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7 お嬢様を、お願い致します


 家に帰り、フアンの部屋で二人は食事をした。服を買った後、パロマ用の食料を購入したため、別々に食べてもよかったのだが、なんとなく二人で食べることになった。食事中にした話題は、今日の買い物の話や、メリッサの店の話、はやりの音楽や小説の話だったり、どうでもいい噂だったりした。

 食事が終わりかけた時、ノックの音がした。

 会話はフェードアウトした。だれだ、こんな時間に? フアンは訪ねてきそうな人を思い浮かべようとしたが、浮かばなかった。ホセとアルは仕事で忙しい時間帯だ。ホセは仕事が無い限りは大抵アンナの傍を離れたがらないし……ひとりでいるアンナが、パロマの様子でも見に来たのだろうか?

「誰だー?」

 フアンは扉に向かって叫んだ。それとほぼ同時に、扉の向こうではっと息を飲む音がした。その声は、扉を挟んでもよく聞こえた。

 二人は黙って返事を待ったが、相手は返事を返す気が無いようだった。

「一応隠れてろ」

 フアンはパロマに小声でそう言うと、ベッドを指し示した。隠れる場所にしてはお粗末だが、咄嗟に思いつく場所がそこしかなかった。

 パロマは一度頷くと、ベッドへ向かった。フアンはパロマのぶんの食器を洗面台の下にある棚にしまい、静かに扉に近づいた。

 のぞき穴を見ると、栗色の髪の毛をした男がそこにいた。スーツを着ていることから、フアンはやばいかもな、と危機感を覚えた。十中八九パロマの関係者だろう。俺の知り合いに、スーツで遊びに来るような奴はいない。

「誰だ?」

 フアンは扉から一歩下がり、もう一度ドアの向こう側にいる男に訪ねた。しばらくの沈黙の後、扉の向こうから弱々しい返事が返ってきた。

「あなたは……誰ですか」

 思わぬ返事に、フアンは思わず前につんのめった。

「……俺はここの住人だが?」

「一人住まいでしょうか……」

 男にしては高い声だった。声はやや上ずっており、もしかしたらこいつ泣きそうなんじゃないか、とフアンは思った。

「まぁそうだが……」

「こちらに……パロマ様はいらっしゃいますか」

 フアンの背筋に寒気が走った。やばい。こいつ関係者だ。静かに、平静を装ってフアンは答えた。

「誰だ、それは?」

「いらっしゃいますよね……?」

 弱々しいが今度ははっきりと、扉の向こうの男が言った。

 なんだ、何なんだこいつ?

「何言ってるんだてめぇ、よくわかんねぇぞ?」

 フアンは怒ったふりをして、扉をどんと殴って見せた。

「分かりやすく言えよ」

これで逃げてくれないか、と思ったが、男は引く様子を見せなかった。

「いらっしゃいますよね? どういうことでしょうか? お話を伺うだけです、本当です。お嬢様はいらっしゃいますよね?」

「何言ってるのかさっぱりだ! 誰の知り合いだお前? 俺に何の用がある?」

「貴方に用はありません……いえ、場合によってはあるかもしれませんが」

 男は静かな声で言った。弱々しさは消えていた。変わりに静かな怖さがその声を包んでいた。

 なんだこいつ?

「シャルル?」

 フアンの後ろから声がした。フアンが振り返ると、シーツにくるまって隠れていたパロマが、上半身を起こしていた。顔には、驚くことに笑顔が浮かんでいる。

「シャルル?」

 もう一度、今度は少し大きな声でパロマは言った。ドアの奥でお嬢様! と叫ぶ声がした。

「フアン、大丈夫、昨日言った私のお付きだから」

「あぁ」

 フアンは思い出していた。あの、どうやってやったかは知らないが、警察捜索をさせないぐらいやり手のシャルルか!

 フアンは扉を開けた。少し開くと同時に、その隙間を縫って男は部屋に入ってきた。フアンには目もくれず、真っ先にパロマのところへ駆けて行った。

「おおお」

 あまりの勢いに、フアンは圧倒された。扉を閉めるころには、シャルルはパロマの手を握り、お嬢様! と叫んでいた。

「お嬢様、あぁご無事で。本当に本当に心配したのです」

 シャルルは跪き、パロマの手を力強く握り、そこに額を押し付けた。ぼろぼろと涙を流している。

「ごめんね、連絡はしないつもりだったの」

「えぇ、分かっております」

 シャルルは顔をあげると、目に涙を浮かべながら語り始めた。

「お嬢様が居なくなって屋敷は混乱いたしましたが、例の荷物が無いことで私はお嬢様の作戦が成功したのではないかと察しました。発信機もちゃんと作動しておりまして、私は喜びました、それはもう嬉しく思いました。旦那様方にはうまくいってあります。警察も捜索には乗り出していません」

