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10 今までありがとね


 最初にそれを見つけたのはホセだった。仕事に出かけようと外に出た際に、ちょうど車が現れた。珍しい車、とホセが横目で見ていると、同じ車が何台も現れた。あれよあれよという間に、ホセは車に取り囲まれてしまった。廃屋の出口を塞ぐように停車した黒い車が、ホセを睨んでいるようだった。

 こりゃ出られないな、どうしよう、とホセは内心焦りながらも、あくまで平静を装っていた。じろりと車を見渡した後、ため息をひとつついて踵を返そうとした。

「お待ちください」

 正面にあった車の窓が少し開き、そこからした低い声がホセを呼びとめた。ホセは肩をすくめ、待つから要件を言え、と仕草で示した。

 静かに車のドアが開き、一人の男が出てきた。背の高い男だ。車に溶け込みそうなほどの真黒なスーツを着ている。髪は黒で、オールバックにしてあり、怖い印象を与える。しかしホセは見た目におびえたりはしなかった。この周辺に見た目が怖そうなやからなど、ごまんといるのだ。

「パロマ様はどちらにいらっしゃいますか?」

「誰それ?」

 即答だった。心中で「パロマちゃん関係か」と緊張しながらも、表情は平静を装っていた。本当に分からない、意味不明だといった表情を作っていた。モデルをやっていてよかったな、なんてことを考えつつ、ホセは相手の出方を待つ。

 スーツの男はポケットから小さな紙を出すと、それを広げた。ホセはどうでもいいという表情を見せ、再度戻ろうとした。

「待ってください」

「なぁに?」

 苛立ちを顕わにしたのは、演技ではなかった。

「出かけたいんだけど、出かけられないから帰りたいんだ。仕事なんだよ、これから」

「あなたは……ホセという名前でお間違いないですか?」

 ホセは目を細めた。メモでも見たのか? あの紙に、何かが書いてあるのか?

「……僕の熱心なファンかい? だとしたらその質問はおかしいけどね。あぁ分かった、熱心なファンに雇われた? 俺を攫ってこいとか、たまにあるんだよね」

「残念ながら違います。私たちの持っている情報だと、あなたはパロマ様と面識がある」

「話しが微妙に食い違っているような、キャッチボールができないね」

「お嬢様はどこです?」

「なんの話だよ。知らないと言っているんだけど。いいかげんしつこいよ」

「なるほど……まぁいいでしょう。そちら、どいていただいても?」

 ホセの心臓が高鳴っていた。どういう人たちか知らないが、パロマにこいつらを会わせてはいけないのは察することができる。

「お前らみたいな怪しい奴を、俺が住んでる所に招き入れるとでも?」

「あなたは関係が無いことが分かった。どいてくれるのならば、何も手出しはしませんよ」

「誰かを探してるみたいだけど……ここに入ったら、手当たりしだい探すんだろ? 住んでるところを荒らされる可能性があるのに通すかよ」

「最後の警告です」

 スーツの男はホセをにらんだ。

「そこをどいていただきたい」

 それを合図にしたかのように、車から次々とスーツ姿の男が出現した。皆同じ格好をしており、気味が悪い。

 こんなにいるのかよ。

 ホセは唇をかむと、大きな声で叫んだ。

「…………フアン! 守れ!」

 ホセに話しかけていた男が、ホセに歩み寄り、ホセの肩をつかんだ。ホセはそれを振り払おうとしたが、その前に男に突き飛ばされてしまった。

「フアン! はやく守れ!」

 違う男が、「黙れ」とホセのみぞおちを蹴り飛ばした。ホセは後方へ吹っ飛んだ。うずくまり、むせこみながら腹を押さえた。

「ホセ!?」

 頭上で声がした。アンナの声だ。ホセは安堵した。最上階のアンナにまで聞こえていたのなら、フアンたちにも聞こえているだろう。


「パロマ、入るぞ」

 フアンがノックなしでパロマの部屋に入った。ホセの叫び声がしてすぐ、慌てて行動を起こした。まず、パロマがそこにいたことに安心した。パロマは真っ白な顔をして、窓の外を見ていた。

