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5 ごめんなさい


 フアンが目を開けると、目の前に男の顔があった。

「うおっ」

 思わず驚いて声を挙げる。

「起きた」

 端正な顔立ちの男は、白い歯を輝かせて笑った。耳にたくさんついているピアスよりも、きらきらと輝いている。

 その男の後ろには、真っ白な天井が見えた。水色のシャンデリアがぶら下がっている。

「……おはよう、ホセ。ここはお前の部屋か?」

「うん。アンナが心配してたよ、まさか気絶するとは思ってなかったって」

 あの馬鹿力が。フアンは目をこすりながら、朝の出来事を思い出した。そして数秒後、あっ、と口を押さえる。パロマ、パロマはどうなった?

「パロマは?」

「アンナの手伝いしてる。手際が良くって、お嬢様のイメージが変わったって言ってたよ。本当にお嬢様なのか? とも言ってた」

 ホセはにやりと笑った。ふん、とフアンは顔をそらす。

「疑いたきゃ疑え。どうせなら俺の妹だ、とでも言っておけばよかった」

「そんな嘘、すぐばれるでしょ」

「まぁな。朝飯は?」

「もうできるよ」

 そうか、とフアンは寝ていたベッドから降りた。

「動ける?」

 背の高いホセは、フアンより高い目線から、心配そうな視線を投げかけた。ったく、いつ見ても綺麗な顔してやがる。

「動けるよ、大丈夫」

「そう。アンナー、朝御飯できたー?」

 ホセの問いかけに、アンナの叫び声が答えた。

「もうできてるー! あの馬鹿泥棒は起きたかー?」

「馬鹿泥棒とはなんだ、この勘違い女ー!」

 フアンの怒り声に、ちいさくやべっ、とアンナは言った。その横でパロマがくすくすと笑う。

 フアンはホセについて、食卓まで移動した。

「しかしこの家は、ほんとに白と青しかねぇな」

 白い壁に青いソファ、青いカーテンに白色の窓枠。青や白の種類は様々で、統一感があり、見ていて飽きない。その部屋のインテリアが、ひそかにフアンは気に入っていた。しかし、言うのも癪なので黙っている。

「アンナの趣味だからね」

 ホセは微笑した。


「ごちそうさま」

 フアンは食事を平らげると、オレンジジュースを一気に飲み干した。

「おいしかった?」

と、のんきにアンナは訪ねる。

「おいしかった、あの暴力女が作ったとは思えない。あ、パロマが作ったのか?」

 フアンの向かいに座っているパロマが、私は盛りつけをしただけ、と舌を出した。

「悪かったって、フアン」

 アンナは決まりが悪そうに言った。銀のフォークを置き、困ったようにホセに視線を向ける。

「フアンが許してくれない」

「アンナが暴力をふるいすぎたんだよ」

 恋人の冷静な言葉に、アンナはうう、と俯いた。

「ごめんフアン……許して」

「許してやるかわりに、パロマの面倒を見てくれ。女性にしか相談に乗れないことだってあるだろ。しばらくは俺の隣の部屋に住むかもしれないから、そこんとこ頼むよ。あ、俺の隣の部屋、使っていいか?」

 フアンの言葉に、アンナはきょとんとしていた。その横顔を、パロマが心配そうな目で見つめる。

「い……や、別に住むのはかまわないけどさ、パロマはここの住人になるのか?」

「それは本人に聞いてくれ」

 アンナとホセの視線が、パロマに注目した。パロマは食べかけのパンを加えたまま硬直する。

「……まぁ、いいや」

「えっ」

「ここらへんは、訳ありが多いからな。住みたきゃ住めばいい。私の管理下だからね。何か困ったことがあれば、いつでも私に言いなよ、なんとかしてやれることならするから。それとフアン、分かってるだろうけど、盗みを働いたお前の責任でもある、しっかり面倒見なよ」

