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婚約破棄されたので居酒屋で働きます

掲載日:2026/02/24

「リリア・フォン・エルグレイス。君との婚約を、ここに破棄する」


 夜会の中央。きらめく燭台の光の下、シャルロット伯爵の声は妙に澄んで響いた。

 周囲がざわめく中、リリアは瞬きを一回しただけだった。

(……ついに、来たのね)

 覚悟はできていた。最近の彼の態度は、隠そうともせず露骨だったから。


「君は社交の場で度々“体調不良”になるそうだな。将来、伯爵夫人になる身として情けない。君は完璧だと思っていたが、所詮は見かけ倒しだったようだ」


 一斉に突き刺さる蔑みの視線。

 ――だめ。

 胸が詰まり、息が浅くなる。視界の端が白く弾ける。

(落ち着いて……落ち着いて……)

 脳裏をよぎるのは、父に殴られたあの日の記憶。大勢の前で恥をかかせたと怒鳴られ、頬を打たれた衝撃。


「異論はあるか?」


 冷たい声に、リリアはゆっくりと顔を上げた。震える唇を噛み締め、精一杯の微笑みを作る。


「……ございません。どうか、伯爵様のご多幸を」


 会場が凍りつく。その潔さが、かえって不気味なほどだった。

 満足げに鼻を鳴らす伯爵は気づいていない。彼の成績も、外交成果も、事業の成功も。そのほとんどがリリアの分析と助言によるものだったことに。

 こうして、シャルロット家の静かな崩壊が始まった。


 数ヶ月後。


「いらっしゃいませー!」


 活気あふれる声が、木造の居酒屋に響く。

 そこには、エプロン姿で笑うリリアがいた。婚約破棄後、家も後ろ盾も失った彼女が辿り着いたのがこの店だった。

 彼女は持ち前の知的好奇心と努力で、あっという間に店の看板娘になっていた。


「Dos cervezas, ¿verdad?(ビール二つですね?)」

「Ah, sí, gracias!」


 流暢な発音で応え、次のテーブルでは別の言語、さらに奥では難解な北方言語で注文を受ける。

 本が好きだった。世界中の物語を知りたかった。その一心で覚えた言葉が、今の彼女を支えていた。


 ガタンッ!!


 その時、荒くれ者たちが立ち上がった。互いに怒鳴り合うが、言葉が通じない。誤解が敵意に変わり、拳が振り上がる。

 店主が青ざめる中、リリアが一歩前に出た。


「待って!」


 三か国語を巧みに操り、状況を整理し、誤解を解く。それは鮮やかで、一瞬の出来事だった。

 静まり返った店内に、大きな拍手が沸き起こる。

 けれど、リリアは少しだけ寂しそうに笑った。


「……言葉が通じれば、こんな喧嘩、起きないのにね」


 その様子を、店の隅から見つめる男がいた。

 深い青の外套を纏った、整った顔立ちの男。隣国の王子、ラルフレアである。

「王子らしくあれ」という圧から逃れ、お忍びでこの国に来ていた彼は、目の前の少女に目を奪われた。

 誰よりも自由に笑い、必死に働き、広い世界を見ている。


「……面白い」


 ラルフレアは立ち上がり、彼女に声をかけた。

「君。少し、話をしないか?」


 それが、リリアの運命が再び動き出す瞬間だった。


「君、名前は?」

「リリアです」

「……ラル、と呼んでくれ」


 王子の名を隠し、一人の旅人として向き合う。リリアは屈託のない笑顔を返したが、ラルは見逃さなかった。人の視線が集まると、彼女の肩がほんの一瞬、強張るのを。


(なるほど。噂の“役立たず”の令嬢か)


