14 そいつは警備員なんかじゃない
パロマの部屋の外で、警備員の恰好をしたフアンは、冷や汗をかきながらパロマを待っていた。周りには本物の警備員だ。別段自分を怪しんでいる様子はないが、それでもやはり「ばれてしまったら」と考えると、体全身が緊張した。
今から数十分前、一時四十分前に、フアンは屋敷に辿りついた。緊張で心臓が今にも出てくるんじゃないかと言うほど高鳴っていた。平静を装いながら、門の横にある警備室の窓を覗き込む。
「お疲れ様です」
小さく敬礼すると、パロマの家と契約を結んでいる警備会社の名前と、偽名を名乗った。そして、小さなカードを見せる。この警備会社の証明書だ。
おう、と部屋から出てきた人物に、思わずフアンはわぁと叫びそうになった。この前気絶させた警備員だ。こいつは警備会社の人物ではなく、トーレス家に雇われている警備員だったはずだ。フアンはとっさに記憶を辿った。たしか、アルがくれた調査所に「ついで」として書かれていた。朝八時から夕方六時までの警備員、名前はパウロ、四十三歳、既婚、一子の父。
パウロはぎろりとフアンを睨みつけた。へらへらと笑う事もできないため、なんですか? とでも言うように、フアンは冷静な対応をする。
上から下までじっくりと見られる。はやくも予想外の展開に、フアンは焦っていた。
こいつ、夜間勤務のはずじゃなかったのか!? もしばれてしまったら……考えるだけで背筋が凍った。
さすがに見張りの顔写真は頼んでいなかったし、アルもついでとして調べてくれたデータだった。フアンが本当に欲しがったのは、勤務の交代時間や、警備員の配置、人数、上司の名前などだ。
じろじろと見られながら、フアンは頭の隅で考えた。おそらくだが、自分が夜間に侵入したことで「怠惰」と見なされクビ……となるはずだったが、長年勤務の情もあり、緊張感がいる昼の見張りに変えられた、といったところだろう。
フアンがその仮説を立てるまでに数秒しか必要としなかったが、フアンにとっては何分にも感じられた。
警備員の変装をするため、ついさっき髭を剃った。髪の毛も整え、なるべく清潔にしてきたはずだが……まさか髭を剃っていてもばれるのか? こいつ、実は優秀なのか?
「――やっと昼か、交代だな、御苦労」
パウロはそう言うと、小さく敬礼をした。フアンは少し微笑むと、門の中に入った。
急いで向かおうとした際に、後ろから「おい」と呼びとめられる。
「はい?」
心臓が口から出るほど驚いたが、返事はあくまで冷静だった。今度は一体何なんだ?
「あんた、元気よさそうだな。新属かい」
パウロは、窓から顔を出して言った。フアンはえぇ、とひとつ頷く。
「今日から増員されまして」
「あぁ、そうだったな、さっきも若いのがひとり来たよ。いや、元気なのが来たな、と思ってな。中の警官は疲れきってる。ずっと何の変化もない屋敷で、密集してお嬢様の警備たぁ、疲れるだろ。あんまり根詰めないようにな」
そう言うと、パウロはフアンが頭を下げる前に、顔をひっこめてしまった。
いいおっさんなんだなぁ、あんときはごめん。
フアンはこっそりパウロに謝ると、ひとつ深呼吸をし、屋敷に入って行った。
アルベルトに頼んだ情報は、屋敷の警備についての詳細だった。アパートの前に車が来たときに、パロマは「全部うちの」だと言った。フアンは、最初警備員を全てトーレス家で雇っているのかと考えたが、それはあまりに多すぎるだろうと考えなおした。
停まっていた車は十台と少し。わらわらと駆けつけたスーツの男達は、一台につき一人だと考えて十二人だが、それよりは多かったはずだ。きっと一台に二、三人。威嚇と、パロマの安全を考えて、過保護すぎる保護で二十人ぐらいはいただろうと予想している。
そんな数を普段から雇うか? ないな、とフアンはすぐに思った。
