4 こいつは悪くない?
深い眠りからフアンを目覚めさせたのは、破壊音にも近いノックの音だった。その音は、パロマがいる部屋と繋がっている扉から聞こえるのではなく、フアンが寝ていた部屋から廊下に繋がる扉から聞こえていた。
フアンはその音に飛び起きた。目を瞬きながら、周りを見渡す。
今のはなんだ? あれ、というかここはどこだ? 寝ぼけているフアンは、いつもとは違う景色に混乱する。
二つ目の疑問は、すぐに解決された。そうだ、昨日俺はお嬢様を盗んだんだっけ……と考え、がくりと体の力が抜ける。なんてことをしてしまったんだ、俺は――と、後悔させる暇も与えず、破壊音は鳴り続いている。
頭がずきりと痛む。破壊音のせいだ、とフアンは顔をゆがめた。一定間隔を開けて、どがんどがんと鳴っている。
うるさいな……これは、もしかして扉を蹴り飛ばしている音なのか? だとしたら……フアンの脳裏に、一人の人物が浮かび上がった。フアンは頭を押さえる。あぁもう、朝から何なんだ……。フアンは、みしみしと音を立てている扉に向かって叫んだ。
「誰だ? 騒々しいぞ朝から!」
破壊音がぴたりと止んだかと思うと、今度は怒鳴り声がした。
「黙れ! てめぇゆるさねぇぞ!」
女性の、ハスキーな声だった。やはり、とフアンはため息をつく。
「開けろって言ってるんだ!」
ハスキーボイスの怒号の後に、もう一度扉を蹴る音がした。どうやら彼女にとって、扉を蹴ると言うのはノックをして開けてくださいと頼むのと同じらしい。
「開けるよ馬鹿! うるせぇぞアンナ!」
フアンはどすどすと足をふみならしながら、扉のカギを開けた。その瞬間、扉は内側に勢いよく開いた。思い切り扉がフアンに当たり、フアンはぎゃっと声をあげる。
「いってぇ!」
「うるせぇ!」
フアンの寝ていた部屋に入ってきたのは、全身青で染めた女性だった。髪は水色で、長く伸びたソバージュだ。目も薄い青で、着ている服も白に近い薄い青色だった。パンツルックで、上はキャミソール一枚と、随分涼しい格好をしている。靴は濃い青色で、ネックレスも同じ色だ。メイクも青を中心にしており、口紅まで青色だ。
フアンがよろけているのを気にもせず、女性はフアンの首を両手で握った。爪先ももちろん青い色だった。親指の長い爪が、少しだけフアンの首に食い込む。
「お……おい、やめろアンナ」
フアンはひきつった笑みを見せた。しかし、アンナはそんな言葉では許してくれそうにもなかった。目は怒りに燃え、歯を食いしばっている。
俺、何したっけ?
フアンは取りあえず、アンナが落ち着くのを待つことにした。アンナは数秒後に、てめぇ、と口を開いた。声が怒りによって震えている。
「てめぇ……てめぇ……」
ぶつぶつと呟く言葉はそれだけだ。アンナは俯き、何度もその言葉を繰り返す。
「あっ、あのう」
フアンが口を開いたその瞬間だった。
ぐわっとアンナが顔をあげる。目が見開かれ、口が歪んでいる。
「てっめぇええええ!」
アンナは首を絞めていた手を離し、フアンの胸倉をつかむと、思い切り床にフアンを押しつけた。抵抗する術もないフアンは、勢いよく後頭部を床にぶつける。
「いてぇええ!」
「このやろぉおおおお!」
アパート中にアンナの声が響き渡った。フアンの上にまたがり、アンナはフアンの胸倉を自分の顔の目の前まで引き寄せる。
「何がおい、やめろアンナ、だ! おバカさんかてめぇは!」
「ちょ、ちょっと待て」
「待たない!」
アンナはフアンの弁明を聞かず、フアンを前後に揺さぶる。
「どういうことだフアン! 見損なったぞ! てめぇに用があったから部屋に行って、ノックしたら聞こえてきた声が女の子の声だ! どうしよう、って聞こえたんだ! 私は耳がいいからな! 機転を利かせて優しい声で、あ、大丈夫ですー管理人ですーすみません開けてもらえますかーって言ったんだよ。正直なその女の子は扉を開けてくれました! 驚きの出会いだ! ご対面! お互いきょとん! え? かわいいお嬢さんが、苦笑しながら初めまして、パロマです、えっと、ちょっと昨日いろいろあって、だってよ! 意味わかんねぇよ!」
「確かに、確かに、そうだな、意味不明だが、取りあえず俺の頭を前後に振らないでくれ、アンナ!」
「断る!」
アンナは力を込めて、フアンを床に押し付けた。ごつんと鈍い音がする。
「だっ……だからいてぇってば!」
「知るか!」
アンナのシェイク攻撃が再開する。