 夜会の噂は知っていた。だが、目の前の彼女はどうだ。


「……君は、なぜあの喧嘩を止めた?」

「止めないと、悲しいじゃないですか。言葉が通じないだけで殴り合うなんて、もったいないでしょう?」


 もったいない。

 外交を「疑心暗鬼の積み重ね」と考えていた王子は、思わず吹き出した。


「君は、本当に変わっているな」

「よく言われます!」


 胸を張る彼女の姿に、ラルの心に灯がともる。

 ――それが、すべての始まりだった。



 ***


 ラルフレアは店に通い詰めた。

 週に一度が、三日に一度。やがて、ほぼ毎日。

 リリアは相変わらずの人気者で、客たちの持ち込む難題を楽しそうに解決していた。


「北方の商談書? いいですよ、翻訳します」

「え、無料でいいのかい?」

「お酒一杯で十分です。言葉のパズルを解くのは私の趣味ですから」


 店はかつてないほど繁盛した。一方、それと対照的に困窮を極めていたのがシャルロット伯爵家である。


「あの翻訳はまだか!」

「それが、リリア様がいないと細部が正確に読み取れず……」


 外交文書には誤訳が目立ち、貿易交渉はことごとく難航。伯爵の評価は目に見えて落ちていった。

「お前……リリア嬢の助言を、一体どれほど受けていたんだ?」

 両親の問いに、伯爵は「些細なことです」と虚勢を張る。しかし、数字は正直だった。彼女が去ってからというもの、失敗続きなのだ。それでも彼は気づかない。これまでの成功はすべて自分の実力だと、まだ信じ込んでいた。


 崩壊の足音は、着実に近づいていた。


 ある日。店に見覚えのある令嬢たちが現れた。


「まぁ、本当にこんな掃き溜めで働いているのね」

「元伯爵夫人候補が、ずいぶん落ちぶれたものですわ」


 店内の視線が一斉に集まる。リリアの呼吸が、急激に浅くなった。

(だめ……怖い……)

 過去の夜会。父の怒声。打ち付けられた頬。

 視界が揺れ、膝が震える。だが――。


「おや、その言い方は感心しないな。働くことは恥なのか?」


 静かな声がした。隣に立っていたラルフレアが、令嬢たちを冷たく射抜く。

「な、何者ですの?」

「ただの客だ」

 だが、その鋭い眼光は到底ただの客のものではない。令嬢たちは気圧されて一歩退いた。


 リリアは必死に呼吸を整え、精一杯笑う。

「ラルさん、ありがとうございます。でも大丈夫ですよ」


 震える指を隠しながら、それでも自分で立とうとするリリア。その強さを目の当たりにし、ラルフレアは決意した。

 ――今夜、すべてを終わらせよう。



 風一つない静かな夜。シャルロット伯爵家の崩壊は、最悪の形で表面化した。

 隣国との重要交渉の席。伯爵は自信満々で出席したが、そこに現れた通訳官は、ラルフレア直属の外交官だった。


「失礼ですが伯爵。その言い回し、我が国では最大級の侮辱と受け取りますが?」


 会場が凍りつく。伯爵は狼狽えた。かつてリリアがそっと修正し続けていた言い回し。彼はそれを知らないまま、踏み抜いてはならない地雷を踏んだのだ。


 その瞬間、扉が開かれ、高らかに名が告げられた。


「隣国第一王子、ラルフレア殿下、ご入場!」


 ざわめく会場。青ざめる伯爵。

 壇上に立ったラルフレアは、冷徹な声で言い放った。


「君はかつて、優秀な婚約者を“役立たず”と切り捨てたそうだな」


 謁見の間は、死のような静寂に包まれていた。

 玉座の前に跪く伯爵を見下ろし、ラルフレアは一通の書面を叩きつける。


「この翻訳文書。三年前の北方条約草案だ。文体の癖、語尾の処理、隠語の選び方……すべて同一人物の手によるものだ。そしてこの筆跡。リリア・フォン・エルグレイスのものと完全に一致した」