あの屋敷にはメイドもいる、きっと門番の警備員はトーレス家が雇っているのだろうが、そう言った人の人件費は馬鹿にならない。それに加えてあの警備員では、あの数は多すぎる。
おそらくパロマの言葉は「うちの家が臨時で雇った警備員」という意味だったのだろう。
オールバックのリーダーと思しき男は、伝言を預かったり、シャルルのことについてもよく知っていた。もしかしたらトーレス家の警備員か、ボディーガードかもしれないが……常に雇っている人が数人はいたとしても、数十人はやはりいないだろう。
警備員を警備会社から日雇いする事はよくある。屋敷でパーティーを開いたり、屋敷内で重大な会議や取引が行われたりするときだ。そういったところに、危険を顧みずに進入する泥棒を、フアンは数人知っていた。警備を雇えば雇うほど、いいえさがいる証拠なのだそうだ。泥棒と言うより、スリに近い。
今回も、理由は違えど、そういった警備員が収集されたのだろう、とフアンは睨んでいた。
過保護で、それなのにまんまと逃げられて慌てふためいている両親は、警備員を大量に雇った。その警備は、きっとパロマへのプレッシャー目当てに、長いこと続くだろう。少なくとも一日、二日は、パロマの周りをうろつかせ、厳重注意で見守るはずだ。
パロマが別の場所に移されたら、という可能性も無いことは無かったが、トーレス家の別荘はひとつ、少し離れた場所だ。そこに警備員を大量に同行させるのは不可能だろう、費用がかかりすぎる。加えて、移動しているときに逃げられるリスクがある。
まるで鳥かごの中に閉じ込めるように、彼女は閉じ込められるだろう。
木を隠すのなら森の中。フアンは警備員の中にもぐりこむのが得策だと考えた。近づくチャンスも増えるし、制服というのは「個人」をかき消す役割もある。
しかし、これはあくまで仮定でしかない。もし、実は全員家でやとっている警備員だったら? そこから調べなくてはならなかった。
フアンはそこまでくると、ひとつの結論に至った。
もし警備員が日雇いだった場合、その人数は膨大だ。調べなくてはならないことはたくさんある。その警備会社はどこか、ということからはじまり、制服は何か、人数はどれぐらいか、指揮をとっているのは誰か、配備はどうなっているのか、交代のタイミングはいつか……。自分で調べると時間がかかり過ぎてしまう。
警備員が全てトーレス家の雇いであっても、どちらにしろこの情報は必要だ。警備員が日雇いの方が、侵入しやすいと言うだけで、侵入することに変わりは無い。
そこで、フアンはアルベルトに相談することを決意したのだ。パロマと、アルベルトと自分との問題を解決してから、だ。
そうしてフアンはアルベルトと話しあい、手を借りられることになった。
「十中八九日雇いだね」
フアンが自分の意見を述べると、アルベルトはそう即答した。まぁ一応調べるけどさ、とアルベルトは付け加えたものの、フアンは、自分の仮説が信憑性のあるものだと確信する。
フアンが求めていた情報を、アルベルトはフアンが思っていたよりも早く、集めてくれると言ってくれた。そうして、彼が持ってきた情報は、さらに予定より数時間早いものだった。
二人の予想どおり、警備の大半は日雇いだという事が、その後の調べて判明した。電話で会社名を告げられ、今の警備はありふれた警備服だという事も教えてもらえた。
「スーツ姿は、恰好だけだったみたい」
と電話の向こうでアルベルトは呆れていた。そうか、とフアンは笑うと、すぐにアンナに電話をした。早くしろと怒鳴られた後、フアンは警備会社の名前と制服を述べた。すると、すぐにメリッサの「あるよ」と言う声が遠くから聞こえ、フアンはガッツポーズをした。あの店は、本当に何でもある。
フアンが着くと、すでに頼んでおいた荷物は出来あがっていた。服のサイズは? とアンナが尋ねてきたため、畳んで置いてある服をそっと広げた。濃い青の、警備服だ。腕に金色の線がある以外は、ボタンも糸も同じ色の、シンプルな制服だ。
