ」

 とからかい半分にフアンが訪ねると、先ほどのフアンをまねるように、パロマは口を尖らせた。

「笑わないでよ」

「なんだよって」

「もう顔がにやついてるわ……いやね、私、いままで結構男性には優しくされてきたの。でもね、なんかこう、朝食事を持って行って、それを何も言わずに受け取って運んでくれて、おいしそうなんて言ってもらえて……こういうのはなかったの。分かる?」

「まぁ、確かにこんなチャンスはなかったかもな」

 でしょ? とパロマは顔を赤くしながら、ぼそっと付け加えるように続けた。

「だから、なんか新鮮で、嬉しくって、びっくりしちゃって、思考が止まっちゃったの。それだけ! す、スープもあるから今持ってくる! 先席ついてて大丈夫!」

 パロマはそう言うと、部屋に駆け足で戻ってしまった。フアンは机にお盆を置くと、その手で口を覆った。ふっ、と笑いが漏れる。

 フアンは、今のパロマの反応がただの反則を通り越して、思いっきり可愛いでいいだろ、と思う事にした。

 なんだあの純粋すぎる子は!

 フアンは椅子に座り、俯いてくっくと笑った。パロマが目の前に座り、なにようと不満そうな声をあげる。

「いや……だってさっきの反応、可愛すぎるだろ?」

 思わず出たフアンの本音に、二人が硬直して赤面したのは言うまでもない。


 食後、二人は部屋に戻って各自の生活に戻った。ご飯は一緒に食べるのが定着すればいいな、とフアンは思っていた。実際、彼女との食事の時間は楽しかった。パロマは話し上手でもあり聞き上手でもあった。ころころと変わる表情も魅力的だった。たまに仲間と食事をするとき以外は、ほとんど家で一人食事をしていたフアンにとって、この生活の変化は嬉しいものだった。

 食事を一緒に取る、ということの楽しさを思い出した気がした。思い返せば、家を出てから数十年、独りで食事をすることがほとんどだった。一時期は同棲していた時もあったが……長く続いたことはない。一人でご飯を食べる生活に戻った時の喪失感は、今でも思い出すのが辛い。できるだけ、彼女が長くここにいてくれればいいのにな、と思っている自分にも気が付いていた。あくまで、それは食事を一緒にしてくれる人がいると嬉しい、という理由から来た気持ちだと自分を納得させていた。決して、彼女がどこにもいかなければいいのに、なんてそんなことは考えていないと自分に言い聞かせていた。

 フアンは煙草を吸おうと、窓際に置いてある箱を手に取った。残りは一本だった。

「あれ……」

 買い置きがあったかな、といつも煙草を置いている場所を探したが、なかった。買いに行かなければ。

 フアンは一服した後、パロマ、と扉に向かって呼びかけた。

「どうしたの?」

 パロマの声が返ってきた。

「煙草無くなったから買ってくるわ。なんかほしい物ある?」

「もしあればでいいんだけど、チョコチップ! クッキーを焼こうと思って」

「俺にもくれよ」

「もちろんよ。あったらでいいからね」

「オッケー。じゃぁ、行ってくる。外は危ないから、出歩くなよ」

「自ら見つけてくださいって外を歩いたりはしないわよー」

「そっか、じゃぁな」

「行ってらっしゃい」

 フアンはアパートを出た。少し早足になっていた。当たり前だ、パロマをひとりで残しておくのは心配だ。ずっと一緒に居るわけにもいかないし、部屋に残しておくぐらいだったら大丈夫だろうとは思うが……それでも心配だった。町の金持ちは携帯電話を持っているからすぐにでも連絡が取れるが、フアンは携帯電話を持っていなかった。パロマにも持っているか聞いたが、場所がばれる可能性があるから家に置いて来た、との事だった。何かあった場合、向こうから連絡をとる手段が無い……。

「うん、大丈夫だろ」

 ずっとそばにいて監視しておくわけにもいかないのだ。

 これから彼女は一人で暮らしていくかもしれないのに……。

「あ、アンナがいるか」

 そうだ、とフアンは小道を歩きながら手を叩いた。そうだ、彼女には周りに友だちもいる。何かあればアンナに頼むだろう。案外二人で話しをしているかもしれないな……。

 フアンは二人が仲良く喋っているところを想像した。そう言えばアンナは、女の話し相手が近くにいないと不満を漏らしていた。女性同士で盛り上がる話題もあるだろう。仲良くなればいいな、とフアンは思った。