 発信機! フアンは声に出さずに驚いた。どうりで泣きそうだったわけだ、彼は、彼女に会えることを確信していたのだ。

「ありがとうシャルル。私あなたを信じてたわ」

 パロマの「お嬢様」の顔を見て、フアンは思わず頬を赤らめた。意外な一面を見れた喜びのような、戸惑いのような感情がフアンを包んでいく。

「当然のことをしたまでです、お嬢様」

「シャルル、あの人が私を盗んでくれたのよ」

 シャルルは、首をぐるりと動かしフアンを捕えた。思わずフアンは身をのけぞらせた。

 しばらくシャルルと見つめあうと、いきなりシャルルが立ちあがった。フアンは目を見開いた。家に入るなり跪き、お嬢様お嬢様と言っていた弱そうなその男は、フアンが思っていたよりもずっと長身だったからだ。

 シャルルは凍りつくフアンに歩み寄った。ホセよりも高い……二メートル近くあるんじゃないか? あっというまにすぐそばまで来たシャルルを、フアンは見上げた。細身の男は、涙をぬぐうと、ゆっくりとその長身を折り曲げた。

「先ほどはご無礼をいたしました。この部屋に入ってからも早々、取り乱してしまって申し訳ございません。どうかお許しを」

「い、いえその、いや、うん」

「私、シャルル・ルナと申します。お名前をお聞きしても?」

 ここで初めてシャルルは顔をあげ、じっとフアンを見つめた。それはまるで試すような目つきだったし、どこかまだ自分を疑っているのだなとフアンは感じた。

「フアンだ。名字は忘れた、すまないな」

「いえ、フアン様……詳しくは存じませんが、屋敷からの脱出を補助してくださったのと同時に、今までお嬢様を守ってください、ありがとうございました」

「あー……おう。というか俺は状況を読みこめていないのだが、お前はなんなんだ? お嬢様の脱走に賛成なのか?」

「はい。詳しくお話しいたします。ですがその前に一つだけ……」

 シャルルはフアンを見下ろすと、無表情で静かに言った。

「なぜお嬢様はベッドの上に?」

「か、かか、隠れてたんだろ! お前が不審者だと思ったから! あほか!」

「なぜ取り乱すのです」

 シャルルはぐっと顔を近づけ、フアンを脅した。

「貴方を信用したい。まさかそのような、いかがわしいことは」

「していない! いくつパロマと年が離れてると思ってるんだ!」

「そのようなことは理由になりません」

「していないったらしていない! くそっ、どいつもこいつも! なんならパロマに訊いてみろ! パロマ! おいパロマ!」

「止めろお嬢様にそんな、そんなことを、そんなことを」

「だったら信用しろ!」

「……分かりました」

 シャルルは不満そうに答えると、背筋をぴんとのばし、振り返った。

「お嬢様、お時間はございますか?」

「たんまりとあるわ」

「では今から、現状をご報告いたします」

 そう言うとシャルルはフアンに向き直り、少しばつの悪そうな顔をすると、軽く頭を下げた。

「申し訳ございません、お嬢様のことになるとついカッとなってしまって……」

「まぁ、あんだけ可愛いお嬢さんだからな……っと」

 ぎろりとフアンは睨まれ、言葉尻を濁して苦笑した。


 パロマとフアンはベッドに座り、シャルルの話しを聞いた。シャルルは「私はお嬢様のお付きですから」と、着席することを拒んだ。椅子に座って聞くよりも楽に聞けるからと、パロマはフアンと共にベッドに座った。シャルルは二人の前に姿勢よく立つと、演説をするように語り始めた。

「まず、私はお嬢様の屋敷脱走計画に賛成しております。私はお嬢様の小さなころからずっと、お付きをさせていただいております」

「ちょっと待て、お前いくつだ? パロマと大差ないだろ」

 横やりを入れるフアンに嫌な表情ひとつ見せず、シャルルは微笑んだ。こいつ、お嬢様の前だと大人しくなるんだなとフアンは気が付いた。よし、これで長身目線から怒られる心配はなくなるな。