 真剣なアンナの口調に、フアンは無表情で頷いた。

「分かってるよ」

「手は出しちゃだめだよ、フアンさん」

 からかったホセのすねを、机の下でフアンは思い切り蹴飛ばした。机の下で、鈍い音が響く。

「でっ! なんで横に座ってるのにそんな的確な攻撃が……」

 ホセは悶絶した。


 朝食を食べ、片づけを済ませた後、四人はすぐにパロマの部屋の清掃作業を始めた。

 まず部屋のものをすべて外に出し、埃まみれの部屋を徹底的に掃除した。狭い部屋だが、長年使っていない部屋だったので、重労働だった。

 その後、家具を掃除し、パロマの希望通りにその家具を部屋へ入れた。

 家具の中には、どこからともなくアンナが持ってきたものもあった。白いレースのカーテン、姿見、小さなランプ、たくさんの私服……。きっとほとんどが拾ったか、あるいは誰かが盗んできたものだろうとフアンは思ったが、黙っておいた。

 パロマの部屋ができあがったころには、すっかり日が暮れていた。

「じゃぁ、おつかれさん」

 アンナは雑巾の入ったバケツを持ち上げると、念を押すようにパロマに言った。

「何かあったら言いなね」

「はい」

「何か、あったら、だよ」

 その言葉の意味をパロマは理解できなかったようで、にこりと笑うと困ったように首をかしげた。ホセはそっとアンナの持っているバケツを取ると、きらりとひかる笑顔で叫んだ。

