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2 なんてことだ

 娘に脅される、数時間前のことだ。

 フアンは、ひとり自室で荷物の最終確認を行っていた。狭く隙間風が吹くその部屋は、古いアパートの一室だった。

 そのアパートが管理を放棄されてから、もう十数年が経過していた。五階建の建物は、時とともに古びていった。歩くとギシギシ音を立て、灰色の壁はところどころひび割れている。ある日、ぴしっと不吉な音を立てた後、床が崩れてしまったとしても、誰も驚かないだろう。


 フアンが住んでいるのは二階の隅の部屋だった。他と同様古びた部屋だったが、朝には柔らかな日がさすため、フアンはその部屋が大好きだった。

 しかし、今はその部屋に光は差し込んでいない。時間は真夜中の十二時半だった。床に荷物を広げ、フアンは指差し確認を行う。


「スタンガン、ナイフ、針金にロープ。ロープの先には……フック。作業着も着た。スパナも持った……手袋はつけなきゃな、スタンガンもある。よしよし」


 黒い手袋を装着した後、床に広げていた物を黒いウエストポーチに手際よく入れて、チャックを閉める。

 腕時計を確認した。きらりと光る針が指し示す時間は、まだ予定の一時前。よし。

 フアンはゆっくり立ち上がると、腰にウエストポーチを装着した。数回飛び跳ねる。大丈夫だ、ウエストポーチが上下に揺れても、中の物が音をたてたりはしない。

「よし、行こう」

 髭を撫で、短い髪の毛をぼさぼさと無造作にかきむしり、気合を入れる。その後、大きく一度深呼吸した。緊張はしていなかった。泥棒を始めたばかりのころは、いつ捕まってしまうのだろうか、盗みの最中に見つからないだろうかと毎回びくびくしていたものだが、回数を重ねるごとにその怖さは消えていった。今ではむしろ、楽しみでわくわくしているぐらいだ。今日はどんなお宝に出会えるのだろう?

 楽しい気持ちとともに、古い扉を開け、静かに外に出る。 

 古びたアパートを出るまで、誰にも会わなかった。十数年前に捨てられてしまったアパートだったが、だからといって住んでいる人がいないわけではない。アパートには数人の住人がいたが、彼らはもう寝てしまったか、部屋にこもるかしているようだった。


 アパートから少し歩いた先の小道で、金髪の男と遭遇した。フアンは遠目に見ただけで、彼がアパートに住む友人だということに気が付いた。背が高く一流のスタイルを持つ彼は、月明かりに照らされていた。暗い夜道でも、彼は光を放っているかのように目立っていた。

 しばらくして、相手もフアンを見つけると、やぁと手を振ってきた。フアンも手をあげ、それに応える。

「フアンさん。一瞬誰かと思ったよ。作業着、似合ってるね」

 すれ違いざまに、金髪の男は作業着を指でつついた。

「ありがとよ。ホセ、お前またピアスあけた?」

 ホセと呼ばれたその男は、左耳をそっと触った。ホセはフアンと同様に髪の毛を短くしているため、ピアスで埋め尽くされたような耳は常に目立っていた。右耳に五つ、左耳には六つ穴がある。

「ばれた?」

「ばればれだよ。またアンナに怒られるぞ?」

「俺、怒ってるアンナも好き」

 恥ずかしげもなく微笑むホセを見て、フアンは鼻で笑うしかなかった。

 アンナはホセの恋人で、彼女もフアンと同じ廃墟の最上階に住んでいる。彼女はきっと、どうしてこれ以上増やす必要があるのかとこれからホセを問い詰めるのだろう。いつだったか、フアンにピアス代もばかにならないともらしたことがあった。彼の稼ぎでピアスを買っているのだからいいじゃないか、と彼女をなだめたものだ。

「ったく、言ってろよ。んじゃぁな」

「これから仕事?」

 ホセの問いに、フアンは青色の作業着の裾をつまんで見せた。

「ちょっくら工事に」

「盗みにしては早すぎない? まだ一時になってないでしょ?」

「作戦があるんだよ」

「そ。まぁせいぜい捕まらないようにね」

 ホセは大して興味がなさそうだった。フアンは少し悔しくなり、演技がかった台詞を口にする。

「捕まるかよ。これでも泥棒始めて、十五年だぜ」

「自慢にならないよ」

 決め台詞を一蹴され、フアンは思わず口を尖らせた。

「ふん」

「がんばってね」

 ホセは拗ねた子供のようなフアンを見て、満足げに口端で笑うと、静かにその場を去った。

「やっべ、急がねぇと」

 おしゃべりに時間を費やしている場合ではなかった。なるべく早く、ターゲットとなる屋敷に向かわなければ。フアンは走り出した。と言っても全速力ではなく、小走りだ。準備運動も兼ねて、屋敷に向かうことにした。


 屋敷には、三十分足らずで到着した。ここからさらに十分ほど走れば、高級住宅街に辿りつくことができる。しかし、高級な屋敷が所狭しと並んでいるあの場所は、フアンの職場ではなかった。どこもかしこも、警備の目でぎらぎらしているのだ。