「わああああ! 止めろアンナ!」
「止めるかぁ! てめぇ昨日屋敷に入って宝石たくさん盗んでくるんじゃなかったのかよ? あ? おら、なんかいいわけがあるなら言ってみろ! なんで女の子盗んできてんだよ? 彼女が一番の宝石ですってか? なんなのお前、もしかしておバカさんなの? もしかしなくてもおバカさんだよなぁ!? その子にフアンはどこだ、って聞いたら、怯えた顔で隣の部屋、って言ったんだ。かわいそうに、心底怯えてた。本当にかわいそうだ」
「それはお前に怯えてたんだろうが!」
「この後に及んで責任転嫁か、黙れええええい! お前に発言権はない! 好きでもないこんなおっさんに! ひどい! ひどいぞ、涙が出てくる! 同じ女として、もうこれは許せねぇ! 何白目向いてんだ、まだ終わってねぇぞ、聞けぇい! 質問に答えやがれ! 見損なったよ、見損なったよ私は! なんも知らないか弱いお嬢様かっさらって? 何したんだてめぇ! こら! 言えないことでもしたのか? この野郎!」
だめだ。フアンは遠のく意識の中、諦めた。こいつには何を言っても通用しないんだ。きっとそうさ。そうだよ、何もかも俺が悪いんだ。盗みをしたらこういうことになるんだ……フアンは、心の中で自分に言い聞かせた。
「やめて! やめて! フアンは何にも悪くないの!」
気絶しかけたフアンに救いの手を差し伸べたのは、ほかでもない、昨日盗んできたパロマだった。
遠のく意識の中、あぁ、まるで天使の声だ、とフアンは思った。今まで何をしていたのだろう、と思ったが、そこは考えないことにした。きっと叫び声がしたらすぐに駆けつけてはくれたのだろう。しかし、あまりに恐ろしいこの魔女のような、いや、魔女より恐ろしそうなアンナのせいで、しばらくすくみあがってしまったのだ。フアンはパロマに同情した。怖かっただろうに。
恐ろしいハスキーの怒声の後に聞く、かわいい天使の声は、もう迎えが来たのかと思わせるほどに、素敵で美しかった。
しかしアンナは、そのような幸せも奪っていく。
「なっ、なっ、なっ、何、何なの、お前、何にやにや笑ってんだよ気色悪い! 嫌だ! もう男なんて生き物はこれだからいやだ! 狼だ! 男は狼なんだよお嬢さん。え、何? こいつは悪くない? 嘘はつかなくていいんだよ。きっとあれだろ、今夜のことを他言したらもっとひどいことしてやるぜぇ、とか言われたんだろ……てっめぇ! フアン! この野郎!」
「妄想癖女が……」
「あ? なんだフアン? なんですか? なんか言いましたか? 言い訳はきかねぇぞ、こら!」
「違うのよ、違うの! 聞いてくださいアンナさん! 私が勝手について来たんです!」
「……なんだって?」
ぴたりとアンナは動きを止めた。その一瞬のすきを突き、フアンは脱出を試みた。フアンが自らの首をぐいとひねると、アンナは驚いたのか、胸倉から手を反射的に離してしまった。チャンス!
「甘い」
アンナは静かな動きで、そっと長い指をフアンの首元に這わせた。そして、ゆっくりとフアンの首をつかむ。青い爪先がぐいとフアンの首に食い込んだ。
「ひっ」
「次逃げたらしめる、分かったなら黙れ泥棒」
フアンはおとなしく指示に従った。横目でちらりとパロマの姿を捕える。おぉ、寝間着だ。よかった、彼女は叫び声が聞こえる中、悠長に着替えをし、メイクをしていたわけではないのだ。長い髪はところどころ跳ねていた。かわいらしい。
あまりじろじろ見過ぎると、アンナに何をされるか分かったものではないので、フアンは目を瞑った。
「どういうことだ、お嬢さん」
「き、昨日確かに、フアンは私の部屋に入って盗みを働こうとしました。私はそんな彼を脅したんです。私を盗めって、さもないと警察を呼んでやるって。私はあんな家出たかったから……彼は助けてくれたんです! 私の恩人なんです! 昨日やましいことは何にもありません! わざわざ、きれいなベッドまで私に譲ってくれて、フアンは埃っぽいベッドで寝てくれてたんです。扉に鍵もかけていました。何にも昨日はなかったんです!」
天使の叫びが、魔女の興奮を冷ましたようだ。
「本当か、フアン」
フアンはそっと目を開けた。やや困った表情のアンナと目があった。ぎろり、とフアンはアンナを睨みつける。
「本当だ」
その瞬間、ぱっとフアンの首をつかんでいた手が離された。フアンの後頭部は、またも床に直撃する。
「いってぇ!」
「いやー……悪い、私の勘違い、あは……あはは」