「フアンさんが、なんかしてきたらってことだよ、パロマちゃん!」

「ホセ、てめぇ!」

 爆笑するカップルは、逃げろと叫びながら階段を駆け上がった。フアンはあのやろう、と眉間にしわを寄せる。そんな姿を見て、パロマは楽しそうに笑った。

「なんかごめんな、あぁいうの慣れてないだろ」

パロマはベッドにダイブし、うつぶせのまま顔だけフアンに向け、にんまりと笑う。

「嫌だったら嫌って言うわ。面白いから笑ってるの」

「ならいいんだがな」

「それにフアンは、私に手を出したりなんかしないわ」

「……ベッドに寝転がった状態で、そんなセリフを言うもんじゃねぇ」

「ふふっ」

 パロマはむくりと起き上がり、ベッドの端に座った。

「ごめんなさい」

「……謝ることでもないような」

「よく分からないの」

 何が、と聞こうとしたが、フアンは口をつぐんだ。パロマが少しさみしそうに、窓の外を眺めていたからだ。

「――疲れたか」

「久々にこんなに動いたから」

 そう言って少し微笑むと、パロマはじっと夕焼け色の空を眺めていた。そんな姿を、フアンは閉まっている扉に寄りかかりながら見ていた。

 その扉の後ろには、フアンの部屋があった。

「なぁ」

「ん?」

 フアンの呼びかけに、パロマの視線が動いた。夕焼け空から離れ、フアンを見つめる。

「本当にいいのか?」

「何が?」

「……この部屋でさ」

「好きよ。夕日がよく見えるもの」

「そうじゃなくて……」

 パロマはまた空に視線を戻すと、クスリと笑った。

「一人になりたいけど、誰か傍にいてほしいの。変な矛盾よね。あの家からは出たかった。でも一人ぼっちは嫌なの」

「…………そんなもんだよ、最初は」

「え?」

「いや、なんでもない」

 フアンは振り返り、ドアノブに手をかけた。

「今日、夕飯どうするとか、決まってる?」

「何も」

「だろうな。食料の買い出しとかは、明日行こう」

「ありがとう」

「俺の作った夕飯でよければ、今日はパロマの分も作るけど、いるか?」

「いる! というか私が作るわ!」

「お前は休んでおけ。じゃぁ、ご飯ができたら呼ぶよ」

 フアンは静かに扉を閉めた。パロマはしばらくその扉を眺めていた。

「よく分からないの、ほんとに」

 パロマの小さなつぶやきは、そっと夕焼けに溶けるように、誰にも知られずに消えて行った。


「お、女の子って、なんか嫌いな物ってあるの?」

 フアンの質問に、アンナはふんと鼻で笑った。

「なんだなんだ、面白いな。そうだなぁ、例えば虫とか?」

「違う違う、食べ物」

「知るか! 個人によりけるだろ! がんばれよお前!」

「がんばるよ! 俺、彼女のためにご飯作ろうと今必死なんだよ! ねぇパスタは好きかな?」

「好きなんじゃないの?」

「ほんと?」

「知るか!」

 二人の会話を横で聞きながら、腹を抱えて笑っているのはホセである。

「ホセ! 俺は真剣だぞ!」

「真剣なのが面白いんでしょ、ふふふ。いきなり俺らの部屋に来たと思ったら、質問があるんだけどって、もじもじもじもじ、あっはは! エプロン姿で!」

「ホセ、もうよしてあげて、私も面白くて笑いそう、笑ったら多分数分間は止まらない」

 にやつくアンナを、フアンは睨みつけた。

「変な質問して悪かったな! パスタ作るもん!」

「もん! じゃないよ、三十すぎたおっさんが!」

「うるさい! 三十過ぎたおばさん!」

「おおおおおおいフアンてめぇ!」

 アンナの怒号を背に、フアンは階段を下りた。もういい。多分パスタは好きだろう。

 ふくれっ面のまま、どたばたと階段を下りていると、下から「フアンさん?」と声がした。この声は……「どした、アルベルト?」

 フアンの部屋の前に、小さな青年が立っていた。赤茶色の前髪は長く、目が隠れていてあまり見えない。

「あぁよかった、フアンさん、女の子かくまってるんだって?」

「誰から聞いたんだ?」

「ホセからメールで、帰ってきなよ、面白いもんが見れるよってさ」

「あの野郎め」

 フアンは扉をあけると、どうぞとアルベルトを招き入れた。

「ありがと、よかったら飲み物ちょうだい。結構走ったんだ」

「はいよ」

 フアンは飲み物を入れながら、アルベルトをちらりと横目見た。息は上がっていなかったが、首筋には汗がだらだらと流れている。

 オレンジジュースの入ったコップを差し出すと、アルベルトは一気にそれを飲みほした。

「ビールのように飲むな」

「ペドロ・トーレス」

 アルベルトはフアンの言葉に返事はせず、人物の名前を口にした。

「なんだって?」

「かくまってるお嬢さんの名前は、パロマ、だろ」

 フアンは大きく目を見開いた。

「さすが情報通、なんてもんじゃねぇな。ペドロってのは、パロマの父親か」

「そう。昨日でしょ、連れさらったの」

「ついてきたんだよ」

「ともかく。町では結構な噂になってる。どうしてか分かんないんだけど、警察が動いたりとかそういうのはなくて、ただ居なくなったらしいっていう噂だけが広がってるよ」

「そうなのか? 妙だな、俺はすぐに警察が動くと思ってたんだが」

「ね。しかし、警察が動いたら、フアンさんは真っ先に犯人扱いだよ? 冷静と言うか、鈍感と言うか」

「俺は脅されたんだ、警察につかまっても、お嬢様が弁解してくれるさ」

「そうかなぁ」

「そうさ、それだけは確実」

「凄い信頼関係だね。あ、そうだ、あと写真が出回ってた。見つけたら報酬もらえるんじゃって騒いでる輩もいる」

「まじかよ」

「まじだよ。一応そんなの嘘だよ、公式に発表されたら行動を起こそうぜってそいつらに言いまわってはいるけど」

「助かる、ありがとよ」

 アルベルトは右腕の時計をちらりと見ると、ごめんとフアンにグラスを返した。

「僕、仕事に戻んなきゃ。とりあえず伝えたよ」

「わざわざ伝えるために、仕事抜けてきたのか」

「うん。じゃ、また。今度その子、紹介してね」

「おう」

 アルベルトは右手をあげると、駆け足で職場に戻って行った。といっても、フアンは彼がどこで仕事をしているのか知らない。危ない仕事をしているかと思えば、窓ふきのバイトをしていたこともある。情報に詳しいくせに、自分の情報は漏らしたがらない、少しミステリアスな住人だ。