 それに比べてこの屋敷は、泥棒さんおいで、と言っているような屋敷だった。周りに数件家はあるが、しっかりと警備されているような豪勢な家はなかった。人通りも少ない。おそらく家主は、静かなところでの生活を望んだのだろう。

 せめてもの防衛なのか、屋敷をぐるっと白い壁が囲んでいた。随分と高く、登ることはできない。もし登れた人がいても、壁の縁には槍の先だけをつけたようなものがびっしりと並べられていて、乗り越えるより前にそれに引っかかって怪我をしてしまう。壁の傍に大きな木もなかったため、その木を登って壁を飛び越えることもできなさそうだ。

 フアンはにやりと笑った。もちろん、このような防御がされていることは調査済みだ。そのための、作業着だ。

 フアンは壁に添いながら、小走りで門まで駆けて行った。

 屋敷の門は、真っ黒だった。豪華な装飾がされているようだったが、夜のためによく見えない。月明かりに照らされて、凹凸がかろうじて見えるだけだ。

 門の右端に、壁に埋め込まれている小さな窓があった。そこの窓の先には、小さな警備室があることも調査済みだ。警備室は、壁に溶け込むようにこっそりと存在しているのだ。まるでカメレオンみたいだな、とフアンはなぜか可笑しくなった。


 フアンはそこに駆け寄り、窓を二度ノックした。マジックミラーであったために、中の様子は分からない。

「誰だ?」

 窓の傍についているマイクから声がした。低い男性の声だった。フアンは頭を軽く下げる。フアンの肩は、ずっと走ってきたことで自然と上下していた。やはり走ってきてよかった。演技にリアリティが出る。

「やっ、夜分遅くに申し訳ございません、今日の昼に、工事に伺わせて、いただいた者で、ございます」

 マイクの奥で、かさかさと紙のこすれる音がした。おそらく、今日の昼にいた警備員とは別の人なのだろう。今日誰が来たかが書いてある書類でも、チェックしているに違いない。

「……会社の名は?」

 マイクの声が訪ねた。フアンは即答する。

「ベアーズドアーです」

「ベアーズ……ドアー、あぁ、はいはい。今日シャンデリアの修理を?」

「はい。応接間と食卓のシャンデリアの修理をさせていただきました」

「そうみたいだね。で、どうしたの」

「はい、実は今日変えさせていただきました電球のいくつかに、不備があるかもしれないのです。放っておけば火事になる心配があるとのことでして、心配になり……夜分遅くではあるのですが……」

 フアンは、心底申し訳ない、といった表情を作り出した。

「なんだと、まったく何をしているのだ、プロフェッショナルだろう?」

「はい、申し訳ございません」

 何度も頭を下げる。マイクの向こうで、深いため息が聞こえた。

「明日では間に合わんのかね。もう旦那様方は寝てしまっているのだが」

 しめしめ、と心の中で笑った。この家の住人、特に主人は夜寝るのが早いのも、もちろん知っている。主人は随分と忙しい人で、帰ってきたらすぐに寝てしまうために、夜にはなかなか連絡が取れないらしい。このことは、少し調べればすぐに分かった。よほど有名な「早寝さん」なのだろう。家族もそれに合わせて就寝するようだ。


 多忙なあまり家に帰らないこともしばしばと聞き、最初はその日を狙おうかとも考えた。しかし、仕事が終わると夜中の三時であっても帰宅し、家で寝るのが習慣なのだそうだ。盗みに入っていたらばったり、なんて洒落にならない。

 早寝さん最高、と心の中でガッツポーズをとりながら、実際は低姿勢で申し訳なさそうに、フアンはぺこぺこと頭を下げる。


「電気をつけた際に事故が起こる可能性がございますので、できれば今すぐ取り替えさせていただきたいのです……事が大きくなる前に。急いで駆け付けた次第ですが、ご主人様方が寝ていらっしゃるのは予想外でございました。取り替え作業は静かにいたしますので、なんとか……」

「…………待っていなさい。メイドがまだ数人起きているから、彼女たちに訊いてみることにするよ。と、その前に、身体検査をさせてもらうよ」

 窓の内側から、鍵を開ける音がした。壁に隠れていた小さな扉が開き、中から小柄な警備員が出てきた。フアンはここぞとばかりに、ありがとうございますと大げさなほどに頭を下げた。

 もちろん、このような展開が来るであろうとフアンは予測していた。今日工事に来た連中にも、一人ずつ身体検査をしていたのを、今日の昼に偵察に来ていたフアンは目撃したのだ。

 スムーズに事が進んでいるため、よしよしと思わず笑いそうになるが、我慢しろと自分に言い聞かせる。あくまで表情は、申し訳なさを醸し出していなければならない。

「お手数をおかけいたします」

「まったくだ。じゃぁ、そのウエストポーチを見せてくれ」

「はい」

 フアンは素早く、ウエストポーチを開けた。

「ん?」

 警備員が、手でフアンに動きを止めるよう指示する。フアンは顔をあげ、警備員を不思議な表情で見つめた。なんだ? このウエストポーチは、ぱっと見ただけではただの工具入れに見えるはずだが……?

