17 お嬢様をお迎えに
空が澄み渡る、雲ひとつない天気の日だった。小さな警備室にいるパウロは、あくびをかみ殺した。こんなポカポカしている日に、こんな狭い部屋にいなければならないなんて、つくづく辛い仕事だ。忍耐がいる。来客がたくさんある日は別だが、特にない日は本当に暇だ。
しかし、とパウロは壁に掛けてある小さな時計に目をやる。一時半。きっともうすぐ、例の来客が来るに違いない。彼は、二時になるのをひたすら楽しみにしていた。四年前に二度、彼に会ったことがある。一度目は自分がまだ夜間警備をしていたころで、彼は髭面だった。夜中に急に現れ、それらしい恰好をして自分を騙し、泥棒として中に入った。途中で少し、気がつきそうになったが、その瞬間スタンガンで気絶させられた。自分は被害者だというのに、パウロはその後危うくクビにされそうになり、たるんでいると昼間警備にさせられたのは、今ではいい思い出だ。
二度目は、警備員の恰好をしていた。髭がさっぱりと剃ってあり、恰好も違ったため、自分は最後までその男が、あの夜に出会って自分を気絶させた男だとは気がつかなかった。その事実を知ることができたのは、この家に住むお嬢様がこっそり教えてくれたからだ。一度ならず二度までも、その泥棒の侵入を許してしまったことは、自分にとって酷く情けないことだった。辞めたほうがいい気がする、とお嬢様に漏らすと、彼女は笑って「そんなの許さないわ」と一蹴した。
「彼はいつか、ここに来るの。その時、迎えてくれるのがあなたじゃないと、彼は少しがっかりするわ」
とか、確かそんなことを言っていた。
「彼が迎えに?」
そうよ、と彼女は嬉しそうに彼との関係を話したものだ。その泥棒と共に家を出て、一度は強制送還させられた、飛んだおてんばお嬢様だったが、その後は落ち着いている。噂でしか知らないが、父親を説得するために戻ってきたのだとか。お嬢様の結婚話は、いつだって使用人の噂のまとだった。
しかし、彼女が外で泥棒と恋に落ち、再開を約束して彼が迎えに来るのを待っているのを知っている人は、きっとそうはいない。パウロは、使用人の中でも特にお嬢様に気に入られ、よく話をするので知っていたのだ。
「パウロは口が堅いもんね」
と、彼女に言われるのが嬉しく、この話は誰にも漏らしていない。きっと他にこの真実を知っているのは、お嬢様の側近であるシャルルぐらいなのでは、とパウロは睨んでいる。
「お」
パウロは、見慣れない車を発見し、思わず警備室から飛び出た。白い、少し古びた車は、門の前で止まった。ドアが開き、ひとりの男が出てくる。男はパウロと目を合わせると、どうも、と頭を下げた。
「久しぶりだな」
とパウロが話しかけると、え、とその男は固まった。
「スーツ姿はにあわねぇな。最初に見た姿が、一番似合ってると思うぜ」
たたみかけるようにパウロが言うと、男はいまいち状況が飲みこめないか、はぁと曖昧な返事をするだけだった。
「あのときの泥棒だろ? パロマお嬢様から全て聞いてるよ」
「あ、なんだ、そうなんですか」
男は決まり悪そうに顎を撫でると「いろいろとすみませんでした」と頭を下げた。顎には、少しだが髭が生えている。無精ひげだったころの姿を思い浮かべ、少しは洒落た恰好をするようになったものだ、とパウロは小さくにやついた。
「スタンガンは痛かったな」
「すみません……」
「今は何を? 泥棒を続けてるんじゃないんだろ?」
はい、と男は頷いた。少しだけ表情に笑顔が浮かぶ。
「今は、小さな文具会社で、開発を」
「ほお」
パウロは感心した。そんな仕事をするようになったのか。
「……手先が器用なのが、買われまして」