 どうしよう、取りあえず起こすか。フアンはパロマの部屋に繋がるドアをノックした。返事はない、寝ているようだ。しかし、今は緊急事態だ。


「パロマ」

 もう一度ノックすると、部屋の奥から返事が聞こえた。何かをもごもごと言っている。かわいいな、と思わず笑みがこぼれたが、今は和んでいる場合ではない。

「フアン、ごはん?」

「いや、ちょっといいか?」

「うん」

 がちゃり、と扉が開いた。目をこすりながら、パロマはフアンを見上げる。

「なぁに?」

「かっ……」

 かわいい! ではなくて。

「か?」

「いや、いやいや。パロマ、落ち着いてきけよ」

「はい」

「お前が家からいなくなったって噂が広まっているらしい。でも、警察は動いていないんだって。どういうことか分かるか?」

「うん」

 パロマは驚く様子もなく、一度頷くと、フアンのベッドに腰かけた。どうやらパロマはベッドが好きらしいな、とフアンは思った。

「どういうことなのか、教えてくれるか?」

「シャルルの根回しだわ」

「シャルル?」

「ルルの……あぁ、ごめんなさい。私のお付き」

「ほう」

 お付き、とはまた、縁のない言葉が飛び出て来たな、とフアンは思った。

「ルルはね、私のこと良く分かってくれるから、お嬢様が逃げられるチャンスがあるならいつでも逃げてください、私がどうにかしますから、って言ってくれていたの。多分警察が動かないのも、シャルルがどうにかしてくれてるからなの。ルル、頭いいから」

「やるな、お付き」

「うん」

「まぁ、でも一応噂にはなってるんだと。それでな、お前の写真も出回っているらしいんだよ。見つけたら報酬もらえるんじゃないかって考えているやつらがいる」

「え……」

 パロマの顔が、とたんに真っ白になった。目が右往左往している。

「そ、それは困ったわ。そうか、そういうことが」

「あぁ、ここにいる奴はお前のことを売らない。それは俺が誓う。でも……どうする? 外に出られない生活になる前に、もっと遠くに逃げるか?」

「いや……フアン」

 パロマは立ち上がると、ふらふらと自分の部屋に戻った。

「お、おい?」

 フアンは慌てて後を追った。パロマは引き出しの中を探っているようだった。

「入るぞ」

「どうぞ」

 パロマは振り向きもせず、引き出しから何かを取り出した。

 フアンは体をずらし、それが何かを見ようとした。パロマが左手で髪の毛を束ねた。そして右手に持っている銀色の物を髪の毛にあてた。


 フアンは息を飲んだ。

「――おい何してる!」


 叫ぶと同時にパロマに駆け寄ると、慌ててパロマの手にしていた物を取り上げた。

 しかしもう遅かった。涙目で振り返ったパロマの周りを、羽が舞うかのように黒い髪の毛が舞った。そしてその髪の毛は、重力に逆らうことなく下に落ちた。

「何って、変装よ」

 パロマの長かった黒髪は、右半分が肩にかからないほどの短さになっていた。

「なんてことを……」

「大したことじゃないわ」

 パロマはそういうと、左半分の髪の毛もじょきんと切り落としてしまった。首を振ると、髪の毛が足元にばらばらと落ちていった。フアンはそれを黙って見ていることしかできなかった。

 パロマは自分の足元を見た。

「こんなに髪の毛があったのね。洗うのに苦労するはずだわ」

 素足で、パロマは自分の髪の毛をそっと踏みつけた。

「ふふ、さらさら」

「パロマ……」

「フアン、ごめんなさい。私ここにいたい」

「それは……構わないが」

「よかった」

 パロマは顔をあげ、にこりと微笑んだ。

 彼女なりの、覚悟の現れなのだろう。フアンは彼女の気持ちを受け止めると、ほら、と手を差し出した。

「……はさみ、貸してみろ」

 パロマは何も聞かず、フアンにはさみを手渡した。フアンは近くに置いてあった椅子に、パロマを座らせた。そして、パロマの目の前に姿見を持ってきた。

「どのぐらいの長さがいい?」

「切ってくれるの?」

「おう。俺は器用だぞ」

「知ってるわ、泥棒だもんね」

「はは」

 力なく笑いながら、フアンはそっとパロマの髪の毛に触れた。柔らかくて細い髪の毛だ。

「思いっきり短くしちゃうか?」

「うん。ベリーショートがいい。男の子みたいな。そうしたらきっと、写真の私と違う人みたいになれるわ」

「ずっと髪、長かったのか」

「女の子らしく。父の口癖よ」

 ちょきん、とフアンはパロマの髪の毛を切った。フアンは何も言わなかった。


「私ね、取引材料なの」

 ちょきん、と髪の毛を切る音が、返事のように響く。

「大きな会社と大きな会社の息子と娘を結婚させて、めでたしめでたし。昔はよくあったみたいだけど、実は今でもある制度なのよ、信じられる? 馬鹿みたいよね。父は私のことを、そのための娘としてしか見ていないって、そう思えてならないの。