「何か?」

 警備員が眉間にしわを寄せた。

「シャンデリアの工事だろう? 一人でか?」

「はい……何か問題でも?」

「梯子なんかは必要じゃないのか?」

「あ、なるほど。確かに」

 ケアレスミスだ。たまにある。フアンは舌を出すと、右手をウエストポーチの中に突っ込んだ。

 不審な動きに、警備員はすぐさま対応しようと、腰にかけてある銃に手を差し伸べたが――遅かった。フアンがスタンガンを取り出し、警備員の腹に突き当てる。電気の走る音がした。直後、警備員は目を見開き、前に倒れこむ。フアンは彼を受け止め、残念でしたと呟いた。


 無事、第一関門突破だ。


 警備員を抱えながら、フアンは警備室に入った。小さな部屋だった。人が二人入るのがやっとだ。

「こんな狭い部屋で。ご苦労なことで」

 給料はどれぐらいもらっているのだろう。フアンはそんなことを考えながら、入ってすぐ左にある机に目をやった。その机の上に電話がある。警備員を目の前の椅子に座らせた後、フアンは受話器に手を置いた。

「……何番だ?」

 フアンは机の周りを観察した。電話のすぐ横に、メモが置いてあった。内線の番号がずらりと並んでいる。

「ナイス配慮」

 1151:メイド室。フアンは受話器をとると、その番号を押した。電話がつながる前に、ひとつ咳払いをする。警備員の声は、自分の声より低かった。

 数回コールが鳴った後、電話の向こうから女性の声がした。

「はい」

 気の弱そうな声だ。眠いのかもしれない。フアンは、少し低めの声を出した。

「今日昼間に来た工事会社の男が、修理し忘れたとかで玄関に来ている。どうやらそれを放っていくといけないようだから、入るのを許可した」

「はぁ」

 女性が興味なさげに返事をする。フアンはなるべく偉そうにな言い方になるよう心がけながら、会話を続けた。

「怪しいものではないと思うが、一応私がついていくから心配はいらん。なので、青い作業服の男を見かけても気にするなと、起きている者に伝えておいてくれ」

「はい、分かりました」

「うむ、では」

 受話器を静かに置き、ひとつため息をつく。よしよし。

 フアンは警備員を横目で見た。大丈夫、よく寝ている。

 警備室には、屋敷の内部に通じる扉があった。鍵がかかっていたが、もちろん内側からは開くようになっている。フアンは扉を開け、簡単に屋敷の内部に入ることができた。

「それでもプロフェッショナルか? か、警備員さん。答えは今の状況だ」

 寝ている相手に格好をつけると、フアンは静かに屋敷まで歩み寄った。屋敷の右側の壁に沿って歩く。大小様々な窓がそこにはあった。端からひとつ、ふたつ……みっつ。

 埃をかぶった窓が、頭上にあった。小さな窓だが、人が入るには十分な大きさだ。

 よしよし、合っている。

 この屋敷の見取り図は、知り合いの情報屋からいい値で購入していた。思っていたより多い出費だったが、仕方ない。今回の盗みで、その出費よりも多く盗めばいいだけの話だ。

「よっ」

 静かに窓を右に押した。ピクリとも動かない。やはり鍵がかかっているか。窓を観察する。どうやら内鍵がかかっているようだ。

 フアンはウエストポーチを開け、最初に手についたものを握る。窓ガラスを割る物は何でもよかったのだが、今回取り出したのはスパナだった。作業員として、なにかそれっぽい物を持っていた方がいいと思い、ダミーとして入れていたものだ。

 鈍器にもなるし、案外これからも使えるかもな、スパナ。

 いつも持ち歩くようにしようかな、と考えながら、窓ガラスの右端にスパナを叩きつける。硝子の割れる音がした。とても小さな音だ、誰にも気がつかれる心配は無いだろう。フアンは自分の腕が通るほどの穴をあけると、そこに慎重に腕を入れ、窓の内鍵を外した。窓は素直に空いた。

 フアンは喜びを声に出したかったが、ここで喜んでいてはまだまだアマチュアだ。

 まぁ、泥棒にプロもアマチュアもないのだけれど……自分の思考に呆れながら、フアンは静かに、屋敷に侵入する。

 埃っぽいその部屋は、用具室だった。バケツにモップ、古びた雑巾に、滅多に使われないであろう長机。

 フアンが降り立つと、歓迎するように埃が宙を舞った。せき込みそうになるのを必死に我慢し、窓を閉める。きしみもせず、静かに窓は閉まった。

 瞬時に自分が計画していた経路を脳内で確認する。

 出たら右、突き当たりに階段があるからそれを上る。二階についたら、右側の部屋、二つ目。そこがフアンのターゲットだった。

 用具室は暗かったが、月明かりが味方をしてくれた。なんとか扉は見える。フアンは扉に近づくと、扉の下を確認した。隙間から明かりがもれていないということは、廊下に明かりが付いていないということだ。

