16 何年でも待つよ
昼過ぎだったためか、道路はあまり混雑しておらず、すぐに車は古びたビルに到着した。
ホセの帰りをずっと待っていたのだろう、ビルの前に、青い人影が見えた。アンナは車に気がつくと、大きく手を振りながら駆け寄ってきた。ゆっくりとホセは車を止め、シートベルトをはずし、「失礼」とドアを開ける。
「アンナ」
ホセがアンナの名前を呼び、駆け寄るアンナを抱きしめた。
「よかった……無事でよかった……」
アンナは顔を上げ、おかえり、と呟く。
「心配性だよ、もう」
とホセはアンナの頭を愛おしそうに撫でながら、そっと額にキスをした。
車の中からアンナの姿を見たパロマは、アンナの表情に驚いていた。いつも明るく、くるくると表情を変えている彼女が、ぼろぼろと泣いているのだ。また、私のせいで……と、パロマが落ち込んでいると、そんな彼女の気持ちを察したように、パロマの手がそっと握られた。
顔を上げると、フアンが微笑んでいた。
「アンナは泣き虫なんだよ、あぁ見えて。感情の起伏が激しいんだ。パロマを見たら、もっと泣くよ」
パロマが答える前に、フアンは出よう、と車のドアを開けた。その音に驚いたのか、アンナは反射的にホセから離れた。そして、後部座席から出てきた二人の姿を見て、口をあんぐりさせた。
「心配掛けたな」
フアンは手を上げ、パロマは何も言わずに頭を下げた。
何を言えばいいだろう。
言葉を探したが、結局見つからないまま、パロマは顔を上げた。と、次の瞬間には、アンナに抱きしめられていた。
「わっ……」
アンナは目いっぱいパロマを抱きしめながら、声にならない声でよかった、と何度も呟いた。
「無事で……よかった……心配した……急に連れてかれたって……きい……てて……」
「……心配掛けてごめんなさい」
パロマの言葉に、何言ってるんだよ、とアンナは笑った。そっとパロマを離し、パロマの頭を撫でる。
「友達だから……心配するのは、当たり前なの。戻ってきてくれて……ありがとう」
アンナはそう言って、もう一度強くパロマを抱きしめた。パロマは、次から次へと溢れる涙を止めることは出来なかった。
四人はビルに帰り、途中でフアンとパロマは別れた。まずフアンと話をした後に、ホセとアンナの二人に話に行きたいと、パロマが申し出たからだ。二人はこれを快諾した。
「待ってるよ」
とアンナは赤い目のままいつもの笑顔で微笑んだ。パロマも小さく頷き、手を振った。二人が年の離れた姉妹のように見え、微笑ましく思っていたフアンには、ホセが意味ありげなウインクを飛ばした。なんだあいつ、と苦笑する。二人の時間を楽しんでね、のウインクなのか、二人の時間を楽しもうね、なのか、二人の時間を楽しむから時間考慮してね、なのか……とにかく、待ってるよ、のウインクでないことだけは確かだ。
二人が階段を上って行く音を聞きながら、二人はドアの前で止まった。その時、カンカンと階段を走る音が聞こえた。ホセか? とフアンが階段を見ると、そこから現れたのはアルベルトだった。寝起きの顔だ。慌てて駆けてきたのだろう、少しの距離のはずなのに息が切れている。
「……フアン、どうだっ――」
言いかけて、アルベルトはフアンの傍にいるパロマの姿を見つけた。目が合い、パロマは少しだけすくんだが、アルベルトはパロマににやりと笑いかけた。
「成功」
フアンが手を出すと、アルベルトはその手に自分の掌を叩きつけた。そのままがっしと手を握り合う。よし、と小さくアルベルトが呟くのを、パロマは聞いた。
「パロマ、アルベルトが、今回の俺の作戦に多大なる協力をしてくれた」
「え……?」
やめてよ、とアルベルトは口を尖らせる。
「情報集めろって言われたらから、集めただけだ。ビジネスだよ、ビジネス。ビジネスの相手がしっかりと仕事をこなしたら、喜ぶのは当たり前だろ。眠いから寝る、ばいばい」