「大丈夫だろ」
フアンは上から下まで眺めた。こんな服を着ることになるとはな、と心の中で呟く。この服を着た人は、フアンにとってはいつだって天敵だったのに、だ。
「着てみなよ」
アンナが茶化すので、嫌だよ、とフアンは笑う。ちぇ、つまんねぇ、とアンナもにやついた。
「あの会社は、こんな証明書を使ってるよ」
と、メリッサが重要な物をくれたことには驚いた。小さなカードに、警備会社の名前と、誰だか知らない名前、そしておそらくこの警備会社の偉い人のサインが書いてある。それを用意するのは、アルベルトの情報が来た後だと思っていたからだ。
「サービスだ、持って行きな」
メリッサの微笑みに、フアンは今までにないほどの感謝を述べた。
他にも、手に入れた道具は素晴らしい品々だった、全て小型の、泥棒用の道具だ。なんでもあった。ピッキング用品から、逃走用の催涙弾まで。
フアンはそれを身体の隅々に忍ばせ、アルベルトの情報を元に、計画を練った。アルベルトの情報は完璧だった。フアンがほしかった情報に加え、どうでもいいような「補足」「おまけ」「ついで」の情報まである。凄いと褒めると、アルベルトは癖でね、と眉間にしわを寄せた。
その後、侵入計画を何パターンも考えた。泥棒の常識だ。
完璧な情報と道具で身を固めたフアンは、堂々と屋敷へ入ることに成功したのだった。
屋敷に入り、すぐに目的の場所に向かう。屋敷の警備ポイントは三つ。玄関、裏庭、パロマの部屋だ。フアンは迷わずパロマの部屋に向かうと決めていた。警備の交代は一時だ、四十分も前に着けば、早く来ましたで済まされるだろう。本当に交代する人員と会わないでいられるのがベストだ……。会ってしまっても、様々な言い訳は考えているが、なるべく警備員とは話したくない。いくら知識を詰め込んだとはいえ、ぼろが出そうで怖いのだ。
日雇いの警備員は、大体が顔見知りで無い。よっぽど良く会う人はいるかもしれないが、知らない顔が来ても「新人か」で済まされるところが、日雇いの「よいところ」だ。
玄関に堂々と向かい、警備をしている二人の警備員に敬礼をする。
「交代か? 早いな」
警備員は、扉を挟むようにして左右に一人ずつ立っていた。右側の細身の男性が、眉をくいと吊り上げる。おお、怖。
フアンはにこっ、とできるだけ爽やかな笑顔で微笑んだ。
「久々の勤務でして、少し緊張してしまいまして」
「そうか」
男は大して興味も無さそうに、扉をぐいと開けた。証明書は不必要らしい。不用心だなぁ、と思うが、彼らもまさか、変装した泥棒が入ってくるなんて想像していないのかもしれない。
「部屋は分かるか?」
訊かれ、フアンはまたも笑顔を浮かべて頷いた。
「はい!」
ほう、と初めて男がにやつく。
「なぜだ? この屋敷のお嬢さんの部屋に配備された警備員には、俺から地図を渡すようにと言われているんだがな?」
な、なんだと?! フアンは思わず表情を崩しそうになった。くそ、簡単に通すと思ったらここでまさかの落とし穴かよ!
「あぁ、そうでしたか」
フアンはゆっくりと言うと、微笑みを絶やさないように気をつけながら、付け加えた。
「教えていただいていないのはおかしいなと思いまして、先ほどあちらの警備員にお部屋をお尋ねしたのです」
とっさに嘘をついたあと、心の中で願う。頼む、通してくれ!
男はぎろりとフアンを睨んだ。頼む、頼む……!
「あぁ、そう言えばさっき少し話していたな」
男は無表情に戻った。つまらない、といった顔だ。ふう、とフアンはため息をつきたくなるが、必死にこらえる。
「つまらんよ、本当につまらない警備だぞ。俺は一時で交代だが七時まで、頑張れよ」
ありがとうございます、とフアンは苦笑し、屋敷の中に踏み入った。
扉が閉まった後、背中に汗が溢れ出たのが分かった。
……っぶねー!
なんつートラップ仕掛けてくるんだ、パロマの父さんは!
