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1 早く盗んで

 フアンは、今まで住人に「早く盗んでちょうだい」と言われたことはなかった。


 今日のように、盗みがばれたことは何度かあった。


 警察に盗みの現場をおさえられたことは無い。盗みに入った屋敷の住人が、起きてしまってばれたことが何度かあるだけだ。やたら気配に敏感な住人や、眠りの浅い住人、タイミングが悪すぎる住人……もちろん、警察に通報される前に逃げおおせている。


 警察にばれたところで、盗みなんて日常茶飯事で起こっているこの国では、よっぽど酷い盗みか、あるいは殺人を犯すようなことをしなければすぐに釈放されることは、重々承知していた。それでも、今日まで警察の世話になっていないことはフアンにとってひとつの自慢であったし、誇りでもあった。


 そんな小さな誇りを胸に抱いている自分が情けなくもあったが、もう三十をこえ、いまさら生き方を変える勇気も、元気もなかった。だらだらと人様の物を盗み、どこかで静かにくたばっていくのが自分の人生なのだと思っていた。


 目の前にいる女性は、そんな自分には眩しすぎるほどの存在に見えた。ベッドの上で上半身を起こし、フアンのことをじっと見つめている彼女の瞳が、月明かりに照らされ、美しく輝いている。その瞳と目を合わせるだけでわかる。なんと生き生きとした、活力であふれた生命であることか。


 彼女の持つ輝かしい力は、若さからくるものもあるだろうが、それだけではないだろう。希望にあふれ、未来を信じられる生活を送っているからこそ溢れる、フアンが何よりもうらやましいと感じるものを、彼女は持っていた。


 長いこと泥棒をしていると、まれにこういった出会いがある。フアンはふと、盗みに入った屋敷の住人と意気投合した夜のことを思い出していた。


 夜中に二人で美味しいお茶を飲み、フアンは身の上話をし、別れ際に宝石を三つも頂戴した。なぜだか売り飛ばすことができず、いつかそれを返しに行くことを口実にもう一度会いに行こうと思っているが、いまだに実行に移せずにいる。


 やすりでかけたようにざらざらになってしまった自分の心に、その思い出は小さな砂金のように光り輝いている。


 フアンは目の前の女性を見つめ、彼女とそんな思い出を作ることはできるだろうか、などと悠長なことを考えた。


 そんな余裕はない。


 盗みに入ったその部屋にいた女性に、フアンはある要求を突きつけられている。


「早く盗んでちょうだい」


 確かに、彼女はそう言って、にやりと意地悪な笑みを浮かべたのだ。


 やはりおかしいのではないか。何かの聞き間違いだろうか?


 フアンは自分の耳を疑い、闇夜の中で立ちつくしたまま、何も言うことができなかった。


 フアンがあまりに無言を貫き通しているので、女性は不満をあらわにした。眉間にしわを寄せ、少しだけ大きな声をあげる。


「聞こえてる? 早く盗んで」


「……え?」


 フアンは、やっとのことで声を絞り出した。口の奥が粘ついていて、それなのに口の中は変に乾いている。


 もっと冷静になれ、緊張するな、リラックス、落ち着け。そう自分に言い聞かせるが、鼓動は早くなる一方だ。考えれば考えるほどわけが分からなくなり、頭の中がクエスチョンマークで埋めつくされていく。


 きっと何かの罠だ。そうに違いない。


 逃げなくては。


 フアンは駆けだそうとしたが、その一歩を踏み出そうとしたその瞬間、女性は楽しそうに微笑んだ。


「早くしないと警報鳴らすわよ」


 女性の脅しに、フアンは思わず返事をしてしまった。


「いや、おかしいだろ。なんで盗まないと警報鳴らされなきゃいけないんだ? 逆だろ?」


「いいから!」


 女性はもう、と両手をベッドにうちつけた。大人しそうな見た目とは裏腹なその行動に、フアンはますます驚いてしまい、言葉を失った。不法侵入者に対し、驚きもしない女性の強さにも驚いていた。フアンの脳内は驚きと戸惑いであふれ、混乱の渦がごうごうと音をたてていた。


 女性はベッドから降りて、あのねえ、と両手を腰に当てる。


「時間が無いの。こんな無意味なやり取りをしている間に、誰かに気がつかれたらどうするの?」


 確かに時間は無いな、となぜかフアンは彼女の言い分に納得してしまった。どうにも、彼女に丸め込まれている気がする。


 時間がない、という言葉が、フアンを冷静にさせた。その後、折れたのはフアンの方だった。


「……分かったよ、分かった。盗めばいいんだろ?」


 少女はよしよし、と満足そうに頷いた。


「ありがとう、泥棒さん」


 フアンは面倒くさそうに天を仰いだ。ああ、綺麗な天井だ。俺の住んでるボロボロのアパートの天井とは大違い。


 視線を女性に戻すと、彼女はまだ笑っていた。フアンはそっと、目の前の細い手に向かって、自分の罪ばかり重ねた手を伸ばす。


「紳士なのね」


 意地悪い笑みを浮かべる女性を見て、フアンは顔をしかめた。


「早くしろ」


 女性は黙って、フアンの手の上に自分の手を重ねた。とてもゆっくりとした、洗練された動作だった。


 窓から漏れる月の光に照らされているためか、女性の肌は透き通るように白く、綺麗だった。思わず見とれながら、それでもフアンは、冷静に彼女の言っていることを分析しはじめた。


 何度考えても、やはりおかしい。こいつ、正気なのか?


 フアンは、彼女の白い指を見つめた。震え一つ起こさず、まるで「私はいたって冷静よ」とその指先が教えてくれているようだった。



 彼女は、フアンに言った。


 自分の部屋に侵入し、盗みを働こうとした泥棒に対し、脅迫をしたのだ。


 警報を鳴らされなくなければ——「自分を盗め」と。

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