11 惚れた女
「大丈夫か、ホセは」
「大丈夫だよ、それより、パロマは」
フアンは真っ先に、アンナとホセの部屋に向かっていた。アンナは、目を赤くはらしていた。パロマの心配をした後も、一度鼻をすすった。頬には涙の跡が残っている。
本当に大丈夫なのか、と問いたくなったが、フアンはその言葉を飲みこんだ。アンナの気持ちをくみ取って、だ。
「パロマは連れ戻された」
「なんだって?」
アンナは眉間にしわを寄せた。怒っているようにも見える。
「追いかけないのかよ!?」
「取りあえず入れてくれ」
とフアンは部屋に入り、近くにあるソファに座った。ホセの姿は見当たらなかった。きっと寝室にいるのだろう。
「どういうことだ?」
アンナの声は落ち着いていた。思い込みの激しいアンナが、こうやって事情を聞いてくることは珍しい。
「追いかけなかったことに理由はあるよな?」
目は怒りに燃えていた。フアンは落ち着け、とアンナを手で制した。
「話しを聞いてくれるか」
「あぁ」
アンナはフアンの正面に、どかっと腰をおろし、前かがみになった。脚の上で手を組む。両手は力が入り過ぎて震えていた。
「場合によっちゃ、お前を殴るよ」
フアンは落ち着けよ、と言うと、これまでの経緯を離しはじめた。最後のキスのことだけは、省略した。話しを聞き終わった後、ふうんとアンナは呟いただけで、フアンに殴りかかることはなかった。
「そう、私たちを傷つけるのは嫌だからって、あの子は帰ったのか」
「うん」
「――水臭いよ。一緒に戦ってやれたのに……まぁでも、そっか、相手は銃を」
「あぁ」
「喧嘩なら殴り合いでしようってんだよ」
アンナは嘲るように笑うと、で? と首をかしげた。
「お前、どうするんだ?」
「助けにいくよ」
フアンの即答に、よかった、とアンナは頷いた。その後、気になっていたことを口に出す。答えは出ているようなものだったが、それでもアンナは、フアンの口からはっきりとしたことを聞いておきたかったのだ。
「お前にとって、パロマちゃんって何?」
「惚れた女」
フアンは、恥ずかしながらも即答した。ずっと考えていた答えだ、恥ずかしがることもないし、隠すこともない。フアンの言葉に、アンナは嬉しそうに歯を見せて笑った。
「そうか」
「うん。俺パロマがいないとだめだ。そんな生活……数日一緒に過ごしただけだけど、俺、あいつのこと凄く好きで、あいつの笑顔とか、優しい言葉とかに本当に癒されてさ」
「いいんじゃない。助けに行くには最高の理由だろ。でもさ、もし」
アンナは声のトーンを落として、真剣な顔つきになった。
「もし、パロマちゃんがお前のことをそう言う対象として見ていなかったら、どうすんだ?」
「いや、それは」
言いかけて、あ、とフアンは口をつぐんだ。ん? とアンナが眉を吊り上げる。
「なんだよ、なんだよおい」
「いや」
「いやじゃねぇよ」
「りょ」
「りょ?」
「両想いだと、思うよ」
これはさすがに、言っていて恥ずかしい。フアンはごまかすように顎髭をさすった。その表情に、アンナは嬉しそうにほほ笑んだ。
「なんか、あったんだね」
「うん」
「そう……よかった」
アンナは心からそう言った。フアンの頭を乱暴に撫でると、目を輝かせながら続けた。
「私は、あんたのことを弟みたいに思ってるんだ。その弟は、いつもふらふらふらふら、どうなることやらと思ってたけど、好きな人ができて、結ばれて、こんな嬉しいことは無いよ。よかったな」
「あぁ……でも、助けにいかないとな。何も始まらないよ」
「そうだな」
「愛してるって、さっき彼女に伝えたんだ。でも、あれで最後にするつもりはない」
「うん」
「俺は、パロマをもう一度盗み出す」
「おう」
がんばれよ、とアンナは乗り出し、フアンの肩を叩いた。アンナは、最初からフアンの言う事が分かっていたような口ぶりだった。頼りになる姉だと思いながら、ありがとよ、とフアンは笑った。
「しかし、どうやって盗み出すんだ? きっと彼女は厳重警備中だよ。時間が経つのを待つか?」