マシンガンのようにそう言うと、アルベルトはいつもの無表情で手を振り、くるりと背を向けた。フアンが口を開くより前に、パロマは前に出て、アルベルトの背中に向かって小さく言った。
「アルベルトさん……ありがとう」
アルベルトは振り向いて、べっとふざけたように舌を出すと、寂しそうな笑みを浮かべた。
「……俺こそ、あのときはごめん」
アルベルトの言葉に、ううん、とパロマは何度も首を横に振った。アルベルトは複雑そうな表情を浮かべたまま、踵を返し、そのまま走って行ってしまった。その姿に、フアンとパロマは同時に微笑んだ。
「アルベルトさん、協力してくれたのね」
「徹夜だぞ、あいつ」
「今度、ちゃんとお礼言いたいな」
「おう、一緒に言いに行こう。あいつの好きなワインも知ってるし」
それは楽しみだわ、とパロマは白い歯を見せて笑った。
「……謝って、くれたってことは、何か許してもらえたのかしら」
「きっと、あいつの中でも少しだけ、変化があったんだよ」
「今度ゆっくり、話そうと思う」
「あぁ」
フアンは小さく頷いた。きっと、話せば二人は仲良くなれるだろうという確信があったからだ。
さて、とフアンはドアに向き直る。パロマも動きをまねて、ドアの方を向いて動きを止めた。
「……一旦部屋に荷物置く?」
フアンの提案に、パロマは首を横に振る。
「これしかないもん」
小さなバッグをくいと上げる。確かに小さく、軽そうだ。中に何が入っているのだろうと考えながら、じゃぁ……とフアンはポケットから鍵を出し、自分の部屋の鍵を開けた。
ゆっくりとドアを開け、「入る?」と聞くと、うん、とパロマはフアンを見上げて微笑み、部屋に入って行った。そう言えば、ついこの間もこうやって彼女を部屋に招き入れた。あのときは確か、お邪魔します、なんて言っていたような気がする。
フアンが扉を閉めると、その瞬間にパロマが抱きついてきた。
「おい」
照れながら、フアンもしっかりとパロマを抱きしめる。もう、彼女を止める理由が無い。
「フアン、本当に来てくれてありがとう」
「何度でも盗んでやるよ」
「頼もしい泥棒さんだわ」
パロマの涙をフアンの大きな手が拭い、小さく涙のあとにキスをした。
「髭そったのね」
「警備員は髭生やしてないだろ」
「好きだったのに」
パロマが、フアンの顎を撫でた。また生やすよ、とフアンは笑って、パロマの唇にキスをした。小さくキスをした後、パロマは少し寂しそうにほほ笑んだ。
「……本当は、今すぐに、ここでの生活を始めたいの」
彼女の表情の変化とその言葉を、フアンはすぐに理解していた。
「大丈夫」
その返事は、そうじゃぁなくてもいい、というフアンの率直な答えだった。パロマは涙を拭うと、フアンの胸に顔をうずめた。フアンはそっと身体を後ろに倒し、ドアにもたれかかると、その場に座り込んだ。パロマも一緒に座り、フアンが立てている足の中にパロマが入る形になる。パロマの頭に顎を乗せ、目いっぱい彼女を抱きしめると、フアンは黙ってパロマの言葉を待った。小さく泣いているのは、決意の表れだろうと感じ取っていた。あとは、その言葉を聞くだけだ。
「――フアン、愛してる」
「俺もだ」
即答され、パロマは少し微笑んだ。その後、少しだけ黙ると、ゆっくりと言葉を紡ぎはじめる。
「……でも、逃げてきて分かったの。凄く幸せだったけど、たくさんの人に迷惑をかけたわ」
「うん」
「だから、しっかり決着をつけなきゃ、だめよね。何日……いえ、何カ月かかるかわからないけど、みんなを説得する。さっき見たでしょ、特に父様と、私、話しすらまともにできない……こんなんじゃだめだから、ちゃんと私のことを分かってもらう」
「――それがいいよ。逃げてきたら、後悔することだらけだ」
そっか、とパロマは小さく言った。もう、フアンに通じだとパロマは確信していた。これ以上の説明は、いらないだろう。
「フアンはこれからどうするの……?」
うーん、とフアンは苦笑した。
「大丈夫」
