私と彼と、犬
企画:アイコトバ参加作品です。
「みなさーん、今日はー、人権についてお話したいんですけど~」
平日のお昼前に聞く、担任の女性教師北原亜衣……アイちゃんの話はとてものんびりしていて平和だ。
声が可愛らしくて顔も童顔で、もちろん年上なのだが、いわゆる癒し系である。総合授業が行われると高三のこのクラスはいつも夢うつつになってしまう。
周りの皆が居眠りをしだす中、わたしはこっそりと左斜め前に視線をやる。窓際の机に突っ伏して、彼はすでにすやすやと眠っている。高校生の標準的な体格、耳にかかるくらいの黒髪も普通、平凡な顔、ぴくりともせず静かに眠る様子があどけない。
星野脩平。目下、わたしの好きな人だ。
「ええっとぉ、このお兄さんがつまりですねー、ぁう、またチョーク折れちゃった……あっ! そういえばこの観葉植物お花咲いてる! すごーい、こないだゴミかと思って捨てようとしてたのすら忘れてたのに~」
アイちゃんのハートウォーミングボイスを聞きながら、星野の後姿をぼんやり見つめるのが、わたしの最近の楽しみだ。煩雑で混沌とした現代では、癒されるものというのは案外少なくはないだろうか。
ちなみに、告白しようとか、仲良くなろうという気は全くない。
なぜか? そこは現実との兼ね合いだ。気持ちを伝える勇気も気力もないし、やはり恋は、こっそりと見守る片思いが一番夢が壊れないと思うから。
※
「とかゆってるからさーイズミはだめなんだよ? 若者なんて自己中心な夢押し付けて当たって砕け散ればいいじゃん跡形も無く」
「あーまたそんな。人のささやかな幻想にケチつけるなんて野暮な」
昼休み、教室の隅で友人の川上里子に、わたしは今日もそう言われた。
サトコは制服と茶髪が校則違反、おしゃべりで世話焼きで調子のいい奴だ。こういうとアレだが、誰とでも上手くやっていけるタイプで、愛想無しのわたしをものともしない。星野のことも黙っていようと思ったが、なぜかばれてしまったので事件がない日はことあるごとに話題に上る。
「しかしうん、あいつ密かに人気があるよね。なんで? あたしから見ると普通。感じは悪くないけど」
「んー……」
「つーか寝てない? 大体」
「あー……アイちゃんだし」
「アイちゃん、声が癒しだよね。今日もみんな寝てたね。催眠だね」
「顔がかわいいから好きだよ。アイちゃん」
弁当を食べながらどうでもいい話をして、時間をやり過ごす。毎日の繰り返しだが、その間わたしは、サトコに言われたことを頭の端で考えていた。そうか。彼女はいないらしいが、密かに人気があるのか。まあ……そうだよなぁ。
今は誰も座っていない席にちらりと目をやる。
わたしも同じクラスになるまでは、いや、なってもすぐに好きになったわけではない。非社交的かつ無愛想という性格上、高校三年で初めて同じクラスになった星野と話す理由がなかったのだ。
偶然の接触は、わたしの習慣がきっかけだった。
※
――汚れていたらとりあえず片付けたい。
それが身に染み付いていた。潔癖症や神経質というわけではない。親が綺麗好きだったため小さい頃から整理清掃を躾けられ、考える前に手が出てしまうというのが近いだろうか。
そのためわたしは大抵クラスの美化委員であったし、とりわけ三年になってからはとても働き甲斐があった。
「この接続詞は~、前後の文章から推測しちゃうんですけど、ふぇ!」
担任の国語教師、アイちゃんは、授業のたびに悪気無く活動範囲を汚していく。三十分に一度はチョークを折り、教卓に粉をつけ、色んな場所に物を置きっぱなしにすること数知れず、その結果何かが無くなったことすら気付かない。なかなか大物だ。
潔癖症かと疑われるのは嫌なので、ひどいときは休み時間にさりげなく拭いたり元の場所へ戻したり足で揉み消したりと、人目を盗んできれいにした。
