第2話 黒薔薇、その蕾を開く
『闇の魔女』の噂は、一夜にして闇の帝国オルクスのプレイヤーたちを席巻した。
曰く、PKギルド『赤鉄の牙』をたった一人で壊滅させた、正体不明の女がいる。
曰く、その女は優雅な扇を武器に、味方すら操って同士討ちさせる恐ろしいスキルを使う。
曰く、その黒衣の姿は、まさに悪夢の化身である、と。
情報掲示板は彼女の話題で持ちきりになり、目撃情報には懸賞金がかけられるほどの騒ぎになっていた。
しかし、当のリディア・フォン・クロウはそんな喧騒を気にも留めず、帝都の片隅にある寂れた酒場に身を置いていた。
手にしたグラスの中身は、もちろんただのデータだ。
それでも、現実世界で抱える息苦しさを忘れさせてくれるには十分だった。
(滑稽だわ。たかがゲームのデータに、こうも心が安らぐなんて)
一人勝ち誇ったところで、満たされるのは一瞬。心の奥底で渦巻く復讐の炎は、少しも衰えてはいない。
孤独な戦いは、これからが本番だ。
そう覚悟を決めた時、彼女の座るテーブルの向かいに、一人のプレイヤーが何の断りもなく腰を下ろした。
「あんたが『闇の魔女』さん、だろ? 探したぜー!」
現れたのは、金色の髪をツンツンに逆立てた、悪戯っ子のような笑みを浮かべる少年だった。軽装のレザージャケットに、腰にはいくつものポーチ。その出で立ちは、戦士というより技術者か斥候に近い。
リディアはグラスを置き、値踏みするように少年を見据えた。
「何の用かしら。私にサインでも強請りに来たのなら、時間の無駄よ」
「ははっ、違ぇよ! 俺はハルト。しがない情報屋兼、まぁ……ちょっとしたシステムの専門家ってとこかな」
ハルトと名乗る少年は、人懐っこい笑みで言った。
「あんたが使ったスキル、『闇の魅了』だろ? あれ、実装されてるなんて誰も知らなかったロストスキルだ。どうやって手に入れたんだ? それに、あの鬼みたいな魔力消費をどうやってカバーしてるんだよ!」
矢継ぎ早に繰り出される質問は、純粋な技術的好奇心に満ちていた。
リディアは少し呆れたように、しかし面白そうに口の端を吊り上げた。
「あなたに教える義理はないわ。それより、私の情報を嗅ぎまわるなんて、いい度胸じゃない」
「いやいや、怒んなって! 俺はあんたに喧嘩を売りに来たんじゃない。取引がしたいんだ」
「取引?」
ハルトが身を乗り出す。その瞳は、未知の技術を前にした子供のように輝いていた。
「俺のハッキング技術と情報網、あんたの役に立つと思うぜ。その代わり、あんたのスキルデータや戦術を、間近で観察させてくれよ!」
リディアが返答に窮していると、今度は別の二人組がテーブルに近づいてきた。
一人は、ショートカットの黒髪がよく似合う、怜悧な雰囲気の少女。弓を背負い、その佇まいには一切の隙がない。
もう一人は、長身で銀髪の青年。背中に背負った長剣が、彼のクラスが剣士であることを示している。表情は硬く、冷静な目がリディアを射抜いていた。
「あなたがリディア・フォン・クロウね。噂通りのオーラだわ」
少女が、どこか棘のある口調で言った。
「私はミナ。こっちはケイ。私たちは、このゲームでトップを目指してるプロゲーマーよ。あなたと手合わせ願えないかしら」
「おいおい、ミナ! 抜け駆けはなしだぜ!」とハルトが騒ぐ。
プロゲーマー。それは、この『エターナル・ネクサス』において、最強の称号を持つ者たち。圧倒的なプレイヤースキルと戦術眼で、一般プレイヤーとは一線を画す存在だ。
リディアは三人の顔を順に見回し、ふっと笑みを漏らした。
情報屋、弓使い、そして剣士。それぞれが一流の腕を持つであろうことは、その立ち居振る舞いから明らかだった。
「面白いわ。ハッカーにプロゲーマー……まるで烏合の衆ね。けれど、あなたたち、私と組んで何がしたいの?」
リディアの問いに、最初に答えたのは剣士のケイだった。彼は静かだが、力強い声で言った。