「逃げるか?」

「無理よ、もう来る。見て」

 パロマは窓の外を指差した。フアンはパロマの指差した方向を見て、うっと声をあげた。

「何台あるんだ?」

「十二台。全部うちのよ」

「そうなのか?」

「えぇ、きっとお父様の命令で来たんでしょ」

 パロマは無表情のまま、窓辺から離れた。

「おい、どこに行くんだ」

 止めようとした手を、パロマはそっと掴んだ。手は震えている。

「ホセさんが倒れていたの、見えた?」

「え?」

「叫び声の後、私はすぐに窓の外を見たの。ホセさんは突き飛ばされた。お腹を蹴られたわ」

「………………」

「アンナさんは駆けつけるでしょ? アンナさんも同じ目に会ったら? 他の人だっているのに、私が隠れてなんて入れない」

 待ってて、とパロマは言うと、部屋のドアを開け、大声で廊下に向かって叫んだ。

「私はここよ! 早く来なさい!」

「おい……!」

「止めないでフアン。待ってて」

 パロマは部屋のドアを開けたまま、数歩下がって立ち止まった。そしてじっと黙って入口を見ていた。すぐに、多くの足音が聞こえてきた。そのあまりの多さに、フアンは思わず硬直した。

「ここよ」

 パロマが大きな声で言った。すぐに部屋に男が入ってきた。黒いスーツにオールバックだ。

「お嬢様!」

 男は感動の声を挙げたが、パロマは冷静そのものだった。

「静かにしなさい。この部屋に入りきらない人数なら、代表者をここへ。他は外で待たせて」

「はい」

 男はすぐに下がると、後ろについて来た人に指示を出していた。どうやら彼が代表者のようだ、と察したフアンは、彼が指示を出しているうちに少しでもパロマの傍に行こうと思ったが、パロマに手で制された。

「危ないから来ないで、お願い」

 指先が震えていた。目はわざと合わせないようにしているようだった。フアンは「分かった」と低く答え、その場に立ち尽くすしかできなかった。

 やがて、男は他の人を外に移動させると、パロマに向き直った。

「要件は何?」

「屋敷へお戻りください、お嬢様」

「父からの手紙に書いてあったわ。家出は認めない、家に戻ってきなさいって? 私はもう戻りたくありませんと手紙で告げたのよ。自分の想いをちゃんと綴った。なのに返事がその一行だけ。それで納得するとでも?」

 フアンはだまってその様子を見ていた。パロマが自分にこの状況をなんとか説明しようとしてくれていることが分かった。大丈夫だパロマ、伝わってるとこの場で声をかけてやりたい。それほどまでに、パロマは必死で、ぎりぎりの状態のような気がした。すぐにパロマの傍により、俺は味方だからと告げてやりたい。あのオールバックをぶんなぐり、パロマは屋敷に帰らないとどなってやりたい。

 しかし、そんなことをしてはいけないことぐらい分かっていた。

 まだ状況がはっきりと分からない。状況が分かるまで、下手に動いてパロマに迷惑はかけたくなかった。

「……我々は、お嬢様を連れて帰るように命じられたまでです」

 オールバックは、言葉を選んで発言した。しかしその発言に、パロマはカチンと来たようだった。

「じゃぁ父に、自分でここまで来なさいと伝え――」

 そこでパロマはハッ、と息を飲んだ。

「あなたたち」

 先ほどまでの堂々とした声ではなかった。弱々しく、震えている声だった。

「どうやってこの場所を? 父には知らせていないわ! シャルルしか知らないはずよ!?」

 オールバックは何かを言おうと口を開いたが、すぐに閉じてしまった。目には迷いの色が浮かんでいる。その表情を見て、パロマは震えだした。目には涙をため、やっとのことで泣くのを押さえている。