「な……偶然でしょう! 彼女にそんな力があるはずが……!」


「偶然で外交が成功するほど、世の中は甘くない」

 ラルの声が、鋭い刃のように伯爵を切り裂く。

「彼女は六言語を操り、貿易黒字を生み、無知な君が起こしかけた紛争を裏で未然に防ぎ続けてきた……それを無能と切り捨てたのは、君だ」


 その瞬間、伯爵はようやく悟った。

 これまで自分が誇ってきた栄光が、すべて他人の手で築かれた砂上の楼閣だったことに。


 カクンと、伯爵の腰が折れた。

 爵位降格、多額の罰金、社交界からの追放。すべてが一気に降りかかる。

 両親が顔面蒼白で崩れ落ちる中、ラルフレアは最後にこう告げた。


「真に無価値だったのは、どちらか。奈落の底でよく考えることだ」


 断罪の幕は、これ以上ないほど残酷に、そして鮮やかに下ろされた。



 ***


 数日後。居酒屋の裏口。

 そこには、狭い路地には不釣り合いなほど豪奢な馬車と、整列した護衛たちの姿があった。


「……殿下?」


 リリアは、目の前の光景に固まっていた。

 そこに立っていたのは、いつもの旅装ではなく、眩いばかりの正装を纏ったラルフレアだった。


「騙す形になってすまない」

「ラルさん、が……本当の、王子様?」

「そうだ」


 沈黙が流れる。ラルフレアは逃げも隠れもしない真っ直ぐな瞳で、彼女を射抜いた。

 彼女が他の男と言葉を交わすたび、胸の奥が静かにざわつくのを、ラルは自覚していた。


「リリア。私は君を妃として迎えたい」


 空気が止まった。店主は息を呑み、周囲の護衛たちまでもが緊張に肩を震わせる。

 本来なら、誰もが羨む幸福の絶頂。王道なら、ここで「はい」と頷く場面。

 だが、リリアは笑った。

 ――いつもの、消えてしまいそうなほど寂しい笑みで。


「……買いかぶりすぎです、ラルさん」

「何?」

「私は……人前に立つと、うまく息ができなくなるんです」


 リリアは震える指をぎゅっと握りしめた。脳裏をよぎるのは、夜会の冷たい視線。父に恥さらしだと罵られ、殴られた記憶。自分を「無能」だと切り捨てた元婚約者の嘲笑。


「王妃なんて……無理です。またいつか、大勢の前で私は“役立たず”に戻ってしまう。私は、裏で静かに本を読んでいる方が向いているんです」


 リリアは視線を落とし、言葉を絞り出した。


「私は、殿下の隣に立てるような強い人間じゃありません」


 ラルの目が、わずかに細められた。それは怒りではなく、彼女の深い傷跡を目の当たりにした者の、痛ましいほどの決意だった。


「ならば」


 一歩、彼が近づく。逃げようとするリリアの心を繋ぎ止めるように。


「立てるようになればいい」

「……え?」

「私は完璧な妃など求めていない。私が求めているのは、言葉の通じない喧嘩を止め、平和を願い、誤解を解こうと一歩踏み出せる……そんな心を持つ人間だ」


 静かに、しかし地響きのような強さを持って、ラルは続けた。


「君が息ができなくなるなら、私が隣で酸素になろう。視界が白くなるなら、私が手を引こう。どうしても逃げたくなったら――その時は、一緒に逃げよう」


 王子らしからぬ、あまりに不敬で、あまりに誠実な言葉。


「だが、これほど稀有で美しい魂を持つ君を、手放すつもりはない」


 沈黙が満ちる。リリアの胸の奥、凍りついていた場所が熱を帯びていく。

 けれど、長年刷り込まれた恐怖は、すぐには消えてはくれない。


「……少し、時間をください。私は、まだ……」

「いくらでも待つ。君が自分の足で、私の手を取ってくれるまで」


 ラルフレアは優しく微笑み、彼女の手の甲に誓いのキスを落とした。

 リリアの運命は、今度こそ彼女自身の意志で、ゆっくりと動き始めようとしていた。



 ***


 王城の一室。

 豪奢な装飾が施された椅子に座るリリアは、落ち着かない様子で指を握りしめていた。居酒屋の喧騒とは違う、静謐な空気が彼女の肌を刺す。


「今日は三人だけだ。大勢ではないから、安心しろ」


 ラルフレアが傍らで穏やかに告げる。部屋にいるのは、彼と老宰相、そして年配の女性侍女長のみ。

 リリアは、震える肺に酸素を送り込むように小さく頷いた。


「……北方との、香辛料貿易について。私の考えた提案がございます」


 声が微かに震える。視界の端が白くなりかける。けれど、彼女は倒れなかった。

 ゆっくりと、吸って、吐く。自分に言い聞かせるように言葉を紡ぎ出す。


「輸送路を一部海路に変更すれば、関税を大幅に抑えられます。……重要なのは交渉の表現です。先方の北方の民は誇り高い。こちらが『得をする』のではなく、相手に『敬意を払った上での合理的選択』だと感じさせる……そんな文言にする必要があります」


 宰相が鋭い目を見開いた。

「ほう……具体的には、どのような表現を?」


 リリアは言葉を選びながら、理路整然と答えていく。途中、過去の記憶がフラッシュバックし、視界がぐらりと揺れた。

 その瞬間。


 机の下で、そっと温かい何かが彼女の手の甲に触れた。

 ラルフレアの手だった。

 握りしめるわけではない。ただ、そこに「私はここにいる」と示すように添えられた手のひら。


(……大丈夫。私は、一人じゃない)