男のその言葉に、パウロは声を上げて笑った。
「はっは、傑作だ」
「どうも」
男も恥ずかしそうに笑った。なかなか面白い奴だ。もう少し話していたいが、彼はすぐにでもこの門を通り抜けたいだろう。パウロはひとつ咳をすると、仕事口調で「名前と用件を」と述べた。はい、と男は頷き、自分の名前と用件を述べた。
「フアン・バティスタ。用件は……パロマお嬢様をお迎えにあがりました」
パウロは机に向かい、はいはいとフアンの名前を書き記した。
「来客の用件……お嬢様を盗みに、でいいか?」
「正面突破、迎えに来たんですよ」
「盗みに来た時も正面突破だったがなぁ」
パウロは笑い、はいよ、と門の開くボタンを押す。ギギギ、と門がゆっくりと開いて行った。
「車は、入って左側に止める場所がある」
「ありがとうございます」
「二人で一緒に出てこれることを願っているよ」
多分大丈夫、とフアンは笑い、急ぎ足で車に戻って行った。
「……お嬢様」
屋敷の中から、シャルルはずっと窓の外を見つめていた。今日、あいつは来ると言っていたが、なんとなく本当に来るものなのかと思っていたが……白い車がやってきて、門をあっさりとくぐってしまった。
「来た?」
と、パロマが身を乗り出す。シャルルは「はい」と冷静を装って答えたが、その微妙な声の変化に、パロマは気がついたかもしれないな、と思った。何年も一緒にいるのだ。
「……シャルル」
パロマは、さっぱりとした自室を見渡すと、座っていた椅子から立ち上がった。荷物は二つ、大きな鞄に詰め込めるだけ詰め込んでいる。なるべくシンプルにと、これでも最小限の荷物にした。
シャルルはその荷物を持つと、行きましょうか、と振り返らずに言った。今、振り向いてしまったら、情けない表情を彼女に見せてしまう事になる。
とうとう、お嬢様は行ってしまうのか。
自分の、彼女に対する想いはとうの昔に封印したが、それでも、やはり悲しいことには変わりない。自分の一部が、無くなってしまうようなものだ。この虚無感は、きっと、パロマがいなくなった後、更に重くなってのしかかるのだろうと思うと、より切なく、苦しくなった。
それでも、行ってしまうのだ。彼女は、あの泥棒を、愛している。一番近くにいる時分だからこそ、その真剣さは、痛いほど理解できた。
「シャルル」
シャルルが部屋を出ようとすると、パロマがそれを呼びとめた。
「ありがとう」
ゆっくりと振り返ると、パロマはシャルルに向かって頭を下げていた。シャルルは反射的に荷物を放り投げ、止めてください、とパロマの両肩を持ち、ぐいと上半身を上げた。
パロマが小さく声を漏らした。シャルルと目が合う。彼女の目は、潤んでいた。ばれちゃった、とパロマは笑うと、両手で涙をぬぐった。こぼれる前に拭おうとするが、涙は止まらないようだ。やがてパロマは、両手を目に押し付けたまま、小さく同じ言葉を繰り返した。
「ありがとう……シャルル、ありがとう」
「……とんでもございません、お嬢様」
シャルルは、いつものように、冷静な声のトーンで返事をした。必死に、自分も泣いていることを悟られぬようにと、声の震えを隠していた。
「あなたには、感謝しても……しきれないわ」
そう言って、涙を拭っていた手を、パロマはそっと離した。慌てて、シャルルは俯く。泣いている姿など、見せたくは無かった。
パロマはそっと、シャルルの頬に手を差し伸べ、頬にキスをした。最初で最後の、
別れのキスだった。
「また、会いに来るわ」
「もう……戻っては来ないのでしょう?」
寂しそうなシャルルの声に、そうね、とパロマは呟いた。
