交差する夜
5話
フィリシアは、魔法学科棟の最上階にある研究室の前で、深く息を吸い込んだ。
扉の前には、古い木の香りと魔導具の微かな魔力の気配が漂っている。
(失礼のないように……)
彼女は扉を軽くノックした。
「どうぞ」
柔らかく、落ち着いた声が中から響いた。
フィリシアは扉を開け、静かに一礼して部屋へ入る。
研究室の中は、整然とした魔導書の棚と、窓辺に並ぶ水晶球や魔法具が静かに輝いていた。
その中央に、白髪を緩く束ねた女性──マクセル先生が、机の向こうから微笑んでいた。
「お久しぶりですね、フィリシアさん。どうされましたか?」
フィリシアは、緊張を隠しながら一歩前へ出た。
「先生……少し、お時間をいただけますか?
私の杖について、どうしても気になることがあって……教えていただきたいんです」
マクセル先生は、穏やかに頷いた。
「もちろんです。あなたがそう言うなら、私もできる限りお答えしましょう」
その言葉に、フィリシアはほっと胸を撫で下ろした。
先生の声は、いつも通り丁寧で柔らかく、どこか懐かしさを含んでいる。
「……母が、若い頃に先生の弟子だったと聞いています。
母も、魔法理論を学ぶのが好きだったと」
マクセル先生は、目を細めて微笑んだ。
「ええ、ルイーゼさんはとても優秀な方でした。
感性が鋭く、理論よりも“魔力の流れ”を肌で感じ取るような方でしたね。
よくこの部屋で、魔法の本を読みながら、私に質問を浴びせてきたものです」
フィリシアは、母の若き日の姿を思い浮かべながら、そっと笑みを浮かべた。
「……母は、先生のことを今でも尊敬しています。
私も、母のように魔法を深く理解したくて──」
マクセル先生は、静かに頷いた。
「あなたの中には、ルイーゼさんの気質が確かにあります。
その探究心は、魔法使いにとって何よりの資質です」
フィリシアは、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
母の師匠に、こうして自分の疑問をぶつけられることが、誇らしくもあった。
「それでは、杖のことについて──私が疑問に思ってることを聞いて頂けますか?」
マクセル先生は、机の上の水晶球に手を添えながら、静かに頷いた。
「はい。では話してみてください」
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一通り杖のことについて説明した後、フィリシアは、膝の上に置いた魔法理論書のページをめくる。
ページには、杖が持ち主以外に反応する“例外”について、簡潔に記されていた。
「先生……この本に、例外があると書かれていました。
持ち主以外でも、杖が反応することがあると──」
マクセル先生は、静かに頷いた。
白髪を緩く束ねた髪が、肩にさらりと流れる。
「はい、確かに理論上は三つの例外があります。
ですが──それは、ほとんどありえないことですね」
フィリシアは、ページをなぞっていた指を止める。
「まず一つ目は、“圧倒的に強い魔力を持つ者”が杖を握った場合、
杖が忠誠を捨ててその者に従うことがあると書かれていました」
マクセル先生は、淡々とした口調で答えた。
「その場合、杖は明らかに強い“闘気”を感じない限り、持ち主以外には反応しません。
そして、誰が強いかは杖自身が判断いたします。
つまり、ただ魔力が高いだけでは、杖は動きません」
フィリシアは静かに頷いた。
(では、誰かが私より強かったとしても、それだけでは杖は動かない──)
「二つ目は、“催眠魔法”によって杖に錯覚を与える方法です。
ですが、杖に催眠術をかけられる魔法使いは、この世界でも極めて少数です」
マクセル先生は、机の上に置かれた小さな水晶球を指先で転がしながら続けた。
「そもそも、杖は持ち主以外からの魔法には基本的に応じません。
催眠魔法をかけようとしても、杖が拒絶するのです」
フィリシアは眉を寄せた。
(じゃあ、催眠魔法も現実的ではない……)
「最後の方法は、“強力な魔力を込めることで杖が暴走する”というものですね」
マクセル先生は、少しだけ表情を曇らせた。
「それは、“黒呪法”という特殊な魔法を用いる必要があります。
この魔法は、通常の魔法体系とは異なり、魔力の流れを強制的に歪ませる術です」
フィリシアは息を呑んだ。
「黒呪法……」