「シャルルに何かしたの?」

 オールバックは答えなかった。パロマはオールバックに歩み寄ると、その胸倉につかみかかった。歩み寄り始めた時点で咄嗟に動いていたフアンは、胸倉にパロマがつかみかかった瞬間に、「落ち着け!」とパロマを後ろから羽交い絞めにし、引きはがした。

「シャルルに! 何かしたんでしょう!?」

 パロマは甲高い声で叫ぶと、悔しそうに歯を食いしばった。涙は目から次々とこぼれおち、嗚咽が洩れた。

「落ち着け! パロマ落ち着け! まだそうと決まったわけじゃないだろ!」

「そういう奴らなのよ!」

 パロマはフアンの拘束から、体をねじって逃れようとした。フアンは必死にそれを押さえつけた。オールバックの男は、その様子を黙って見ているだけだった。

「なんとか言いなさいよ! シャルルに何をしたの!」

 耳をつんざくような叫び声だった。

「………………」

 オールバックは頭を横に何度か振ると、腰に手をやった。

 今度はフアンが息を飲んだ。パロマの腕を引っ張り、胸元に抱きかかえると、守るように背中に手をまわした。胸の中でパロマが硬直したのは分かったが、今は遠慮をしている場合ではなかった。パロマの後ろにいたフアンは、ぐるりと回り、パロマとオールバックの間に入った。パロマを抱きしめたまま、強くオールバックを睨みつける。

 オールバックが手にしているものは何か、パロマはすぐに理解し、小さな悲鳴をあげた。

 右手に握られていたのは、小型の銃だった。あろうことか、それをこちらに向け、オールバックは無表情のまま説明を始めた。

「シャルルが屋敷を出た時に、数人でつけていた。ただそれだけですよ、お嬢様。何も拷問をして吐かせた、なんて古めかしいやり方ではありません。シャルルもさすがにつけられていたことは察しましたが、大勢でつけていましたから、気がつかなかった人もいただけです……全員巻いたと勘違いしていたのでしょう」

「……シャルルはその後、無事? 何もしていない?」

「お嬢様を逃がす手伝いをした、という理由で罰を受けてはいます」

 パロマは、その冷酷な答えに震えた。オールバックに殴りかかってもおかしくない、とフアンは思った。しかし、今はこちらから何も動くことができない。銃で何をしでかすか分からないからだ。フアンはパロマを守るように、止めるように、手に力を込めた。分かっていると返事をするように、パロマもフアンの服の裾を強く握った。

「この方法は最終手段だと言われていたのですが……旦那様より、お嬢様がこない場合は、シャルルの罰は、監禁だけでは済まされないと」

「………………」

「さらには」

 オールバックの右手に、力が入った。

「邪魔者は重傷を与えよ、とのことでした」

 邪魔者って俺か? とフアンは震えあがった。しかし、それでもその位置から動こうとはしなかった。パロマを手放すわけにはいかない。

「フアン」

 パロマが胸の中で小さく名を呼んだ。フアンはオールバックを睨みつけたまま、どうした? と聞いた。

「フアン離して」

「……え?」

「フアンが撃たれるの、嫌よ。早く」

「………………」

「早く。お願い」

 穏やかな声というよりかは、冷静な声だった。パロマの涙は止まっていた。とん、と一度、パロマはフアンを叩いた。フアンが少し腕の力を緩めると、パロマは自ら離れ、フアンの前に歩み出た。

 思い切り、男を睨みつける。

「ひきょう者」

「………………」

「ひきょう者ひきょう者ひきょう者」

「……」

「何度だって父にそう言うわ。あなたたちに言っても仕方が無い。あなたたちは仕事だものね。でも、父が大好きで仕方がない」

「……」

「銃を下ろしなさい! 無礼でしょう! 言わなければ分からないの!?」

 オールバックは目を細めると、銃をゆっくりと下ろした。しかし、いつでもまた構えられるように、右手に銃は握ったままだった。フアンもパロマと同じく、卑怯なやり方に震えていた。そして、何もできない自分にも苛立ちを感じていた。