それでも全部はとても追いつかない。考えた結果、単純に、誰もいなくなる放課後に心置きなく片付けることにしたのだった。
その日は朝からの長雨でとても湿気が多く、ワックスを塗り重ねた教室の床に、たくさんの上履きの跡が出来ているのを落ち着かない気持ちで見ていた。
これだけは拭いて帰らないと、気になる。床がかわいそうだ。そう思い続け、わたしは放課後を待っていた。待ちわびた短いホームルームが終わると、友人と少し喋り、係りの用事を済ませ、図書室で受験勉強をしたり本を眺めたりして時間を潰す。そして再び教室に戻ると運よく誰もいなくなっていた。遠くから雑談の笑い声や、運動部の気合だけが聞こえた。
「よし……」
俄然やる気が出てきて、わたしは早速雑巾を絞ってすばやく廊下から拭く。続いて教室の入り口辺りを拭き始めたのだが、
「あれ?」「え?」
不意に誰かが入ってくる。
集中していて足音に気付けなかったのだ。
背景の窓の外では、まだほんの僅かな雨が降っていた。
「えっと、宮内さん――」
一人だった。
星野脩平。相手が自分の苗字を呼ぶ頃、わたしもその名前を思い出していた。とっさに浮かんだのはどうしようという逡巡で、よく知らない相手には挨拶すら苦手なのに無視できる状況ではなくて。どうにか誤魔化さなければと口を開きかけ、
「――ごめんっ!」
「はい?」
相手の謝罪に遮られた。
ごめんって何だ。不覚にも思考停止してしまい、わたしはしばらくの間雑巾を握ったまま床で言葉を探す。その間に、なんと星野は自らも雑巾を絞ってきて隣で床を拭き始めたので、慌てた。
「い、いいよ。そんな……わたしは、美化委員だし、だから気になっただけで、手伝わせるなんて思ってもなくて」
「いや。宮内さんだけにやらせてそのまま帰れないし」
「あー、じゃなくて、本当に、これはわたしの趣味みたいなもので、」
「趣味?」
「う……まあ」
不思議そうに聞き返され、仕方なく説明した。汚れていたらどうしても片付けたくなるだけなのだと。星野は床の汚れを落としながら、なるほどと頷いた。
「それでもえらいよな。いつも黒板きれいにしてるし、枯れかけてた観葉植物の世話とか亜衣先生のフォローして、放課後まで……この教室がきれいなのって、絶対宮内さんのおかげだ」
「うわ、気付いてる……」
「え?」
普段の苦し紛れは、誰にも気付かれないように注意していたのに。
軽いショックを受け苦笑と共にそう零すと、星野は手を止めて曖昧に首を傾げた。
「気付くよ。のんびりしてる亜衣先生は別かもしれないけど……少なくとも、ここに一人は。だから、みんなを代表して」
ありがとう。
遠い音しかない空間で。正面からまっすぐに笑みを向けられる。
いつ思い出しても、それは本当に他意のない、自然な表情に見えた。本来ならとても親しい人間にしか見せられないような。
羨ましい――と思うと同時に、胸に苦い思いが滲んで、無理矢理視線を引き剥がすしかなかった。
とても苦く、心臓が痛くてうるさくて、深呼吸をしてもまだ顔が熱い。
ああ、しまった。完全にやられた。
無駄だ。
いくら後悔したところで、一瞬でも好きだと思ってしまったら、そう簡単には取り消せないのだから。
※
「あ、アイちゃんもかわいいけど、見てよこれ!」
「何? 本?」
昼休みも終盤、思考に耽っていたわたしの前にサトコが何かを置く。見れば写真集のようだ。それはいいが表紙からして、明らかに犬。タイトル「三度のメシより犬を見ろ」。ちなみにわたしは犬が嫌いである。
「かーわいいでしょ!?」
「いいや?」
「見てこの美しい歯! そして肉付き! 眉毛! おしり!」
「そこに注目するの?」
「なによりこんな純粋に動物見てかわいいって言ってるあたしの好感度がすごいでしょ!?」
「そうだね」
不純な動機で写真集を見せてくるサトコがどうでもいいので、わたしは無意識の部分で返答しながら宇宙の誕生について思いをめぐらせる。
