第一章 幸せな日常(前)
第一章 幸せな日常
「和くん、帰ろう?」
HRが終わると、毎日の習慣のように、結花が僕の席のところに来た。
「ちょっと待って。今、準備するから」
僕、赤瀬和真と天野結花が付き合い始めたのは、去年のクリスマスだ。
クリスマスの日に行われたクリスマス文化祭の終わり、キャンプファイヤーのときに、結花から告白された。
「それじゃ、行こうか」
鞄を持って、教室を出る。
今日は月曜日で部活がオフだから、久々に結花とデートに行く約束をしている。
「どこ行くの?」
「どこに行きたい?」
「ん~。商店街かなぁ。色々みたい物あるし」
「じゃ、そうしよう」
昇降口で靴を履きかえて外に出ると、真夏ならではの、ジリジリした日差しがガンガン降り注いでいた。
「うわぁっ、暑い……」
「ホントだねぇ~」
「今日が部活じゃなくて良かった……」
こんな暑さの中体育館でバスケをしたら、三分間で干からびそうだ。
校門を出て、駅や商店街の方向に歩いて行くと、いつものように、さりげなく、結花が僕の右手を自分の左手で包んだ。
だから僕も、その左手を優しく握る。
彼女の手は、暑さのせいか少し汗ばんでいたけど、今はもう気にしないみたいだ。
商店街に着くと、彼女が真っ先に向かったのは、マクドナルドだった。
「ちょっと待ってて」
彼女にそう言われて、店の外で待つこと五分。結花は、両手にソフトクリームを持って出てきた。
「お待たせ」
「いや、そんな待ってないけど……」
「はい、冷たくておいしいソフトクリーム」
「あ、ありがと」
僕は少し躊躇いながらそれを受け取る。
「どうかした?」
少し躊躇う僕を見て、彼女が不思議そうに首を傾げる。
「いや、どうしてソフトクリームを買うのに、マクドナルドなの?」
「ここのソフトクリーム、すっごく美味しいから」
真っ直ぐでわかりやすい答えを、結花は満面の笑みで教えてくれた。
「それじゃ、いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
僕たちはまた手を繋いで、今度は片手でソフトクリームを食べながら歩き出した。
彼女と過ごす時間は、あっという間だ。
服屋や本屋、雑貨屋、アクセサリー店など見て回っているうちに、もう七時を過ぎていた。
「そろそろ帰る?和くんの親も心配するだろうし……」
「うん、そうだね。家まで送るよ」
商店街を抜けて、少し歩いたところの住宅地にあるマンションで、結花は一人暮らしをしている。
両親は、結花が中学三年のときに、交通事故で亡くなったらしい。
去年まではお姉さんと二人で住んでいたけど、春に東京への進学のために引っ越して行った。
「バイバイ、和くん。また明日」
少し名残惜しそうに、結花は僕の手を離して、小さく手を振った。
「うん、じゃあね」
僕も小さく手を振り返して、帰路につく。
僕の家は、ここから二十分ほど歩いたところにある。
近からず、遠からずと言った距離だ。
歩き出して数分すると、ポケットに入れてある携帯から結花の好きなラブソングが流れだした。
「もしもし、和くん?」
「毎回だけど、どうして疑問形なの?僕の携帯なんだから、僕以外の人が出ることなんてないでしょ」
「そうなんだけど……なんとなく不安で……」
結花の声が急に弱々しくなる。
「まぁ、結花がそうしたいって言うなら、別に文句は言わないけど」
「うん、ごめんね」
「どうして謝るのさ」
「なんか、いっつも和くんに気を遣わせてる気がするから……」
電話越しの会話なのに、少し眉を落として弱々しく喋る結花の姿が目の前に思い描くことができる。
「そんなことないよ」
「ほんと?」
「うん、ほんと」
「そっかぁ~。よかった」
電話の向こうで、結花が笑う。
彼女の一つ一つの仕草や声が可愛らしくて、会話を交わすたびに、視線を合わせる度に、彼女に惹かれている気がする。
普段と変わらない、あまり意味のない会話だけど、自宅までの道を一人で音楽を聴きながら歩くより、ずっと気分がいい。
何気なく空を見上げてみる。
空には満天の星空が広がっていた。
(明日も晴れだな)
そんなことを考えながら、彼女の言葉に耳を傾けた。
「それじゃ、結花。また後で」
「うん、メール待ってるから」
家に入る前に、一度電話を切る。
それは、二人の間で決めたルールの一つだった。
自分たちの関係も大切だけど、それと同じだけ、家族との関係も大切だと、結花が言ったからだ。
「ただいま~」
ドアを開けて家の中に入ると、リビングから夕ご飯の温かないい香りがした。
「おかえり。もう少しでご飯できるから」
「ただいま。じゃ、手洗ってくる」
洗面所で手を洗って、リビングに戻ると料理のほとんどが出来上がっていた。
「奏音のこと呼んできてもらえる?」
「ん、了解」
階段を上って、自分の部屋の隣、奏音の部屋をノックする。
「はぁ~い」
「ご飯だって。もうできるから降りて来いって」
「わかったぁ~。今行くから、ちょっと待って」
壁に寄り掛かって待っていると、Tシャツにミニスカートというラフな格好をした妹、奏音が出てきた。
「勉強しなくていいの?一応、受験生だろ」
「まだ、大丈夫。これでも、学年三十位以下にはなったことないから」
奏音は胸を張って、誇らしげに言う。
まったく。
自分の手柄のように言ってるけど、テスト前日の夜、半泣きになって母さんたちにばれないようにこっそり僕の部屋に入ってきて、「全然わかんない」と徹夜で勉強を教わっているのは、どこの誰だろう?
「まぁ、少しは自分で勉強しておけよ」
「うん。わかってる」
二人で階段を下りてリビングに戻ると、夕飯の準備は終わっていて、父さんと母さんは席について待っていた。
「「「「いただきます」」」」
毎週月曜日は、家族四人そろって食事をするようにしている。
ほかの日は僕の部活があって、僕だけ一緒に貯めることができないから。せめて、部活がオフの月曜日だけは……と。
『食事中に喋るな』という家訓もなく、食事中は家族四人が口々に、その日あったことを面白く、周りを楽しくするように話していう。
クラスメイトの失敗談、友達から聞いた話、仕事先でのハプニング、ドラマや音楽についてなど、会話の種はいくらでもある。
赤瀬家は、いつも笑顔が絶えない気がする。
僕は夢を見る。
もう一つの世界の夢を……。
その世界で、彼女は、白鳥彩羽は、いつも一人で空を見上げている。
「どうしていつも一人なの?」
僕がそう聞いてみると、彼女は「一人が好きだから」と答えた。
世界の形も、景色も、色も、すべてこっちの世界と同じなのに、その世界はこっちの世界とは違う。
そこの世界には、僕という存在はいない。
『僕』が存在しているのは、彼女の意識の中でだけだ。
だから僕は、彼女と会話することはできても、他の人と会話をすることはできない。
誰かのすすり泣く声がする。
後ろを向くと、誰かが大きな桜の木の前に立って静かに泣いていた。
(あれは……奏音?)
桜の木の前で泣いているのは、確かに中学の制服に身を包んだ奏音だ。
「どうして、奏音がいるの?」
「今は内緒。たぶん、そのうちわかるから」
彼女はそう言って、悲しそうに微笑んだ。