13 あなたの愛した泥棒
「ルル……ほんとに平気?」
パロマは、うす暗い部屋の中で、椅子に座るシャルルに声をかけた。扉の近くに座っているシャルルと、ベッドに座っているパロマの間には、少しの距離がある。大丈夫ですよ、とシャルルは微笑んだが、顔のあざが痛み、歪んだ笑顔になる。
「痛そう」
「……まだ、でも、少しですよ。すぐに治ります」
シャルルの右目には、大きなガーゼが当ててあった。パロマは中を見ていないが、殴られた際に瞼が切れたのだという。腫れてしまい右目がほぼ見えないため、ガーゼは眼帯の代わりにもなっている。
口の端にも切り傷があった。唇の端は両方かさぶたができている。左の頬には大きな痣があり、その下にもみみず腫れが出来ていた。
左目はなんとか無事だったが、瞼の上は少し赤く、隈も酷い。
パロマはシャルルのそんな状態を見るたびに、心が痛くなった。本当に、心臓のあたりが痛むのだ。いつも通りスーツを着ているが、手には見慣れない手袋をつけている。あの下は包帯だらけで、包帯の下には痛々しい傷が残っているのだろうことを、パロマは知っていた。
家に帰ってきたのは昨日だ。昨日は付きっきりで看病したが、容体はあまり良くなっているようには思えない。
家に強制送還され、パロマはすぐにシャルルに会いに行った。両親や兄が待っていると思っていたが、そんなことはなかった。メイドに尋ねると、父はパロマが戻ってきたことを知っているが、今は戻ってこれないとだけ聞かされた。これは仕事で二三日は合わなくて済むな、と静かにパロマは考えた。いつもそうだ、父親は何よりも仕事が優先だ。
兄は、パロマが家出をした日の早朝、まだ家出をしたことを知らないまま、海外出張に行ったと聞き、そういえばそうだったか、と思いだした。兄とは、自分が盗まれる直前に夕食をとった。その時に、そんなことを話していたのかもしれない。
兄さんは、私がいなくなったと知っていて帰ってこないのか、知らないからこの家にいないのか……パロマは少し考えると、首を横に振ってその考えを脳内から追い出した。兄さんはきっと知らないのだ、と思う事にした。兄さんは、父親よりかは薄情ではないと信じたい。
母について尋ねると、パロマが帰宅したという連絡を受けた直後に倒れたと聞き、少し驚いた。正確には倒れるように眠ってしまったらしい。私のことをずっと心配してくれていたのか……パロマは、母親に会いに行かずに、彼女が起きるのを待った。
母親とは、最近あまり話さなくなってしまった。パロマが歳をとるにつれ、自分でできるでしょう、と放任主義になっていたからだ。加えて、パロマが見合いをさせられるようになってから、自分は取引材料だと、パロマが反抗的になっていたのも理由の一つだろう。
手紙を母親に渡していたら、少しは穏便に話ができたのだろうか。
パロマはそんなことを考えながら、シャルルに会いに行くことを決めた。シャルルは、寝ていようと、起きていようと会いに行くと決めていた。会って、謝って、看病をしなくては、と強く思っていたのだ。
シャルルは、自室で眠っていた。汗をかき、苦しそうに息をしている。
「シャルル……」
シャルルの弱った姿を見て、パロマはその場で泣き崩れた。一緒に警備員がずらりと後をついてきていたが、人の目なんてどうでもよかった。
「ごめんねシャルル……」
シャルルはパロマの泣き声で目覚めた。ゆっくりと目を開けると、天井を見ながら、パロマの泣き声を黙って聞いていた。
これは幻聴なのだろうか。
「お嬢様……?」
静かに言うと、パロマの声がはっきりと聞こえた。「シャルル」と、彼女は自分の名前を呼んだ。シャルルは、慌てて体を起こす。
「っ……」
シャルルの腹に激痛が走った。腹を押さえ、前かがみになる。殴られた痛みは、ずっと続くのではないのかと思うほど、消え去ることはなかった。
「ルル、ごめんね、ごめん」