ビックバンにより形成された軽い元素のことを考えていると、
「あ、犬だ。好きなの?」
急に脇から明るい声を掛けられて、意識を呼び戻された。この声。動揺を押し隠しながら顔を上げると、やはり机の横で立ち止まっていたのは星野だった。友人たちと教室に戻ってきた直後らしく、少し制服が皺になっていた。
「えっと……これは、サトコの」と、わたしが答えかけると、
「そーなのそーなのっ。イズミってばこんな本買うくらい犬好きなんだよ? 乙女だよねえ」
サトコに大嘘吐かれた。どういうつもりかは――わからないとは言わないが、勘弁しろ。
視線に殺気を乗せてみたのだが、本人はどこ吹く風である。
星野は見ていいかとわたしに聞き、当然のようにサトコが許可を出したので、写真集をめくりはじめた。犬が好きなのだろう。楽しそうだ。彼はあれ以来、放課後以外の清掃をこっそり手伝ってくれている。そのうちに気付いたクラスメイトが綺麗にする雰囲気まで出来てしまった。時々、そんなことについて短い言葉を交わすことはあった。それだけで満足だから、今は少し近すぎる。
「うち、今柴の子犬が三匹いるんだ。すごい元気いいやつ」
「へーそうなんだぁ! 飼い犬が生んだの?」
「それがさ、兄が拾ってくるんだ。やたら捨て犬に出会っちゃうタイプで、その度に飼い主探しして。今も飼い主募集中。結局かわいいから怒るに怒れないんだけど」
「いい奴じゃん。ねえ? イズミんちは犬飼えないの?」
「――え。それは……たぶん」
急に話を振られて、二人と視線が合い、気まずく顔を逸らす。前に飼っていたことはあるし、現在猫は飼っているけれど、遠慮したい。猫は好きだが、犬は好きではないのだ。
ペースがつかめず言葉を濁していると、ここでサトコがわざとらしい気安さでとんでもない提案をしやがった。
「じゃあさ、とりあえず見に行っていい? イズミは犬に飢えてるし、あたしも柴犬ってすごい好きだし」
「は?」
「あぁ、いいよ。見に来る?」
星野はちょっと微笑んだだけだ。
それなのにわたしは面白いほど動揺してしまって、思わず頷くという失態を犯したのだった。
※
「畜生、はめやがって……」
「えー? 頷いたのイズミじゃん」
「ちがう! それは不可抗力で、そこまで誘導するのが罪なの!」
「とか言っちゃって、本当は嬉しいんでしょ? これを機に仲良くなれるじゃん」
「嬉しくない。見てるだけがいいんだし……あーなんでわからないかな……」
「夢が壊れなくて、疲れないから? イズミってある意味ものすごい自己中心的なんだね」
次の短い休憩時間に、トイレでぐだぐだと愚痴ると、サトコは髪型を整えながらそんな言葉を返した。妙に心を突く台詞だったので、狭い通路で俯いて胸の内で反芻する。自己中心的か。そうだ。好きにさせてほしい。期待も見返りもいらない。わたしは誰にも、星野にさえ余計なことをしてほしくないし、言ってほしくない。この件に関しては相手すらどうでもいい自分本位なのだ。
「そうだよ。それほど迷惑でもないと思うけど」と答えてみせると、サトコは鏡から視線を逸らさず肩をすくめた。
「どうかなぁ。それってお姉さんと弟さんの事が理由なわけ?」
すぐには答えられなかった。
わたしには二つ年上の姉と、二つ年下の弟がいる。姉はもう卒業したが、同じ高校に通い、弟も今年入学してきた。彼らは有名だった。姉は文句のつけようがない美人で成績優秀、性格もおっとりと優しく、それなのに男性関係がものすごかったからだ。
弟がまたアイドルにでもなればという容姿で、運動神経抜群、性格もおっとりと優しく、女性関係がものすごい。
必然的に修羅場を連想させるが、不思議なことに彼らは恨まれない。わたしだけだ。彼らの兄弟ということで不当な注目を浴びるのは。わたしはどう見ても二人のように優れてはいないのに、よく奇異な目で見られた。一度腹に据えかね声を掛けてきた人と自暴自棄で付き合い、一月で別れて以来反省したが。