 早寝早起きは、健康にも泥棒にも、いいことだ。

 扉のノブをそっと下ろし、聞き耳を立て、誰もいないことを確認した後、勇気を出して外に出る。いくら足音がしないからといって、この瞬間に緊張しないのは、大ベテランか、はたまた油断し過ぎか、だ。もしかしたら自分の師匠は緊張しないのかもしれない。自分が「こんな場面で緊張した」と説明したら、いいかげんに慣れろよと笑われるのかもしれない。

 いつまで経っても慎重すぎて小心者なのは、自分が一番よく分かっていた。だから泥棒をやめることもできない――なんて、何を考えているんだ。こんなときに、フアンは頭を左右に振った。今は、それどころではない。

 廊下には誰もいなかった。よしよし。フアンは迷いなく、階段へ向かった。走って向かったが、もちろん足音はたてないよう、慎重に走り抜けた。

 階段を発見。忍び足のまま二段飛ばしで階段を上る。

 階段を上りきる一歩手前で、フアンは身をかがめた。そして頭を低くし、床すれすれのところからそっと顔を出す。廊下には……誰もいない。

 本当に、早寝最高!


 フアンのターゲットとしている部屋は、もうすぐ目の前にあった。素早く移動し、その部屋の扉の前に辿りつく。

 扉には、綺麗な装飾の施された板がかけてあった。全体的に、おそらく白いものだ。横に丸い板で、その周りを花と鳩が囲んでいる。ところどころに、カラフルなラインが入っているようだが、月明かりだけでは何色か判別できない。

 板の真ん中には、「Paroma」と書いてあった。パロマ。女性の名だ。

 よおしよしよし、間違いない。ここがターゲットの部屋だ。

 フアンは、とても慎重に、ノブを下に押した。もうこれ以上下がらなくなったところで、扉を押す。扉は何の抵抗もなく開いた。

 年頃のお嬢さんのはずだ。鍵の一つや二つかけておいてもおかしくないと思ったが……天は自分に味方してくれているらしい。

 この部屋ですやすやと眠っているはずの「パロマ」について、フアンは少しの知識を持っていた。これも情報屋から仕入れたものだ。

 パロマ、二十歳の娘。強気な美人だと聞いている。この地域では珍しい黒髪で、ウェーブがかっているその髪は絹のようだとか。白い肌によく映えるらしい。

 そして何よりフアンにとって大事な情報は、彼女は多くの男性からある「プレゼント」を貰っているということだった。

 彼女は「宝石」が大好きなのだ。

 豪華な花束よりも、上品な服よりも、素敵なショーの招待券よりも、貰って喜ぶのは「宝石」なのだという。

 大小様々な宝石を持っているとかいないとか……いや、あの優秀な情報屋が持っていると言ったのだから、間違いないだろう。

 宝石は最高だ。小さいのに価値が高い。ダイヤモンドなんてのは、数ミリの物が札束何百枚で取引されているのだ。フアンにとって、これほど魅力的なお宝はなかった。

 この情報をもとに、フアンは彼女の部屋に忍び込み、宝石を盗むことを決断した。

 たくさんもらっているんだから、数個盗まれても気が付か……なければいいな、という願いもある。さすがに楽観的すぎるとは思っているが。

 女性が寝ている部屋に忍び込むのは、少し後ろめたい思いもあったが、盗みのためだから仕方がない。ゆっくりと扉をあけ、体が通るぎりぎりの隙間を作り、音を立てずに中に入る。

 部屋は月明かりに照らされて、うっすらとだが見渡せた。

 計算通り、ではない。幸運だったと、フアンは思わずにやりと笑う。

 今日は、何かが俺の味方をしている気がしてならない!

 有頂天のまま、フアンはまず、パロマの姿を探した。

 部屋は、縦に長い部屋だった。右奥に、大きなベッドがある。人が三人は寝ることができそうなベッドだ。真ん中だけが少しだけ盛り上がっている。よし、あそこにいるな。

 しかし不用心なこと、とフアンはため息をつきたくなる。俺が狼だったらどうするんだ。

 ベッドの隣にはグランドピアノが置いてあった。珍しい、白い色のグランドピアノだ。壁にはヴァイオリンも飾られている。それは白色ではなかったが、きっと高級なものなのだろう。あれが盗めたらなぁ、と思うが、大きすぎる。やはり宝石が一番だ。

 グランドピアノの横には扉があった。クローゼットだろう。宝石はあそこだろうか? この部屋を探してなかったら、あそこを探してみよう。

 フアンはゆっくりと首を右側に向けた。

 うおっ!

 喉まで出かかった叫び声を慌てて飲み込む。人影が見えて驚いたのだが、その正体は自分だった。

 部屋に入って右側に、これまた大きなドレッサーが置いてあった。二人並んで化粧をしても余裕があるだろう。

 どうして金持ちは大きなものを好むんだ?