門で話しかけてくれたパウロに二回目の感謝をしながら、フアンは屋敷を歩いて行った。
フアンが前回この屋敷に入った時は、屋敷がうす暗かったことに加え、パロマの部屋まで一直線に向かっていたため、屋敷をまじまじと眺めるのはこれが初めてだった。
全体的に落ち着いた雰囲気のある屋敷だ。大理石の床に、白い階段。どこかの一流ホテルの中を歩いているようだった。ところどころに見える深い緑の色が印象深い。階段の手すり、家具、カーテンの色……もしかしたら、深緑はトーレス家にとって大切な色なのかもしれない。
フアンはちらちらと眺めながら、パロマの部屋に向かった。人は誰もいない、やけに静かだが、きっとキッチンやメイド部屋から玄関が離れているためだろう。シャンデリアがきらきらと瞬き、今にでも音楽が流れ出しそうだ。
階段を上る際に、降りてくる警備員と会った。ぎくりとしたが、大丈夫、静かに礼をしただけで、何の警戒もせずに立ち去った。こりゃ案外余裕なんじゃ? と思うも、気を引き締め直す。油断は禁物だ。
二階は、一階とは異なり、床はカーペットだ。落ち着いた深緑色の床に、白い壁が映えている。素敵だなぁ、とフアンは思う。まぁ、屋敷が素敵だからと言って、生活まで素敵になるわけではない。
階段を上り、まっすぐ行ってすぐ左に、警備員の群れが見えた。分かっていてもぎょっとする。俺は今から、あそこに乗り込むのか。
ごくりと生唾を飲み、フアンはうん、と頷いた。最初はにこやかに行こうと思ったが、すぐに頭の中で却下した。任務にあたるというのに、へらへらと笑う警備員がどこにいる! フアンは真面目な表情で、警備員の群れの中に歩んでいった。
「お疲れ様です」
敬礼をすると、そこにいる全員が不思議そうに自分を見つめた。全部で四人。こんなにこの部屋の前を固めてどうするんだ!? 心配なのは分かるが――と、フアンは思わず苦笑しそうになる。
「一時から交代の者です」
フアンが言うと、扉の前に立っている警備員が腕時計をちらりと見た。
「早いな、まだ三十分も前だぞ」
「早く着いてしまいまして」
「じゃぁ、俺が抜けようかな」
冗談のように言うと、他の三人が「ふざけるな」と反対する。あぁ、この雰囲気、リラックスしてていいかんじだ、とフアンはつられてにこにこ笑う。
「まあ、抜けるなんて許されないがな。時間きっかしだ、あと三十分は五人で警備だ」
「暇だぜ」と、フアンの横にいた警備員がため息をついた。自分よりもかなり若い。他の三人は、同い年か、少し上と言ったところか。扉の前の警備員だけが、少し年配だった。ベテランなのかもしれない。
「あっ」
と声を上げたのは、フアンの隣にいた警備員だ。その警備員が見ている先に視線を移し、あっ、と思わずフアンも息を飲みそうになる。
その長身に、フアンは見覚えがあった。顔には大きなガーゼが貼ってあり、整った顔が見えないが……シャルルだ。
気が付くかな、どうかな、とフアンは心配になった。
シャルルは、フアンの読みだと、見方になってくれるはずだった。十中八九、彼はパロマの幸せを願っているし、その方法が今のような監禁であるとは思っていないだろう。
シャルルに会うパターンで可能性が高いと思っていたのは、パロマの部屋に彼がいて、取り次ぎは全て彼が行っているというものだったが、パロマの部屋の前で会えるとは……。
パロマの部屋に急いで入らなくて良かった、パロマが自分の姿を見て、冷静でいられるかは微妙なところだ。
シャルルは、不機嫌そうにつかつかと歩いてくると、ちらりと警備員を見ただけで、すぐにパロマの部屋に入ろうとした。扉の警備員が横にどいたことや、警備員の敬礼には、気がついていないかもしれない。
「すみません」
フアンはシャルルに声をかけた。周りの警備員は、ぎょっとしている。
シャルルは面倒そうに、ゆっくりとこちらに視線を向けた。
「あ、シャルルさんでいらっしゃいますか?」
「シャルルだが」
不機嫌だなぁ、と思いつつ、フアンはそそくさと近づいた。視線はさげている。まずはこれを渡してからだ。
「よかった、探しておりました。旦那さまから、これを」
胸ポケットから、フアンは用意していたメモを取り出すと、静かにシャルルに手渡した。
「……急きょ、昼食?」
おう、怒っている。そりゃぁそうだろうなぁと思いつつ、フアンは一つ頷く。
「はい、急ですが」
そして、帽子のつばをぐいと上げた。しかし、シャルルはこちらを見ていない。おい、気がつけシャルル、おい!