「私はお嬢様と四つ年が離れております。私は幼少のころからずっと、トーレス家で働かせていただいているのです」

「彼のお母様が、家のメイドさんなのよ」

「なるほど……すまん、つづけてくれ」

「はい」

 シャルルは微笑を携えたまま、話を再開した。

「お嬢様は、フアン様もご存じのとおりあの屋敷から出ることを切望していらっしゃいました。お嬢様の気持ちは痛いほど理解しているつもりですし、お嬢様が望むことは私も望むことなのです。お嬢様が泥棒に盗まれるという計画を、私も一緒に考えさせていただきました。

 しかし、正直に申し上げますと、夢物語だとも思っておりました。しかし、脱出用の荷物を用意しておくなどの準備をされていて本当によかった。現実として、お嬢様は見事作戦を成功させたのですから」

「あなたもうまくやってくれてるのでしょ? 作戦通りに」

「もちろんです。フアン様にあの後の私の対応をお教えいたします。

 お嬢様の荷物の中には発信機が仕込まれています。これはお嬢様が泥棒に助けを求めた際に、誘拐されてしまった時の予防でして、押しますと緊急事態だとこちらが判断し、すぐさまお嬢様救出へ向かえるようにしてありました。今回はそれを押すことなく、見事脱出されたようで何よりです」

「お父様に説明は?」

「はい。私はパロマ様の味方ですが、旦那さまにはお嬢様が家出をしようとしていることを知っていて、こっそり鞄の中に発信機を仕込んでおいた、ということにしてあります。警察も含めて全面捜索、なんて大事になりますと家の評判にもつながりますから、私がお嬢様を説得してくる形にしてあるのです」

「はぁー、なるほどね」

 フアンは顎ひげをさすりながら、彼らの作戦を聞いていた。

 よくもまぁ、こんな夢みたいな作戦を真剣に考えていたこと。

 まぁ叶えちゃったのは俺ですけども。

「これも作戦通りなのよ、フアン。凄いでしょ?」

「まぁな……しかしどうするんだ、シャルルさん。お嬢さんとずっと交渉してるふりってわけにもいかないだろ?」

「それはねフアン」

 シャルルの代わりに、パロマが返事をする。

「シャルルを通じてこれから長い論争をするつもりなの」

「……なんだそりゃ?」

「面と向かってあの屋敷から出たいって言っても聞いてくれなかったから、家出をしたうえで、もう帰りたくないってごねるのよ」

「おいおい、それでどうにかなるのかよ?」

「どうにかするのよ。もう絶対に私はあの生活に戻りたくなんかない」

 パロマは立ち上がると、シャルルを通り越し、部屋の壁にある扉から自分の部屋に戻った。引き出しを開ける音がして、その後すぐにパロマはフアンの部屋に入ってきた。手には白い封筒が握られていた。

「シャルル、これをお父様に」

「かしこまりました」

 シャルルは封筒を受け取ると、深々と頭を下げた。

「昨日の夜に書いたの」

 パロマはフアンに目配せをすると、シャルルを見上げた。フアンと並んでもフアンの口元に頭のてっぺんが来るほどの背差があるパロマは、シャルルと並ぶと頭ひとつ分以上の背差があった。しかしその姿には威厳があり、フアンはパロマがお嬢様だったことを再認識した。

「ずっとここに居るわけにもいきませんので、私はそろそろ帰ります」

「分かったわ。悪いわね、お父様に怒られるかもしれない」

「どうか気にしないでください。お嬢様が早くあのお屋敷を出て、自由になるのが私の願いでしたから」

「ありがとうシャルル」

 パロマは、シャルルの手にそっと自分の右手を乗せた。

「よろしくね」

 そんな二人の様子を見て、フアンは思わず目をそらしてしまった。

 な、なんでそらす?

 自分の行動に自分でも驚いたが、簡単なことで、恋人同士の大切な時間を見てしまったような気がしたのだ。


 フアンはちらりとシャルルを見る。シャルルの表情は、穏やかで、大切な人を見る目そのものだった。この二人は恋人同士なのだろうか? フアンはそんなことも考えたが、多分違うだろうとすぐに答えを出した。恋人同士なら、脱走計画に加担したりはしないだろう。したとしても、この状態なら、二人で逃げ出すはずだ。恋人だなんて、そんなことは、ない。

 そうしてほっとしている自分に気が付き、フアンは驚くのを通り越して自分に呆れてしまった。

 なんでほっとしている? ばかか、俺は。久々に女性と仲良くなれたからって喜んでいるだけだ。自分は彼女のことが好きなのか、そうじゃないのか、彼女は俺のことをどう思っているのか、なんて気が付いたら考えている自分に嫌気がさした。生活環境の差、年齢差を考えろっていうんだ。馬鹿な俺。