「影響は免れていないけど、結局は性格の問題だよ」
自分の恋愛観を人のせいだとは思えず、わたしはため息を吐く。
ようやく髪型に納得がいったらしいサトコは鏡から視線をはがし、笑った。
「そうはいってもやっぱりイズミの弟さん、かっこいいよね~。今度紹介してくれ」
「……。今、七人待ちらしいですが、それでよろしければ」
こないだより増えてんじゃん! と文句を言う彼女を置き去りにして、わたしはげんなりしながら教室に戻った。
※
それから現実逃避をしていても、時間は過ぎて放課後を迎える。
サトコに引きずられるようにして辿り着いた星野の家は、学校から自転車で十五分ほどの川沿いにあった。通りの向こうは広い河川敷で、川を挟んだ対岸にも住宅街が広がる。視界が拓けていて、緩やかな水の流れを見ると少し心が落ち着いた。道中存在しない用事を思い出そうとして上手くいかなかったし、相槌を打つだけで精一杯だったからだ。
家に着くと庭に案内された。
奥に網をはった木の小屋があって、星野が扉を少し開けた途端、奴らは勢いよく飛び出してきた。
「開けるよ――あっ、こら!」
「ワンっ!」
「わ~」「うっ……」
犬。
三匹も。
微かな眩暈を感じると同時に、サトコが無邪気な嬌声を上げる。
「きゃー、思ったより超かわいい! コロコロしてていいね。お、イズミ大人気」
だから(?)わたしは犬が好きではないと言っているのに、なぜ柴犬どもはわたしの足元にまとわりつくのだろう。遊んで! 遊んで! 遊ぼう! 遊ぼうよ! 遊べよオイ! と率直過ぎる表情で。
ダメだ。やっぱりダメだ。この率直さがわたしはダメなのだ。
「ごめん宮内さん、大丈夫? びっくりするよな。元気すぎてもう……」
わたしが頬を引きつらせていると、星野が慌てて二匹拾いあげてくれる。
「ありがとう、大丈夫……」
そういうのもやめてくれ。責任感だろう優しさにまでいちいち動悸がしそうになって、わたしは膝をつき、残りの一匹に視線を向けることにした。
ファーストコンタクトは微笑まない。触れない。甘やかさない。
大人しくしろと鋭い視線を向けると、子犬はさっと目を逸らした。それから手の甲を差し出して好きなように匂いを嗅がせる。不用意に飛びつこうとしたらはっきりと無視して敬遠し、行儀よくできると初めて背中を撫でてやった。
「いい子」
わたしが表情を緩めると、子犬は笑ってさかんに尻尾を振った。大人しく上下関係を守るのなら少しは可愛げもある。
「ボールとってこーい!」
それにしても、サトコは思った以上に柴の子犬がかわいかったらしく、一番張り切って三匹と遊んでいた。
まだ小さな体にぴんとした三角の耳、短めのしっぽや真っ黒な涙型の瞳など、確かに容姿だけ見ればぬいぐるみとは比較にならない。落ち着きがないところも世話好きのサトコにはたまらないのだろう。
そんな折、星野が時計を見て申し訳なさそうに言った。
「もうこんな時間だ。ごめん、俺これからバイトなんだ」
「は? バイトしてんの?」
離れがたいというように一匹を抱いていたサトコが、驚いて聞き返す。わたしも意外に思って彼の顔を見つめると、星野は苦笑して答えた。
「兄貴の収入だけじゃ心もとないから、こいつらのご飯代の足しにしようと思って」
「ご飯代?」
飼い主が見つかるまで健康診断に連れて行き、予防接種をして、十分に遊んでやって、清潔にして程よい食事を与えて、できれば去勢・避妊手術をして。
サトコは首を傾げたが、そういう意味だとわたしにはわかった。
「すごいね」
思わず呟くと、星野は微かに頬を赤らめて首を横に振った。
偶に考えることがある。自分以外のために労力を惜しまない人は不憫だと。本人が自覚しなくてもわたしはそう思ってしまう。