「この家には、戻ってこないわ。でも、何も一生の別れじゃない。たまには会えるわよ。連絡も、きっとルルには、一番するわ」
その言葉が、シャルルにとっては何よりもありがたかった。小さく、彼女の頬にキスを返すと、いつもの笑顔で、微笑んだ。
いつだって、こうやって微笑み、ずっと彼女の傍にいたのだ。最後の、最後まで、笑っていなくては。
「いきましょう」
パロマは、顔を上げたシャルルの目から涙がこぼれおちるのを見、彼の初めて見せた表情にどきりとした。また泣きそうになってしまうが、ぐっとこらえ、笑顔を返す。
「うん」
パロマは、そうして部屋を出た。扉を閉め、扉に飾ってあった「パロマ」という文字の書いた飾りをそっと外し、手持ちの鞄に入れた。
客間に急ぎ足で向かうと、すでにそこでフアンは待っていた。両親はまだのようだ。パロマの姿を捕えたフアンは、固くしていた表情を和らげた。パロマはフアンの名を呼び、駆け寄って抱きしめた。
「今日と言う日を待ってたわ」
「俺もだよ」
熱い抱擁を交わす二人を引き裂くように、ごほん、と大きな咳ばらいが聞こえ、フアンははっと顔を上げる。扉の横に待機しているシャルルが、少し不満げな表情を浮かべて立っていた。なんだよ、と思わず睨み返すと、シャルルは目を横に動かし、小さく「いらっしゃいましたよ」と言った。フアンもパロマもその言葉に慌てて離れ、近くのソファに座る。
すぐに、扉がノックされた。シャルルが流れるような動作で扉を開けると、そこには背の高い白髪の男性と、小柄な黒髪の女性が立っていた。パロマの両親だ。フアンは立ち上がり、頭を下げた。その動作に、ふん、と鼻息が返って来る。間違いなくパロマの父親のものだ。
わらわらと数人のボディーガードに囲まれ、両親は部屋に入ってきた。その後ろにもう一人人がいることに気がつく。同じく背の高い、爽やかな風貌の青年だった。
「兄様まで」
フアンの隣に座っていたパロマが、驚きの声を上げた。兄はやぁ、とパロマに向かって手を振った。パロマにとっても予想外の人物の登場に、フアンの緊張はピークに達した。あぁ、どうかしっかりと自己紹介が出来ますように。
客間は、かなり広い部屋だった。壁に絵が何枚も飾られ、食器が置かれた棚があり、洒落た置き物がいくつもあった。その部屋の真ん中に、深い緑のソファが置かれていた。硝子の机を挟み、それぞれ三人ずつ座れるようになっている。
むすっとした表情の父親が、ずかずかと歩み寄って来ると、フアンに大きな手をぐいと差し伸べた。思いがけない友好的な態度に、一瞬フアンは硬直する。早く、と言うかのようにパロマの父親が小さく手を上下に揺らしたため、慌ててフアンはその手を取り、頭を下げた。
「初めまして、フアン・バティスタと申します」
「ペドロ・トーレスだ」
それだけ言うと、ふんとペドロは手を離し、どさりとソファの真ん中に腰掛けた。父様! とパロマが小さく怒鳴るが、ふん、とペドロは不機嫌なままだ。
ペドロに続き、大人しそうな女性が、すっと手を差し伸べた。フアンはゆっくりとその手を取り、フアン・バティスタです、と同じような挨拶をした。
「エリアナ・トーレスです」
静かにフアンを見つめた目は、パロマにそっくりだった。思わずどきりとなるが、エリアナは挨拶だけすると、静かにペドロの横に座った。
にこにこと近寄ってきたのは、パロマの兄だ。パロマにはあまり似ていないが、微笑んでいる口元はそっくりだった。垂れ目なのは、母親に似ている。フアンは変に緊張した。この感覚、どこかで……。
「フアン・バティスタです」
「セサールです。セサール・トーレス」