「いや、それじゃぁパロマが精神的に参っちまうだろ。どこかに移動されちまうかもしれない。できるだけ早く助けたいんだ」
「そっか。作戦は?」
「あるさ」
フアンは白い歯をのぞかせ、ニヤリと笑った。
「当たり前だろ。俺は百戦錬磨の泥棒だぜ?」
アンナはその言葉に鼻で笑うと、「偉そうに、師匠は私だろ?」と言った。
「どんな作戦か聞かせてよ。アドバイスするからさ」
フアンは頷くと、手短にアンナに作戦を話してみせた。
それを聞き、アンナは大爆笑した。嬉しそうに手を叩いて喜んでいる。
「いい! そっか! 今だからできる作戦だな!」
「そうなんだよ、ちょっとわくわくするだろ?」
「何がわくわくだよ……くくく、ぞくぞくするじゃんか」
「な? パロマもびっくりだよ」
「成功するのかよ?」
「すんのかよ、じゃなくて、させるんだ。必ず」
真剣な言葉に、アンナはにやりと笑った。
「俺は、盗みで失敗したことがないんだ。ばれたことは――あるけど」
「つかまってなければ失敗じゃない、だろ? 何度でもやり直せる」
「うん、それがアンナのポリシーだったな」
「お前のポリシーにもなったってわけか」
「あぁ、でも今回はそうもいかない。必ず、必ず成功させる」
「準備が必要だな」
アンナは立ち上がると、そこから離れ、ペンと紙を持って帰ってきた。
「そこに、必要な物書いて。買物は私が行くよ。クリシェ……フアンにはメリッサって名乗ってるんだっけ? あのなんでも屋のおばはんのところで、どうせ一式そろえるんだろ」
「あぁ、いいのか、頼んで」
「もちろん後で金はいただくよ」
「そうじゃなくて、ホセを見てやんなくていいのか」
「――軽いけがだし、大丈夫だよ。今は寝てるけど、直前までにこにこしてたし、それに、何かあったら手伝ってあげてって言われてるんだ。きっと今動きまわれたら、あいつが行くって騒いでるだろうし」
アンナの分かりやすい作り笑顔に、フアンは「やっぱり」と口を開くも、手でアンナに制される。
「それより、フアンはあいつに交渉に行かなきゃだろ。それが一番の難問だろうが」
「……あぁ、そうだな」
「すぐにでも向かった方がいい」
「うん」
フアンは紙必要な物を走り書くと、よろしく頼む、とアンナにその紙を手渡した。
「ホセに状況説明した後、すぐに向かうよ。行ってきな」
「ありがとう」
フアンは立ち上がると、すぐに彼の元へ向かった。
作戦を決行するに当たり、成功させるためには、確実な情報が必要だった。
確実な情報は、その道のプロに依頼しないと得られない。
餅は餅屋。フアンは自ら情報集めもするが、あくまで盗む専門だ。
そして、彼女が帰って来た時のためにも、彼には納得しておいてもらわなければならない。
ちゃんと話しあわなければと考えていた。いい機会だ。彼の意見を面と向かって聞こう。それを聞いたうえで、自分の意見も言おう。理解し、されよう。
そのうえで、彼に依頼をしよう。
フアンはそう考えていた。
階段を下り、三階の隅の部屋をノックした。
「はい」
部屋の住人は、すぐに返事をした。
「アルベルト、俺だ」
フアンの声に、部屋の住人であり情報屋のアルベルトは、沈黙を返した。
「入ってもいいか?」
数秒後、部屋のドアがゆっくりと開かれた。
「何?」
ドアの隙間から、アルベルトの目がのぞいた。フアンのことを見上げるその目は、疲れているのか、生気が感じられなかった。声は低く、不機嫌な様子を隠そうともしない。
「なんだ、調子でも悪いのか?」
「気分が悪いのさ……朝からアパートの前で、どんちゃんやられちゃってね」
「そんなに音は立ててないだろ?」
「ホセの叫び声で起きたって……」
どうやらアルベルトは、ホセの叫び声で眠りを妨げられたらしい。フアンは「悪かったな」と謝ると、入っていいか、ともう一度訪ねた。
「仕事の依頼? そうじゃなきゃ中にはあげないよ。これから寝ようとしていたんだ」
「仕事の依頼だよ」
フアンの言葉に、アルベルトは驚いたそぶりを見せなかった。こいつ、予測してたんだろうなとフアンは察する。
「あのお嬢さんに関することならお断りだよ」
「俺がそれ以外に頼むとでも? どうせ一部始終、窓からでも眺めてたんだろ」