フアンは少し声を大きくして、シャルルに告げる。
「私が同行します。大勢の警備員に囲まれての食事は嫌だとのことで、私のみの同行となりますことを、お嬢様にお伝えください」
「勝手な……」
シャルルはぎり、と奥歯を噛んだ。パロマと話していたときの、穏やかな表情とは大違いだ。彼はいつも、こういった理不尽から、ときにパロマを守り、遠ざけ、一緒に戦ってきたのだろう。
ぎろり、と眼光鋭く、フアンは睨みつけられた。思わず苦笑いを返してしまう。怒鳴られる前に、何か言わなければ。髭は剃ったが――気が付くよな、シャルル?
「私はここで待っています、出来るだけお早い準備を、お願い致します」
真剣な表情をフアンが向けると、一瞬だけシャルルの目が見開いた。
気がついたな。
次の瞬間にはもう、シャルルは不機嫌な顔に戻り、ふうとひとつため息をつく。
「わかった……しかし、この場所に三時なら、今から三十分ほど準備をしても大丈夫だろう。それぐらいは待っていてくれ」
「はっ」
フアンは小さく敬礼をした。シャルルは最後にフアンを一瞥すると、パロマの部屋に入っていった。
――なんとか、渡せた。
ふう、とフアンは安堵のため息をついた。おい、と後ろから話しかけられ、フアンの体は思わずびくついた。
「は、はい?」
扉の前にいた警備員が、フアンを睨んでいた。
なんだ? なんだ!?
「――お前」
ばれたのか!? フアンは首をかしげ、何でしょう? と言いつつ、足に力を入れた。おそいかかってきたら、瞬時に動き出せるように、だ。
「凄いな」
思いがけない賞賛の言葉に、へ? とフアンは首をかしげる。
「あの人――シャルルっていうのか、怖くないか?」
「あぁ……まあ……」
パロマの前にいる姿しか見たことのないフアンにとっては、怖いシャルルなどむしろ想像できなかった。しかし、彼らにとって、シャルルは怖い存在のようだった。
「俺も見たのは初めてだったけど、ここに配属されるときに噂で聞いたんだ。お嬢様のお付きと、旦那様のガードマンには気をつけろって。ものすごく恐ろしいらしいぞ」
「そ、そうなのです、ね」
「というか、お前、シャルルさんの名前を知っていたな?」
なぜだ? と尋ねるシャルルに、フアンはあぁ、と返事をした。聞かれるだろうと思っていたことを聞かれると、急に安心する。
「実は私、ここに来る前に旦那様とお会いしまして、このメモを渡すように頼まれたのですよ。急に早く来いって会社から連絡があってびっくりしたんですけどね、なんとか行けて。だから、ここに到着するのが早くなってしまったんです」
「ほう、そんなこともあるのか」
「イレギュラーですよね」
フアンは苦笑すると、そっと彼の傍を離れた。あまり話していて、ぼろが出るのはごめんだ。
しかしなぁ、とフアンは小さく深呼吸をする。
盗みに入る時の緊張感と似たようなものだろうと考えていたが、盗みの侵入と今回の侵入は大きく異なることを実感していた。
光が灯っていることから始まり、大勢の人がいる、動いている、自分を見る、話す――夜専門の泥棒にとっては、これほど「イレギュラー」な場所は無い。
パーティーなんかに侵入して盗むのは楽しいぜ、と言っていた昔の仲間を思い出す。へぇ、と何の気なく聞いていたが、あいつとは相いれない、とフアンは確信した。こんなスリルの中に何度も挑むなんて、心臓がおかしくなっちまう。