 不思議と、呼吸が整った。最後まで、自分の考えをすべて言い切ることができた。

 沈黙の後。


「見事ですな……。我々が見落としていた視点です」


 老宰相が、一人の少女としてではなく、一人の「有能な外交官」を見る目で深々と頭を下げた。

 リリアの胸が、じわりと熱くなる。

 認められた。否定されなかった。そして何より、自分は逃げなかった。


「……できた」


 小さく呟くと、隣でラルフレアが誇らしげに微笑んだ。

「ああ。君はずっと、できていたんだ。誰も気づこうとしなかっただけでね」


 その日から、リリアの「リハビリ」が始まった。

 五人、十人と少しずつ人数を増やし、公の場へ出るための練習を重ねる。

 もちろん、すべてが順調だったわけではない。息が詰まり、声が出なくなる日もあった。

 だがその度に、ラルは彼女の隣に立ち続けた。


「完璧でなくていい、リリア。君が君のままで言葉を紡ぐことに、価値があるんだ」


 その言葉が、彼女の新しい盾となり、心の灯火となっていった。



 ***



 社交界に、どす黒い噂が広がっていた。

「あの王子が、元婚約破棄令嬢に入れ込んでいるらしい」

 面白くないのは、かつて居酒屋で彼女を嘲笑した令嬢たちだ。

「王妃に相応しくない証拠を、白日の下に晒してやりましょう」


 そして迎えた、運命の夜会。

 大広間は人で溢れ、熱気と好奇の視線が渦巻いていた。リリアの胸がざわつく。

(大丈夫……大丈夫)

 隣にはラルフレアがいる。だが、令嬢たちは容赦なく仕掛けてきた。


「まぁ、北方語でご挨拶できますの? 居酒屋の卑しい言葉ではなく、高貴な外交の言葉で」


 わざとらしい大声。数百人の視線が、一斉にリリアに突き刺さる。

 ざわめき。喉が締まる。

 ――役立たず。見かけ倒し。

 過去の呪縛が、リリアの足を止めようとする。一瞬、意識が遠のきかけた。


 だが。


 ラルフレアが、隠すことなく堂々と、彼女に手を差し出した。

「リリア。君の言葉を、皆が待っている」

 それは逃げ道ではなく、彼女を「主役」として押し上げる力強い支えだった。


 リリアは深く、深く息を吸った。

 そして、口を開く。


「……God aften, mine herrer og damer.(皆様、こんばんは)」


 流暢な北方語。続けて、流れるような三か国語での挨拶。

 完璧ではない。途中、声は震えた。けれど、彼女は一度も目を逸らさなかった。最後に彼女が発した言葉は、その場にいた他国の使節たちの心を、一瞬で鷲掴みにした。


 静寂。

 そして――。


 割れんばかりの拍手が、大広間を揺らした。

 青ざめる令嬢たちの前で、宰相が厳かに一歩前に出る。


「先日の貿易改革により、我が国は過去最高の利益を記録しました。その画期的な立案者こそ――ここにいるリリア嬢です」


 驚き、どよめき、そして心からの賞賛。

 令嬢たちの浅はかな悪あがきは、リリアの圧倒的な「価値」を証明する最高の舞台装置へと成り下がった。



 ***


 三日後。再び、大広間。

 今度は一国の運命を決める、正式な宣誓の場。


 ラルフレアが、全貴族を前にして高らかに宣言した。

「私は、リリア・フォン・エルグレイスを妃として望む。私の隣に立つのは、世界でただ一人、彼女だけだ」


 何千もの視線が集まる。

 リリアは、震える足で一歩前に出た。怖い。今でも逃げ出したい。

 けれど、もう息は止まらない。


「……私は、完璧な人間ではありません」


 飾らない、正直な言葉。


「人前に立つと、今でも怖くて足が震えます。けれど、言葉が人を繋ぎ、世界を広げると信じています」


 リリアは、隣で自分を見守るラルフレアを見た。


「こんな私を、隣に立ってもいいと言ってくれる方がいるのなら」


 彼女は、最高の笑顔で言葉を紡いだ。


「私は、その方と共に歩みたい。私の言葉で、誰かを救うために」


 一瞬の静寂の後。地響きのような拍手が、二人を包み込んだ。

 ラルフレアはその場で跪き、彼女の手を取る。


「共に行こう。君が綴る未来を、私は一生かけて守り抜く」


 リリアは、今度こそ迷わずその手を取った。

 会場を渡る風は冷たくても、彼女の胸は温かい。


 息は、ちゃんとできている。かつては白く霞んだ世界が、今は驚くほど鮮明に見えている。

 彼女は自分の言葉で、新しい人生の扉を、力強く叩き開いたのだ。

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婚約破棄宣言の時に何もしなかった有象無象は隣国の王妃にリリア選ばれて愕然としてそう。出番がなかったのDV父はどうしてるのかな?
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