 フアンは首をかしげたが……同時にはっと閃いた。

 宝石はあそこにあるんじゃないか? 要はメイクをする机だろう? メイクをして、そのまま宝石もつけて……。

 そろり、そろりとドレッサーに近づいた。音をたてないように、静かに、静かに。気持ちが高まり、早足になりそうなのを必死にこらえる。

 ドレッサーまであと五歩というところで、フアンはドレッサーの右隅に宝箱が置いてあることに気が付いた。

 あれに、もしや?

 心臓がどくんと跳ねた。ゆっくり、ゆっくり歩いて、フアンはそれに手が届く場所まで辿りついた。

 よくは見えなかったが、右隅に置いてあるのは立派な宝箱だった。片方の手のひらに収まるほどの大きさだが、装飾が美しい。周りに何かが埋め込まれているようだ。これも宝石で、中身も宝石だったら、高く売れること間違いなしだ。もちろん、宝箱をそのまま盗むようなまねはしない。できるなら、ばれないでほしい、というのが彼の仕事のモットーでもあった。

 フアンはそっと、宝箱を手に取った。ずっしりと重い。宝石がたくさん詰まっていそうな重さだ!

 左手に宝箱を持ち、右手でそっと蓋を開けた。

 半分ほど開け中身を見たとたん、思わずため息が漏れた。

 無造作にその中に突っ込まれていたのは、まぎれもなくフアンが追い求めていたものだった。指輪に、ネックレス。きらきらと光る宝石たちが、俺を呼んでいる。

 いったいどのくらい入っているのだろう? 宝箱の奥の方がよく見えなかったため、フアンは蓋をぐいと上まで開けた。

 カチリ、と音がした。

 オルゴールが鳴り始めた。

 おいおいおい!

 唐突な出来事に、フアンの動きは一瞬固まったが、慌てて冷静さを取り戻す。

 なんて事をしてくれるんだ、この宝石箱! オルゴール付きだなんて聞いていないぞ!

 フアンは苛立ちながら、蓋を閉めようとした。

「……あれ」

 思わず声が出てしまった。蓋が閉まらないのだ。

 おいおいおいおいおいおい!

 フアンはパニック状態に陥った。全身の汗腺から汗が噴き出たのが分かる。頭は真っ白だ。陽気な音楽は、大音量で部屋の中に響き渡る。

 蓋をほぼ叩きつけるようにして押したが、一向に閉まる気配はない。

「くそっ」

 何度も何度も蓋を押したが、だめだ。下手をしたら蓋を壊しかねない。オルゴールが鳴る仕組みになっている宝箱だろ、そうだ、どこかにボタンのようなものが無いか? フアンは目の真ん前に宝箱を掲げ、それを凝視した。蓋が開くとオルゴールが鳴ったのだから、その仕掛けとなるようなボタンは……あぁ、見つからない! よく見えない! 

 いくら月明かりが明るいとはいえ、電気ひとつついてない暗闇だ。それらしきボタンをすぐに見つけることはできなかった。

 加えて、音楽がうるさい!

 どうすればいい、どうしよう、壊すか? このまま持ち去るか? いやいや……逃げよう。

 これが、フアンが出した結論だった。

 ほかにもっと宝石があるかもしれなかったが、それにかまっている場合ではない。ばれてしまったら面倒だ。

 部屋を出ようと、踵を返した、まさにその時だった。


「静かにしなさい、動かないで、両手を挙げて。言うことを聞かないと警報を鳴らすわ」


 女性の声がした。

 なんてことだ。やってしまった。ばれてしまった……!

 混乱が頭の中を駆け巡ったが、取りあえず落ち着かなければ。フアンはまずひとつ、息を吸った。そしてゆっくりと、息を吐く。

 ここは、逃げるよりも言うことを聞いて、なんとか逃がしてもらうことにしよう。

 言うことを聞けば警報は鳴らさない、という事を信じて……説得しよう。適当に、涙なしには聞けないストーリーを語り、それならば泥棒になってしまうのも仕方ないわ、と思ってもらえるような状況を作ろう。

 ごくりと唾を飲み、フアンは両手をゆっくりと挙げた。右手に持っているオルゴールが、今になってやっと鳴りやんだ。遅いだろ、と悪態をつきたくなるが、そんな状況ではない。

 フアンは女性の指示を待った。自分の後ろで、人が動く気配がした。きっとベッドから起き上がったのだろう。

 こいつ、いつから起きていたんだ? フアンは疑問を抱いた。

 オルゴールの音で目覚めたとして、自分の部屋に不審者がいて、よくあそこまで冷静な反応ができたものだ……日ごろから訓練でもしているのだろうか。そんな情報は無かったが……。


「こっちを向いて。声は出さないで」

 鈴の音のような声だった。フアンはその声に従い、百八十度体を回転させた。

 白いベッドに、小柄な娘が座っていた。顔は、窓からの光が途切れていたせいでよく見えない。上半身を起こし、下半身は白い羽毛布団の中だ。髪は長い。きっと月明かりに照らされたら大層美しいのだろう。

