第5話 偽りの聖戦、開かぬ扉
『骸の荒野の惨劇』は、『闇の魔女』リディアとギルド『黒薔薇』の名を不動のものにした。
闇の帝国オルクスにおいて、彼らは英雄だった。理不尽な侵略者から帝国の地を守った救世主として、多くのプレイヤーから賞賛と畏怖を集める存在となったのだ。
「いやー、有名税ってやつ? 街を歩けば飯おごってくれる奴はいるし、レアアイテムくれる奴までいるぜ!」
「調子に乗らないの。リディア様の手柄を自分のものみたいに言わないで」
「まあまあ。だが、これで我々の名が売れたのは事実。今後の活動はやりやすくなるな」
ギルドハウスで祝杯をあげながら、ハルトたちはつかの間の勝利に浸っていた。
しかし、リディア・フォン・クロウだけは、一人静かに窓の外を見つめ、警戒を解いてはいなかった。
(あの程度の敗北で、あの女たちが引き下がるとは思えない。必ず、次の一手を打ってくる……)
前世で骨の髄まで味わった、姉たちの執念深さ。聖女の偽善。そして、それを妄信する権力者たちの狂気。歴史は、繰り返される。
その予感は、最悪の形で的中することになる。
ハルトが管理する情報網に、緊急警報が鳴り響いたのは、それから数日後のことだった。
「やべぇぞ、リディア様! 天光の連邦側で、とんでもない動きがあった!」
ハルトが血相を変えて持ってきた情報。それは、『光の教団』の上位組織にあたるNPC集団『聖典教会』が、本格的に介入を開始したというものだった。そして、その全権を握るのが、最高指導者である『大司教レオン』。
その頃、天光の連邦、大神殿の謁見の間。
純白の大理石でできた荘厳な広間に、聖女エレナは静かに跪いていた。
玉座に座るのは、壮年の男性NPC、大司教レオン。その瞳は厳格な光を宿し、一切の情動を感じさせない。
「エレナよ。先の侵攻、失敗に終わったそうだな」
「……申し訳ありません、レオン様。すべては私の力が及ばなかった故」
「よい。だが、敵の力は見極められた。報告にあった『黒薔薇の呪縛』……あれは、この世界の法則から逸脱した、異物と言うべき力。放置すれば、世界の秩序を根幹から破壊しかねん」
レオンの言葉は、ゲームのNPCが発するものとは思えないほど、重い響きを持っていた。
そこへ、二人の少女が静かに入室する。
アリアとセリナだ。
「大司教様、ごきげんよう」
「お待ちしておりましたわ」
二人は優雅に一礼すると、悲痛な表情を浮かべてレオンに訴えかけた。
「我らが元妹、リディアの暴走、もはや看過できませぬ。彼女の魂は、古より邪悪な闇に囚われております。我ら姉妹は、彼女を救うため……いえ、彼女の凶行を止めるために、この世界へ参りました」
その口から紡がれるのは、流れるような嘘と欺瞞。彼女たちは、自らを悲劇のヒロインに、そしてリディアを世界を脅かす絶対悪に仕立て上げたのだ。
レオンは、その言葉に静かに頷いた。
「うむ。聖女エレナの報告、そしてお前たちの証言、全てに整合性が取れている。リディアという存在は、この世界にとっての『バグ』であり、駆除すべき脅威であると、ここに断定する」
レオンが立ち上がり、高らかに宣言する。
「聖女エレナ率いる『光の教団』、アリア、セリナ率いる『白百合の騎士団』、そして我が『聖典教会』正規軍は、これより対魔女連合を結成! 神敵リディアを討伐し、世界に真の秩序を取り戻す!」
偽りの聖戦の幕が、今、上がった。
闇の帝都オルクスの上空に、再びあの不吉な亀裂が走ったのは、その直後のことだった。
だが、今度の『次元の裂け目』は、前回とは比較にならないほど巨大だった。まるで天が裂けたかのような光景に、帝都中のプレイヤーが空を見上げ、息を呑む。