アルベルトが不満そうに眉間にしわを寄せた。フアンは続ける。
「情報屋の哀しい性だよな……見てたんだろ。そんでもって知ってるだろ、彼女は俺の大切な人なんだよ」
「知らなかったよ、そこまでフアンさんがあのお嬢さんのことを大切に思ってるだなんてね」
そこでアルベルトは、はっと目を見開いた。そして意地悪い笑みを浮かべた。
「あー……分かった。彼女を取り返しに行くんだろう」
フアンの表情が硬直したのを見て、アルベルトはますます嬉しそうに目を細めた。
「それで、情報が必要なんだ。自分の能力より情報屋の能力を、ってわけ?」
「それだけじゃない。お前の意見が聞きたい。お前と話がしたい」
「彼女について?」
「そうだ。それと、俺について」
「どうして」
「お前に理解してほしいことがある」
「金持ちの生活も大変なんだってことをかい?」
アルベルトはドアをゆっくりとあけ、フアンと向き合った。その目は、さっきまでのやる気のない瞳では無かった。眼光鋭く、今にでもフアンに飛びかかってきそうだ。
「知ったことかよ」
ぎり、とアルベルトは歯を食いしばった。両手のこぶしは握られ、ぶるぶると震えている。
「俺がどれだけ金のせいで苦しんできたか。苦労自慢をするつもりはないし、思い出したくもないが、金持ちは俺の敵だ。ましてやそんな生活から逃げ出す奴らなんて、俺の理解の範疇を越えた人たちでしかない。関わりたくないし、話したくもない」
「俺もか、アルベルト」
ふっ、とアルベルトは自嘲気味に笑った。
「初めからフアンさんが金持ちの出だって知ってたら、俺は話しもしなかっただろうね。でも知ったのは、フアンさんと知り合って少し経ってから……その時にはもう、俺はフアンさんのこと、嫌いになんてなれなくなってたから……」
「じゃぁ」
フアンはアルベルトの両肩を、力強く握った。アルベルトが驚いたようにフアンを見上げる。
「じゃぁ、その気持ちをパロマに分けてやることもできるだろ?」
「……っざけんなよ!」
アルベルトは身をよじってフアンの両腕から逃れると、一歩部屋の方に下がってフアンを睨みつけた。
「分かった口を聞くな! いいか! 金持ちを恨む俺の生活空間にだぞ! 今まで何の苦労もなく育ってきたお嬢様がぴょんと現れて、金持ちの生活は嫌なのーって生活してる! にこにこ幸せそうに笑ってやがる! 俺が男がどれだけ恐いかって話そうとしたときも……」
そこでアルベルトは言葉を濁した。しまったという顔をし、俯く。フアンは肩をすくめると「知ってるよ」と言った。アルベルトは「えっ」と顔をあげた。フアンはもう一度、知ってるよと呟き、「だから続けろ」と促した。
アルベルトは決まりが悪そうに顔をゆがませると、ぼそぼそと話しだした。
「話して、脅した時も、お嬢さんは家に帰るって言わないし、抗うし、しまいには……しまいにはあんたの名を呼ぶんだよ」
「そうか」
「意味が分からない」
アルベルトは唇を強く噛んだ。フアンは長い溜息をつくと、ゆっくりと口を開いた。
「なぁ、お前はもう自分が言ってることに矛盾を感じてるんだろ」
アルベルトは答えない。
「幸せのもだと思っていた金持ちのお嬢さんが、こんなところでの生活を、幸せそうにしてるんだ。にこにこ幸せそうに笑ってるんだ。そこに矛盾を感じてるだろ」
「………………」
「お前が脅したときだって、家に帰るとは言わずに、俺に助けを求めた。家には頑として戻ろうとしなかったんだろ」
「………………」
「まぁそんな発言をしてたなんて、俺も知らなかったが……当り前か。あぁそうだ……アル、お前の知らない情報を教えてやるよ」
「俺の知らない……情報?」
アルベルトは、少し不満げにフアンを見つめた。知らない情報、という言い回しが気に食わなかったのかもしれない。
フアンは「パロマは」と言った。またお嬢さんの話しか、と言いたげにアルベルトの表情が歪んだが、フアンは気にせずに続けた。
「パロマは、お前にごめんなさい、って」
「……は?」
「どういう意味だろうな」
「――ふざけんなよ……何さまだよ! あいつは!」