 細い体だ、とフアンは思った。半袖で、細かいレースが施されたパジャマを着ていた。そこから見える白い腕は、簡単に折れてしまいそうなほど細かった。

 上から下までじっくりとフアンは観察した。その目線を嫌がることもなく、女性は細い腕をすっと前に差し出した。掌の中には、小さな何かが握られている。


「これは警報装置。押したらすぐに、警備員が来るわ」

「入口の警備員は俺が眠らせているが」

「次勝手にしゃべったら押すわ」

「…………」

 おお、怖。

 フアンは口をへの字に曲げた。それを見た娘は、くすくすと笑った。

「あなたから私の顔は見えないのかもしれないけど、私からあなたの顔は丸見えよ、泥棒さん。そんなに困った顔をしないでよ」

 困っているに決まってるだろ。フアンは言い返そうとしたが、慌てて止めた。次勝手にしゃべったら、警報、だっけか。

 娘は手を下ろし、逆の手を挙げた。

「それ」

 指したのは、フアンが持っているオルゴールだ。

「閉まらなかったでしょう? 罠なの。わざとそういう風に作ってもらったのよ。友人を驚かせたいから、とか適当な理由をつけてね。手を下ろしていいわ。蓋を外側に目いっぱい押してみて」

 フアンは言われたとおりに、手を下ろし、蓋を外側に押した。壊れればいいと思って押したが、耐久性は優れており、蓋はかちりと音を立てただけだった。

「音がしたわね。そうしたら、もう閉まるわよ。手を離してみて」

 蓋から手を離すと、重力に逆らうことなく、ぱたんと閉じた。なるほど、こういう仕組みだったのか。

「お疲れ様。手は挙げてちょうだい」

 俺は何をやっているんだ。そう思いながらも、フアンはしぶしぶ彼女の指示に従った。そうだった、盗みなんてやるもんじゃない、本当にやるもんじゃないんだ。見つかるたびに反省していた。こういうことになる危険性があるのに、俺ってやつは本当に。

「これから私の質問に答えていいわ。とりあえず、座る?」

「……座りたくない」

「あら」

 娘は少しだけ不満そうな声を出した。

「じゃぁ立ったままでいいの?」

「……できれば帰りたい」

 フアンの正直な申し立てに、そうよね! と娘は楽しそうに笑った。

 お嬢さん。いいから逃がしてくれ。俺は君を喜ばせようと、ジョークを言ったんじゃない。本気だ、本気で帰りたいのだ。

 しかし、娘はフアンの気持ちを察してはくれなかった。

「面白い人! ねぇ、名前は?」

「……フアン」

「フアン! 素敵な名前」

「ありふれてるさ」

「そんなことないわ。私はパロマ」

「扉に書いてあった」

「嬉しい、覚えていてくれたのね」

 ……いやいや。だから、本当に、俺は何をしてるんだ。

 パロマの声は、寝起きだというのに実に生き生きとしていた。話すのがとても楽しい、といった声だ。嬉しい反応を見せてくれた相手と話すのは、こちらとしても嫌なことではない。

 うっかり会話のキャッチボールを成立させてしまった。


 違うだろ。逃げるんだよな、俺の目的は逃げることだよな。

 しかし、会話のイニシアチブはパロマにある。


「年は?」

「おっさんだよ」

「いくつ?」

「……三十二」

「そう! 私は二十歳! 十二歳違うのね」

「そのようだな」

「職業は泥棒?」

「それが職業に入るのならな」

 彼女は胸の前に手を組むと、うっとりとしているような仕草をとった。その後、ため息交じりに

「……最高だわ」

と呟く。意味が分からない。

「ねぇ、あなたをここから逃がしてあげる」

 唐突な申し出に、フアンは思わず一瞬返事をすることができなかった。そんな様子のフアンを見て、パロマはむすっとした声を出す。

「逃げたくないの?」

「いやっ、いやいや」

 数秒送れて、フアンはチャンスがやってきたことを悟った。

「逃げたいです、是非とも」

「でしょうね。逃がしてあげる。しかも、その宝箱はあげる」

「え?」

「差し上げます。いらないものばかりだもの、売っていいわよ」

「まじ……かよ? 宝石好きじゃなかったのか?」

 と言って、慌てて口を紡ぐがもう遅い。俺は何べらべらと言ってるんだ!

 自分の情報を知られていたことに対し、恐怖するか、怒りをあらわにするか――と身構えていたフアンだったが、パロマはきゃらきゃらと笑うだけだった。

「私の、私に関する嘘の情報がうまーく流れているみたいね。宝石なんて別に興味ないわ。でも、似合いもしない服をプレゼントされたり、変な趣味の帽子をプレゼントされるよりかは数倍ましってだけ」

「あ、そうなんだ」

「そう、ということで、その宝石はあなたにあげます」

 ただしよ、とパロマは言って、静かにベッドから出た。やはり細い脚だ、とフアンは思った。パジャマはワンピース型の物で、すね辺りから下しか見えないが、それでも細いのは十分にわかる。足首なんて、ちょっと押しただけで本当に折れてしまいそうだ。