「ええ。私もかつて習得を試みましたが、到底使いこなせるものではありませんでした。
あまりに魔力の負荷が大きく、精神にも影響が出ます。
私はすぐに諦めました」
マクセル先生は、静かに目を伏せた。
「ありえるとすれば──黒呪法を使える人だけですね。
けれど、そんなものを使える方は、この学園には存在しません」
その言葉に、フィリシアは少しだけ沈黙した。
そして、意を決して口を開いた。
「……マクセル先生は、黒呪法を使える人を見られたことはありますか?」
マクセル先生は、しばらく黙っていた。
そして、遠い記憶を辿るように、静かに語り始めた。
「……一人だけ、いましたね。昔の話ですが。
私よりも、ずば抜けて魔法の扱いに秀でていた方でした」
フィリシアは息を止めて聞き入る。
「その方は、黒呪法を自在に操ることができました。
ですが──亡くなられました。もう、この世に使える人はいないかもしれませんね」
マクセル先生は、静かに微笑んだ。
その笑みには、懐かしさと、ほんの少しの哀しみが混じっていた。
「ですから、今の学園には、黒呪法を使える方はおりません。
ご安心なさい、フィリシアさん」
マクセル先生は、窓の外に目を向けた。
空はすっかり暮れて、学園の庭に灯る魔導灯が、淡い光を揺らしていた。
「……もう遅いですね。フィリシアさん、そろそろお帰りなさい」
その声は、いつものように穏やかで、どこか優しさを含んでいた。
フィリシアは、はっとして時計に目をやる。
「……本当だ。こんなに時間が経っていたなんて……」
彼女は慌てて本を閉じ、椅子から立ち上がった。
マクセル先生は、微笑みながら机の上の水晶球をそっと布で覆った。
「今日は、よく学ばれましたね。あなたの探究心には、いつも感心しています」
フィリシアは、少し頬を赤らめながら頭を下げた。
「ありがとうございます、先生。今日のお話……とても勉強になりました。
黒呪法のことも、例外のことも……」
マクセル先生は、静かに頷いた。
「気になることがあれば、またいつでもいらっしゃい。
ただし、夜更かしは禁物ですよ。魔力の回復にも影響しますからね」
フィリシアは、くすっと笑った。
「はい。気をつけます」
彼女は扉の前で一度振り返った。
マクセル先生は、窓辺に立ち、外の闇を見つめていた。
「先生……その、“昔の人”のこと、またいつか聞かせてください」
その言葉に、マクセル先生は少しだけ目を細めた。
「……ええ、いつか。あなたがもっと強くなった時に」
フィリシアは、静かに頷いて部屋を後にした。
廊下に出ると、夜の空気がひんやりと肌を撫でた。
(“もうこの世に使える人はいないかもしれない”──でも、先生の目は、何かを思い出していた)
彼女は胸に残る疑問を抱えながら、静かに寮へと歩き出した。
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夜の校舎は静まり返っていた。
魔導灯の淡い光が、石畳を照らしている。フィリシアは寮へ向かって歩いていた。
制服のポケットに手を入れ、少し冷えた指先を温める。新春とはいえ、夜はまだ冬の面影があるくらいに冷え込んでいる。
渡り廊下に差しかかった時、誰かの声が響いた。
「フィリシア!」
振り向くと、セシルが制服の裾を揺らしながら駆け寄ってくる。
頬が少し赤く、息を切らしている。
「よかった、まだ戻ってなかったんだ。探してたの」
「……セシル!今日は自由登校だったからてっきりいないのかと思ったわ」
「うん。今日、顔見てなかったから。なんとなく、気になって歩いてたの」
フィリシアは少し驚いたように目を見開き、すぐに表情を緩めた。
「……セシルったら。そんなに私のことが好きなのね」
「当たり前でしょ。フィリシアは私の大事な友達なんだから」
セシルは、にっこりと笑った。
その笑顔は、いつも通り明るくて、どこか気品がある。
フィリシアは、ふと彼女の横顔を見つめながら尋ねた。
「……セシルって、グレイシア子爵家の令嬢なのに、 どうして魔法学科に来たの? 普通なら、社交とか礼儀作法とか……」
セシルは、少し照れたように笑った。
「うちの家、確かにそういうの厳しいんだけど……魔法の才能があったから、母が許してくれたの。
父は反対してたけどね。“貴族の娘が魔法使いになるなんて”って」
「理解あるお母様ね」