どす、と鈍い音がした。アルベルトが壁を蹴りつけた音だった。一発では気が住まないらしく、アルベルトはどす、どすと何度も壁を蹴りつける。
「なんだよ! 何がごめんなさいなんだ!? 畜生、偉そうに! 偉そうに! 金持ちに生まれちゃったのに、こんなところでのうのうと暮らそうとしてごめんなさいってことか? また金持ちの生活に戻っちゃってごめんなさいってか!?」
アルベルトは壁を蹴るのを止め、フアンに向き直った。その茶色い目から、一粒の涙がこぼれおちた。フアンはひとつ頷くと、独り言のように呟いた。
「うざってぇけど……違うよな」
アルベルトはこぼれた涙を慌てて拭うと、もう一度壁を蹴った。
「くそっ」
そして部屋の奥に入っていこうとした。
「おいアル!」
と止めたフアンに対し、アルベルトは冷静に言った。
「入りなよ。情報集め、するからさ」
「……アル」
その目から、怒りの色は消えていた。いつもの冷静沈着な目に戻っていた。
「ビジネスの話だ。金はいただくよ。知り合いだからってそういうところ、まけはしない」
「知ってるよ」
「フアンさん。やっぱりおかしい」
「何が」
「謝らなくちゃいけないのは、どう考えたって俺なんだよ」
「……あぁ」
「俺、悪かったって思ってるんだ。だって、男が女を泣かせるようなことは、しちゃいけないだろ」
「そうだな」
「子供だって知ってる。なのに俺は、金持ちだとかそうじゃないとか、そういうことよりもっと根本的なところで、男として、そんなことも守れなかった。プライドがねぇのかよ、って話だ。そんな俺が、彼女に偉そうなことは言えない。
なのにあっちからごめんなさいなんて、ふざけてる。
謝らなくちゃいけないのは俺だ」
アルベルトは部屋の奥に入ると、仕事机の椅子に腰かけた。
薄暗い部屋の隅に、黒くて長い机がぽつんと置いてあった。アルベルトが腰かけた椅子のすぐ後ろは壁だった。アルベルトと向き合うように、もうひとつ椅子が置いてある。アルベルトはどうぞ、とその椅子を指した。フアンはそこに腰かけた。
「謝らなくちゃいけないのは俺だけど、でもやっぱり納得いかない部分はたくさんある」
机の横にある洒落たランプに、アルベルトはマッチで火をともした。ふっ、と部屋全体が明るくなった。
「だから俺は、彼女と話しあわなくちゃならないと思ったんだ」
「おう」
「だからフアンさんには、彼女を取り戻してもらわないと」
「そうだな」
「サポートするよ」
アルベルトはふん、と鼻を鳴らした。
「いい情報を貰ったからね」
フアンは頭を目いっぱい下げた。アルベルトは驚いて目を丸くした。
「なっ……」
「ありがとうアル。よろしく頼む」
顔をあげたフアンは、にやりとアルベルトに笑いかけた。
「ちゃんと盗んでくるから、その暁には、力づくじゃなくてちゃんと話しあうんだぞ」
「了解、依頼主さん」
アルベルトはペン立てから黒いペンをとると、目を伏せた。紙に何かを書こうとして、あ、と止まる。
「そうだ、依頼を聞く前にひとつ、質問があるんだけど」
「何だ?」
伏せた眼を少し上げ、アルベルトは表情一つ変えずに言った。
「二人は両想いなんでしょ? もうキスはした?」
「はぁっ!?」
素っ頓狂な声を挙げたフアンを見て、くすりとアルベルトは笑った。
「おっさんが照れないでよ」
「おっさんが照れて悪いか!」
「いい情報にはいい情報を、等価交換で教えてあげるよ」
アルベルトが次に浮かべた笑みは、とても意地悪なものだった。
「心から好きになるまでって、何人もの御曹司たちの求愛を突っぱねてきた彼女の、初キスの相手はフアンさんだよ、よかったね」
「えっ……そ、そうなの?」
「彼女のガードの固さは業界でも有名で、彼女にキスされたら、未来も決まったようなものだって言われてるみたいだよ」
「へ、へぇ、あ、そう」
フアンの様子を見て、ふんとアルベルトは鼻で笑った。
「やっぱキスしたんだ。耳まで真っ赤」
「うるせえ!」
「はいはい、情報公開終わり」
アルベルトは、指先でぺんをくるくるとまわした。
「さぁ、ほしい情報は何?」