今度はパロマが、その言葉を言う番だった。フアンは少しだけ驚く。もしかしたら、パロマは自分が言いたいことを分かってくれているのかもしれない。
「……泥棒、やめるよ」
「うん」
「今まで盗んだ宝石、全部覚えてるんだ、俺」
「いくつ?」
「パロマのを入れないで、46個」
「どうやって返すの?」
「正面突破」
その返答に、パロマはくすくすと笑うと、頑張ってね、と返した。少しだけ、パロマを抱きしめる力が強まり、思わず顔を上げるが、フアンの表情は見えなかった。声が、少しだけ固くなっていた。
「俺こそ、何年かかるか分からない。でも、しっかりと全て返す。宝石は、全部メリッサに売ったから、そこからどこかに売れてなければ、メリッサが持ってるはずなんだ。それを買い戻して……って言っても、借金だけどね、メリッサには交渉して、あとで返すって約束する。ひとまず、宝石を返して、ないものは探して取り戻す。もちろん金を払ってね――全て返すのと同時に、仕事も探して、ちゃんと働く。もう、こんなところで泥棒するのはやめだ」
「私は、どれぐらい待ってればいい?」
「俺の予想だと――」
フアンはそこで黙ったが、パロマがすぐに
「何年でも待つよ」
と言ったため、その後小さく「五年」と答えた。思ったより短い、と笑うパロマを、フアンはとても愛おしく思った。
「予想してた、きっとフアンは、泥棒を辞めるんだろうって」
「俺も予想してた、パロマは家に戻って説得するか」
「するか?」
「私も泥棒になるって言うか」
「いやよ、私不器用だもん」
きゃらきゃらと腕の中でパロマは笑った。フアンもつられて笑う。
「五年後も説得できてなかったらごめんね」
「そしたら俺が待つよ、何年でも」
「ありがとう。嬉しい。……終わったら、連絡してね」
「あぁ、パロマにふさわしい男になって戻って来る。泥棒としてパロマを盗むんじゃなくて、男として、パロマを迎えに行く」
「そうしたら、ずっと一緒?」
パロマの可愛い言葉に、フアンは思わず赤面した。この子は、ほんとうにいつだって、こうやって真っすぐだ。
「パロマが良ければ」
「当り前じゃない」
よかった、と呟いたのは同時だった。お互いきょとんとして目を合わすと、二人で大笑いし、その後小さく口づけをした。どちらからしたのかは、分からなかった。
その後すぐ、フアンの部屋の電話が鳴った。相手はアンナで、一緒に夕飯をどうか、という誘いだった。パロマは喜んでそれに同意し、手伝うからと電話の直後に二人の部屋へ向かった。
手伝う、と言うパロマの申し出に、アンナはとても喜んだ。男性陣も食事を作る手伝いをしようとしたが、二人で話したいからとキッチンに入れさせてもらえなかった。仕方がないため、フアンとホセはテーブルを整えることにしたが、すぐに終わってしまった。
「はい」
と、ホセが出してきたのは、洒落たワイングラスだった。ひとつをフアンの前に、もうひとつを手に持ち、フアンの横に腰掛ける。ワインはすでに、机の上に置かれていた。軽いつまみも置かれている。準備は完璧だ。
「先に飲んじゃおう」
「いいのかよ」
「いいよ、もうすることもないし」
ホセはそう言って、ワインを開けると、フアンのグラスに注いだ。そのさまになっている姿を見て、あ、とフアンは思い出す。
「お前、仕事は?」
「まだ時間あるから平気。九時ごろにここを出ればいいよ」
乾杯、とホセはフアンのグラスに自分のグラスをこつりと当てた。硝子の音が小さく響く。ホセはすぐにワインを飲むと、いいやつだよと微笑んだ。
「で?」
と、ホセは身を乗り出す。何? と尋ねるフアンに、とぼけないでよ、とホセはせかした。
「パロマちゃんはここに残るって? 同居? 広い部屋開けようかって、さっきアンナと話してた」
「それは後でパロマから聞けよ」
「今、アンナとどうせ話してるよ。ね、どうするの? 結婚?」
「馬鹿言え、即急だろ。一旦俺たちは」
フアンはそこで言葉を切ると、手を合わせ、それを離して見せた。そのジェスチャーに、え、とホセは小さく驚く。
