ただ傍にいたかった
朝の回廊には、まだ人の気配が薄かった。 窓から差し込む光が、石床に淡く揺れている。
アウレリアは、いつもよりゆっくりと歩いていた。 靴音が静かに響くたび、胸の奥に沈んでいた言葉が浮かび上がってくる。
彼女のすぐ後ろを、ライナーが一定の距離を保って歩いている。 その存在は、いつもと変わらず静かで、頼もしくて――けれど、どこか遠い。
「……ライナーさん」
呼びかけは唐突だったが、声にはためらいがあった。
「はい」
「もし私が、誰かを好きになったら……どうします?」
その言葉を口にしたアウレリアは何の動揺もせず、はっきり言った。 期待ではない。試すような気持ちでもない。 ただ、彼の反応が知りたかった。
ライナーは一瞬だけ足を止めた。 けれどすぐに歩みを戻し、丁寧に言葉を選ぶ。
「その人が、王女様を大切にしてくださる方であれば……俺は、応援いたします」
穏やかな声。 それは彼らしい誠実さに満ちていたが、どこか機械的にも感じられた。
アウレリアは笑った。 けれど、その笑みはほんの一瞬だけ揺れた。
「そっか。ライナーさんって、そういうところ……優しいわね」
「恐縮です」
ようやく顔を上げたライナーの瞳は、どこか虚ろだった。
アウレリアは何かを言いかけて、やめた。
彼の視線がふと廊下の先へ向けられる。
フィリシアとルシアンの気配が、そこにあった。
その瞬間、アウレリアの胸に、言葉にならない痛みが走った。
少し前、ルシアンはずっとフィリシアのことについて考えていた。
(俺はフィリシアのことを助けたい……彼女が俺を助けたように)
そう思い、フィリシアのことを探していた。
そして見つけたのだ。そこにいたのは、静かに本を読むフィリシアだった。しかしその目はいつもと違ってどこか虚ろだった。
「フィリシア、ちょっといい?」
軽い調子の声。けれど、その笑みはどこか計算されているようにも見えた。
「最近、元気ないよね。俺でよければ、話……聞くよ」
フィリシアは一瞬だけ戸惑ったように目を伏せたが、すぐに小さく首を横に振った。
「元気がないなんてこと、ありませんよ。ただ疲れてるだけなんです」
「嘘だ!俺には分かるんだよフィリシア!」
ライナーはその様子を遠くから見ていた。 足が止まる。
彼女に用はなかった。ただ最近、話さないから気になっただけなのかもしれない。
だが今、彼女の隣に立っているのは自分ではない。
ルシアンの声が、彼女の耳に届いている。 彼の視線が、彼女の表情を探っている。
ライナーは拳を握った。 それは怒りではない。 ただ、言葉にできない感情が胸の奥で膨らんでいた。
「……ライナーさん」
アウレリアの声が背後から届いたが、ライナーは振り返らなかった。
彼の視線は、フィリシアの背に向けられたままだった。
フィリシアは、何かを言いかけてから、静かに歩き出した。 ルシアンがその後を追う。
「待ってよ、フィリシア」
彼の声は軽い。けれど、その足取りは迷いなく彼女に近づいていく。
ライナーは数歩離れた場所から、その様子を見ていた。
フィリシアが立ち止まった瞬間、ルシアンは彼女の肩に手を置いた。
その距離は、あまりにも近かった。
「俺はただ君の相談相手になりたくて…」
その時だった。ライナーの身体は反射的に動いたのだ。考える間もなく、ただ身体が止めろと言っているように感じた。だけど、本当は感情で動いていた。
「……おやめください」
低く、鋭い声。
ルシアンが驚いて振り返る。 フィリシアも、肩に置かれた手を見つめたまま、動けずにいた。
「彼女は、今はそのような接触を望んでいないはずです」
ライナーの瞳は、ルシアンではなくフィリシアを見ていた。
その視線に、フィリシアは小さく目を見開いた。
ルシアンは苦笑しながら手を離す。 「……悪い。癖でね」
空気が張りつめていた。
そしてその場面を、少し離れた場所からアウレリアが見ていた。
彼女の瞳は、何も言わずにライナーの背を追っていた。
廊下の灯が、二人の影を長く伸ばしていた。
ライナーはフィリシアの顔を覗き込むようにして言った。
「なあ、大丈夫か?お前、体調わるいのか?」
フィリシアは少しだけ目を伏せて、静かに答える。
「何でもない。大丈夫よ。ていうか、良かったの?ルシアン様にあんな言い方して」
ライナーは目を逸らさず、低く言った。
「お前が嫌がってそうに感じたから、言っただけだ。気にしなくていい」
フィリシアは小さく息を吐いた。
「そう。ルシアン様はお優しいから気を遣わせてしまったのかも。ライナー、もうアウレリア様のところに戻ったら?」
その言葉に、ライナーは首を横に振った。
「別に後で会えば良い。……体調が悪いなら俺が治癒室まで付き添うが」
フィリシアは目を丸くした。
「いいわよそんなの」
けれど、ライナーは一歩も引かなかった。
その沈黙の中で、フィリシアはふと気づく。 彼の視線が、いつもより少しだけ、長く自分に留まっていることに。
そして、心の奥で何かが、静かに揺れた。