パロマは駆けより、シャルルの顔を覗き込んだ。痛みに歯を食いしばるシャルルは、大丈夫ですよ、と静かに言った。無理に笑顔をつくる彼の姿が、パロマにとって一番辛かった。
「ごめん、私、戻ってきたから、もうどこにも行かないから」
「……すみません、お嬢様。あなたの願いを叶えられなかった」
絞り出すような声と、それに続くシャルルの涙に、パロマは首を横に何度も振った。
「いいの、そんなこと言わないで。私が全部悪いの……」
「泣かないでください、お嬢様」
包帯だらけの手で、シャルルはパロマの掌を取った。痛そうな表情を浮かべながら、それでも彼は笑っている。
「違う形で、叶えましょう。私はずっと、ついていきますから」
パロマは無言で、何度も何度も頷いた。私が泣いていてどうする、とパロマは必死に涙をこらえたが、それでも涙は流れてしまった。
それからその日は、丸々シャルルの看病をしていた。母親とは、夕方に会った。彼女からシャルルの部屋に来たのだ。
「お母様……」
いつもメイクをしてきらきらと輝いている母の姿は、どこにもなかった。シャルルの部屋に現れた母の姿を見て、パロマは驚いて目を丸くさせた。髪は崩れ、肌は荒れている。
「パロマ」
呼ばれて、パロマは立ちあがった。目を合わせたくない。きっと怒っている。パロマは視線をそらし、白い壁をじっと見つめていた。
長い沈黙があった。早く発言してくれないかと、パロマはだまってその時を待っていた。
「後でお父様とお話しなさい」
母は、静かに言った。そうして一つため息をつき、出て行こうとした。それだけか、と出て行く母の姿を見た。母の背中は震えていた。
「あ……」
謝れもしなかった。母は簡潔に述べただけで、いなくなってしまった。
「………………」
追いかけなかった。パロマは、相変わらず多くの警備員に囲まれたまま、シャルルの寝ているベッドの傍にある椅子に腰かけた。
「……大丈夫ですか」
シャルルがそっと言った。うん、とパロマが頷く。
「追いかけなくていいよ。もう、昔みたいにどうやってお話したらいいか分からないし、怒られちゃうのは苦手だし」
「そうじゃぁありませんよ、お嬢様」
え? とパロマが顔をあげると、シャルルは小さく微笑んでいた。
「どういうこと?」
「……いえ、生意気を言いました。よいのです」
シャルルはそういうと、静かに目を閉じた。問いつめたかったが、パロマは何も言わず、黙っていた。
「もう、眠ります。お嬢様もお部屋にお戻りください」
「私はここにいたい。シャルルが心配」
「医者がついてくれますよ、大丈夫ですよ」
「……そうじゃないの」
パロマは泣いた。子どものように、そうじゃないの、と繰り返して泣いた。シャルルは困ったように、パロマを見つめ続けた。
身体の節々が痛むことに、シャルルは感謝した。
こんな状況で、抱きしめたいと思わない方がどうかしている。それでも、パロマが自分に向けている感情は、恋愛とかそういった類のものではないことを、シャルルは痛いほど理解していた。
それでも、帰ってすぐに、お嬢様は自分の傍に来てくれた。
恋人にはなれなくても、愛されている。
結局その日、シャルルの部屋に居続けたた。シャルルは起きている間、何度も帰るように促したが、やがて静かに眠りに落ちてしまった。
夜中に目を覚まし、すぐそばにパロマの頭があることに驚いた。手を枕にして、ベッドに突っ伏して眠っている。さむいだろうに、床に座っているようだ。だれがかけたのか、毛布が一枚かぶせてあった。警備員は、部屋の中にはいなかった。
「………………」
シャルルはそっと、痛む手を動かし、パロマの柔らかな髪の毛に触れた。
これで、十分だ。
自分を言い聞かせて、彼は泣いた。どうして彼女を、自分では幸せにしてあげらないのだろうと、何度も思ったことをまた思い、考え、その夜はなかなか寝付けなかった。
次の日も、パロマは断固としてシャルルの部屋から動こうとはしなかった。昼過ぎに、困ったシャルルはパロマに提案した。
「私が部屋に参ります。お嬢様も、休まれないと」
「やだ」