 控えめなノックの音に、パロマは顔をあげた。読んでいた本を閉じ、相手が名乗るのを待つ。もう一度ノックの音がした後、くぐもった声が聞こえた。

「あれ、いないのかな? アルベルトだよ、昨日、フアンの部屋で会った」

 あぁ、アルベルト。フアンは髪の長い眼鏡をかけた青年を思い出した。少し不思議なあの人だ。いったいどうしたのだろうか。

「はぁい」

 パロマはドアを開けた。

 一瞬の出来事だった。ドアがぐんと押され、無理やりアルベルトが部屋に侵入してきた。思わず大声を出そうとしたが、アルベルトはすかさずパロマの口元を押さえた。

「んんっ」

 パロマはアルベルトの手を引きはがそうとしたが、右手を思い切りひっぱられ、バランスを崩してしまった。その隙にアルベルトはパロマの後ろに回った。パロマの口を左手で押さえながら、右手でパロマの右手を持ち、背中にまわして動けないようにした。それでもパロマは必死に抵抗し、アルベルトから逃れようとする。

「無理だってば。いくらなんでも俺男だよ、力負けはしない」

 耳元で囁くと、パロマは閉ざされた口の中で悲鳴をあげ、アルベルトの足を踏みつけた。予想外の攻撃にアルベルトはうっと歯を噛みしめたが、離すことはなかった。

「ちょっと落ちついてよ、力づくでどうこうしたいわけじゃないんだから」

 パロマはアルベルトの足を踏み続けたまま、もがくのを止めた。ふふ、とアルベルトは笑う。

「素直すぎて嫌になるね」

 うざったいな、と呟きながら、アルベルトはパロマの口の中に自分の人差し指と中指を入れた。声にならない声がパロマの口から洩れるが、アルベルトは気にも留めない。

「フアンさんは煙草買いに行ったんでしょ? だったら三十分は戻ってこないんだ、少し遠いところに店があるからさぁ……」

 やめて、とパロマは何度も言ったが、口の中でもごもごという音になるだけだった。

 どうしよう、と必死になって考えていた。力では勝てそうにもない。指を噛んでやろうとも思ったが、指でがっちりと上下の歯を固定されていて噛むこともできない。

 口の中で指がゆっくりと動く。気味が悪い。こいつは私をどうするつもりなんだろう?

 パロマは泣くのを懸命にこらえていた。こいつが何をしたいのかは分からないが、泣いたら負けだと思う自分がいた。

「僕は情報屋でさぁ、情報を売るのを仕事にしている。だから、集めるのは得意なんだ」

 アルベルトはパロマの耳元で話しはじめた。パロマは一瞬止めていた抵抗を再開しながら、アルベルトが何をしたいのかを探ろうと、黙って耳を傾けていた。

「君のことも調べさせてもらったよ。思ったより大切にされてきたお嬢さんみたいじゃないか。お金持ちの家の男性と何度も結婚されそうになったり? それは嫌になる、嫌になるさ……でも同情できなかった。なぜだと思う?」

 アルベルトはパロマの体をぐいと引き寄せると、床に押し付け、パロマの上に馬乗りになった。勇敢にもパロマはその隙をついて逃げだそうとしたが、アルベルトはすかさず両手でパロマの両手首をつかんだ。口が自由になった瞬間、パロマは叫び声を上げようとした。息を吸い、あらん限りの叫び声を上げようとする。

 しかし、その叫び声も、アルベルトの叫び声によって遮られてしまった。

「叫ぶなよ! 両手がふさがってんだ、その状態でどうやって口をふさげると思う?」

 にやり、とアルベルトが意地悪く笑った。パロマは瞬時に意味を理解し、唇をぎゅっと噛みしめると、アルベルトを力いっぱい睨みつけた。しかしその眼差しにも、アルベルトは満足そうな笑みを浮かべるだけだった。

「はっ、やっぱりね。お嬢様はキスを大切にしてるって聞いたんだ。求婚者がたくさんいたのに、どんなカッコイイ人とデートをしても、キスは嫌がったんだろ? 無理やり押し倒されても、キスは嫌って真っ先に言うぐらい……」

「黙りなさいよ」

 パロマの一言に、おっとアルベルトは嬉しそうな表情をした。

「まさか喋ってくれるとはね。恐怖で声も出ないんじゃないか、とか考えていたんだけれど」

「どいてよ。何が望みなの? お金? それとも私を元いた家に連れ戻して、たっくさん感謝されて名誉も一緒に貰いたいわけ? 勝手にすればいいじゃない。こんな周りくどい方法、馬鹿みたいよ。フアンがかえってくる前に、さっさと私をさらえばいいんじゃないの?」