「うん。攻撃魔法は苦手だけど、治癒魔法だけは昔から得意だったから。
人を癒す魔法って、すごく素敵だと思うの。だから、将来は治癒魔法師になりたい」
フィリシアは静かに頷いた。
セシルの魔法は、いつも柔らかくて温かい。
「……貴族だからって、誰かを守る側になっちゃいけないなんて、変だよね。
私は、魔法で人を助けたい。それが、私の夢」
その言葉に、フィリシアは胸が温かくなるのを感じた。
(セシルは、ただ明るいだけじゃない。ちゃんと、自分の信じるものを持ってる)
「……素敵な夢ね」
「でしょ? フィリシアも、きっと何か見つけるよ。
あなたは、誰かを守る力がある人だから」
フィリシアは、少しだけ微笑んだ。
セシルの言葉は、いつもまっすぐで、心に届く。
「……ありがとう。セシルは、ほんとに不思議な人ね」
「えっ、褒めてる? それとも、からかってる?」
「褒めてるわよ。……たぶん」
二人は並んで歩き出す。
寮の灯りが近づくにつれ、フィリシアの足取りは少しだけ軽くなっていた。
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翌日。
昼下がりの大広場は、授業の合間で生徒たちが行き交っていた。 魔法学科の制服が風に揺れ、石畳の上に軽やかな足音が響く。
フィリシアとセシルは、次の講義へ向かう途中だった。 広場を横切るその途中、前方から見慣れた二人の姿が現れた。
「やあ、二人とも」
ルシアンが、爽やかな笑顔で声をかけてくる。
その隣には、いつものように無表情なライナーが並んでいた。
「ルシアン様、こんにちは」
「こんにちは、ルシアン様」
フィリシアとセシルは、礼儀正しく微笑みながら応じる。
ライナーは目を逸らしつつ、軽く顎を引くだけだった。
「昨日は自由登校だったけど、ライナーと夜遅くまで練習してて大変だったなあ」
ルシアンは、少し疲れたように笑う。
肩にかけた剣袋が重そうに揺れていた。
「お疲れ様です、ルシアン様」
「本当に、お疲れ様です」
セシルとフィリシアが声を揃えて言う。
だが、隣のライナーはどこか平然としていた。
何事もなかったかのようで、疲れの色も見えない。
(…さすが剣技学科で一番強いだけあるわね)
フィリシアは内心でそう思い、ちらりとライナーを見た。
そんな中、ルシアンがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、もうちょっとで“夜間捜索課題”があるよね」
「……何でしたっけ、それ?」
フィリシアが首を傾げると、セシルがすぐに補足した。
「剣技学科と魔法学科の合同課題よ。2週間後に行われるんだけど、 私たちも高等部3年ということで、森に住む怪物を倒しながら、 指定された素材を採取してくるの。
少し前から、剣技学科と魔法学科のペアで行動するのが伝統になったのよね」
「……まあ、剣技学科と魔法学科は昔から仲悪いからね。先生方はあえてそうしたんだろうね」
ルシアンが肩をすくめながら言う。
「いつもどちらが強いか言い合ってるイメージあるし」
その言葉に、ライナーがぼそりと呟いた。
「リュミエールみたいなやつがいる学科なら、言いたくなるよな」
フィリシアの眉がぴくりと跳ねた。
「そういうところじゃないかしら? レオンハルトさん?」
微笑みながらも、声には明らかな棘がある。
ルシアンとセシルは、思わず顔を見合わせて苦笑した。
「この二人が、良い例だね……」
「ほんとに……」
空気が少しだけピリついたその瞬間、ルシアンが明るく声を上げた。
「まあ!俺たちは初等部の頃から10年以上共にしてる仲だし、
とりあえず、みんなで頑張ろう!」
「そうですね!」
セシルが笑顔で応じる。
「……あはは」
フィリシアも、少しだけ力の抜けた笑みを浮かべた。
そのまま、4人は広場の中央で軽く会釈を交わし、
各学科の授業へと、双方の道を歩いていった。
夕陽が石畳に長い影を落とし、風が制服の裾を揺らしていた。
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午後の講義室は、いつもより張り詰めた空気に包まれていた。
剣技学科と魔法学科の高等部3年生が一堂に会し、全員が前方の壇上を見つめている。
壇上には、剣技学科主任のルガード先生が立っていた。
黒髪を後ろで束ねた厳格な表情は、いつも以上に鋭い。