とても真似できないから近づくのも躊躇われるのに、何か出来ないかと思う。仲良くなりたいという下心ではなくて、ただ彼が掃除を手伝ってくれたように。
わたしは一度深呼吸をして星野の顔を見つめた。
「あの、飼うのは無理だけど……よかったら飼い主が見つかるまで、何匹か預かるよ」
彼は不思議そうな顔をして、子犬を抱いていた。
※
突飛な提案は一旦保留になったが、翌日の交渉の結果子犬を一匹預かることに成功した。わたしが犬好きだと思い込んでいたのが役に立ったので、それだけはサトコのおかげだ。星野は申し訳ないほど頭を下げ、礼を言った。
「実際十分には構ってあげられてなかったから、すごく助かる」
わたしの家では二年前に飼っていた犬が亡くなっている。子犬を連れ帰ると予想以上にすんなり受け入れられ、弟まで喜んで「飼おう」と言い出す始末だった。夕食後、わたしは手早くケージや餌の用意をしながら釘を刺した。
「飼うんじゃなくて預かるだけだから。絶対飼わないから」
「ええー。イズミは厳しいよ。もうちょっと緩やかに生きたらいいのになぁ」
「わたしはあんたや姉さんとは違うの。そうなれるとも思ってないんで、余計なこと言わない」
「ウメ、俺の姉ちゃんはこんな人なんだ……くれぐれも下手なことを言うなよ」
「どうでもいいけど甘やかしすぎないでね。結局困るのはその子だから」
子犬――ウメを抱いてソファに寝転がる弟に、わたしは冷たい視線を向ける。彼女とのメールや好きなテレビ番組もそっちのけにするほど気に入ったらしいが、だめなものはだめだ。
ウメも心なしかわたしのほうを見て悲しげに首を傾げた。だめなの? なんで?
「ほら訴えてる」
「そのストレートなところがもうね……」
「ダメなんだ。イズミって難しいなぁ。もしかして俺のせい?」
「そうだね」
うぜえ。怒気をこめた笑みで答えて、ウメに食事とトイレをさせた。身体を拭いてケージに入れてようやく落ち着き、わたしは側にいた愛猫のノリコの背を撫でた。長生きの成猫は子犬がやってきたことにも我関せず、触らせてやってもいいという表情を崩さない。猫は気ままで自由で冷静で、本当に素晴らしい動物だと思う。
「ノリコには優しいのに。差別だ」
「余計なことを言わないなら、優しくしてもいいよ」
冗談めかして弟が言い、わたしはぞんざいに返す。二年前愛犬が死んでしまったとき、家族揃って酷く悲しんだというのに。自分の責任でもう一度その経験をする気にはなれない。
臆病という言葉が頭のどこかで掠めて、わたしはそれがどういうものを連れてくるのかは、決して考えない。
※
ウメを預かってから星野との会話は増えたが、全て当たり障りのないものに徹した。健康状態がどうの成長具合がどうの、飼い主探しがどうのという具合だ。
サトコは当然呆れて「何やってんだ!」と非難してきたけれども、片思いくらいわたしの自由である。確かに話せれば嬉しいし、笑顔を向けられると高揚するが、そう思う時点でもう貪欲になってしまった気がする。とにかく関わってしまった以上気付かれないことは絶対だった。
そして二週間以上経つ初夏の頃、朝登校すると星野に明るい声を掛けられた。
「おはよう。あのな、昨日飼ってくれる人見つかったんだ! 二匹なんとかなりそうでさ」
「ほんと? よかった」
ああ、そうか。飼い主が見つかったのか。
意外に早く……喜び以外の微妙な思いが溢れそうになって、急いで笑みを作る。雑談にざわめく教室の中、わたしの内心には気付かず、星野は机の横で少し悪戯っぽい表情を浮かべた。
「どんな人達だと思う?」
「え。えっと。どんな人? どんな人だろう……希望としては、優しい老婦人がいいかな」
「いいなあ、それ。裕福で、可愛がってくれそうだ」
「違うんだね。正解は?」
「一人は兄の知り合いで、愛犬家のおじさんだって。それでもう一人が――」
「ハイっ!」
「え」