フアンは、無言のままその場に立っていた。もうすぐ交代だ、早く終わらないかと周りの警備員は時々文句を言ったが、基本は皆黙っているようだ。これは確かにつまらねぇな、と思いながら、フアンはパロマが部屋から出てくるのを待っていた。時間がかかるだろうことは予測していたが、今は一分が一時間にも二時間にも感じられる。早く出てきてくれ、パロマ……と、心の中で願っていると、「御苦労だな」と男の声がした。
フアンはその男の近づいてくる気配に気がついていなかったため、その声に驚き、体を硬直させた。いかん、パロマに集中し過ぎだ。
音もなく近づいてきたその人物は、随分とがたいのいい、スーツ姿の男だった。目は鋭く、髪の毛はオールバックだ。ぼそぼそと小さな声で喋っているのは、癖なのか、それともパロマの部屋の前だからか。
そこにいた警備員は、皆一斉に敬礼をした。フアンも、ワンテンポ遅れて敬礼をする。
「たるんでるぞ」
お前、と指差されたフアンは、申し訳ありません、と頭を下げた。やはり小さな声だ、かすれてよく聞こえない。なんだこいつ、と頭を上げる際にちらりと観察する。この顔、アルベルトの資料の中にあったか?
「シャルルはこの中か?」
スーツ姿の男は、扉の前の警備員に話しかけた。より声を殺したため、どうやら声は意図的に小さくしているらしい。緊張している警備員は、はい、と短い返事をする。そのやりとりの間に、フアンはこの人物の写真がアルベルトの資料の中にあったことを思い出した。
嘘だろ、と叫びたくなる。
どうしてパロマの父親にいつもついているボディーガードがいるんだよ!
フアンは様々な可能性を考えた。父親がここにいるか? こいつだけ別行動か? シャルルは使用人、こいつ――名前は確かバレリオ。バレリオは、ボディーガード、シャルルと上司や部下の関係では多分ないはずだ。アルベルトの情報によると、父親につきっきりのはず。しかしここに父親はいない、となると、別のところで待機している可能性もある。例えば車で、パロマを連れてこい、と彼に指示していたら?
シャルルはこの中か? とバレリオは警備員に訊ねた後、シャルルがどんな様子だったかを警備員に尋ねていた。そんな彼の横顔を見ながら、フアンはさらに考える。
いやいや、パロマの父親は忙しいはずだ、現に娘にも会いに来ない。急に予定が空いたか? 無理にでもこじ開けたか? ここでお父さんっぷりを発揮しなくてもいいのに!
それとも、自分の代わりにこいつをここによこしたか? 忙しいから、様子を見てくれ、シャルルだと嘘をつくかもしれない、と言ったところか。
今、シャルルの様子を聞いたところから、こいつは偵察の可能性の方が高いと考えられる……というか、そうであってほしいものだが――。
シャルルの様子を聞いた後、バレリオはそうか、と短く返事をした。どうやら、中に入るか入るまいかを決めかねているらしい。こいつ、本当に何しに来たんだ?
バレリオがふい、とフアンに視線をやった。鋭い眼光と目が合う。フアンは特に反応もせず、視線を少しの時間合わせると、ふいと自ら目線をそらした。
しかし、バレリオは視線を外そうとしない。じろじろと見られている、気がする。な、なんだ? 気のせいか?