「静かに。これより、夜間捜索課題について説明する」
教室がぴたりと静まり返る。
フィリシアは、背筋を伸ばして先生の言葉に耳を傾けていた。
隣のセシルも、緊張した面持ちでメモを取っている。
「この課題は、剣技学科と魔法学科の合同実技であり、
2週間後の夜間、指定された“黒霧の森”にて実施される」
黒霧の森——その名を聞いた瞬間、教室の空気がわずかにざわついた。
夜になると霧が濃くなり、視界が制限される特殊な森。
怪物の巣窟として知られ、過去にも強大な怪物が出たことがある。
「課題の目的は、森に潜む怪物を排除しつつ、
“黒曜石”を捜索・採取し、無事に持ち帰ること。
黒曜石は、魔力を吸収・蓄積する性質を持ち、
その位置は毎回変化する。探索力と戦闘力の両方が試される」
フィリシアは、指先に力を込めた。
黒曜石——それは魔法学科にとっても重要な素材。
だが、怪物の気配が濃い夜の森での捜索は、決して容易ではない。
「ペアは、剣技学科と魔法学科の混合で構成する。
各ペアは、事前にこちらで決定する。希望は受け付けない」
その言葉に、教室の空気が再び揺れた。
フィリシアは、無意識に隣のセシルを見た。
セシルも、少しだけ眉を寄せていた。
(誰と組まされるのか……)
胸の奥に、静かな不安が広がる。
魔法学科と剣技学科は、価値観も戦い方も違う。
信頼できる相手でなければ、課題の達成は難しい。
だが、ルガード先生は続けた。
「なお、課題中は教師陣が森の外周を巡回し、
異常があれば即座に対応する。
また、生徒全員には事前に“警戒魔法”を付与する。
危険が迫った際には魔法が自動で反応し、信号を発する仕組みだ」
教室に、ほっとした空気が流れた。
フィリシアも、少しだけ肩の力を抜いた。
(……ちゃんと見ていてくれるんだ)
それでも、課題の本質は変わらない。
協力——それは、魔法の精度だけではなく、
相手との信頼がなければ成立しない。
「課題の合格条件は、ペアで協力し、黒曜石を持ち帰ること。
一人での行動は禁止。協力が成立しなければ、即失格とする」
ルガード先生の声が、教室の隅々まで響いた。
フィリシアは、唇を引き結んだ。
どんな相手でも、やり遂げる。
それが、魔法学科の誇りであり、自分の信念だった。
講義室の空気は、次第に重く、静かに熱を帯びていく。
夜間捜索課題——それは、ただの実技ではない。
生徒たちの絆と覚悟が試される、真の“試練”だった。
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講義室の空気は、説明が終わった後も張り詰めたままだった。
生徒たちはそれぞれ、誰と組まされるのかと落ち着かない様子でざわついている。
ルガード先生が、手元の名簿を開いた。
「では、ペアの発表に移る。呼ばれた者は前に出て、課題用の魔法印を受け取ること」
フィリシアは、胸の奥がざわつくのを感じていた。
セシルと組める可能性は低い。魔法学科同士では組まされない。
でも、せめて…せめて、話が通じる相手であってほしい。
先生の声が、静かに響いた。
「フィリシア・ルミエール——ライナー・レオンハルト」
その瞬間、教室の空気が一瞬止まった。
「……え?」
フィリシアは、思わず声を漏らした。
隣のセシルが、目を見開いて彼女を見つめる。
ざわ…と、周囲がざわめいた。
魔法学科と剣技学科の“代表格”とも言える二人。
普段から火花を散らしているその組み合わせに、驚きと興味が混じった視線が集まる。
フィリシアは、ゆっくりと立ち上がった。
視線の先には、すでに無表情で立ち上がっているライナーの姿があった。
(……なんで、あの人なのよ)
心の中で叫びながらも、表情は崩さない。
魔法学科の誇りとして、動揺を見せるわけにはいかない。
二人は、無言のまま壇上へと歩み出る。
すれ違う生徒たちの視線が、背中に突き刺さる。
ルガード先生が、魔法印の札を手渡す。
「お前たちには、期待している。
互いに反発する者同士こそ、協力の本質を学べる」
フィリシアは、札を受け取りながら小さく頷いた。
ライナーは、何も言わずに札を受け取ると、すぐに踵を返した。
その背中を見ながら、フィリシアは眉間にシワを寄せる。
(……協力? この人と?)
心の中に渦巻く不安と苛立ち。
でも、それ以上に——負けたくないという感情が、静かに燃え始めていた。