 私の周りには、それを受け入れている友達が山のようにいたわ。でも私は嫌だったの。私と合う男性は、皆私のことなんて好きになってくれないの。優しいと思ったら、会社目当て。……体目当ての最低な奴もいたわ。

 いろんなことに、恋焦がれてたの。これが私の、あの家を飛び出した理由。特に、恋がしたかったの。もっと遊びたかったの。自由を探す自由がほしかった。いろんなものを見たかったの。それが、私があの屋敷を出たいと思った理由。結構単純だった?」

 ちょきちょき、とはさみは軽快なリズムでパロマの髪の毛を切っていた。みるみるうちに短くなる自分の髪の毛を見ながら、パロマは続けた。

「単純でも、私にとっては夢物語だったの。お嬢様になりたい人がいたら喜んで変わったわ。物語の中の女の子みたいな恋をしたかった。買物だって、安いものを友達と選んで、コーディネートして、やったねかわいいね、って喜んで。それを男の子に見せるの。どう? かわいいでしょ? 似合ってる? って。

 私にとって、こういうことはおとぎ話みたいなものだったの。

 でもあの屋敷を出れば、それが現実になるような気がして、ずっと誰かが助けに来てくれないかなって思ってたの。泥棒さん」

 鏡越しに、フアンはパロマを見た。パロマもフアンを見つめていた。

「ありがとう」

 パロマはそういうと、頬を赤らめ、笑みをこぼした。

「まさか盗んだ人に感謝されるとはな」

「盗みも悪くない?」

「悪いだろ、盗みはよ」

「ふふ、変な泥棒さん」

 ねぇフアン、とパロマは寂しそうに訪ねた。

「私があの屋敷を出たいって言った理由は、簡単すぎるかもしれないけど、これで終わりなの」

「理由が簡単だからって、悪いことは何もないだろ」

「……条件だったでしょう。フアンが私を盗む」

「え?」

 フアンは動かし続けていた手をぴたりと止めた。条件? そんなもんあったっけ?

「……もしかして忘れてた?」

 眉間にしわを寄せたまま動かないフアンを見て、パロマは吹き出した。

「お前をここから盗むかわりに、後で俺にどうして屋敷を出たかったか詳しく聞かせろ、って言ったじゃない」

「言ったっけ」

「忘れっぽいのね!」

 パロマは足をばたつかせ、大きく口を開けて笑った。

「動くな! 危ないから」

「ごめんなさい。でも、ふふふ、忘れちゃってたなんて」

「……まぁ、あの時は、ちょっとでも会話の主導権を握りたかったんだろうな」

「そんなものね」

「そんなもんだ。それに、屋敷から出たいって気持ち、俺にも……わからんでもないし」

 ん? とパロマはフアンを見つめた。フアンは首を横に振る。

「いや、なんでもない。俺はパロマの気持ちを理解できた、なんて簡単には言えないな」

「優しい」

「うっせ」

「フアンのそういうところ、大好き」

「な、そういうこと! 簡単に言うな、大切にしておけ」

「大好きって言葉、今まで求婚してきた男性に、一回も使ったことはないわ」

「……そうかよ」

「大切にしておけって、素敵な言葉。フアンって素敵だと思うの、私」

「…………前髪を切るから、目を瞑って」

「はぁい」

 パロマはおとなしく、目を瞑った。フアンはパロマの前に回り、慎重に前髪を切っていった。

さっきの発言はなんだ? あれか、俺は遊ばれているのか。そうだ、きっとそうだ。おじさんはお嬢さんに遊ばれているんだ。そうに違いない。大好きだなんて、そんな言葉なんて軽いものなんだ、この子にとっては。ジェネレーションギャップってやつかもしれない。そうだ、そうに違いない。なんてったって十以上も年が離れているんだから……というか……まつ毛長いな。肌、白すぎるんじゃないのか。顔小さいし、唇って何もつけていないのにこんな綺麗なピンク色になるのか?