「では、いきなり失礼しました。私はこれで」

 シャルルは一礼すると、手紙を胸ポケットに入れた。そしてすたすたと、部屋を出て行った。

「まっ」

 シャルルが部屋のドアを閉める瞬間、フアンは立ち上がっていた。どうしたの? とパロマが首をかしげる。

「あー……ちょっとごめんパロマ、少し、あいつに聞きたいことがある」

「え?」

「追いかける。ちょっと待っててくれ」

「私は一緒に行かなくていいの?」

「男同士の話だとでも思ってくれ」


 フアンはシャルルを追いかけていた。部屋を出て、階段を降りようとしていたシャルルを呼びとめた。

「おい」

 シャルルはフアンの声にぴたりと足を止めると、眉間にしわを寄せて振り返った。

 うっ、とフアンも歩みを止めた。やっぱり俺、こいつに嫌われてるよなぁ……。

 しかし勇気を出して、フアンは前に一歩進んだ。そしてシャルルの目の前に立った。シャルルは階段を一段降りかけていたため、目線がほぼ同じになる。

「あ……のよう」

 俺は何を言おうとしたんだっけ。

 フアンの頭は真っ白になった。何も考えずに部屋を出たことは自分でもわかっていた。何かをこいつに言いたい、そんな気持ちがあったのは確かだ。だが、何を言う? 何の宣言を彼にしたいんだ? フアンは口ごもり、何も言えずにいた。

 口を開いたのはシャルルだった。眉間のしわは残ったままだったが、眉がハの字に下がり、寂しそうな表情になった。

「私は悔しい」

「え……」

「私はお嬢様に幸せになってほしい。でも、彼女が幸せになるために、屋敷を抜け出して一緒に逃げようと言えなかった。私には家族がいる。家族とお嬢様、どちらも大切だ。ふたつを天秤にかけて、重さが均衡してしまった。お嬢様のことだけど考えることができなかった時点で、私が彼女を助ける方法が、彼女を幸せにする方法が、こんな方法しかないことに絶望した」

 シャルルは自分を責めるように言った。唇をかみしめ、目を瞑った。そうしてひとつため息をつき、目を開いた。視線は足元を向いていた。

「まさか本当に彼女があの屋敷を出ることができるなんて、思ってもみなかった。素直に喜べない自分が何よりも嫌いだ。そして」

 シャルルはフアンに目を合わせた。栗色の目が、溢れそうな涙のせいで潤んでいた。

「貴方を恨んでしまっている自分も嫌いです」

 フアンは口を開けかけたが、かける言葉も見つからなかった。うまく自分の感情を言葉にすることもできなかった。

 シャルルは頭を下げ、そのままフアンに言った。

「お嬢様を、お願い致します。急なお願いをして、迷惑をかけているかもしれません。しかし、あなたは悪い人ではないと私は思っています。どうか、彼女の我儘をもう少しだけ聞いてあげてください。少しでも助けてあげてください。もし彼女がこの町を出たがったら、送ってしまって構いません。何か問題がありましたら、私にお申し付けください。彼女がこの町を出るまで、私はここに通い続けますから」

 シャルルの表情は、長い髪の毛に隠れてしまって見えなかったが、地面に落ちた二粒の雫から、その表情を予測できることはできた。

 フアンは頭を下げた。シャルルは顔をあげ、驚いたようにフアンを見つめたが、深く頭を下げているフアンに、その姿は見えなかった。

「俺は、泥棒とかいう、あんたから見たら馬鹿みたいな方法で生計を立てている。しかし、俺には俺なりのポリシーやプライドもある。盗み出した女性を、俺の好きなようにしてやろうなんて考えてもいないし、俺だって彼女を助けてやりたいと思ったから盗み出したんだ。しっかりと最後まで、彼女のサポートをする」

 フアンは顔をあげ、シャルルを正面から見つめた。

「あんたの代わりに、彼女の傍でできることはする。ただ、あんたにしかできないこともある。彼女はそれを頼りにしている。これからも彼女の助けになってくれ」

「……ありがとう」

 シャルルは寂しそうに笑うと、早足で階段を下りていった。

 姿が見えなくなる一歩手前で、あ、とシャルルは足を止めた。

「お嬢様に、短い髪も似合っていたと、お伝えください」

「……喜ぶよ」

 フアンの言葉に、シャルルは答えず、姿を消した。



 フアンがシャルルを追いかけて行った数秒後、フアンの部屋の扉が開いた。戻ってきたのかな? とパロマは思ったが、部屋に入ってきたのが見知らぬ人物だったので、驚いて身構えた。