 その細い足で、パロマは優雅に立ち上がった。裸足のまま、フアンに歩み寄る。フアンは黙って、その場に突っ立っていた。

 月明かりが、彼女の顔を照らす。

 フアンは、目を少しだけ見開いた。動揺を隠そうとするが、隠すことはできなかった。目が泳いでしまう。彼女は自分の反応を不思議に思っただろうか。

 黒い大きな瞳が、まっすぐ自分を見つめていた。まつ毛が驚くほど長く、白い肌に影を落としていた。唇はほのかなピンク色だ。

 くそ。フアンは心の中で悪態をついた。

 噂どおりに綺麗な彼女の姿に、フアンは一瞬本気で見とれてしまったのだ。

 あ、綺麗。

 そんなことを、彼女を見てすぐに心の中で呟いていた。目をそらした後、思わず悪態をつきたくなってしまう。女性に見とれるなんて、随分久々に事だったのだ。

 加えてフアンは、気の強そうな女性が好みだった。少し釣り目なその眼差しは鋭く、美しく、本当に好みだ、ストライクだ。

 まったく、俺が善良な泥棒でよかった!

 ただの狼だったら押し倒しているところだ。

 まぁ、押し倒したらそれこそ、警報装置が作動して終了なのだろうが。

 パロマはフアンの目の前まで歩み寄り、ぴたりと止まった。フアンは泳がせていた視線を、ゆっくりとパロマの大きな黒目に向ける。パロマは微笑を携えて、フアンを見つめていた。

 思わずまたも目をそらしてしまうが、またすぐに視線を戻す。何となくそらしたままでは、フアンのプライドが許さなかった。

「ただし、ね」

 ……何だ?

 思わず聞いてしまいそうになった。その答えは、すぐにパロマが教えてくれた。


「ただし、私も一緒に盗んで」


「……………………」

 パロマは優雅に手を差し伸べる。フアンは硬直したまま、動くことができない。

 こいつ、今なんて?

 差し伸べられた手に反応を示さないフアンを見て、パロマは困ったように首をかしげた。手を下げ、腰に当ててため息をつく。

「早く盗んでちょうだい」

 フアンはまだ、答えることができなかった。

 何を、盗めって? 私を盗んでと、そう言ったか?

 ぽかんとしたまま反応の無いフアンに、パロマは少し苛立ちを感じていた。何よぽかんとしちゃって。眉間にしわを寄せ、少しだけ荒げた声で、それでも辛抱強く続けた。

「聞こえてる? 早く盗んで」

「……は?」

 フアンはやっと、声を出すことができた。口の奥が粘つく。緊張していることが自分でも理解できた。

 落ち着け。とりあえず落ち着け、と自分に言い聞かせた。

 そうだ、これは罠だ。こうやって混乱させているうちに、時間を稼いでいて、もしかしたらもう警察を呼ばれていて……? あれ、だめじゃん俺。

 えっと、どうすればいいんだ、こういうときは。落ち着けって言えばいい? 何を言っているんださようなら、これでいいのか?

「早くしないと警報鳴らすわよ」

 フアンが冷静になろうと必死に努めるのも空しく、パロマの攻撃は続いた。目の前で警報機をちらつかせる。フアンの思考は一瞬完全に停止し――その後、ぷつんと何かが切れたように、フアンは少しだけ大きな声をあげた。

「いや! おかしいだろ! なんで盗まないと警報鳴らされなきゃいけないんだ!? 逆だろ?」

 自分の立場も忘れたフアンの怒鳴り声に、パロマは一瞬だけひるんだ。しかし、すぐに負けじとフアンをにらみ返す。

「いいから!」

 パロマは、足を大きくふみ鳴らした。フアンは驚いて言葉を失った。まくしたてるように、パロマは早口でフアンを急かす。

「時間が無いのは知ってるでしょう? 大きな声なんて出して、誰かに気が付かれたらどうするの?」

「や、いや、そうだが!」

「だったら早く!」

「ちょっと、待て! 落ち着こう! 落ち着こう!」

 フアンは大きな掌を突き出し、パロマを制した。何かを言いかけたパロマだったが、しぶしぶと口を閉じる。

 パロマがおとなしくなったことを確認し、フアンは手をひっこめた。

「……いいか。俺は、意味が分からない。私を盗めってどういうことだ」

「そのままの意味よ」

「分からん」

「私をここから出して。この屋敷から」

「なぜ」

 パロマはしばらく俯き、黙りこくった。言葉を選んでいるようにも見えたし、答えることに躊躇しているようでもあった。フアンは黙って、パロマの言い分を待った。

 やがてパロマは、言葉を見つけたのか、大きめの声でフアンに向かって言い放った。

「ここの生活にうんざりしている。十四のときから、今日みたいにこの家を出ることができる日を夢見てたの。千載一遇のチャンスだわ。ここから私を連れ去って。お礼は何でもする。連れ去ってくれたら、その後はほっといてもかまわない」