「ふざけんなアンナ……俺がこのかわいらしいお嬢さんに、一体、何をしたと想像したんだ……妄想たっぷりはお前じゃないか……ふざけんな……」
「だって、ねぇ。いきなり部屋に女の子がいたら、びっくりするじゃない?」
「………………」
「ご、ごめんね? 許して?」
「とりあえず俺の上からどけ」
はぁい、とアンナは高い声を出すと、そっとフアンの上からどいた。
「じゃ、じゃぁ私は部屋に戻ろうかしら……朝御飯作んなきゃ」
猫なで声を出すアンナを、フアンはじろりと見つめた。
「……飯を作れ……」
「あ、はい、もちろん、お二人の分も、できたら呼びます、はい」
ごめんなさいね、とアンナはパロマに手を振り、その場をそそくさと離れて行った。カンカンカン、と金属を蹴る音がする。やっと嵐は去ったようだった。
「……ごめんなさいフアン」
パロマはそっとフアンに近づき、フアンの灰色がかった短髪を、そっとなでた。フアンはむくりと起き上がると、後頭部を押さえた。
「パロマは何も悪くないよ」
「もっと早く止められてらよかったんだけどあんなに叫んでる女性初めて見て、怖くって」
「俺も怖かった」
パロマとフアンの視線があった。その瞬間、二人は同時にふきだした。
「初日がこれだ、これからやってけるのか?」
「大丈夫、楽しいわ」
フアンは立ち上がった。少しふらつき、パロマの肩に思わず捕まってしまう。
「っと」
フアンはすぐにその手を離した。反動で後ろに数歩ふらついてしまう。
「大丈夫?」
パロマは慌てて手を伸ばし、フアンの手をしっかりと握った。フアンはパロマの細い手に支えられ、立ちくらみが去るのを待った。吐き気はなかったが、頭痛がひどかった。
「フアン、座る?」
「あぁ」
パロマは優しく、フアンをベッドに連れて行った。そこにフアンを座らせ、隣に腰掛ける。
「……アンナさんって、フアンのなぁに?」
「ん?」
いきなりの質問に、思わずフアンは聞き返す。い、いや、とパロマが横で慌てた。
「えっ、いや、えっと……あんなに怒ったのは、アンナさんがフアンの――恋人だからかなって思ったの……」
「へぇっ?」
どうしてそうなるんだ、と言う前に、フアンはむせてしまった。予想外の方向からの質問に、思わず高い声を出してしまったからだ。
「どっ……うしてそうなるんだ」
「どうしてというか、恋人だったら、ほら、いきなり違う女がいたら、あれぐらい怒るんじゃないかなぁと思って……違うの、そうなの、そう」
パロマは恥ずかしそうに頬を押さえた。心なしか頬が赤くなっている。フアンはそれをちらりと盗み見、なぜ頬を赤らめる、と心の中で突っ込んだ。
「違う……よ。あいつには、金髪の、長髪で、げほっ、背の高いかっこいい彼氏がいるよ。あとで、朝御飯を食べに行く時に、見れるはずだ」
「そっか、そうだったのね」
パロマはそこで、安堵の表情を浮かべたが、フアンはそれに気がつかなかった。突如目がくらみ、失神しかけたからだ。
「うぉっ」
「フアン! 無理しないで」
パロマはそっと、フアンの肩を抱いた。
「あぁ、悪いな。ちょっとくらんだ」
「横になった方がいいわ」
そういうとパロマは、そっとフアンを横にさせた。パロマの誘導に身を任せ、フアンは横になる。
……ん? まて、俺の寝転がった方向はパロマがいた方向では? フアンは頭部に違和感を覚えた。床が妙に柔らかい……まさか。
「フアンー、それとお嬢さんー。ジャムがイチゴとリンゴとあるんだけどさー」
カンカンカン、と階段を下りてくる音がした。アンナだ、やばい。そっと目を開け天井の方を向くと、そこには案の定パロマがいた。声のした方を向いている。やめろ、離れてくれ、誤解される! しかし、力が入らない。起き上がることができない。どうしよう、どうしよう……。
フアンは目を閉じた。それとほぼ同タイミングで、アンナはひょっこりと顔をのぞかせた。そして、目の前の状況を凝視した。
「………………」
アンナは冷静に、イチゴジャムとリンゴジャムの瓶を床に置く。
「……なに膝枕してんだー!!」
あっ、とパロマの息を飲む声がした。その直後、フアンはまたも胸倉を掴まれた。
「ま、まて違う」
弁解の余地もなく、フアンは思い切り左頬をはたかれた。
遠のく意識の中で聞いた声は、魔女の金切り声と、それを必死に止める、天使の抵抗であった。
あぁ、盗みなんてするもんじゃない。フアンは深く、反省した。