にこりと歯を見せたその笑顔は、モデルのようだった。あぁ、とフアンは確信する。そうだ、ホセと同じような空気をまとっているのだ。
「妹が世話になりました」
と、一言付け加えるところも、どこか似ている。どうも、とフアンが頭を下げると、セサールだけはやけに楽しそうにソファに腰掛けた。セサールが座ったタイミングで、ペドロが「どうぞ」とつっけんどんに言った。
「父様!」
パロマはもう一度小さく怒鳴り、フアンに「ごめん」と謝った。いいよ、と答えていいのかも分からず、曖昧な返事をしながら、フアンはソファに腰掛けた。緊張で、口の中がからからだ。
しばらくの沈黙の後、それで、と切りだしたのはペドロだった。
「君は、この子を幸せにできるのかね」
唐突すぎる質問に、パロマもフアンも度肝を抜かれたが、ちょっととパロマが口を挟む前に、フアンが即答していた。
「はい」
いいね、と答えたのはセサールだ。立ち上がり「お幸せに、パロマ。フアンさん、そいつをよろしくお願いします。結婚式には呼んでください」とだけ言うと、くるりと踵を返して扉に向かって行ってしまった。
「待って、兄様」
パロマが立ちあがると、セサールはにこりと微笑みを返した。
「なぁに? 俺は、もう満足、兄として認めたよ、って言っても俺より年上の人だから偉そうに言えないけどね。仕事があるんだ、じゃぁね」
どうも、とセサールはフアンに軽く頭を下げた。フアンが慌ててそれに返事をするように頭を下げ、ゆっくりと上げたときにはもう、セサールの姿は無かった。
「……ワーカーホリックなのよ」
ごめん、と小さくパロマは謝ってきたが、フアンは兄の一言が嬉しかった。認めたよ、だなんて。あの兄さんとは、もっと話がして見たいものだとひそかに思いながら、フアンは目の前の両親に向き合った。
無表情だったエリアナは、いつの間にか口元に微笑みを携えていた。小さく「あなた」と言うと、ペドロは腕を組み、相変わらずの仏頂面で、ふん、と鼻息をあらだてた。
「娘から、君については本当に細かく聞いている。今、どんな仕事をしているのか、どんなことをしていたのか……娘の脱走に、脅されて無理やり加担されたのだろう。その節は、申し訳なかったな」
「いえ、そんな」
運命の出会いでしたよ、ははは、とは言えず、フアンは頭を下げるだけだ。
「二年、娘と話しあいを重ねたが、娘があまりにまっすぐなものでな……私は正直驚いたよ。今まで、思い返せば、なんでも素直に言う事を聞く子だった。頑固ではあったが、こうやって自分の人生を変えてまで、自分の道を進みたいと懸命に話してきたのは初めてだ」
正直、途中であきらめると思ったんだがな、とペドロは続ける。
「頑固なのは、私譲りなようだ。お互い決闘のような話し合いの毎日が続いたが、パロマは一向に君を諦めなかった」
ふう、とペドロは、初めて弱気な姿をフアンに見せた。
「娘の幸せを願ってしまった時点で、私の負けだよ」
そうして、しばらく俯いたまま黙った。フアンもパロマも、黙って彼の言葉を待っていたが、次に言葉を引き継いだのは、エリアナだった。
「悲しいんですよ」
その言葉に「こら」と顔を上げたペドロに、ふふふと微笑みを返すと、エリアナは続けた。
「この人もね、鬼のように厳しい社長ですけど、お父さんなんですよ。だから、今回出会いがしらに質問したんですの。即答できなかったら、殴ってやるって、ねぇ」
「言うな、まったく」
ペドロはふん、と組んでいた腕を解くと、両膝の上に両手を置き、大きな声で言い放った。
「そういうことだ。パロマの幸せが保証されるなら、それ以上は何も望まん、娘を頼む、俺は仕事に戻る!」
「えっ、ちょっと」