「帰ります。屋敷に帰るわ。ただし、条件がいくつかあるの。まずは、さっき下で会った男の人、いたでしょ? あの人に暴力をふるったのは誰?」

「……私ですが?」

 返答とほぼ同時に、パロマは二歩大股で踏み出し、思い切りオールバックの右頬をはたいた。バチィンと大きな音が鳴り響いた。その行動はフアンにとっても、オールバックにとっても予想外で、誰も動くことができなかった。ただ一人、パロマだけは冷静な表情をしていた。

「あなたは少しでも、彼が私をかくまってくれる際に、私によくしてくれたって考えなかった? 朝食を作ってくれたり、話しをしてくれたり、気にかけてくれたり。何も知らない状況のまま、いきなり現れた私を優しく受け入れてくれて、いろいろ面倒を見てくれた人だって想像はできなかった? どうしていきなり暴力に出るの? どうして?」

「……失礼いたしました」

 オールバックは目を閉じ、恭しく頭を下げた。そんな姿の彼を、パロマはそれでもなお、強い語調でしかりつけた。

「私に敬意を少しでもはらうようなら、私の周りの人にも、同じように敬意をはらうようにしなさい」

「申し訳ございません」

 オールバックは頭を下げたままだった。

 大人の男に、堂々とした態度をとる彼女の姿は、お嬢様と言うよりはまるでどこかの姫のようだ、フアンは思った。銃を持つ相手に、臆することもなく、雇う側の立場を忘れずに物を言う。

 そうか、こんな環境で育ってきたのか。

 フアンはパロマの新たな一面を見ながら、フアンは考えていた。

 同情だろうか、憐みだろうか、心配だろうか。フアンの心の底から湧いてくる感情の名前を彼は知らなかったが、それでも、パロマが羨ましいとは思わなかった。

 知らず知らずに、小さな箱の中に閉じ込められているような――自分も昔、そうだったと、思い出していた。

 その箱の中は、息苦しいよな。

 フアンはパロマを助けてやりたいと強く思ったが、その方法が思いつかず、突っ立っていることしかできなかった。手を強く握りしめる。くそ、俺は、何もできないのか。

「彼がまだ倒れたままのようなら看護を。もしあの場に居ないようなら、後日ここまで必要な経費を払いにくるように」

 パロマは、なおも堂々としながら、男に告げた。

「かしこまりました」

「すぐに降りるわ。車を用意して待っていて」

「準備はすでに――」

 言いかけた言葉を、パロマはばっさりと遮った。

「逃げはしないから、ひとりにさせてと言っているのよ」

「……下にて十分、お待ちいたします」

「五分で構わないわ。早く出て行ってよ」

 はい、とオールバックはもう一度例をすると、フアンを一瞥した。最後までフアンはそいつのことを睨みつけていたが、オールバックは表情を崩すことはなかった。

 オールバックの足音が去ってすぐ、パロマは廊下を見渡し、誰もいないことを確認すると、フアンの方を振り向いた。


 パロマは笑っていた。眉間にしわを寄せ、少し困ったような表情だった。

「ごめんね」

「……何がだよ」

「ばたばた、どたどた、急に」

「何言ってるんだよ、パロマ」

「今までありがとね」

「パロマ」

「アンナさん、ホセさん、トリガーさんに、よろしく伝えといて。感謝してるって。アルベルトさんにも、ごめんなさいって」

「パロマ」

 フアンは今にも泣きだしそうだった。気がつくとフアンはパロマのもとにかけより、その白い両手をとっていた。自分の手が震えていた。何か言おうと思ったが、言葉がうまく出てこなかった。

「パロマ……」

 名前を呼ぶしかできない自分を呪った。

 行かないでくれ、なんて自分の正直な気持ちを言う事も、どうやれば救える、なんて答えの無い質問をすることも出来なかった。彼女が、自分たちのために、自分たちの平穏のために自ら屋敷に戻ることを決意したことを、フアンは痛いほど理解していたからだ。