「おいおい、馬鹿なんて言わないでくれよ。さっきの話の続きだけど、どうして君に同情できなかったか? それは、俺はお金持ちの男性と結婚できるチャンスを蹴れる、その環境に嫉妬したからだ。俺が命がけでなんとか毎日の生活を続けて行くために稼いでいるお金の、何倍も、何十倍もの金をあんたは持ってる。そしてずっとその生活が保障されてる。なのになんでその生活を捨てて、わざわざ泥棒に盗まれるんだ?」

アルベルトはもう笑っていなかった。パロマを押さえつける手が震えていた。


「馬鹿は、お前だよ」


 パロマはきつく唇をかんだ。なんでこいつに分かったような口をきかされなきゃいけないんだ? それでもパロマは何も言わなかった。何を言っても決して通じないと思ってしまったからだ。何を言っても、彼を逆上させるだけだ。

「むかついたんだ。だからあんたに、ここでの生活がどういうことかって言うのを教えてあげるよ。油断も隙もありゃしないんだ。こんなのんきに男を部屋に入れちゃってさ」

 パロマの脳裏に恐怖がよぎった。アルベルトの目がうつろだったためだ。

「いやっ」

 パロマは逃れようと身をよぎったが、逃げることはできなかった。自由な脚で何度もアルベルトの背中を蹴りつけたが、アルベルトはぴくりとも反応しなかった。

「離してよ!」

「離さないよ、ねぇ大きな声出さないでよ?」

「やめてよ! 離して!」

「やめないよ。こういう恐いことがあるから、早くおうちに帰ろうって思ってくれればいいなって、僕は思うんだ。君がこのアパートに住んでいること自体が許せない。君の来る場所じゃない。君のいるべき世界じゃない。お嬢様のお遊びに付き合えるほど、この世界は甘くないんだよ」

 アルベルトはゆっくり前かがみになると、顔をパロマの顔に近づけた。パロマはいやっと顔をそむけ、アルベルトと目を合わさないようにする。

「男は怖いんだよ? 皆フアンさんみたいに紳士じゃないし、ホセみたいに綺麗で大切な愛おしい彼女がいるわけでもない」

 パロマは何も言わなかった。何かを言うと、それが彼を余計苛立たせ、何をするかもわかったものじゃなかったからだ。

 三十分と言っていた。

 パロマは時間稼ぎをしようと試みた。

「じゃ……じゃぁ何? さっきからぶつぶつと何かを言っているようだけど、ようするにあなたは私に出て行ってほしいんでしょ?」

 横を向いたまま、パロマは目だけをアルベルトの方に向けた。アルベルトは黙ったまま、一旦顔を離した。そしてパロマを凝視し続けていた。冷たい視線にパロマはひるんだが、それでもパロマは喋ることを止めなかった。

「確かに私の考えは甘かったかもしれない。想像はしてたけど、実際に起きると違うものね。体が動かないし……もう、充分に怖いのは分かったわ。だから……」

 あぁだめだ言葉が続かない。パロマは言葉を詰まらせた。

 ここから出て行くから逃がして? そんな取引聞いたこともない。どうにかして時間稼ぎをしようとしても、挑発しかすることが無い気がしていた。受け入れてはだめだ、とんでもないことになる。しかし……無言を貫くと、彼は行動に出てしまう。それは避けたい。

 アルベルトはしばらく黙っていた。その後、パロマの言葉が続かないことを察すと、ふうとため息をついた。

「もういい?」

「離してよ」

 声が震えていた。アルベルトがにやりと笑い、思わずパロマは目を瞑った。

「離さないよ」

 ぐいと自分の両手が頭上に持って行かれた。はっとパロマは目を開き、前を見た。アルベルトは両腕をパロマの頭の上に持っていくと、パロマの両手首を交差させた。左手でその交差している場所を掴んだ。

 両腕は動かない。片手だけでもこの男の力に勝てないのか。パロマは下唇をかんだ。どうしよう、どうすればいい?