なんと、サトコだということで。確認すると、星野は本当だと笑っていた。
一応「毎日運動させて定期的に病院連れていってブラッシングしてご飯あげて躾して清潔にするのはもちろん、死ぬまでに新車一年分の費用かかるのがわかってんのか!」と詰め寄ると、サトコは腕を組み神妙な顔で頷いた。
「聞いたよ、ちゃんと。前から妹が飼いたがってたし、あたしもあれから本当に気になっちゃって。だからすぐには言わないで、本も読んで家族に相談して悩みまくったあげく、やっと決めたの。準備万端の一大決心。どうだすごいだろ!」
言い返してみろと威張る彼女を、わたしは「えらい」と素直に賞賛し、慌てさせてやった。
それでその件には決着がつき、ホームルームが始まる前に、聞かないでいたことを星野が告げる。
「そういうわけだから、宮内さん、今まで本当にありがとう。ウメは近いうちに引き取りにいくよ」
※
その週の日曜日の昼過ぎ、わたしは星野の家の前の河川敷に行った。
貰われていく前に最後に一度、兄弟で遊ばせることにしようと星野が提案したからだ。二度と会わないとも限らないが、わたしもそれはいいなと思い、賛成してウメを連れて行った。
ちなみにサトコは用事があると言って参加せず(嘘だったら事故れ)実質二人きりなのだが、わたしはジャージで犬の保護者に徹し犬どもを遠慮なく盾にすることを決意して挑んだ。私服の軽装姿の彼は少し眩しかったけれど。
「おお、やっぱりみんな久々の再会で嬉しそう」
「本当に。ウメ! ボール!」
広い河川敷に三匹を開放して、精一杯相手をする。午後が傾いた昼下がりはいい天気で、時折散歩をする人がいるだけの草原は平和な貸しきり状態だった。
三匹は元気よく走り回り、ボールを追いかけて、取っ組み合いをして、わたしや星野にじゃれついた。甘やかしてはいけないと思っても、今日だけはなんとなく怒る気になれない。そんな日だった。
走り回ると汗ばむくらいの陽気で、風が心地よく吹く。「マツ、しっかりやれよ!」と笑顔で子犬をなでる星野を、これまでにない清々しい気持ちで見つめる。これからもう一度でも、こんなに堂々と彼を見る機会があるだろうか。そう思うと、遊べ遊べと際限のない犬たちの催促が、ずっと続けばいいという気持ちになった。
そうして遊び始めて、半時間は過ぎただろう。
滅多にない平和な時間が、このまま穏やかに終わることを疑っていなかったわたしは甘かった。事件というものは、結局はそういうときに起こる。
アホだ。
信じがたいアホ共だった。離れたところにいた星野が「あっ」と声を上げたときには遅かった。見直しかけていたのに、わたしの犬に対する評価は一気に無に帰した。だって水際でじゃれあっていたウメとマツが、不意に川に転がり落ちたのである。
「キャンっ!」
短い岸壁があって、その下に割と深めな水は絶え間なく流れている。泳げない二匹は甲高い悲鳴をあげて、暴れた。わたしは近くに居た。それだけで、考えることなく上着だけ脱いで、飛び込んでいた。
「宮内さん……!」
星野の声が遠くから聞こえた気がしたが返事はできなかった。初夏の水温は刺すように冷たくて。全身の硬直を振り切るのに数秒かかり、側にいたマツを拾い上げて岸に戻すのに十数秒かかる。
振り返るとウメの姿は完全に水に沈んでいた。足がつかないほどではない川の中に頭まで潜ると、三メートルほど前方にその姿を見つけた。動きにくい服装だったが、手を伸ばして夢中でウメを引っ掴む。
水面に顔を出すと肩にウメの爪が食い込んで、自分の呼吸音が少し震えていた。名前を呼ばれて振り返ると、マツを抱いた星野が岸壁ぎりぎりのところで、必死の形相をして手を伸ばしている。
わたしは慎重に岸に戻ると、その手を取って河川敷にあがった。子犬は激しく身震いして水を飛ばした。空は相変わらず平和な色をしている。青とも茶ともいえない静かな川の色が目蓋の奥で揺れる。髪を絞りながら、わたしはぐったりして寝転びたい気分だった。