 パロマの目を、フアンはじっと見つめた。決意したような、力強い視線がフアンに投げかけられていた。

「……嘘ではないらしいな」

「本当のことよ。お願いするわ。警報を鳴らされて、捕まりたくはないでしょう」

「お礼はなんでもする、って言ったな」

 フアンの言葉に、パロマは一瞬怯えたような表情を見せた。しまった、と自分の危機を感じ取ったのかもしれない。フアンは心の中で少しだけ呆れた。

 そうだよお譲ちゃん。簡単に「なんでもする」なんて言っちゃいけない。ましてや男性に向かってなんて、自分を危険にさらすのもいいところだ。

 それだけ、お子様というか、世間知らずというか……。まだ二十歳だといっていたか。おまけに箱入り――本人の意思とは関係なく、だろうが。まぁ、お子様で世間知らずでも、無理は無いのかもしれない。

 フアンは長い溜息をついた。パロマは心配そうに、フアンを見つめている。今さらになって、彼女の足が少しだけ震えていることに気がついた。警報機を握る手にも力が入っている。

 あれ、握りすぎてスイッチ入っちゃったりしないよな。

 そんな恐怖を抱えつつ、フアンは頭をかいた。

「約束を守ってくれたら、いい」

 パロマは、大きく目を見開いた。希望と心配が入り混じったような、複雑な表情をしている。フアンは目をそらし、小さな声で言った。

「お前がどうしてこの屋敷を出たくなったのか、ここを出たら詳しく話してもらう。それまでは俺の住んでる所に……」

 言いかけて、一緒に住むのはさすがにまずいか? と言いとどまる。

 確か、隣が空き部屋だったな……。

「住んでる所の、すぐ隣の部屋に住んでもらう。どうせここを出たって行くあてはないんだろ、しばらくはそこで家出の支度でもすればいい」

「それはつまり」

 パロマは目を輝かせた。希望が確信に変わっている。

「私をここから盗んでくれるってこと?」

「…………盗むって言うか」

 フアンの微妙な態度に、パロマが食ってかかる。

「お願いよ、盗むって言って。私を盗んで!」

 テンションが高くなってきたパロマを前に、フアンはまたも掌を目の前に広げた。

「たのむから大声を出さないでくれ!」

 パロマは、ギュッと口を固く結んだ。思わずフアンは笑ってしまう。

 子犬か。

「……分かったよ、分かった! 盗めばいいんだろ?」

 パロマは満足そうに頷いた。

 おい、偉そうな子犬だな。

「ありがとう」

 すこしムッとしていたが、パロマの正直な言葉に、フアンは何も言えなくなった。  

 はぁ、俺は押しに弱い。天井を仰ぐと、目の前にいるパロマに視線を戻した。

 いいのか、盗んじゃって。

 フアンは試すように、手をそっと差し伸べた。パロマはひるむことなく、微笑する。

「紳士なのね」

 フアンは顔をしかめた。妙に恥ずかしい。

「うるさい。早くしろ」

 パロマは黙って、フアンの手に自分の手を重ねた。慣れた仕草だ。

 手を重ねた直後、パロマは驚いたように目を開いた。フアンはわけがわからず、不満そうに訪ねる。

「なんだよ?」

「手が冷たいのね……」

 何だそんなことか。フアンは顎で窓を指した。

「外は寒いぞ。なんか羽織るもんあったら、着てこい」

「そうね」

「荷物は?」

「あ、忘れるところだった、ありがとう。まとめてるの。持ってくるわね」

 まとめてる? フアンは首をかしげた。フアンの心中を察したのか、パロマは部屋の隅にあるクローゼットを開きながら、いたずらっぽく笑った。

「いつかこんな日がこないかってね。来るとは思ってなかったけど。夢見るぐらいタダでしょ?」

「……まじかよ」

 どんな想像力だ。どれだけ夢見てたんだ。どれだけ……この家から出たかったんだ。

 いろいろ言いたいことはあったが、我慢して飲み込む。取りあえず俺も、この部屋から、この屋敷から一刻も早く出たい。

 パロマは、白い薄手の上着をはおった。何か刺繍が施してあるようだったが、暗い中ではよく見えない。パロマは大きめのショルダーバッグを手にすると、早足でフアンに歩み寄った。

 本当に、一刻も早くこの家から出たいんだな……というか。

「この家からどうやって出るんだ? まさか窓から逃げるのか?」

 パロマは肩をすくませた。

「そんなことできないわ」

「なんか方法はあるのか」

「当り前よ。何回この日を夢見たと思ってるの」

 パロマは唐突に腕を伸ばした。一切の迷いもなく、白い指先が指し示したのは、フアンの後ろにある扉だった。

「正面突破よ」

「んなばかな!」

 言って、俺も正面突破してきたようなものか、と思わず笑いそうになる。

「いいから!」

 パロマは人差し指をフアンの口元に勢いよく突き出した。

「むぐ」

 フアンの口が封じられる。

「いいから、私を信じてついてきてね、泥棒さん。少しでも変な行動に出たらその時は警報機、よ」

 出かける準備を済ませたにもかかわらず、パロマの左手にはまだ警報機が握られていた。

「はい……」

 フアンは子犬のように、大人しく彼女の言う事を聞くことにした。


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