旻天
母が危篤だという知らせを受けたのは、まだ暗い夜明け前のことだった。
土曜の朝、午前四時半。
母の入院している病院までは、車で四十分ほど。
手早く着替え、車に乗り込む。
ここで私が事故ったら、それこそ親不孝だ。
逸る気持ちを抱えながらも、ひたすら安全運転で病院を目指す。
病院に着くと、すでに出入り口のすぐ近くに看護婦さんが待機していてくれて、私がインターホンを押す前にドアを解錠してくれた。
病室に入ると、先に着いた兄が意識のない母の手を握っていた。
私も反対側から母の手を握る。
兄はしきりに何か語っていた気がする。
母にがんばれと言っていた気もするが、よく覚えていない。
わたしはただただ母に感謝を伝えたかった。
もう、充分、母はがんばったと思っていたから。
母の耳元に口を寄せて、耳の遠い母にもよく聞こえるように、少し大きめの声で話しかけた。
「おつかれさま。よくがんばったね。本当におつかれさま。ありがとう」
二度、三度、同じ言葉をかけたような気がする。
母の呼吸が止まる。
また呼吸が戻る。
止まる、戻る、を繰り返しながら、だんだんと止まる長さが伸びていった。
やがて止まったまま、戻ってこない時が来た。
医師がよばれ、瞳孔と心臓の動きを確認する。
――御臨終です
兄と一緒に、医師にお礼を言い、看護婦さんにお礼を言い、それから母におつかれさまともう一度言った。
暗かった窓の外が薄明るくなってきた。
病室のカーテンを開けると、美しく染まる街路樹が見えた。
なんて美しく、清々しい秋の朝。
母はきっと、これを待っていたんだな。
朝焼けに染まる空と木々を見ていると、自然とそう思えた。
母は自由になった。
もう、足の痛みも無く
手指もこわばることなく動くだろう。
お腹に開いた穴もきっとふさがってる。
一番綺麗で、一番楽しかった頃の姿で、一番好きな服を着て、一番行きたかったところに行き、一番やりたかったことをしている。
きっと、そう。
母はきっと楽しんでいる、喜んでいるはずだから。
悲しくはない。
悲しくはない。
お母さん、ありがとう
おつかれさま
秋はこんなに空が美しい季節だったんだと、あらためて知ったよ。
ありがとう
「はちみつ色の思い出」の母が、92歳で逝きました。
優しくて可愛い母でした。
想いを残したくて書きました。
読んでくださって、ありがとうございます。