「フアン?」

 突然の呼びかけに、フアンは思わずはさみを落としそうになった。


「な、なんだ? どうした?」

「急に動きが止まったから、どうしたのかと思って」

 パロマは目を閉じたまま、首をかしげた。フアンは慌てて、はさみを握りなおす。

「や、いや、どのぐらいの長さにしようか、ちょっと見てたんだ」

「なんだ、そうだったの。ごめんね、いきなり」

「い、いや」

 フアンは髪の毛を切る作業を再開しながら、自分自身に問いかけた。

 俺、今動き止まってたんだって。知ってたか?

 知らなかった。というより、気が付いたら動きが止まってた。

 だよな、つまりは、どういうことだ?

 まぁ……パロマの言葉に動揺した後、その本人の姿に見とれてたんだろ。

「だよなぁ」

「なぁに?」

「おっ、今声に出してた? えっ、どこから声に?」

 慌てるフアンの声に、パロマはくすくすと笑った。

「何考えてたの? いきなり、だよなぁって」

「あぁ……髪の長さ、これぐらいでいいかって自問自答してたっていうか、いいかな? いいんじゃない? だよなぁ、みたいな」

「へんなの」

「うるせっ」

 変ないいわけだと、自分でも思った。頬が赤らむのを必死に隠しながら、黙々と髪を切り続けた。ふふ、とパロマは微笑んで、そこから何も言わなかった。視線は少し下に落とされていた。何か、家のことを考えているのかもしれないとフアンは思った。


 ひとりでこっそり苦笑する。俺は、一体、どうしちまったんだろう?

 目の前にいるのは、確かに美人で気立てのいいお嬢さんだが、いくらなんでも年下すぎる。もしこれが恋心なら、なんて仮定を立てるだけで、このお嬢さんに失礼だ。

 それからしばらく、フアンはずっと自分に言い聞かせていた。

 何この子の言葉一つに動揺させられているんだ。

 どうせもうすぐここを出て行く。

 彼女は自由になりたがっているんだ。わざわざここに留まるなんて選択肢を選ぶはずもない。

 それを俺は、祝福するべきなんだ。


 数分間、無言の時間が続いた。パロマは人形のようにじっと動かなかった。

「……ほら、できたよ」

 とフアンが言った瞬間、パロマははっと現実に戻ってきたように顔をあげた。そしてわっと目を輝かせた。どうだ、とフアンが訪ねる。

「最高」

パロマは満面の笑みを見せた。

「随分短くしちゃったが」

「男の子みたいね。ピアスを外しちゃったら、男の子って間違われるかもしれない」

「そんなことはないよ」

「だといいけど。でも、こんなに短くしたの初めて!」

 パロマは自分の髪の毛を指先でつまんで見せた。そしてもう一度、子供のように無邪気に笑う。

「嘘みたい」

「夢みたい?」

 フアンが笑った。パロマは口元を押さえ、あふれ出る笑みを懸命に押さえていた。

「嬉しそうだな」

 パロマはこくこくと何度も頷くと、唐突に立ち上がった。

 そして振り返ると、フアンにおもむろに抱きついた。

「おっ、お前」

「フアン」

 パロマの声は、少しだけ震えていた。フアンは、反射的にパロマを引きはがそうと肩に置いた手を、ぴたりとその場で止めた。

「…………フアン」

 パロマはもう一度、フアンの名前を呼んだ。フアンはそっと手を離すと、片方の掌を、パロマが男の子のようだと言っていた短い髪の毛の上に置いた。髪を切っても、髪の毛の柔らかさはそのままだった。

 パロマは声をあげずに泣いていた。フアンはゆっくりと、パロマの小さな頭を撫でた。

「お前は自由になったんだから、別に寂しかったら元いた場所に戻ったっていいんだよ」

「それは嫌なの」

 パロマはフアンの胸の中で、首を横に振った。

「でも少しだけ怖くて、ちょっと寂しくて、それで……わがままで、嫌になっちゃう。ごめんなさい」

「何を謝ることがあるんだよ」

 パロマはその言葉に思わず微笑んだが、それはフアンには見えなかった。

「ありがとう」

 弱々しい声で、パロマは言った。フアンはゆっくりと目を閉じた。

「……いいよ」


 勇ましく家を飛び出した少女は、初めてそこで、フアンに弱さを見せたのだった。


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