 小柄な、前髪の長い男性だった。眼鏡の奥の瞳がパロマを捕え、にこりと笑った。

「パロマさんだ。あ、構えなくていいよ。ここの住人だから」

 最後の言葉に、パロマは少しだけ安心したが、警戒は解くことができなかった。

「アルベルトです。アルって呼んでね」

 パロマは一度頷いた。返事はしなかった。アルはパロマを上から下まで舐めるように見つめると、ふんと鼻で笑った。

「フアンさんも何やってんだか」

 小声で呟いた言葉に、パロマは思わずカッとなったが、すぐに気持ちを静めた。彼は何者なのかもよく分からない。反応しては、だめだ。

「特に用事はないんだ。パロマさんってどんなもんか見てみたかっただけ。あ、本当は仕事に出かけてる時間だから、僕が来たってこと、フアンさんには秘密ね。いきなり失礼しました」

 アルベルトはそう言うと、もう一度パロマを舐めるように見て、部屋を出て行った。

 パロマはぺたんと床に座り込んだ。心臓がばくばく鳴っていた。

「こ、怖かった……何かと思った」

 自分の想像していないことが、こうやって日々起こっていくのだ。そう考えるとパロマは怖くなり、泣きだしそうになった。慌てて拳を握り、足を勢いよく叩く。

 強く生きなきゃ。今までの甘ったれた自分じゃダメ。

 パロマは立ち上がった。そして目を手で擦ると、ひとつ伸びをした。

 がちゃり、と扉が開いた。思わずまた身構えたが、今度はフアンだった。

「よかった、おかえり」

「ん? どうした?」

 フアンの心配そうな表情に、パロマは先のことを言うべきか迷った。パロマは少し悩んだ後、「なんでもないの」と笑顔を作った。特に言うべきことではないと判断したからだ。

「そうか」

 フアンは別に気にとめた様子もなく、机の上に置いてあるカップに手をのばすとそれを一口飲んだ。

「あのよ」

「なぁに?」

「シャルルさんが、お前の髪型可愛いって伝えてくれって」

 フアンの言葉に、パロマは寂しそうに笑った。自分の紙を撫でるように触り、そっか、と呟いた。

「彼ね、いつもお嬢様の髪は本当に綺麗ですねって、いろんな髪型にして遊んでくれたのよ」

「そうなのか」

「うん。でも、短くても可愛いって言ってくれるなんて、なんか嬉しい……だめだ、フアン、ちょっと部屋に戻るね。食器、どこにある?」

「いいよ、俺が片付けとくよ」

「ありがとう」

 パロマは目頭を押さえながら、部屋に戻って行った。

 今の姿をシャルルに伝えたら、彼は喜ぶのだろうか、それとも悲しむのだろうか。フアンはそんなことを考えながら、食器を片づけ始めた。片付けはなかなか終わらなかった。



 シャルルが来た日は、パロマが部屋に戻ってから、そのまま二人が顔を合わすことはなかった。フアンは気を紛らわすために読書をしていた。本当は町に出て、パロマが探されていないか、何か異変はないか、そんなことを調べるべきだったのかもしれない。それでも体が動かなかった。動きたくないと言っているように、重かった。また、あのお付きならきっとうまくしてくれるだろうと言う、人任せな考えもあった。

 パロマのことで正直頭がいっぱいだった。彼女、これからどうするつもりなんだろうか? 俺は彼女のために何をしてあげればいいのだろうか? 俺ができることなんて、そもそもこれ以上あるのだろうか。彼女はこれから、どうしたいのだろうか――。

 少しして、フアンはパロマの部屋に通じている扉の下に何かがあることに気が付いた。雑誌を置き、椅子から立ち上がり、フアンは扉に近づいた。それは手紙だった。そこには綺麗な文字で「今日はいろいろありがとう。取り乱してごめんなさい。疲れてしまったので寝ます。本当にありがとう。明日もしよかったら、一緒に朝御飯を食べましょ。私が作るね。起きたら扉をノックして。じゃぁ、おやすみ。パロマ」と書かれていた。

 フアンはその手紙を二度読むと、机の上に置いた雑誌の下にそれを挟んだ。

 寝よう。

 フアンは考えることに疲れていた。

どさり、とベッドにダイブすると、フアンはそのまま眠りについた。



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