 アルベルトの自由になった右手が、自分の太ももに触れた。高い声が出た。アルベルトが、あははと楽しそうに笑った。

「止めて!」

「でかい声を出すなと何回言えば分かるんだ?」

 パロマは力いっぱい足をばたつかせた。体をひねり、手にも力を入れる。さすがのアルベルトも、押さえつけるのに必死だった。

「暴れるなよこの後に及んで! 別に傷つけようってわけじゃないんだぜ? 拷問を始めるわけでもないんだ」

「拷問じゃない、こんなこと! 離してよ! 離してよ!」

「黙れ!」

 アルベルトの右手がパロマの顔に伸び、大きな掌がパロマの頬に触れた。パロマの体が硬直した。

「最後にしてやろうと思ってたけど、腹が立ったから、まずはあんたの大切にしてるキスから奪ってやる」

「止めて」

「止めないよ。いっそのこと口でも開けたら? 気持ちよくしてやるからさ」

「最低っ……いやっ」

 パロマはぎゅっと目を瞑った。

 閉じた瞼の裏、暗闇の中に浮かんだのは、フアンの顔だった。

「助けて……フアン」

 咄嗟にそう言っていた。こらえていた涙が溢れていた。


 その時だった。ものすごい叫び声がした。自分の名前を呼んだ気がして、パロマは目を開けた。

「パロマ!」


 フアンの姿が目に飛び込んだ。フアンの名前を呼ぼうとしたが、うまく呼べなかった。フアンは猛スピードで駆けてくると、アルベルトの胸倉をつかんだ。アルベルトからの束縛が無くなり、パロマはするりと逃げ出すと、フアンの後ろに回った。足が震えて、そのままぺたんと床に座り込んでしまった。

「アル、どういうことだ――答えろ!」

 フアンはアルベルトの胸倉を両手でつかみながら、怒号をあげた。こんなフアンを見るのは、パロマもアルベルトも初めてだった。

 アルベルトは何も言わなかった。黙ってフアンの目を見つめていた。

「てめぇ、何もしてないだろうな!?」

「ふん」

 アルベルトは鼻で笑うと、肩をすくめた。

「それはどうかな」

 ばきっ、と醜い音が響いた。パロマが息を飲んだ。アルベルトは一瞬宙に浮き、そのまま床に背中から落下した。

「出て行けよ」

 静かな声だった。フアンの背中は怒りで震えていた。

「出ていけ、今すぐにだ」

 アルベルトは血が出ている口端を親指で拭うと、ゆっくりと立ち上がった。

「なんでそんなやつが、いいとこの何にも知らないお嬢さんがここに居るんだよ? 俺はむかついて仕方ないんだ」

「じゃぁお前は俺も否定したことになる」

 アルベルトは、フアンの言葉に目を細めた。フアンは続けた。

「俺の過去を知ってて、そういうことを言うのか」

「………………」

 アルベルトは黙って、部屋を出て行った。扉が閉められるのと同時に、フアンはパロマの目の前にしゃがみこんだ。


「パロマ……大丈夫か?」

 フアンはパロマに触れるのを躊躇した。こんな時、なんて声をかけていいのかも分からなかった。

 パロマは両腕を抱えながら、かたかたと震えていた。目からは涙があふれていた。

フアンはパロマをひとりにしたことを心底後悔した。用心するに越したことはないのに、俺としたことが……。

「ごめん」

 パロマはフアンの言葉に首を何度も振ると、そっとフアンの肩に触れた。

「ありがとう……私が不用心だったの」

「お前は悪くないよ」

「何にも知らないお嬢様なの、何をされてもおかしくないわ……」

「あいつにそう言われたのなら、気にしなくていい」

「………………怖かった」

 パロマはフアンを見つめながら、次々と涙をこぼした。何かを言おうとしていたが、のどにつっかえて言葉になっていなかった。抱きしめたい、とフアンは強く思ったが、今抱きしめられるのは嫌なのではないかと考えた。どうしよう、俺は、どうすればいい。

 動けないフアンの胸に、パロマがそっと額をつけた。気が付くと、フアンはパロマをそっと抱きしめていた。フアンの胸の中で、パロマは声を必死に押し殺しながら泣いていた。

「フアン……ありがと……」

「いいんだパロマ、本当にごめん、俺が悪いよ……」

 パロマは何度も首を横に振った。そのたびにフアンは強くパロマを抱きしめた。

「パロマ……」

 帰りたいなら帰ってもいい。そう言いかけたが、フアンは口を閉じた。

 そんな言葉を、今の彼女にかけるべきではないだろう。

「ごめん」

 結局それしか言う言葉が見つからなかった。

 彼女がそのたびに、首を振って「いいの」「大丈夫なの」と言うのが、自分にとっても彼女にとっても辛いと言うのが分かっていても。



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