「やだ、ではありませんよ。私もずっと寝ているわけにはいきません、だいぶ元気になりましたしね」
「……本当?」
「えぇ」
心配そうに目を潤ませるパロマに、シャルルは微笑んだ。
「着替えてからそちらに参ります。お嬢様のお部屋で、お話でもしましょう」
「わかった……待ってるわ」
パロマは「なるべく早くね」と言うと、部屋を出て行った。扉が開いたその一瞬、外に警備員が三人入るのが見えた。部屋の前で待っていたのだろう。
シャルルはゆっくりとベッドから降りた。痛いが、動ける。
パロマが帰って来てから――強制的に帰宅してから、屋敷がどうなっているのかをシャルルは知ることができなかった。パロマがすぐそばにいたからである。彼女の前で警備の話や両親、兄弟の話を持ち出してくるほど、パロマの気持ちを察することのできない使用人はいなかった。
パロマが出て行ってすぐ、シャルルが着替えている途中で、扉がノックされた。
「はい」
「失礼します」
メイドの声だった。静かに入ってきたメイドは、着替え中のシャルルを見て、赤面する。
「し、失礼しました」
「いいよ入って。時間が惜しい」
金髪の若いメイドは、失礼しますと目線を下に向けながら入室した。シャルルは彼女のことを気にもせず、着替えながら話を始めた。
「お譲様に何かあった?」
「いえ、御伝言をお預かりしております」
メイドが差し出した紙を、シャルルはシャツのボタンも止めないまま受け取った。
走り書きで、私はしばらく帰れない、明後日までパロマの面倒を頼む、と書いてあった。その下には、パロマの父と兄の名前が書かれていた。父の名前だけ筆跡が違う。
「……ありがとう」
シャルルは紙を半分に折ると、ベッドの上に置いた。
あれだけ言っておいて、あれだけ帰って来いとお嬢様に言っておいて、会えないだと。
シャルルは唇を噛んだ。雇ってもらっていることに感謝はしている。この家の考えに口を出すつもりはない。しかし、この対応は冷たすぎる。
お嬢様を一体何だと思っているんだ……。
「警備はどれくらい?」
「しっかりした数は分かりませんが、たくさん、本当にたくさんいます」
「お嬢様は出さないよう必死、ってことか。お嬢様は家から出られない?」
「はい。旦那様より、我々メイドが明後日までしっかりとお嬢様の面倒を見るように、と。本当は自室にいるようにと命じられていたのですが、お嬢様が先ほどまで断固としてこの部屋を離れませんでしたので、仕方なく……これは、秘密です」
「そう……奥様は?」
「お疲れのご様子で、今は自室で眠っていらっしゃいます。お仕事は休まれるそうで」
「そう、俺に関しては? 俺は部屋から出てはいけない、とかは?」
「特には……シャルルさんは、お嬢様の側近でいらっしゃいますから、パロマ様のご指示が第一かと」
「そりゃぁそうか……ありがとう」
話しながら着替え終わると、シャルルは自分の手を見た。包帯が痛々しい。
「ねぇ、これって痛々しい?」
シャルルがずいとメイドに手を差し出すと、彼女は小さく息を飲み、えぇ、と頷いた。
「じゃあ隠さないとね」
引き出しを開けると、そこには随分前に使ったっきりの白い手袋が置いてあった。痛みは伴ったが、手袋をつけると、見た目は幾分よくなった。
「お嬢様の今日の食事の時間は?」
「お昼御飯は今自室で取っていただいています。ご夕食は七時にお嬢様のお部屋で」
「夕食も? 本当に閉じ込めておくつもりなんだね」
「そう……ですね」
シャルルはひとつため息をつくと、メイドに笑いかけた。困ったような笑みを返してくるメイドを見て、自分もこんな表情をしていたのだろうと思う。
「何かあったらなんでも俺を通して伝えて、今までどおりに」
「はい」
「メモ、ありがとう」
シャルルは部屋を出て、まっすぐパロマの部屋に向かった。なるべくきょろきょろはしないように心がけたが、警備員の数にうんざりした。パロマの部屋の前には、五人もの警備員がいた。