「別れるの」
「一旦、だよ。パロマは脱走ではなく、ちゃんと親を説得、俺は盗みで生計を立てるんじゃなくて、ちゃんとした仕事を探す。盗んだ宝石は、全て持ち主のところに持って行って謝罪する」
「へぇ、いいんじゃない」
フアンの言葉にホセは驚いていたが、表情は少し安堵しているようにも見えた。
「警察に突き飛ばされたらどうすんの」
「俺は、警察に『盗みを働いてました』っていう行動じゃなく、本人に直接謝りに行くシンプルな方法を取っただけだ。俺は反省してるし、牢屋の中に何年いるとか、お金をたくさんはらうとかよりも、一人でも多く、直接謝りたい。その過程で突き飛ばされたら、そんときゃそんときだ」
「巧みに、その道だけは避けて行くんでしょ」
口が上手いから、とホセが笑い、まぁなぁ、とフアンが曖昧に答える。
「それにさぁ、泥棒なんて、よくあることだとか言われそうじゃないか? 警察に行っても」
フアンの一言に、ホセは大笑いした。
「確かに、珍しい悪事じゃないもんね、つきかえされるかも。それじゃフアンが納得しないんだ」
「そう、だから警察に行くんじゃなくて、直接謝りに行く」
「パロマちゃんは何て」
「何年でも待つって」
「ふふ、本当に、いい子だね」
言って、ホセは静かにワインを飲みほした。
結局アンナもパロマから事情を聞いており、夕ご飯の席は、二人の今後の話はあまりせず、雑談がほとんどをしめることとなった。しかしその雑談の前に、フアンの居住の話で少しもめた、と言うよりも、フアンが皆に反対された。
「は? 引っ越すってなんで? 意味無いじゃん」
フアンがそれとなく引越しの話をもちこむと、まずはアンナがばっさりと切り捨てた。
「こんなに安くて土地のいい場所、ないよ? クリシェにも世話になるんだろ?」
「そうだよ、引っ越しするお金と労力の無駄だよ」
同意するのはホセだ。フアンは困ったように頭をかく。
「何て言うか、けじめと言うか」
「そんなけじめいらん」
またもばっさりとアンナに言われ、フアンは思わず言葉に詰まる。
「どうせ盗むときに遠くに行ったりしてないだろ? 近場をぐるぐる回っていたはずだ」
「うう」
「ここから出るな、私たちにこれ以上迷惑を、なんて考えてるならそんなものもいらない。どうぞ迷惑をかけまくってくれ、そうしてちゃんと、一人前になって、しっかりとした家を持てるようになってから出ていけ馬鹿」
「馬鹿は、ひどい」
「阿呆」
アンナはふん、と笑うと、ここにいろ、と付け加えてこの話を終息させようとした。どうしよう、とフアンはパロマをちらりと見ると、そうだなぁと困ったように笑った。
「フアンの考えは尊重したいけど……場所を知ってると私は安心するし……ここ、好きだし」
「……じゃぁ、引っ越しません」
パロマちゃんに弱いなぁと、ホセはすぐにフアンをからかった。すかさずフアンが脛を蹴り飛ばそうとするが、予想していたように避けられる。
「あのねパロマちゃん聞いて、フアンって照れると俺の脛蹴るんだよ」
「どういうこと?」
「前もね――」
「フアンって照れ屋さんだね」
夕ご飯が終わり、ホセが仕事に出かけるタイミングで、夕食会はお開きとなった。不安の部屋に二人で帰ると、頬を赤くしながら、パロマがフアンにそう言った。ワインを少しだけ飲んだパロマは、どこか上機嫌だ。
「そうか?」
酒に強いフアンは、かなりの量を飲んでいたが、パロマと同じぐらい、頬がほんのり赤くなっているだけだ。
「私はそうは思わないけど、ホセが言ってたじゃない」
「照れ屋っていうか、照れ隠しだよ。ちゃんと思ったことは結構照れずに言うぞ?」
「例えば?」
フアンはコップを取り、水を中に入れると、はいとパロマに手渡した。渡すついでに「例えば、大好きパロマ、とか」と付け加える。パロマはきゃらきゃらと笑うと、私も私も、とフアンの腕にしがみつき、水を一気に飲み干した。