ペドロは勢いよく立ちあがると、大股で扉に向かって行った。にこにことエリアナはそれを送っている。フアンはきょとんとしたまま動けない。パロマだけが立ちあがり、父親を追いかけ、腕をぐいと引っ張った。
「それだけ?」
「十分だ」
ペドロはそう言うと、パロマの頭を撫でた。
何年振りだろう。予想外の行動に、パロマもきょとんと硬直してしまう。
「私も仕事があるのでな、用は済んだ。幸せになれ。たまには、元気な顔を見せてくれるとありがたい」
じゃぁな、と、ペドロは微笑んで、その場から立ち去ってしまった。父の後ろ姿を、パロマはしばらく見つめていた。そんな娘の姿を見て、ふふ、とエリアナは笑う。
「素直じゃないところも、そっくりでしてね」
そう言うと、では、と小さくエリアナはフアンに頭を下げた。
「私も、ここで失礼致します。――あの子がね、私には話したんですよ。貴方が一人の男性として、どれだけ素敵かって。あんなに幸せそうなあの子、久々に見ました……四年前から、その気持ちは変わっていませんよ、昨日も、本当に嬉しそうで、はしゃいでいました。どうぞ、お幸せにね」
「えぇ……あの」
首をかしげるエリアナに、フアンは力強く誓った。
「必ず、幸せにします」
「あなたなら出来るわ」
エリアナはでは、ともう一度頭を下げると、そっとパロマに歩み寄った。何かを二人で話していたが、小さな声だったため、フアンには届かなかった。
パロマは、何度かエリアナの言葉に頷いていた。そうして、最後に頬にキスをすると、エリアナは部屋を出て行った。パロマは、しばらくその背中を見つめていた。フアンはそっと立ち上がり、パロマに歩み寄った。パロマはフアンと目を合わせ、そっと手を伸ばした。
「行こう」
「……随分とあっさりしてたな」
「私がずーっと、フアンについて話していたから、皆初めて会った気がしないんだと思うよ。知らなかったのは、顔だけ」
「そう……だよな」
「うん。だから、あっさりしてたのは予想内」
フアンは差し伸べられた手を取ると、そっと掌にキスをし、肩を抱いた。
「行こう」
パロマはもう一度言うと、客間を出た。早足で屋敷を出ると、白い車めがけて一直線で走りだした。
「おい! パロマ!」
「早く!」
パロマは一人で随分と遠くに行き、車の傍でフアンを手招いた。その姿にはは、と笑うと、後ろから静かにシャルルが声をかけてきた。
「お嬢様を、よろしくお願い致します」
フアンが振り向くと、シャルルはペドロに負けず劣らず、むすっとした顔をしていた。
「少しは隠せよな」
と、思わずフアンは笑ってしまう。
「隠しませんよ。兄のような心境なんですから、妹がいなくなってしまうのは悲しいです」
そういって、シャルルは手に持っていた荷物をはい、とフアンに渡した。
「私は、ここで」
「そんな、最後に見送れよ」
「いやですよ、泣いてしまいます」
シャルルは荷物をフアンに押し付けると、パロマに向かって叫んだ。
「お嬢様! 私はここで!」
その言葉に、えぇ!? とパロマは驚きの声を上げる。
「何言ってるのよ、最後に見送りしてよ! ふざけないで、冗談はやめて! はやく、二人とも!」
パロマの猛抗議にフアンとシャルルは同時に吹き出した。
「お嬢様は手ごわいですね」
「全くだ」
二人は早足で車に向かった。フアンが車の鍵を開けると、すかさずシャルルが助手席のドアを開ける。最後まで抜け目のないお付きだ。
パロマは助手席に乗り込むと、シートベルトを素早い動作でつけた。待ちきれないようで、足をぱたぱたと動かしている。フアンは、車のトランクに荷物を詰めると、運転席に乗り込んだ。パロマと目が合う。えへへ、とパロマは頬を赤くして微笑んだ。つられて、フアンもにこりと笑った。