「あなたの戦い方には、単なる強さとは違う、『意志』を感じた。それは、俺たちが求めるものに近い」
次に、弓使いのミナが腕を組んで続ける。
「正直、あなたのやり方は無茶苦茶よ。魔力管理も杜撰だし、隙も多い。でも、それを補って余りあるカリスマと……覚悟がある。見ていて飽きないわ」
その言葉には、どこかリディアの前世でのメイドを思わせる響きがあった。無礼なようでいて、的確に本質を突いてくる物言い。リディアは思わず、懐かしさに目を細めた。
そして最後に、ハルトがニカッと笑う。
「俺は単純! あんたっていう予測不能なやつの隣にいたら、絶対退屈しないだろ!」
三者三様の答え。だが、その根底にあるのは、リディアという存在への強い興味と期待だった。
孤独な復讐の道。しかし、彼らとなら、あるいは。
「いいわ。あなたたち、私の駒となることを許可してあげる」
リディアは扇を振って、女王のように尊大に宣言した。
「はぁ? 駒ぁ?」
「いきなり上から目線ね……」
ミナが呆れたようにため息をつく。リディアは構わず続けた。
「私の目的は、この世界の全てを支配すること。そのためには、有能な手駒が必要よ。あなたたちの力、このリディア・フォン・クロウのために存分に使いなさい」
「支配ねぇ……大きく出たな。でも、面白そうじゃん!」
「だが、ただの駒になるつもりはない。俺たちは対等な仲間だ」
「そうよ。それに、ギルドもなしに活動するのは不便でしょ。まずは形から作りましょ、リーダー」
ミナの提案に、リディアは一瞬きょとんとし、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
リーダー、という響きは悪くない。
「よろしい。では、今この時をもって、私たちのギルドを結成するわ。ギルド名は――『黒薔薇』」
黒薔薇の花言葉は、永遠の愛、そして――憎しみ。
誇りと復讐を胸に咲く、気高き華。
「うわ、厨二っぽい!」
「リディア様、ネーミングセンスが壊滅的です」
「……いや、悪くない」
ハルトとミナがツッコミを入れ、ケイが静かに肯定する。騒がしいが、不思議と心地よい時間だった。
こうして、悪役令嬢と三人の仲間による、後にサーバー史にその名を刻むことになるギルド『黒薔薇』は、その産声を上げた。
その頃――。
闇の帝国とは対極に位置する勢力、『天光の連邦』の城下町は、光と秩序、そして祈りに満ちていた。
その中央広場で、ひときわ多くの人だかりができていた場所がある。
「聖女エレナ様だ!」
「ありがたや……聖女様の光の奇跡だ!」
人々の視線の先には、純白のローブに身を包んだ、金髪碧眼の美しい少女がいた。彼女が優しく手をかざすと、柔らかな光が溢れ出し、傷ついたプレイヤーたちを癒していく。
フィールドボスとの戦いで消耗したパーティが、彼女の広域回復魔法によって、瞬く間に全快していく。その光景は、まさしく奇跡だった。
「皆さんの無事を、神に感謝します」
穏やかな微笑みを浮かべる少女、エレナ。
彼女こそ、天光の連邦を拠点とする最大ギルド『光の教団』のマスターにして、サーバー全体で最も多くの信奉者を持つプレイヤー。
その彼女の隣に控えていた側近が、一枚の報告書を差し出した。
「エレナ様。オルクス帝国で、不穏な動きを始めたプレイヤーの報告が」
「……オルクス。忌まわしき闇の地ですね」
エレナは報告書に目を通すと、穏やかだった表情からすっと光を消した。
「『リディア』……? どこかで聞いたような……。いいえ、気のせいでしょう」
彼女はそう呟くと、再び聖女の微笑みを浮かべ、民衆へと向き直った。
「闇あるところに、光は必ず差します。この世界の全ての悪が浄化されるまで、私の祈りは、止まりません」
その声は、まだ闇の帝都には届かない。
だが、二つの運命が再び交錯する日は、すぐそこまで迫っていた。