「フアン」

 パロマがフアンの名を呼んだ瞬間、フアンの心の中で、張りつめた糸が切れた感覚がした。目の前が歪み、次々と涙がこぼれおちた。

 パロマは、大きな黒い目で、困ったようにフアンを見上げた。

「泣かないでよ、フアン」

「パロマ……俺……どうやったってお前を助けられる方法が……」

「いいの、いいの。私の我儘だったの。夢が叶ったみたいで、この数日、楽しかった」

 パロマは子供をあやすように、フアンの手を優しく撫でた。

「パロマ……」

「フアン、本当にありがとう。ずっとずっと、忘れないからね。フアンも忘れないでね」

「パロマ、行っちまうのか?」

 すがるような思いで聞いたが、パロマの返事は決まっていた。

「うん」

 即答だった。

「皆が私の我儘のせいで傷つくのは、だめよ」

 パロマは、そっとフアンの大きな手に口づけをした。

「今までありがとう。ねぇ、最後にひとつ、聞いていい?」

 口づけされたフアンの手は握られたまま、パロマは小さく質問をした。

「私は、フアンが大好きよ。フアンは、私のこと、好き?」 

――返事が、聞きたいの。

 言われて初めて、あの「大好き」は告白だったのだと、フアンは今さらになって確信した。

 本当に、このお嬢さんは。

 フアンは、握られた手をそのままひきよせ、パロマを強く抱きしめた。

 言葉がたくさん浮かんだ。あのときは、大好きの意味を深く考えすぎていた、本当はずっと前から君が好きだったが、認めるのが怖かった――行かないでほしい、ずっと一緒に居てほしい、方法を考えよう、頼む、行かないでくれ。

 浮かんでは消え、消えては浮かぶ言葉の代わりに出たのは、シンプルな返事だった。

「愛してる」

 強く抱きしめると、腕の中でパロマが嬉しそうに「よかった」とつぶやいた。

「ありがと、最後にその言葉が聞けて、本当によかった」

 パロマは離れようとしたが、フアンがそれを拒んだ。強く抱きしめて、離そうとしない。

「フアン、もう行かなきゃ」

「………………」

「フアン」

 子どもをあやすような声で、パロマはゆっくりと言った。

「少しの間だったけど、私はこんなに幸せだって思った日は無かった。

 多分、これからも、この数日が人生の中でずっとずっときらきら、輝いてるの。

 私の我儘な冒険は終わりなの。続けると、まわりのみんなに迷惑がかかるから、それはね、フアン。私は望んでいないの。だから私は、戻るのよ。

 ずっと忘れないから。ずっと、私はあなたのことが大好き。フアンも忘れないで。でも、フアンは他にもっと好きな人を作ってね――フアン」

 泣かないで。

 そっとパロマはフアンから離れると、優しく両手でフアンの涙をぬぐった。

「そんな寂しいこと、言わないでくれ」

「もう、行かなきゃ」

「パロマ」

 パロマは返事をせず、両手をフアンの首の後ろに回した。少し背伸びをして、パロマはフアンにキスをした。力強く押しつけられたパロマの唇は、何かを言いたげに、フアンの唇の上で動いた。

 パロマはすぐに唇を離したが、追いかけるようにフアンがもう一度キスをした。何かを言いかけたパロマの言葉は、フアンのキスのせいで押し戻されてしまった。

「んっ……」

 フアンは唇を離すと、そのままパロマを引き寄せ、力強く抱きしめた。パロマは涙を必死にこらえながら、震える声でこう伝えた。

「フアン、ありがとう、ありがと……フアン」

 パロマは決心したように、フアンの元から離れると、振り返ることなく一目散に走って行った。


 行ってしまった。

 フアンの頬を、また涙が流れた。

 パロマのぬくもりが、まだ残っていた。

 フアンは泣いていたが、絶望していたわけではなかった。

 窓の外から入ってくる、車のエンジン音を聞いた後、フアンは一人、拳を強く握った。


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