すぐそばにあった机の上にコップを置き、パロマは両腕でフアンに抱きつく。顔を押しつけ、見えないようにしているが、フアンはすぐにパロマが泣いていることに気がついた。
「……パロマは泣き虫だ」
「…………知ってるもん…………」
ぐずぐずと泣いているパロマの頭を、フアンは優しく撫でた。コップを机に置くと、優しくパロマを抱きしめる。
「寂しい……」
「俺もだよ」
「会える?」
「最初は無理かもな、お互い忙しくて。でも、会えるよ。俺が宝石を全て返して、仕事もして、そうしたらちゃんと、迎えに行くから、そうしたら一緒に暮らそう。毎日会える」
「私、頑張る」
「俺も頑張る。電話、するから」
パロマは返事をせず、代わりにフアンの腕の中でこくりと頷いた。そうしてしばらく二人で抱き合っていると、突然パロマはぴょんとフアンから離れた。
「わっ」
パロマはにかっ、と白い歯を見せた。もう泣いてはいないようだ。安堵するフアンからパロマは跳ねるようにして離れると、ベッドの上に飛び乗った。すぐそばにある窓を開けると、夜の風が一気に入って来る。
「わっ……」
パロマはしばらく目を瞑り、その風を身体全体で受け止めた。少し風が弱まると、そっと目を開け、空を見た。
「月が無い……残念」
「パロマは月が好きだな」
「うん。朝日も好きだよ、ここの窓はいいね」
窓を閉めて、ねぇ、とパロマはベッドの上で膝を抱えた。
「フアンも一緒に見よう」
「………………」
「……照れ屋」
パロマが意地悪く笑うと、フアンは「確かにな」と納得した。
「パロマは、照れ屋じゃないな。最初からそうだ、好きだとか、そうやってストレートに言うから、俺は翻弄されてばっかりだった」
「私は、照れながら、でも勇気を出して言ってるの。子どもに見られたくなくて、必死よ?」
そうか。フアンは微笑むと、パロマに歩み寄り、そっとキスをした。今までで、一番長いキスだった。
「――月は無いけど、星は見えるね」
暗闇に慣れたのか、パロマがほら、と窓の外を指差した。どれ? とフアンが乗り出し、本当だ、と二人で空を眺める。
「いろんなところに行きたいな」
「そうだな、きっと、もっと星が綺麗に見える場所があるよ」
「満天の天の川とかね。それでも、月と、星と、朝日は、ここからの景色が一番好き」
フアンと一緒に見れるからね、とパロマは笑って、フアンに抱きついた。直接伝わる体温が温かく、フアンは少し寂しくなった。しばらくは、こうやって触れることすら、きっと出来ない。
「……そろそろ寝ないと、明日寝坊したら笑えないぞ」
「目ざましかけた?」
「八時にかけた」
「じゃぁそろそろ寝る……」
フアンの胸に顔を押しつけ、小さくパロマは泣いていた。きっと、パロマも寂しいのだろう。フアンは何も言わず、パロマが泣きやむまで、静かに彼女を抱きしめていた。
翌朝、二人は一緒に朝食を取った。何気ない会話が続いた。そこに、寂しさは微塵も感じられなかった。もう、二人とも覚悟はできていたのだ。
白い服に着替え、鏡の前で「オッケー」とパロマはポーズをとって見せた。スカートの両端をつまみ、足を小さくおる。
「いい感じ?」
「おう、いい感じ」
フアンは親指を立て、笑った。よし、とパロマも上機嫌に親指を立てる。
「――じゃぁ」
床に置いてあった白い鞄を、フアンはそっと、パロマに手渡した。ありがとう、とパロマがそれを受け取る。
「行ってらっしゃい」
「行って来るね」
「本当に、ここでいいんだな」
「うん。歩いて帰る。早く、私を盗みに来てね」
「今度は盗むんじゃなくて、迎えに行くんだよ」
「そうでした」
気をつけて、とフアンはパロマに小さくキスをした。嬉しそうにそのキスを受け取ると、パロマはじゃぁ、と部屋を出て行った。
扉が閉まる。足音が遠ざかって行く。フアンはそれを、しばらく聞いていた。やがて何も聞こえなくなる。沈黙を破るように、フアンは自分の両ほほを両手で思い切り叩いた。
「はやくしねぇと、な」