エンジンをかける。パロマは、窓を開けると、すぐそばに立っていたシャルルに声をかけた。エンジン音に負けないよう、少し声を張り上げる。
「ありがとう、シャルル! 行って来るね!」
「いってらっしゃいませ」
シャルルは礼儀正しく、頭を下げた。ばいばい、とパロマは呟いたが、それが彼に届いたのかは分からなかった。
「行くぞ」
フアンは、車をバックさせ、方向を変えると、ゆっくりと門へ向かった。門はすでに開けてある。傍で、パウロがにやにやと笑っていた。
「じゃぁね、シャルル」
パロマは、もう一度大きな声で言ったが、シャルルは顔を上げなかった。車は遠ざかって行く。門を過ぎる際にスピードを落とすと、パウロがフアンに向かって親指を立てた。フアンもそれを返すと、門を抜けた。
パロマは、パウロに手を振った後も、シャルルを見続けていた。遠くで彼が顔を上げたのが見えたが、パロマには、その表情を確認することも出来なかった。
車は、ゆっくり右折した。とうとう、屋敷が見えなくなった。
「寂しいか?」
フアンの問いかけに、少しね、とパロマは涙をぬぐった。
「あんなに出たかったはずなんだけど」
「でも、ついてきてくれた」
フアンはそう言って、スピードをゆっくりと落とすと、誰もいないような道で、こっそりと車を止めた。大きな木の下だ。木陰になっていて、とてもムードがある。パロマは嬉しくなって、そっとフアンに顔を向けた。フアンはシートベルトを取ると、小さくパロマにキスをした。パロマも、シートベルトを取り、自由になると、フアンにつられてキスを返した。しばらく、二人は何も言わずに唇を重ねていたが、長いキスになりそうなところをフアンは指で制し「後でにしようか」と微笑む。そうね、とパロマも頬を真っ赤にして答えた。
「アンナが、凄い御馳走を作って待ってる」
「本当?」
「ホセも、今日は仕事を入れてないよ。アルベルトも、なんだかんだ楽しみにしてるみたいで、いいワインを買ってたよ」
「わぁ、楽しみ」
「早く行かないと……と、その前に、パロマ、目を瞑って」
「え?」
いいから、とフアンは強引にパロマの目を瞑らせた。何かな、キスかな、と待ちわびているパロマの予想に反し、キスはされなかった。代わりに、何かごそごそと音がする。何を用意しているのかしら?
「いいよ、開けて」
パロマがゆっくりと目を開けると、目の前には銀の指輪が光っていた。あっ、とパロマが息を飲む。フアンは照れた顔で顎を撫でると「今さらだけど」と前置きをした。
「しかもこんなところで悪い。でも、すぐに言いたかったんだ。約束、まだだったろ」
パロマ、とフアンは微笑んだ。
「俺と、結婚してください」
パロマは、ゆっくりとその指輪を受け取った。すでに涙で頬が濡れている。パロマは泣きじゃくりながら、もちろんよ、とフアンに笑いかけた。
「そうね、約束はまだだった……でも、びっくりよ」
「驚いたろ?」
「本当に……嬉しい。ありがとうフアン。指輪、つけて?」
フアンはパロマから指輪を受け取ると、そっと薬指に指輪をつけた。ダイヤモンドがきらりと光る。パロマは、嬉しそうに指を伸ばし、その指輪を眺めた。
「私、今、最高に幸せ」
「今から、それ以上に幸せになるよ」
フアンは頬を赤らめながらそう言うと、シートベルトをつけた。「最高ね」と笑いながら、パロマもシートベルトを付けたのを確認すると、よし、と二人は目を合わせた。
「帰ろうか」
「うん」
二人はそっと笑いあい、もう一度キスをした。白い車が、青空の下を駆け抜けて行く。古びたビルは、もうすぐそこだった。
End.
あとがきに続きます