フアンがもう一度ちらりとバレリオを見ると、バレリオはフアンのことを食い入るように見つめていた。周りの警備員も、困惑して様子をうかがっている。
バレリオは身体をフアンに向けると、じろじろと周りの目も気にせずフアンを見つめた。本当に何なんだこいつは? フアンは小さく首をかしげると、「何か?」と尋ねた。沈黙に耐えていられなかったのだ。
「お前……」
バレリオはそれだけ言うと、またフアンをじろじろと見つめた。思わずフアンは後ずさるが、すぐそこが壁だ。なぜだか、フアンは追い詰められている。
はっ、とバレリオは息を飲んだ。それからすぐに、眼に怒りを浮かべると、「貴様っ!」と叫んだ。大きな声だ、その声に、フアンはぎょっとする。
「お前っ」
言うが早いか、フアンめがけてバレリオは大きく振りかぶり、目いっぱいの力で右ストレートを繰り出した。
「うおおっ、ちょっ」
フアンはその拳をすれすれのところでかがんで避ける。拳は壁に当たる直前で止まった。低い位置に避けたフアンに、今度は蹴りが飛んでくる。拳を一旦さげてからの攻撃だったため、フアンはその蹴りもなんとか避けることができた。避けた流れで前に飛ぶと、そのまま体をぐるりと転がす。
唖然としていた警備員の足に当たり、フアンはすまん、と警備員に謝った。あぁ、あぁ、と小さく頷いている警備員はどこか滑稽だった。そりゃぁ混乱もするだろうが、こういうときにそんな反応じゃ、この会社はまだまだだ。
バレリオは鬼の形相で振り返った。鋭い目がますます鋭くなっている。
「なんでこんなところにいるんだよ」
フアンはちいさく悪態をついたが、その悪態は、バレリオの叫び声によってかき消された。
「何ぼけっとしている! そいつをとっ捕まえろ! そいつは警備員なんかじゃない、泥棒だ! 泥棒だぞ!」
うええ、懐かしい声だ、とフアンは思わず舌を出した。
サングラスの集団がパロマを連れ戻しに来た。あの集団は、皆が日雇いではなかった。
代表者を呼べ、とパロマが指示をし、一人がパロマの前に歩み出た。スーツ姿にサングラスの男は、他の奴らと恰好は変わらなかったが、明らかに内情を一人だけよく知っていた。
パロマが「シャルルに何かしたのか」と訊いた時、その詳細を代表者は知っていた。
日雇いの奴らが、得体の知れない人として恐れているシャルルのことを、彼はよく知っていたのだ。
加えて、父親からの伝言も預かっていた――多忙の父親の伝言を預かれる人物は、常にその人の近くにいる人物であろう。フアンは今さらになって、あの状況からの見落としを見つけ、小さく舌打ちした。
あいつら全員が日雇いではなく、その代表者は、父親のボディーガードだったのだ。
「ボディガードも、いろいろしなきゃいけないんだな。日雇いの代表者で、サングラスにスーツの恰好をしてお嬢様をお迎えに来て」
状況の飲みこめない周りの警備員たちは、バレリオの指示にすぐに従えず、え? え? とうろたえている。
バレリオはぎりぎりと歯を食いしばり、こちらにゆっくりと進んできていた。この距離でこの余裕な動きだ、腕っ節にはかなりの自信があるらしい。フアンは時間稼ぎのために、必死に言葉をつなぎながら、これからの打開策として最良の物を模索していた。
「今日もサングラスをかけてたら、一発であの時の代表者だって気がつけたのによ。こそこそ喋るのも良くなかった、大声出してくれたら気がつけたぜ、さっきみたいにさ。まぁ、さっき叫んでくれてよかった、聞き覚えのある声に、俺の体はとっさに反応できたよ」
「黙れ」
じりじりと歩み寄る相手から、フアンはじりじりと後ずさっていた。煙幕? 閃光弾? 催涙弾? 相手は銃を持っている、右腰にそれがぎらりと光っている、どうする? どうする?
「今日は何しにここに来たんだ?」
必死に思考を続けながら、フアンは静かに訊ねた。
「それは……俺のセリフだ!」
パロマの部屋の前だからといって、もう声を殺すことをやめたバレリオは、大声でそう言った。あまりの大声に、びりびりと屋敷全体が震えたような気さえして、フアンは縮みあがる。
くそっ、逃げるしかねぇのか?
バレリオはゆっくりとした動きで、右腰にある銃に手をかけた。嘘だろ、とフアンは身構える。こういうときは、驚きで動きを止める閃光弾がいいか――フアンは素早い動きで、体中に仕込んである武器から、閃光弾を取り出し、スイッチを押そうとした。
そのとき、廊下に銃声が鳴り響いた。