「ああ、もう……! なにやってっ……いきなり飛び込むとか、危ないだろ!」
珍しいことに星野は怒っていた。少し泣きだしそうでもあったので、転落したバカたちに言っているのかと思いきや、「宮内さん、聞いてる?」と睨まれて慌てて返事をする。
「え? あ、はいはい……」
「無事だからよかったけど、ほんとよかったけど、マジで心臓止まるかと思った……俺、膝が悪くてほとんど泳げないし」
「ごめん。でもあの、わたしこう見えて運動神経で困ったことはなくてね……」
「そんなの関係ない! むしろそういう人のほうがいざってときには――」
心配されている。
怒られながらもそう実感できて、殊勝な振りで聞いているのも全然悪くはなかったのだが。
寒い。
誤魔化しようがない。堪えきれずに一度くしゃみをしてさりげなく上着を引き寄せると、星野はすぐに気付いてぱっと立ち上がった。
「って、ごめん……! そうだよな、すぐタオルとか取ってくるからちょっとだけ待ってて!」
「うん、ありがとう」
走っていく気配がして、わたしは大きく呼吸をした。夕暮れが近づいて空の色が変わり始めている。ずぶぬれのウメがもうけろっとした顔で側にやってくる。このやろう、と睨み付けたが犬は逃げる気配はなく、わたしは諦めてウメを抱き上げ、草の上に寝転んだ。
ああ――よかった。
「これだから、犬なんて嫌いなんだ。わかってる? 助けたのはお前のためじゃなくて、星野が好きだから」
わたしだって悲しいけれど。
でも、ウメが死んだら悲しいなんて、わたしよりずっと前から彼はそう思っている。だから――そう続けようとして、
「え……?」
「!」
声がして、わたしはこれまでにない勢いで飛び起きて、ウメを放り出した。
振り返るとすぐ側に星野が立ち尽くしている。呆けた顔をして。
今、わたし、真顔でとんでもないことを言った。絶対聞かれた。しかも犬相手に告白なんて。熱い。死ぬほど顔が熱くて、いっそ死んだほうがマシだと思った。
「な、なん、で? タオル、は……!」
「あ、その、やっぱ、家に来てもらったほうがいいと思って、」
「ちがう。違うの。今のは違うから!」
「違う、の?」
「違う、わけじゃないけど……! そういう意味じゃない! 言おうと思ってなかったの! ウメのことも、仲良くなろうと思ったんじゃなくて、掃除、助けてくれた分少しでも返したかっただけで」
「宮内――」
なんという言い訳。ウメを睨んでももうどうしようもない。言葉を重ねるほど最悪に無様だったが、遮らずにはいられなかった。結果は見えていても、覚悟がないままここではっきり振られたら、家に帰る気力すら無くなる。死活問題だったのだ。
「付き合いたいなんて絶対言わないし、これは事故で、これ以上話したいとも言わないから! だから今日は勘弁して、出来ればこれはなかったことに」
何か言おうとしていた彼は、諦めたように口を閉じる。わたしが落ち込みながらも安堵した瞬間、右腕を引かれ、うなじに彼の手を感じた。
そして思わず目を閉じた暗闇の中で、唇を塞がれる感触がした。
一秒。
たったそれだけで、全部壊れてしまう。
「そういうこと、だから……」
すぐそばにある星野の頬が赤かった。
律儀な視線がまっすぐにわたしを見つめている。
――ああ、こんなの、絶対勝てるわけないじゃないか。
眩暈がして、なんかもう言葉なんて出てくるはずもなくて、わたしはいつ泣きながら逃亡しようかと、全力でタイミングを計った。
思いのほか長くなってしまい、もう文章もひどいところが多々あると思いますが;今回企画に参加できてとても楽しかったです。
主催者の桜庭様、参加者の皆様、最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました……!