初めて見る顔ばかりだったが、向こうはこちらのことを知っているらしい。静かに敬礼され、扉の前に立っていた警備員が静かに横に避けた。
「すみません」
部屋に入る直前、警備員同士が話しているのが聞こえた。警備員もこれだけいると大変だな、と思いつつ、シャルルは声のした方を横目で見る。
「あ、シャルルさんでいらっしゃいますか?」
すみません、と言っていた警備員の声だった。帽子を深くかぶっている。
「シャルルだが」
「よかった、探しておりました。旦那さまから、これを」
警備員はしずしずと近づいて、メモを渡した。
「……急きょ、昼食?」
シャルルはぎょっとした。なんと我儘な父親なんだ! そこには、今日の三時より遅めの昼食をとる、パロマをつれてこい、という走り書きと、場所が指定してあった。仕事の合間に書いたのだろう、字がかなり雑だ。最後に愛する君へ、なんて書いてあるのがいかにもわざとらしい。
「はい、急ですが」
警備員は答えると、帽子のつばをぐいと上げた。
「私が同行します。大勢の警備員に囲まれての食事は嫌だとのことで、私のみの同行となりますことを、お嬢様にお伝えください」
「勝手な……」
腹いせに睨みつけてやる、そんな気持ちで、シャルルは警備員をぎろりと睨んだ。
「私はここで待っています、出来るだけお早い準備を、お願い致します」
睨みつけた後、シャルルは思わず声をあげそうになった。
こいつ――!
警備員の真剣な表情とその言葉の意味に気がついたシャルルは、一瞬で冷静を装い、ため息をついた。
「わかった……しかし、この場所に三時なら、今から三十分ほど準備をしても大丈夫だろう。それぐらいは待っていてくれ」
「はっ」
警備員は敬礼をした。やけにきびきびとした態度が、シャルルにとっては滑稽に見えた。
「失礼します」
シャルルはゆっくりとパロマの部屋に入った。彼女は、白いベッドの上に膝を抱えて座っていた。気分がふさぎこんでいたり、悩みがあるときの彼女の癖だ。
大きな黒い目がシャルルを静かに見つめると、どこでも、座って、と小さく言った。シャルルは頷くと、傍にあった椅子を、扉のすぐ横に引きずって腰かけた。
「あっ」
パロマが身を起こし、ごめんね、と涙目になる。
「怪我してるのに、ごめんね。大丈夫?」
「平気ですよ、心配なさらず」
シャルルは微笑むと、扉の向こう側からする音に意識を集中させた。特に何も聞こえない。見張りはしっかりとそこにいるようだ。
「ルル……ほんとに平気?」
パロマはじっとシャルルの顔を見つめると、寂しそうに言った。
「痛そう」
パロマがあまりにつらそうにしているので、シャルルはいたたまれない気持ちになった。ここは、正直なことを言った方がいいのかもしれない。シャルルはガーゼを触りながら、微笑んだ。
「……まだ、でも、少しですよ。すぐに治ります」
「はやく治ることを祈ってる……」
パロマはそう言って、膝に顔をうずめた。
パロマの服は、シンプルな白いワンピースだった。お気に入りの服だったはずだ。スカートに、同じ色の糸でハトと花の刺繍が施されている。パロマが元気を出したいときに着る服だ。
「………………」
シャルルはだまってその姿を見つめた。記憶に焼きつくように、じっと見つめていた。
できればずっと、彼女の傍にいたかったが、それが彼女の幸せに繋がらないのなら――「お嬢様」
シャルルは立ち上がり、パロマに歩み寄った。
「これを」
先ほど警備員から受け取ったメモを渡し、彼女が読むより早く、シャルルは言った。
「あなたの愛した泥棒が、持ってきてくれましたよ」
パロマは息を飲み、目に涙を浮かべながら、その文を何度も読み返した。父からのメモとされる文字は、父にしては粗雑な文字で書かれていた。最後の「愛する君へ」という文字だけは、少し整っている。パロマは、その文字を見て、小さく震えた。
そう、あなたの書く字はこんな字をしていたのね。
「…………出かける準備を、するわ」
パロマは涙をふくと、迷いなくシャルルにそう言った。