そして、裂け目の向こうから現れたのは、天を埋め尽くさんばかりの大軍勢。
先頭に立つのは、大司教レオン、聖女エレナ、そしてアリアとセリナ。彼らが率いる光の軍勢は、帝都オルクスを完全に見下ろしていた。
『闇に与する愚かな者たちに告ぐ!』
レオンの威厳に満ちた声が、拡声魔法によって帝都全域に響き渡る。
『元凶たる魔女リディアを、我々に引き渡せ! さすれば、貴様たちの罪は問わぬ! だが、抵抗するのであれば、この帝都を聖なる炎で焼き尽くすまで!』
それは、降伏勧告などではない。一方的な殲滅宣告だった。
返答を待つまでもなく、光の軍勢から無数の魔法が放たれ、オルクスの街並みに着弾する。ゴシック様式の美しい建築物が、聖なる光によって無慈悲に破壊されていく。
「ふざけないで……!」
リディアはギルドハウスの窓からその光景を睨みつけ、奥歯を噛み締めた。
自分のために、無関係なプレイヤーたちが、この愛すべき黄昏の都が蹂躙されていく。
「ハルト、ミナ、ケイ! 出るわよ!」
「応!」
『黒薔薇』の四人は、戦火に包まれた帝都へと飛び出した。
だが、敵の数はあまりにも多すぎた。オルクスのプレイヤーたちも必死に応戦するが、統率の取れた連合軍の前に、次々と倒れていく。
まさにその時、戦場にいた全てのプレイヤーが、致命的な異変に気づいた。
「なんだ……? ログアウトできない!」
誰かの悲鳴を皮切りに、恐慌は瞬く間に伝染した。
「嘘だろ!? コマンドが……消えてる!」
「どうなってるんだよ! 出せ! ここから出せよ!」
システムメニューを開いても、普段そこにあるはずの『LOG OUT』のボタンが、まるで存在しなかったかのように消え失せている。
ハルトが必死にコンソールを叩くが、返ってくるのは無情なエラーメッセージだけ。
「ダメだ! 外部からシステム全体がロックされてる! これは、運営ですら想定してない、異常事態だ……!」
死んでもペナルティがあるだけで、現実の命までは奪われない。
だが、『ゲームから出られない』という事実は、プレイヤーたちを根源的な恐怖に突き落とした。
ここは、出口のない戦場なのだ。
パニックは戦意を削ぎ、オルクス側の戦線は急速に崩壊していく。
絶望が渦巻く戦場で、リディアだけが、憎悪に燃える瞳で敵の将を見据えていた。
玉座のような飛空艇の上から、自分を見下ろすレオン。その隣で、偽善の笑みを浮かべるエレナと、嘲笑うかのような表情のアリア、セリナ。
(……面白いじゃない)
リディアの口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。
(逃げ場のない舞台で、決着をつけようというのね。望むところよ)
絶望的な状況。しかし、彼女の心は折れていなかった。
むしろ、逆境であればあるほど、悪役令嬢の魂は、より妖しく、より強く輝くのだ。
「あなたたち、覚悟はいいわね?」
リディアが、隣に立つ仲間たちに問う。
ハルトは額の汗を拭い、ニヤリと笑った。
「こんな面白そうな祭、途中で降りられるかよ!」
ミナは矢を番え、静かに頷いた。
「リディア様の無茶は、いつものことでしょ。最後まで付き合うわ」
ケイは剣を構え、力強く言った。
「お前が俺たちのマスターだ。行く末が地獄であろうと、共に行こう」
リディアは満足げに頷くと、再び天を仰いだ。
「さあ、始めましょう。私たちの、最後の戦争を!」
ログアウト不能の絶望の空の下、一輪の黒薔薇が、世界に反逆の狼煙を上げる。
その戦いの結末を、まだ誰も知らなかった。